日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

かつて長崎市立桜町小学校にあった教科書センター「勝山小学校文庫」旧蔵の『単語篇 上・下』と『皇国単語篇』は今どこにあるのか情報求む

明治31869年に本木昌造らが元上海美華書館の技師William Gambleから講習を受けた、その年の印刷と見られる「単語篇」2種を含む5種の「単語篇」が、長崎市立桜町小学校にあった教科書センターの「勝山小学校文庫目録」に記載されていたそうです。

板倉雅宣「本木初号活字版「単語篇 上」の紹介」(季刊『印刷史研究』第8号〈第6巻第1号〉〔印刷史研究会、平成122000年7月〕66-71頁)にて、次のように紹介されています。

  • 長崎県教育委員会管轄下で、現物は桜町小学校の教科書センターに所蔵されており、平成9年の「勝山小学校文庫目録」に次の5点が掲載されている:
    • ①『官版単語篇』長崎県翻刻、整版、和装
    • ②『単語篇 上・下』長崎県、上巻は初号活字版、下巻は二号活字版、和装
    • ③『皇国単語篇』明朝体活字版(活字の大きさは初号と一号の中間)
    • ④『官版単語篇 全』二号活字版
    • ⑤『官版単語篇 全』二号活字版

このうち少なくとも「本木初号活字版」と報告されている②長崎県版『単語篇 上』と、初号と一号の間の大きさの活字で印刷されているという③『皇国単語篇』は、下記の通り教科書センターが桜町小学校にあった頃までは現存し複写可能な状態だったようなのですが、2026年3月現在、少なくとも私には所在が掴めなくなっています。今どこにあるのでしょう。どこかのタイミングで廃棄され煙滅してしまったというわけではなくデータベース的に探せなくなっているだけの状態だと信じたいのですが……。

長崎県版『単語篇 上』について

概要

本木昌造らによる最も古い時期の初号活字が長崎県版『単語篇 上』に使われている――と、「本木初号活字版「単語篇 上」の紹介」で板倉雅宣氏が報告されています。

ここでいう「最も古い時期の初号活字」とは、『新聞雑誌』66号付録(明治51872年)の活字見本「崎陽新塾製造活字目録」で示されている、まだ十分に整理されていない時期の初号明朝のことを言います。横浜市歴史博物館小宮山博史文庫に所蔵されているほか、境田稔信氏がお持ちのようですhttps://x.com/pX03dDIs4dQ1G3x/status/1801330096059650386

『新聞雑誌』66号付録「崎陽新塾製造活字目録」(部分、小宮山博史『日本語活字ものがたり』44-45頁、誠文堂新光社、2009年)

板倉「本木初号活字版「単語篇 上」の紹介」では、外形的な特徴が〘「単語篇 上」は「単語篇 下」とともに表紙がついたまま合冊になっている。ともに扉はなく、奥付もない。したがって発行年月は不明。最終丁に「長崎県」とあるのみである。〙と示され、内容は次のようなものといいます。

上巻は、初号活字をつかい、一頁に四行、一行に六乃至九文字で組まれている。はじめはいきなり神武、綏靖からはじまり今上まで歴代帝号が六丁までつづく。つぎは元号で大化、白雉から明治まで十一丁(略)。年号のなかで「天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲」ならびに、五国、十一国などは二号活字になっている。

下巻は、二号活字で組まれ、明治五年になってはじめて刊行された文部省編纂の官版『単語篇』に内容がほぼ同じである。

長崎県版『単語篇 上』(板倉雅宣「本木初号活字版「単語篇 上」の紹介」〔『印刷史研究』第8号〈第6巻第1号〉、印刷史研究会、2000年〕68頁)

発行時期

長崎県版『単語篇 上』の発行時期について、板倉「本木初号活字版「単語篇 上」の紹介」ではⒶ三谷幸吉「我邦活字の歴史及変遷」(『印刷産業綜攬』印刷往来社、1937年)107頁の記述「明治三年―西暦一八七〇年に初号(曲尺五分)活字を完成させて、文部省発兌の『単語篇』と同等の『単語篇』を印刷」(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/1261287/1/70と、Ⓑ三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(本木昌造・平野富二詳伝頒布刊行会、1933年)69頁「本木昌造先生の著書及出版」(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/1214169/1/85に「明治三年 単語篇 一冊(勝山小学校所蔵)」とあることに触れ、〔「単語篇 上」の発行年については、三谷によれば明治三年ということになっている〕と控えめに記されているのですが。

板倉雅宣「本木昌造の活版事業 その展開と行方」(『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』〔NPO法人近代印刷活字文化保存会、平成152003年〕260-285頁)では、特に本文中での言及のない状態で、本木初号活字版「単語篇 上」の図――季刊『印刷史研究』第8号68頁に「ほぼ原寸大」として掲げられているのと同じ、「神龜」から「天長」までの箇所――が「図18」として掲載され、当該図のキャプションでは特に何の留保もなく「本木活字(初号は木活字)で組まれた長崎版。明治三(一八七一)年。」とされています。

『皇国単語篇』について

『皇国単語篇』(板倉雅宣「本木初号活字版「単語篇 上」の紹介」〔『印刷史研究』第8号〈第6巻第1号〉、印刷史研究会、2000年〕70頁)

活字であるのだとすると、Samuel Dyerによって最初に作られたDouble Picaサイズの鋳造漢字活字(https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.ah6ls8&seq=108&view=2up)とは異なる、彫刻活字なのか鋳造活字なのか、よく分からない活字のようです。活字の素性について、板倉「本木初号活字版「単語篇 上」の紹介」を含む各種資料にて、追及された形跡が見当たりません。

レファレンス回答

長崎県立長崎図書館(2022年6月)

問題の長崎県版『単語篇 上』について最初にお尋ねした長崎県立長崎図書館郷土課さんからは、他館にもお尋ねのうえ、次のような回答を頂戴しました。

  • 季刊『印刷史研究』第8号を参照できないので、『日本の近代活字』272頁の図18のこととして話を進める。
  • 長崎県立長崎図書館には該当する資料がない。
  • 桜町小学校の教科書センターの業務を引き継いだのは、2008年に開館した長崎市立図書館だが、該当する資料はないとのこと。
  • 県教育委員会管轄で古い教科書も含めて保管している施設として長崎県教育センター(大村市に所在)があるが、該当する資料はないとのこと。
  • 教科書センター由来ではないかもしれないが、長崎歴史文化博物館が『単語篇』を所蔵している。

長崎歴史文化博物館(2026年2月)

というわけで、長崎歴史文化博物館蔵『単語篇』(ハ11 217 https://jmapps.ne.jp/nmhc_lib/det.html?data_id=84512)は、㋑本木初号活字版「単語篇 上」と二号活字版「単語篇 下」の合冊なのか、㋺この本木初号活字版「単語篇 上」か二号活字版「単語篇 下」のどちらか一方なのか、㋩どちらでもない別のものなのか。㋥遠隔複写をお願いできないか。

長崎歴史文化博物館さんからは、ⓐ遠隔複写には対応していないので来館よろしく、ⓑ『単語篇』(ハ11 217 )が『日本の近代活字』272頁の図18と同じものかどうかは「調査代行」に該当するため回答できない、ⓒ『単語篇』(ハ11 217 )は「単語篇」と「単語三篇」の2つが綴じられたものである、という旨の回答を頂戴しました。

Wikipedia風に百田宗治の略歴をまとめ『現代詩講座 第5巻』(金星堂、1929)における「詩の作り方(≒本づくり)」指南の源を知る

今年の頭に、「入稿原稿」や「組方指定」を主題として2018年1月に作成していたtwitterモーメント10件をブログ記事として再編してみたわけなのですが(本記事末尾リスト参照)、まとめて振り返ってみて、入稿原稿に付される「活字指定」「組み方指定」などの用語の初期用例を #NDL全文検索 で探してみようじゃないかと思い至りました。

この作業で出会った『現代詩講座 第5巻』(金星堂、昭和41929)における「詩の作り方(≒本づくり)」指南の記述があまりにも素晴らしかったので、編者である百田宗治のことについてざっと調べてみようと試みたわけなのですが――不勉強にて童謡「どこかで春が」の作詞者であるということも含めて全く知らなかった状態――。

Wikipedia「百田宗治」の項が物足りなかったので、この時期の文学者なら日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第3巻(講談社、1977)の「百田宗治」の項(361-362頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12450424/1/189)と昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』(昭和女子大学近代文化研究所、平成132001)だろうと考え(『近代文学研究叢書』第76巻で百田宗治が扱われています)、目を通しました。百田の略歴はそれなりに理解できたのですが、それでもピンと来ない部分が残ってしまうのを、さてどうしたものか。

というわけで、『日本近代文学大事典』が掲げている参考資料の辿り直しと、国会図書館デジタルコレクションの全文検索と、Googleスカラー検索などで、ようやく自分なりに合点がいくところまで辿り着きつつあります。

以下、『近代文学研究叢書』が大きく漏らしていた校歌に関係する部分と、同じく書容設計者としての活動を補うような形で、今の自分だったらWikipediaの記述(2026年1月時点の最新版は2025年6月16日に最終更新されたバージョンをこういう具合に整えていくかな――と思うものを書いてみることにしました(この記事を書いている間、2月18日と19日に微細な編集が加えられていましたが、私の関心事には食い足りない内容であることには変わりありませんでした。)


百田宗治

百田宗治遺影(百田編『日本児童詩集成』〔河出書房、1956〕より)

百田 宗治(ももた そうじ、明治261893年1月25日 - 昭和301955年12月12日)は大正・昭和期の詩人、児童文学者*1。本名は百田宗次*2。少年時代は楓花の号で短歌を詠んだ*3。現在の大阪府大阪市西区新町出身*4

来歴

高等小学校卒業後*5、個人教授でフランス語を学ぶ*6明治391906年頃から宗治のほか千里など様々な筆名を用いて全国紙誌へ盛んに各種の投稿を行い*7*8*9*10明治441911年ごろより楓花として詩・短歌に集中しはじめ矢沢孝子と共に隔月刊『月光と臥床』を刊行*11。大阪文壇で久世勇三らとのプライム会や西村茂らとの扉の会など様々な同人活動を行い歌集と詩集を出す*12*13大正31914年、大鐙閣編集部に職を得*14大正41915年には宗治としての第1詩集『最初の一人』を出した*15。大正4年から7年にかけて個人雑誌『表現』を発行し*16、この表現発行所から第2詩集『一人と全体』を刊行*17。この時期の詩の傾向としてはホイットマンやロマン・ロランの影響を受けた人道主義的・民主主義的傾向で*18大正71918年に創刊された『民衆』を契機として*19、富田砕花や白鳥省吾とともに民衆詩派の一員として数えられるようになる*20*21

大正81919年に上京し、同年創刊された総合誌『解放』(大鐙閣)の最初の編集員となり*22*23、次いで大正101921年に創刊された詩話会誌『日本詩人』(新潮社)の編集実務を1年間担った*24*25*26。大正10年から12年にかけて『小学男性』他に「どこかで春が」などの童謡を発表*27*28大正121923年には関東大震災を受けて震災詩集『災禍の上に』を企画・編集し*29、刊行後1年程大阪に居住*30*31大正141925年に再び上京し、旧友である西村茂(俳人西村月杖)宅に寄寓*32*33、句作を始める*34

大正151926年に詩話会は解散し*35、百田は詩誌『椎の木』を創刊*36。三好達治、丸山薫、伊藤整、春山行夫、阪本越郎など若々しい執筆陣を加え「椎の木時代」を築いた*37*38。この頃から俳句風な短詩に詩風が変化*39*40昭和21927年から3年にかけて刊行された『何もない庭』『偶成詩集』『冬花帖』に結実*41*42昭和31928年11月から昭和4年9月まで発行された第二次『椎の木』の頃からは当時さかんになりつつあったモダニズムの詩風を示し*43、それらの詩は『ぱいぷの中の家族』(金星堂、昭和61931年)に収めた*44昭和41929年から5年にかけて金星堂から刊行された『現代詩講座』全10巻の編集に携わった*45

昭和71932年1月に第三次『椎の木』を刊行*46、この年から『教育・国語教育』等に児童詩・作文教育に関する記事を寄せ始める*47*48。この時期の椎の木社からは愛書家からも注目された乾直恵『肋骨と蝶』、高祖保『希臘十字』、三好達治『南窗集』、室生犀星『鐵集』、西脇順三郎『Ambarvalia』等が出ている*49昭和101935年4月に綴方教育雑誌『工程』を創刊*50昭和121937年1月からは『綴方学校』と改題し児童の詩文発表の場も設けた*51。綴り方教育の活動を通じて吉田瑞穂、佐藤茂、久米井東ら作文教育の指導者を育てた*52*53*54

戦中は大政翼賛会文化部翼賛詩歌朗読研究委員会・日本少国民文化協会文化部参事などを経て*55*56昭和191944年6月に陸軍の報道部員として招集され上海、南京から漢口へ渡り、昭和201945年春に帰京*57。同年5月の東京大空襲で中野区小淀町の家を焼かれ*58、疎開のため北海道へ向かう青函連絡船で更科源蔵と共に終戦の報に接する*59。更科の家に20日ほど滞在した後に一旦帰京し11月から改めて疎開し札幌市丸山の龍興寺内に居住*60。3年ほどの疎開生活中に道内各地での講演、地元紙誌への寄稿、詩の指導などを行ったほか*61、札幌市立新琴似小学校を皮切りに十数校の校歌作詞を手がけた*62

昭和231948年7月からは佐藤茂の尽力により千葉県安房郡岩井町に移り住み*63*64、綴方指導の旅行を続け*65、各地で校歌の作詞を引き受けるなどした*66昭和271952年、胸の病を得て治療を始め、安房郡富山町に家を買い移転*67*68昭和301955年12月、肺癌のため自宅で逝去*69。最後の詩は『中学作文』のために書かれた「つばきと雀」*70、最後に手掛けた校歌は11月に完成し三重県鈴鹿市立大木小学校に届けられた*71。墓所は千葉県南房総市(旧・安房郡富山町)高崎の医王山福寿院寿薬寺*72、墓名は室生犀星の筆で「百田宗治」とのみ刻まれた*73

北海道上川郡愛別町との縁

上川郡愛別町安足間(現愛別町愛山)にある万葉寺の住職・白川了照と親しかったことから*74、北海道での疎開生活の間に同地を何度も訪問した*75。万葉寺には百田直筆の「どこかで春が」の書などゆかりの品が保管されている*76

一時期は同地への永住を考えていたようで*77、安足間への思いを寄せた詩を残している*78昭和34年195910月に愛別町愛山の安足間神社(現愛山神社)境内にこの詩の碑が建立されたことを契機に毎年10月に宗治祭が開催されることとなったが*79*80平成232011年が最後の宗治祭となった*81

歩行者・自転車専用橋梁として平成元1989年に竣工した愛山橋にも百田宗治「安足間」の一節がレリーフとして掲げられており*82、また、旭川・紋別自動車道の愛山上川IC~上川層雲峡IC間(一般国道450号)の愛別町愛山地区には「百田橋」*83、「宗治橋」*84と名づけられた橋梁がある*85

著作

百田宗治の業績は、短歌・詩等の創作や評論活動、出版編集、児童文学関係や綴り方運動など非常に多岐にわたった*86

歌集

  • 『愛の鳥』田中書店、明治44.1
  • 『春の貢』田中書店(大阪文藝発行所?)、明治45.1
  • 『夜』短檠社、明治45.7

詩集

  • 『最初の一人』短檠社、大正4.6
  • 『一人と全体 詩集』表現発行所、大正5.9
  • 『ぬかるみの街道』大鐙閣、大正7.10
  • 『百田宗治詩集』新潮社(現代詩選第1)、大正9.10
  • 『新月』玄文社詩歌部、大正10.11
  • 『青い翼』大鐙閣、大正11.2
  • 『風車』新潮社(現代詩人叢書 第9編)、大正11.10
  • 『静かなる時』新潮社、大正14.8
  • 『北風と薔薇』金星堂(金星堂刊行抒情詩集叢書)、大正15.3
  • 『何もない庭』椎の木社(椎之木叢書第1篇)、昭和2.3
  • 『偶成詩集』椎の木社(椎之木叢書第2篇)、昭和2.10
  • 『冬花帖 陋巷風物詩』厚生閣書店、昭和3.8
  • 『ぱいぷの中の家族』金星堂、昭和6.7
  • 『跳橋』版画荘、昭和11.8
  • 『歴史 少國民のために』有光社、昭和17.10
  • 『日本のあしおと』湯川弘文社、昭和18.1
  • 『蓬莱』有光社、昭和18.9
  • 『漢口風物詩』思明堂書薬房、昭和19
  • 『山川草木』白都書房、昭和21.2
  • 『閲歴 自選詩集』目黒書店、昭和21.5
  • 『辺疆人』日本未来派発行所、昭和23.1
  • 『百田宗治詩集』伊藤整編、新潮社(新潮文庫)、昭和36.1

絵本・童話・児童読物

  • 『オヤマノカキノキ』帝國教育會出版部(新日本幼年文庫)、昭和16.7
  • 『ニッポンノアシオト』二葉書房、昭和18.12
  • 『楡の木物語』国民図書刊行会(新日本少国民文庫))、昭和22.5
  • 『南京のうちわ』真野出版、昭和23.8
  • 『渡り鳥』大興社、昭和23.10

入門・解説書

  • 『詩の本』金星堂、昭和2.1
  • 『詩の鑑賞 附・西欧近代詩の知識』厚生閣書店、昭和2.2
  • 『児童自由詩の鑑賞』厚生閣書店、昭和2.10
  • 『鑑賞藤村詩帖』厚生閣書店、昭和3.6
  • 『鑑賞暮鳥詩選』金星堂、昭和4.2
  • 『鑑賞独歩詩選』金星堂、昭和4.2
  • 『鑑賞透谷詩選』金星堂、昭和4.2
  • 『鑑賞啄木詩選』金星堂、昭和4.2
  • 『新しい詩の解釈とつくり方』厚生閣、昭和4.4
  • 『児童をうたへる詩歌 万葉より現代まで』厚生閣書店、昭和6.12
  • 『小学児童の詩 批評と添削』厚生閣書店、昭和9.3
  • 『自由詩以後 現代詩の批判と展望』版画荘、昭和12.5
  • 『子供のための教師のための綴方読本』第一書房、昭和13.3
  • 『綴方の世界』新潮社、昭和14.2
  • 『子供の世界 児童文化の諸問題』有光社、昭和16.6
  • 『青年詩とその批評』厚生閣、昭和18.2
  • 『砂糖の木 子どもの詩』光風館(女性新書、昭和18.7
  • 『子供の世界と大人の世界』小峰書店、昭和22.11
  • 『現代詩』臼井書房、昭和23.2
  • 『小学生詩の話』第二書房、昭和26.7
  • 『綴方の中の子ども』金子書房、昭和27.7
  • 『中学生詩の本』明治図書、昭和29.4*87

随筆

  • 『詩論集』椎の木社(椎之木叢書第3篇)、昭和3.2
  • 『詩作法』椎の木社、昭和9.9
  • 『路次ぐらし』厚生閣書店、昭和9.9
  • 『私の綴方帖』大和出版社、昭和17.4

編集・発行

百田が編集に携わった雑誌・書籍と、発行も行っているもの、装幀・造本も手掛けたものという観点で分類した。

編集雑誌

  • 『月光と臥床』田中書店(明治44年9月、11月、明治45年1月 )

編集書

  • 『小曲新辞典』資文堂書店、昭和2.2
  • 『現代詩講座』全10巻、金星堂
    • 第1巻「詩学及詩歌論昭和5.2
    • 第2巻「世界近代詩研究昭和5.4
    • 第3巻「世界新興詩派研究昭和4.12
    • 第4巻「日本現代詩研究」昭和4.10
    • 第5巻「詩の作り方研究」昭和4.11
    • 第6巻「詩歌の鑑賞」昭和5.6
    • 第7巻「童謡及民謡」昭和5.1
    • 第8巻「現代世界詞華選」昭和5.5
    • 第9巻「現代日本詞華選」昭和5.4
    • 第10巻「詩語辞典・世界詩人人名辞典」昭和5.9
  • 『児童詩読本』椎の木社、昭和11.8
  • 『ハイネ青春の書』 金星堂(人生叢書第6編)、昭和11.10
  • 『全日本子供の文章』厚生閣、昭和12.9
  • 『綴方教程』厚生閣、昭和13.6
  • 『僕等の文章・私達の詩』新潮社(新日本少年少女文庫第9編、昭和15.11
  • 『鉛筆部隊 少国民の愛国詩と愛国綴り方』アルス (新日本児童文庫第21)、昭和17.7
  • 『小学生えんぴつ詩集』第二書房、昭和27.6
  • 『日本児童詩集成』河出書房、昭和31.8

編集・発行雑誌

  • 『表現 : 詩及び文明生活の批判』(大正4 - 大正7)
  • 『椎の木』(1926年)
  • 『工程』『綴方学校』()

編集・装幀書(椎の木社刊行)

百田は「西脇順三郎の詩集や、室生犀星の詩集や、三好達治の詩集などを、簡素だが味いのある自分の装幀で出版していた」*88。詩書専門の限定版書肆としての活動が同時代にどのように見られていたか、村井武生「日本詩書装釘史考」*89、禿徹「限定版展望」*90、阪本越郎「限定版」*91等の言及がある。

  • 乾直恵『肋骨と蝶』椎の木社 昭和71932.6*92*93
  • 高祖保『希臘十字』椎の木社 昭和7.8*94
  • 三好達治『南窗集』椎の木社 昭和7.8*95
  • 百田宗治『詩作法』椎の木社 昭和91934.9*96
  • 龍木煌『門』椎の木社 昭和101934.5*97

編集・装幀書(他社刊行)

装幀・造本に関する百田の言

  • 「ザボンよ、あをき梢に」「詩集」(『蓬莱』https://dl.ndl.go.jp/pid/1129058/1/4?keyword=%E8%A3%85%E5%B9%80
  • 「活字・装幀」(『読書感興』第3号、昭和11年7月、https://dl.ndl.go.jp/pid/1466976/1/15※『近代文学研究叢書』第76巻「百田宗治 著作年表」に見えない
  • アンケート回答(趣味)「造本など、酒を少し。」(『読書感興』第3号、昭和11年7月、https://dl.ndl.go.jp/pid/1466976/1/47※『近代文学研究叢書』第76巻「百田宗治 著作年表」に見えない
  • 「装幀ポスト」アンケート回答(自著の中で装幀の最もお気に召したもの)「みな失敗です。つまらぬ欲は出すものではありません。」(『愛書』第4冊「装幀号」昭和10年9月、https://dl.ndl.go.jp/pid/1886795/1/43※『近代文学研究叢書』第76巻「百田宗治 著作年表」に見えない
  • 「理想の造本」(『本』第3号(江川書房、昭和8年9月、中嶋宗是『本の醍醐味』〔関西市民書房、昭和56〕に目次採録:https://dl.ndl.go.jp/pid/12235086/1/127※『近代文学研究叢書』第76巻「百田宗治 著作年表」に見えないものの模様
  • 「詩書装釘考」(『書物評論』第1年2号、昭和9年8月、https://dl.ndl.go.jp/pid/1509695/1/42
  • 「活字・装幀・限定出版」(『著作出版会』5号(?)昭和10年1月(?):『出版年鑑 昭和11年版』に言及あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/1870778/1/80※『近代文学研究叢書』第76巻「百田宗治 著作年表」に見えない

歌詞

童謡

百田は大正末に十数曲の童謡を発表している*101。中山晋平が曲をつけたものは『童謡小曲學校舞踊 上』に*102、草川信が曲をつけたものは『草川信童謡全集 第1輯』に掲載されている*103

  • どこかで春が
    • 平成18年に文化庁によって実施された「親子で歌いつごう 日本の歌百選」に選ばれた。*104

校歌

百田は北海道を中心に全国30余の校歌を残しており今なお唄い継がれている*105

  • 北海道 札幌市立新琴似小学校(昭和21年12月制定*106*107
  • 北海道 阿寒町立阿寒小学校(昭和22年3月制定・平成17年より釧路市立阿寒小学校*108*109
  • 北海道 雄武村立雄武中学校(昭和22年制定*110 *111
  • 北海道 雄武村立雄武小学校(昭和22年制定*112 *113
  • 北海道 美幌町立美幌中学校(昭和23年6月5日制定*114*115
  • 東京都 渋谷区立中幡小学校(昭和26年7月制定*116*117
  • 茨城県 宍戸町立宍戸小学校(昭和26年9月制定・友部町立宍戸小学校を経て現在笠間市立宍戸小学校*118*119
  • 北海道 釧路市立桜ヶ丘小学校(昭和26年10月8日制定・現釧路市立桜が丘小学校*120*121
  • 北海道 北見市立中央小学校(昭和27年10月制定*122*123
  • 新潟県 木崎村立笹山小学校(昭和28年制定・豊栄町立笹山小学校・豊栄市立笹山小学校・新潟市立笹山小学校を経て2020年閉校 〔跡地に校歌の碑が設置されている模様〕*124*125
  • 山口県 岩国市立川下中学校(推定昭和28年制定*126*127
  • 北海道 江部乙町立北辰中学校(昭和29年3月制定・滝川市立江部乙中学校を経て令和3年度末閉校*128*129
  • 新潟県 新潟市立濁川小学校(昭和29年8月制定*130*131
  • 茨城県 県立土浦第二高等学校(昭和29年11月制定 *132*133
  • 鳥取県 県立由良育英高等学校(昭和29年11月制定・平成15年合併再編により新校歌に変更*134*135
  • 東京都 世田谷区立深沢小学校(昭和29年制定*136*137
  • 群馬県 前橋市立桃井小学校(推定昭和29年制定*138*139
  • 埼玉県 影森村立影森中学校(昭和30年11月制定・影森町立影森中学校を経て現在秩父市立影森中学校*140*141
  • 三重県 鈴鹿市立大木中学校(昭和31年2月制定*142*143

参考

基本資料とその参考資料

  • 日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第3巻(講談社、昭和521977)の「百田宗治」の項(361-362頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12450424/1/189
    • 白鳥省吾「百田宗治の詩」(『現代詩の研究』新潮社、大正131924、154-163頁、宮城県立図書館蔵)
    • 阪本越郎「百田宗治小論」(阪本『詩の周囲』耕進社、昭和101935、237-241頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1224378/1/117
    • 丸山薫「百田宗治篇」(『現代詩鑑賞 大正期』第二書房、昭和261951
    • 室生犀星「百田宗治」(室生『我が愛する詩人の伝記』中央公論社、昭和331958、173-195頁〔『日本近代文学大事典』は発行年を昭和351960年としているが最初の単行本は1958年刊、「犀星全集」版(新潮社、昭和391964)はNDL送信資料:https://dl.ndl.go.jp/pid/1661927/1/248
    • 伊藤整「解説」(『百田宗治詩集』新潮社(新潮文庫)、昭和361961、130-139頁〔後に伊藤整「百田宗治」〈『作家論 第1』角川書店(角川文庫)、昭和391964、262-269頁〕
    • 山室静「百田宗治鑑賞」(『日本の詩歌 第13』中央公論社、昭和441969、241-314頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1363424/1/132
    • 阪本越郎「百田宗治」(『現代詩鑑賞講座 第6巻』角川書店、昭和441969、100-141頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1363720/1/54
    • 角田敏郎「百田宗治」(『日本近代文学大系54』角川書店、昭和481973、481-482頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12503261/1/245
  • 福田淳子「百田宗治 生涯」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕484-497頁)
  • 福田淳子・野々山三枝「百田宗治 著作年表」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕498-555頁)
  • 福田淳子「百田宗治 業績」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕556-582頁)
  • 野々山三枝「百田宗治 資料年表」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕583-612頁)
  • 福田淳子「百田宗治 遺族・遺跡」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕613-616頁)

その他の参考文献

本づくりについて百田による解説
百田宗治最晩年の著者略歴
他者から見た百田宗治の簡素な略歴の手本
時代背景ほか全般
『近代文学研究叢書』編集後の資料


「入稿原稿」や「組方指定」を主題として2018年1月に作成していたtwitterモーメント10件のブログ記事化リスト


本編注釈

*1:日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第3巻(講談社、1977)361-362頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12450424/1/189

*2:日本著作権協議会編『文化人名録』(日本著作権協議会、1951)2266頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/8797884/1/1268

*3:前掲『日本近代文学大事典』

*4:前掲『日本近代文学大事典』には「大阪市西区の生まれ」とだけ書かれているが、神谷敏夫『最新日本著作者辞典』〔大同館書店、昭和61931〕は「大阪市西区新町に生れた」とし、2026年1月現在でWikipediaが主要な参照先としている大阪市「百田宗治文学碑」https://warp.ndl.go.jp/20220228/20220222024040/https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/cmsfiles/contents/0000058/58306/6_hyakuta.pdf は「大阪市西区新町通一丁目(現西区新町一丁目)に生まれ」と記している。「百田宗治文学碑」は大阪市のサイトで「大阪市文学碑」の一部としてCC-BY4.0で公開されたものであり(https://warp.ndl.go.jp/web/20220222114040/https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000058306.html)、その内容は大阪市市民局編『大阪市文学碑』(大阪市市民局、平成元1989、大阪府立図書館蔵〔B10031735〕)12-13頁を「百田宗治文学碑」の写真・テキストと「位置図」の2つのPDFに分割掲載したもの。残念ながら大阪市市民局編『大阪市文学碑』は記述の典拠を追えるような構成になっていない。

*5:川島益太郎『現代作家の人及作風 詩歌篇』(大同館書店、昭和81933)によると大阪市育英高等小学校を卒業(179頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1210166/1/101

*6:新潮社編『現代詩人全集』第12巻「柳沢健集・富田砕花集・百田宗治集」(新潮社、昭和51930)の「百田宗治自伝」には「小學終了後、佛蘭西語を個人敎授に就て學んだ外に學歷はない」と書かれている(270頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1171749/1/144)。

*7:相馬健作『文壇太平記』万生閣、大正151925、220-224頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/978273/1/113 に「『少年世界』第12巻第13号に百田宗治が本名で、綱引きといふのを投書してゐる」とあるが本名は「宗次」であり、「宗治」という筆名をこの投書時代から使い始めていることが知れる。

*8:百田宗治「上京前後」(百田『私の綴方帖』大和出版社、昭和171942、345-354頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1130169/1/178)に百田千里の筆名で『新小説』に投稿した短歌の話題が記されている。

*9:福田淳子・野々山三枝「百田宗治 著作年表」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕498-555頁)

*10:百田宗治「明治少年節用」(『愛書』3号、昭和91934年12月、18-20頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1886793/1/15)に、この時期の雑誌懸賞の一等賞品として博文館発行の『明治少年節用』を受賞したことが書かれている。前掲「百田宗治 著作年表」では標題不明で未見の☆印のみ記されている。

*11:毎日放送文化双書『大阪の文芸』(毎日放送、昭和481973)328頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12502256/1/174

*12:(前掲『大阪の文芸』329-343頁「カフェーの出現と文芸誌刊行」

*13:福田淳子「百田宗治 生涯」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕484-497頁)

*14:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)487頁。この頃の久世勇三は霞亭会として出版活動に携わっているが大鐙閣は創業前なのではないかと思われるが(国会図書館で見つかる刊行物は大正6年以降)、叢書の記述に従っておく。

*15:前掲『大阪の文芸』339-340頁

*16:白鳥省吾「「科学と文芸」「表現」「民衆」に就て」(『現代詩の研究』新潮社、大正131924、136-138頁)によると「必らずしも月刊でなく、また一人雜誌とも稱すべきものであるが」「大正七年頃まで續いた。通巻三十册であつた。」とのこと。

*17:前掲『大阪の文芸』341頁

*18:伊藤整「百田宗治」(伊藤『作家論 第1』角川書店〔角川文庫〕昭和391964〈初出:伊藤整「解説」(『百田宗治詩集』新潮社(新潮文庫)、昭和361961、130-139頁〉)263頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1336866/1/133

*19:加藤一夫『民衆芸術論』(洛陽堂、大正81919)では加藤が〘自分の「科學と文藝」や福田正夫君の「民衆」や百田宗治君の「表現」などは民衆藝術を目指すものであり、これ等の雜誌に書くものもまた、未だ民衆藝術家と稱することが出來ないまでも、少くとも民衆藝術たらん事を望み、また、民衆藝術を主張するものであるのを知つて居る〙と書いている(36-37頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/947621/1/25

*20:伊藤新吉「詩人の肖像」(『日本の詩歌』第13巻〔中央公論社、昭和441969〕には、「白鳥省吾、福田正夫、富田砕花、百田宗治らによって形成された民衆派のアンソロジー『日本社会詩人詩集』(大正111922年1月刊)が刊行され」た際に百田の詩「五月祭の朝」が題名以外全文伏字とされ、かつアンソロジーが発売禁止になったとある(406-407頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1363424/1/215)。

*21:百田宗治「所謂民主詩の功罪」(『日本詩人』5巻5号〔新潮社、大正14年5月〕初出、『現代文学論大系 第7巻』〔河出書房、昭和30年〕https://dl.ndl.go.jp/pid/1336074/1/58)等で百田は、白鳥省吾、福田正夫と違って自分や富田砕花は「民衆派」を自称したことはないと記している。

*22:百田宗治「自伝的なもの」(『現代日本詩人全集 : 全詩集大成 第6巻』東京創元社、昭和301955、228頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1356367/1/121

*23:百田宗治「自伝的に」(『爐邊詩話』柏葉書院、昭和211946、10-58頁)には「私が上京したのは大正八年(二十七歳)の春で、雜誌『解放』の編輯に當るためであつた。」と書かれている(27頁)。

*24:白鳥省吾「詩話會の思ひ出」(百田宗治編『現代詩講座 第4巻』金星堂、昭和41929、367-375頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1188294/1/190

*25:金子光晴「大正期の詩人たち」(『金子光晴全集』第5巻、昭森社、昭和461971、339-355頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1674596/1/172:初出は金子『詩人』〔平凡社、昭和321957〕)

*26:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)490頁

*27:童謠詩人会編『日本童謡集』(新潮社、大正151925https://dl.ndl.go.jp/pid/1017000/

*28:福田淳子・野々山三枝「百田宗治 著作年表」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、平成132001〕498-555頁)

*29:『災禍の上に』編纂後記 https://dl.ndl.go.jp/pid/981838/1/134

*30:成田孝昭「百田宗治」年譜(『日本の詩歌 第13』中央公論社、昭和441969、418-419頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1363424/1/221

*31:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)491頁)

*32:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)491頁

*33:百田宗治『偶成詩集』「爐邊」章の題辞(『現代日本詩人全集 : 全詩集大成 第6巻』〔東京創元社、昭和301955〕338頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1356367/1/176

*34:『大正期人物年表 5』(日外アソシエーツ、昭和621987)470頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12193611/1/243

*35:前掲『現代詩講座 第4巻』「詩話會の思ひ出」

*36:前掲『日本の詩歌 第13』「百田宗治」年譜

*37:北海道文学館『北海道文学大事典』(北海道新聞社、昭和601985)357-358頁「百田宗治」https://dl.ndl.go.jp/pid/12450411/1/185

*38:久松潜一 等編『日本文学史 [第5巻] (近代)』〔至文堂、昭和321957〕556頁「百田宗治」の項には「彼の功績としては詩誌「椎の木」(大正十五年)によって西脇順三郎・三好達治・丸山薫・伊藤整・阪本越郎・左川ちか・乾直惠・瀧口武士・春山行夫等の昭和期の精鋭を集め主知的詩風をはぐくんだ點があげられる」とある。https://dl.ndl.go.jp/pid/1343937/1/301

*39:伊藤整「詩人伝」(『伊藤整全集 第14巻』〔河出書房、昭和311956〕)272頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1667276/1/141

*40:『日本詩人全集 第5巻』創元社、昭和281953、271-272頁「百田宗治」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1356282/1/139

*41:工藤寛正『文豪墓碑大事典』東京堂出版、令和22020年、316頁

*42:百田宗治の出身地である大阪市西区の新町北公園に、詩碑「何もない庭」が建てられている。https://share.google/E45sPeWAE3jXrySlb

*43:前掲「百田宗治」(伊藤整『作家論 第1』)268頁に「昭和四五年頃から、詩壇にはモダニズムの運動が「詩と詩論」を中心として起っていたが、その中心人物であった西脇順三郎、北川冬彦、春山行夫等は、百田宗治と交際のあった人々であったので、「日本詩人」系の大正期詩人の中では、百田宗治が最も多くこの新しい運動に同情を持った人であった。その結果、彼自身の詩にもモダニズムの手法が取り入れられて、明るい、西洋風な詩風を開いた。」とある。

*44:前掲『日本近代文学大事典』第3巻「百田宗治」

*45:百田宗治「自伝的に」(『爐邊詩話』柏葉書院、昭和211946、10-58頁)には当時の百田宅の「近くにその當時神田で金星堂といふ書肆を經營してゐた福岡益雄君などの家があつて、福岡君が訪ねて來て、いつしよに企畫をして出したのが『現代史講座』といふ十冊の講座で、これには私も相當に力をいれた。そのなかの『現代詩選』といふアンソロジーの編纂にはかなり苦心もし、またある程度まで自信も持つた。春山行夫君等の『詩と詩論』といふ季刊冊子クオータリーなどが出て、日本の詩に若いあたらしい革命の氣運が産まれ出した頃である。」とある(54頁)。

*46:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)493頁

*47:前掲「百田宗治 著作年表」(『近代文学研究叢書』第76巻

*48:前掲「百田宗治」(伊藤整『作家論 第1』)268頁には「昭和七年頃からこの詩人は「工程」という綴方の指導雑誌を出し、全国の小学校の教師たちとの連絡ができた」と書かれているが、まだ『工程』は発刊しておらず、この段階では既存の教育誌への寄稿である。

*49:この記事にある「編集・装幀書(椎の木社刊行)」の項参照

*50:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)493頁

*51:日本作文の会『生活綴方事典』明治図書出版、昭和331958年、584-585頁「工程・綴方学校」https://dl.ndl.go.jp/pid/9543391/1/300

*52:『ブリタニカ国際大百科事典 : 小項目事典 6』(ティビーエス・ブリタニカ、昭和491974)439頁「百田宗治」では「1932年頃から生活綴り方運動に呼応して『工程』を発行、児童自由詩の指導にあたるとともに、波多野完治、滑川道夫、巽聖歌ら作文教育の指導者を育てた」と書かれている。https://dl.ndl.go.jp/pid/12404916/1/225

*53:前掲「百田宗治」(伊藤整『作家論 第1』)268頁には「この綴方運動で百田宗治と交わった若い教師たちの中から、後に作文教育の指導者となった、波多野完治、滑川道夫、吉田瑞穂、久米井東等の人々が出た」とある。

*54:日本作文の会『日本の子どもの詩 13』(岩崎書店、昭和591984)106-109頁「あとがき―東京都の児童詩指導の歩み」には「一九三五年(昭和10年)詩人百田宗治は、中野区小淀町の自宅〝椎の木社〟から、独力で「工程」を創刊するが、このころになると、百田は全国現場の教師たちのうごきに同調し、児童生活詩への指向を示し、その誌上でも、それを強調するにいたった。そしてこのうごきに、東京で呼応し、協力したものに、前記の吉田瑞穂、入江道夫、長田美雄、佐藤茂らのほか久米井東がいた。なかでも佐藤茂(南多摩郡第三由井校)は、吉田瑞穂とともに百田宗治を師とあおぎ、ゆたかな児童詩指導に力をそそいだ。」とある(107頁)。

*55:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)494頁

*56:岡崎一「百田宗治自筆「履歴書」」(首都大学東京大学院 人文科学研究科 表象文化論分野 紀要『ファーズ』第004号、2013年11月、 https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/record/1543)にはこの時期の昭和19年までの事績が詳細に記されている。

*57:前掲「百田宗治」(伊藤整『作家論 第1』)268-269頁

*58:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻495頁)

*59:更科源蔵「逃避行」(更科『札幌放浪記』〔創樹社、昭和541979〕95-102頁)99-100頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12195960/1/53

*60:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)495頁

*61:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)495頁

*62:百田宗治「校歌」(『実践国語』昭和281953年2・3月合併号、3489-3491頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2219011/1/20

*63:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)496頁

*64:佐藤茂「百田宗治先生のこと」(『作文教育』34号、日本国語教育学会、昭和511976年3月、15-17頁)https://dl.ndl.go.jp/pid/13011500/1/9

*65:前掲「百田宗治」(伊藤整『作家論 第1』)269頁

*66:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)496頁

*67:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)496頁

*68:前掲「百田宗治」(伊藤整『作家論 第1』)269頁には富山町高崎への移転が昭和29年のことと書かれている。

*69:前掲『文豪墓碑大事典』316頁

*70:前掲「百田宗治 生涯」(『近代文学研究叢書』第76巻)496頁

*71:佐藤将寛『百田宗治と校歌』新生出版、平成162004、286-294頁

*72:白鳥省吾「百田宗治―芭蕉風の簡素な詩形」(白鳥『文人今昔』、新潮社、昭和531978、59-53頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12458575/1/33

*73:滑川道夫『北方山脈』牧書店、昭和381963、66-71頁、https://dl.ndl.go.jp/pid/1671603/1/37

*74:高橋留治「百田宗治」(高橋『『セルパン』と詩人たち』北書房、昭和581983、155-199頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12460927/1/81)に、百田の随筆「賀状の客」(『私の綴方帖』〔大和出版社、昭和171942〕20-24頁)の相手が白川了照であると書かれている。

*75:小山康三「地方の生活と文化」(当麻町郷土史研究会編『礎 : 郷土史 第3巻』当麻町郷土史研究会、平成91997、128-129頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13211611/1/81

*76:安足間観光協会ホームページ「万葉寺」 https://www.potato.ne.jp/chiiki-aibetsu/page2.html

*77:真崎晋吾「百田宗治の詩碑」(第2次『金石文化』第3号、金石文化研究所、昭和361961)24頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1856968/1/16

*78:未完に終わった『邊疆詩集』に収める予定だった「安足間」は、百田存命中に『昭和文学全集 第47巻 (昭和詩集)』(角川書店、昭和291954)338頁に収載された https://dl.ndl.go.jp/pid/1663367/1/172

*79:久米敏編『愛別町百年記念史』愛別町、平成61994、685-686頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13211478/1/363

*80:愛別町史編集委員会編『愛別町史』愛別町、昭和441969 1099-1100頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/9490535/1/582

*81:「愛別町の略史」『町勢要覧』資料編 11-15頁 https://www.town.aibetsu.hokkaido.jp/08/08/621

*82:前掲『愛別町百年記念史』275頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13211478/1/158

*83:Googleマップ「百田橋」https://share.google/8ABQv979wYT3wsbnP

*84:Googleマップ「宗治橋」https://share.google/O6HKblCIR40ld4y7p

*85:北海道開発局「一般国道450号」道路台帳 https://www.hkd.mlit.go.jp/as/koubutu/a079ll000000astd-att/a079ll000000ax62.pdf

*86:福田淳子「百田宗治 業績」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第76巻〔昭和女子大学近代文化研究所、2001年〕556-582頁)556頁

*87:作中の「にれの町」を小野州一が絵本化している:『にれの町』金の星社、昭和60.6

*88:伊藤整「詩人伝」(『伊藤整全集』第14巻〔河出書房、昭和311956〕273頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1667276/1/141

*89:村井武生「日本詩書装釘史考」(『書物展望』第4巻第3号〔昭和9年3月〕):「椎ノ木社は百田宗治氏主宰にかゝる詩集専門の書肆。最近數多くの秀れた限定版詩集を上梓してゐる。」https://dl.ndl.go.jp/pid/3555433/1/29「殊に椎ノ木社は、『南窗集』(達治)や『西脇順三郎詩集』等の好著を次々と上梓し、詩書専門の限定版書肆としての存在を示してゐる。」https://dl.ndl.go.jp/pid/3555433/1/31

*90:禿徹「限定版展望」(『書物展望』第4巻第10号〔昭和9年10月〕):「椎の木社は限定版詩集專門の出版社で、有名無名の作家の詩集を限定版で出してゐる。ここの書物で比較的問題となるのは、『西脇順三郎詩集』と、最近の三好達治氏著『日まはり』位ゐのものであらう。」https://dl.ndl.go.jp/pid/3555441/1/30

*91:阪本越郎「限定版」(阪本『詩の周囲』、耕進社、昭和10)https://dl.ndl.go.jp/pid/1224378/1/33

*92:目次末尾に「装幀百田宗治」の記載あり https://dl.ndl.go.jp/pid/1181455/1/38

*93:『書窓』第2巻第1号〔昭和101935年10月〕に、乾による「一番氣に入ってゐます」との感想あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/1774361/1/24

*94:『日本現代詩大系 第9巻』に紹介あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/1356396/1/104

*95:村井武生「日本詩書装釘史考」『書物展望』第4巻第3号〔昭和111936年3月〕に言及あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/3555433/1/29

*96:『日本書籍分類総目録 第30巻』に「百田宗治氏の自装自造本」との広告あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/12236812/1/135

*97:『和田徹三全集 第6巻』に言及あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/12567549/1/261

*98:跋文に「装幀もわざ〳〵畫家を煩はすがものでもないから自分で遣つてみた。」との記述あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/1018179/1/63

*99:村井武生「日本詩書装釘史考」『書物展望』第4巻第2号〔昭和111936年2月〕に言及あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/3555432/1/33

*100:村井武生「日本詩書装釘史考」『書物展望』第4巻第2号〔昭和111936年2月〕に言及あり:https://dl.ndl.go.jp/pid/3555432/1/33

*101:童謠詩人会編『日本童謡集』(新潮社、大正151925)に百田宗治による「どこかで春が」「七月の晩がた」「山から山雀」「朝寒」「お葬ひ」の歌詞が掲載され(279-292頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1017000/1/156)、巻末には明治31年から大正13年に至る網羅的な年譜「童謡年鑑」が掲載されている(https://dl.ndl.go.jp/pid/1017000/1/193)。

*102:中山晋平作曲・眞島睦美振付『童謡小曲學校舞踊 上』(大倉書店、大正131924)に「狐のだんぶくろ」「鳥籠」が採られている(https://dl.ndl.go.jp/pid/3459449/1/3)。

*103:『草川信童謡全集 第1輯』(日本唱歌出版社、昭和61931)に草川が曲をつけた百田宗治「土星」「空の鯉」「空のみなと」「どこかで春が」「鳥籠」が採られている(https://dl.ndl.go.jp/pid/1209593/1/63?keyword=%E7%99%BE%E7%94%B0%E5%AE%97%E6%B2%BB

*104:「「親子で歌いつごう 日本の歌百選」選考結果」(『文化庁月報』2007年2月号(通号461)https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/archive/pdf/93732401_03.pdf

*105:佐藤将寛『百田宗治と校歌―校歌作成の顛末』(新生出版、平成162004)には35校の名が挙げられているが、その中には百田の日記に断片的な記載があるのみで歌詞にも対象校にも辿りつけていないものがある。また、歌志内町立神威小学校や夕張町立鹿島小学校のように同書刊行時に既に廃校となっていたものがあるだけでなく、旧釧路市立日進小学校のように同書刊行後の統廃合で校歌が「唄い継がれ」なくなったものもある。

*106:新琴似小学校ホームページ https://www16.sapporo-c.ed.jp/shinkotoni-e/doc/view/106

*107:前掲『百田宗治と校歌』172-179頁によると制定時期・制作時期に疑義がある模様だが、ここでは新琴似百年史編纂委員会編『新琴似百年史』新琴似開基百年記念協賛会、昭和611986、768頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/9571752/1/411 に従う。

*108:阿寒小学校ホームページ https://www.kushiro.ed.jp/akan-e/htdocs/?page_id=16

*109:前掲『百田宗治と校歌』79-84頁

*110:前掲『百田宗治と校歌』64-78頁によると、昭和23年の誤りではないかとのこと。

*111:雄武町観光協会ホームページ https://welcome-oumu.hokkaido.jp/2017/01/16/sounds-of-oumu-oumu-juniorhighschool/

*112:前掲『百田宗治と校歌』64-78頁によると、昭和23年の誤りではないかとのこと。

*113:雄武町観光協会ホームページ https://welcome-oumu.hokkaido.jp/2016/07/22/sounds-of-oumu-oumusyou_schoolsong/

*114:美幌町ホームページ https://www.town.bihoro.hokkaido.jp/site/bihoro-junior-high-school/2863.html

*115:前掲『百田宗治と校歌』26-42頁

*116:中幡小学校ホームページ https://shibuya.schoolweb.ne.jp/1310244/page/frm5e49edbf76170

*117:前掲『百田宗治と校歌』244-256頁によると、かつての中幡小学校ホームページには「どこかで春が」の百田宗治によって校歌が作詞された旨が記載されていた由。

*118:宍戸小学校ホームページ https://www.ed.city.kasama.ibaraki.jp/page/page000601.html

*119:前掲『百田宗治と校歌』205-212頁

*120:桜が丘小学校ホームページ https://www.kushiro.ed.jp/sakuragaoka-e/htdocs/?page_id=44

*121:前掲『百田宗治と校歌』116-122頁

*122:北見市ホームページ https://www.city.kitami.lg.jp/administration/education/detail.php?content=8738

*123:前掲『百田宗治と校歌』13-25頁

*124:新潟市立笹山小学校「学舎の記憶|廃校を旅するブログ|」https://abolished-school.hatenablog.jp/entry/2025/04/15/204911

*125:前掲『百田宗治と校歌』195-204頁

*126:岩国市小中学校ポータルサイト https://www.edu.city.iwakuni.yamaguchi.jp/site/kawashimo-j/62762.html

*127:前掲『百田宗治と校歌』320-325頁

*128:滝川市教育委員会ホームページ https://www.city.takikawa.lg.jp/site/kyouiku-top/2729.html

*129:前掲『百田宗治と校歌』135-149頁

*130:濁川小学校ホームページ https://niigata-nigorikawa-e.city-niigata.ed.jp/kouka/kouka.html

*131:前掲『百田宗治と校歌』135-149頁

*132:土浦第二高等学校ホームページ https://www.tsuchiura2-h.ibk.ed.jp/1aa708299f22e8523b056d4363c968d7/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%A1%88%E5%86%85/%E6%A0%A1%E7%AB%A0%E3%80%81%E6%A0%A1%E8%A8%93%E3%80%81%E6%A0%A1%E6%AD%8C

*133:前掲『百田宗治と校歌』213-221頁によると、実際は昭和30年まで推敲されているとのこと。

*134:鳥取県立中央育英高等学校ホームページより http://www.tottori-ikuei.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/%E7%94%B1%E8%89%AF%E8%82%B2%E8%8B%B1%E9%AB%98%E6%A0%A1%E3%80%80%E6%A0%A1%E6%AD%8C%E3%83%BB%E5%BF%9C%E6%8F%B4%E6%AD%8C.pdf

*135:前掲『百田宗治と校歌』311-319頁

*136:深沢小学校ホームページ https://school.setagaya.ed.jp/fuwa/page/simbol

*137:前掲『百田宗治と校歌』236-243頁

*138:桃井小学校ホームページ https://sites.google.com/school.maebashi.ed.jp/momonoi-es/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

*139:前掲『百田宗治と校歌』273-278頁

*140:影森中学校ホームページ https://www.city-chichibu.ed.jp/kagemorichu/gaiyo/koka/

*141:前掲『百田宗治と校歌』222-235頁

*142:大木中学校ホームページ https://www.edu.city.suzuka.mie.jp/jhoki/about/

*143:前掲『百田宗治と校歌』286-294頁によると、これが百田宗治の作詞した最後の校歌。

五号七倍活字2種―― 青山進行堂の鉛版活字(電胎活字)と森川龍文堂(および朝日堂)の鍍金活字

2026年3月26日付の記事「金属材料節約系活字の製法特許――藤田活版製造所のボックス式活字と蜂須賀勝喜堂の扁平活字」に記した通り、本間一郎『最新印刷百科全書 第1巻』には、「特殊な鋳造法」による活字の一種として「鉛版活字・電胎活字」の解説も書かれているのでした(66頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1125139/1/48。また大型活字においては鉛版活字にメッキ処理を施した「ニッケル鍍金活字」があるとも記されています(67頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1125139/1/48

先日、この鉛版活字(電胎活字)と鍍金活字を入手することができました。

青山進行堂の鉛版活字(電胎活字):五号七倍明朝

三谷幸吉『誰にも判かる印刷物誂方の秘訣』(印刷改造社、昭和5年)123頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1175447/1/115や三谷『直ぐ役に立つ植字能率増進法』(印刷改造社、昭和10年)42頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1234217/1/44では「電気版活字」という表現になっています。

昭和10年の「植字能率増進法」には「青山進行堂には五號七倍と五倍角の明朝、丸形「ゴヂツク」電氣版があります」とあり、昭和5年の「印刷物誂方」には「青山進行堂には五號七倍と五倍角の篆書丸形「ゴチツク」電氣版活字があります」とだけ書かれていますから、青山進行堂の五号七倍明朝活字は昭和5年から10年の間に登場したものと考えてよいのでしょう。

青山進行堂の鉛版活字(電胎活字)(文字面正面)

文字面の正面から見ると、鉛版活字であることから台木に止めてある釘が錆びている様がよくわかります。

青山進行堂の鉛版活字(電胎活字)(腹側やや斜め方向)

腹側には「ネッキ」溝は設けられておらず、「前」「青山進行堂製」の文字が押印されているのがわかります。

青山進行堂の鉛版活字(電胎活字)(活字サイズ測定)

1本だけの測定値ですが、活字サイズは25.79mm(約73.4ポイント)となっていました。《10.5アメリカンポイントである五号活字の七倍》である73.5ポイント(25.83mm)の、公差と考えてよいでしょう。活字の高さは23.41mmで、台木が21.21mm(鉛版の厚みが2.20mm≒6.26pt)。

青山進行堂の鉛版活字(電胎活字)(重さ計測)

9本分の重さが154.51gなので、1本あたりおよそ17.17gということになります。

森川龍文堂の鍍金活字:五号七倍明朝

三谷幸吉『手易く出来る活版印刷開業の栞』(印刷改造社、昭和11年)に掲載されている森川龍文堂の活字見本「邦文活字の書体及規格一覧表」に「七倍明朝鍍金版」が❝(七十二ポイント)❞と記されているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1056304/1/8、「六倍明朝鍍金版」の方は10.5ポイントの6倍である63ポイントと書かれています。七倍活字の実際の大きさは73.5ポイント(10.5ポイントの7倍)なのか、72.0ポイント(約10.3ポイントの7倍)なのか……。

森川龍文堂の鍍金活字(文字面正面)

これも釘止めされているのがわかります。

森川龍文堂の鍍金活字(腹側斜め方向)

これも腹側にネッキ(溝)は無く、「大Ⓡ阪 森川龍文堂」と押印ではなく刻印されています。

森川龍文堂の鍍金活字(活字サイズ測定)

今回入手した現物は《10.5アメリカンポイントである五号活字の七倍》に近い、25.78mm(約73.4ポイント)になっていました。ノギスを当ててみたのは1本だけですが、並べてみた際のサイズ感に大きな隔たりは見受けられません。72.0ポイント(25.30mm)を意図した活字ではなく、73.5ポイント(25.83mm)の公差と考えてよいでしょう。活字の高さは23.54mmで、台木が20.55mm(金属部分の厚みが2.99mm≒8.50pt)。

森川龍文堂の鍍金活字(重さ計測)

9本分の重さが192.27gなので、1本あたりおよそ21.36gということになります。

朝日堂活版製造所の鍍金活字:五号七倍明朝

朝日堂活版製造所の鍍金活字(文字面正面)

これも釘止めです。

朝日堂活版製造所の鍍金活字(腹側斜め方向)

ネッキ(溝)は無く、「大◎阪 朝日堂」と、これも押印ではなく刻印されています。「朝日堂活版製造所の二重円型ピンマーク入り初号明朝活字」の❝水平線から昇る朝日❞の下に「アサヒ」とカナ書きされているパターンではなく、「朝日堂活版製造所の朝日印ピンマークと㊹ピンマークが同じ面に刻印された初号フェイス42ptボディ活字」で参照した『関西模範産業大鑑 昭和10年版』にあるような、❝水平線から昇る朝日❞の下に「大西」と書かれているパターンが刻まれています。

朝日堂活版製造所の鍍金活字(活字サイズ測定)

1本だけの測定値ですが、活字サイズは25.75mm(約73.3ポイント)となっていました。《10.5アメリカンポイントである五号活字の七倍》である73.5ポイント(25.83mm)の、公差と考えてよいでしょう。活字の高さは23.54mmで、台木が20.45mm(金属部分の厚みが3.09mm≒8.79pt)。

朝日堂活版製造所の鍍金活字(重さ計測)

9本分の重さが188.01gなので、1本あたりおよそ20.89gということになります。

金属材料節約系活字の製法特許――藤田活版製造所のボックス式活字と蜂須賀勝喜堂の扁平活字

昭和ヒトケタから10年代にかけて、初号活字を超えるサイズの大型活字が新聞や広告等に使われるようになり、金属材料を節約する手法が幾つか実用化されていました。2025年8月に記した「盛功社吉田民助の特許である中空大型活字鋳造装置によって太平洋戦争期に鋳造されたものと思われる初号明朝活字」も、そうした製法のひとつです。

本間一郎『最新印刷百科全書 第1巻』(印刷出版研究所、昭和18年)には、そうした金属材料節約系のうち「特殊な鋳造法」の活字として「ボックス活字」「工型活字」「舟形活字」「扁平活字」「鉛版及電胎活字」が挙げられています(66頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1125139/1/48

藤田活版製造所のボックス式活字

藤田活版製造所の活字見本『特許・ボックス式・鑄造 初號ゴシック』(昭和6年5月、印刷図書館蔵、ZZ012)表紙裏の「ボツクス活字に就て……」では次のように解説されています。

ボツクスとは、BOXでございます。函、匣…錢箱とあやかつた由來にも響きますが、元來は、その活字字体の形態が、ちやうど桝を伏せた樣子、重箱の底を上にして文字を現した格好にちなんで、命名したものでございます。普通の活字から(一)中身に當るいらない地金を節約し(二)鑄造後の冷却を速にし(三)從て活字全体の質度を平均にし(四)その結果緻密で丈夫な(五)さうして値段の安いと云ふ、五つの理想的條件を具備した活字であります。特許第八四五八八号及實用新案第一三五一三五号の登録を受けて居ります。

昭和4年5月出願・同年9月公告の特許第84588号https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1801/PU/JP-84588/15/jaを見ると、藤田活版・藤田茂一郎によるこの特許は、出来上がった活字の姿ではなく、「背面に肉抜凹窩を有する活字を簡単に製造」する仕組み――特殊な鋳型とその支持機構――を備えた活字鋳造機に関する特許となっています。

藤田活版のものではありませんが、『書窓』3巻3号(アオイ書房、昭和11年8月)の三谷幸吉「我國鉛鑄活字書體の變遷(2)」に「最近獨逸から輸入した鋼鐵鑄込印刷及箔押用ボックス型活字」の写真が掲載されています(355頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1774369/1/84)。

『書窓』3巻3号355頁「最近獨逸から輸入した鋼鐵鑄込印刷及箔押用ボックス型活字」の写真(国会図書館デジタルコレクションより)

藤田活版のボックス式活字については現物も写真も見たことがないため、特許第84588号の公告に描かれている活字の模式図から推測すると、活字の内部を四角錐台形にくりぬいた形状で、かつ盛功社の中空活字が内部に「パイプ形状」を1本有するのに対して藤田ボックス活字は「パイプ形状」が2本となっており、脚部は『書窓』のような高足式ではなく全周が接地する形――というものになるようです。

特許第84588号の第6図・第7図(ボックス活字の模式図)

蜂須賀勝喜堂の扁平活字

昭和7年11月出願・同8年11月公告の特許第105534号https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1801/PU/JP-105534/15/jaを見ると、勝喜堂活字製造所・蜂須賀喜三郎によるこの特許もまた、出来上がった活字の姿ではなく、「扁平活字」を鋳造するための鋳型の仕組みに関する特許となっています。

特許第105534号の第6図(扁平活字の母型)・第5図(上下鋳型の断面〔7が母型〕)

普通の活字を鋳造する際には、溶融した活字合金を活字ボディの脚部側から流し入れるように上鋳型・下鋳型・活字母型を組み合わせる形になっているわけですが、この扁平活字の場合は溶融した活字合金を活字ボディの側面(おそらく腹側)から流し入れるようになっています。

昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』掲載広告にはイメージ図も掲載され、他には見られない次の文句が記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/39)。模式図と言わずイメージ図としたのは、「活字の模式図」ならば鏡文字になるのが正解であるところ、文字がそのまま読み取れる描き方になっているところによります。

◎今回發賣致しました扁平活字七倍角は在來の活字の如く一々母型を以て鑄造機にて十二ポイントの厚みに鑄込其れに臺木を着けたるものに付規格は一定し字面は滑らかに印刷面は至極鮮明で御座います是非一度御試用を賜はり度御願申上ます

蜂須賀勝喜堂の扁平活字イメージ図(昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』掲載広告より)

「12ポイントの厚み」というのは約4.2mmの厚みということになります。薄い部分でどれくらいの厚みだったのでしょう。鉛版・電気版と同程度で、台木には釘止めしたのでしょうか。細かいところも知りたいと思いますが、いまのところは判りません。

東京築地活版製造所の商標ピンマーク入り初号明朝活字――大中小3種の商標ピンマークのうち「小」のバリエーションは何種類だったか調べてみます

東京築地活版製造所が鋳造した初号活字に見える商標

2024年春に「築地初号フェイスの東京築地活版製造所製初号ボディ活字・42ptボディ活字と15mmボディ規格による錯乱の跡」を記した頃にはまだ16本しか手元に無かった東京築地活版製造所のピンマーク入り初号明朝活字なのですが、2025年末までに300本超をお迎えすることができました。

3年ほどかけてお迎えした、近畿地方のある印刷所で使われていた初号明朝活字群を、ここでは仮に「風音活字」と呼んでおきますhttps://mixi.social/@uakira2/posts/4df79993-bbb9-4d14-8c25-cec36e5a532e

「風音活字」には築地活版製のものだけでなく、他のTypefounderが鋳造したものもあるのですが、それはさておき。

図柄としては東京築地活版製造所の商標ピンマークが鋳印されている活字を見ると、明らかに大きいピンマークと小さいピンマークがあるようだ――と感じつつ受け入れ順に保管していた「風音活字」なのですが。初号明朝活字に区切りがついたため、築地活版製のものを改めてピンマークのサイズ別に整理してみたところ、ピンマークは大中小の3種類だったことが判明しました。

商標ピンマークのサイズ違い3種
東京築地活版製造所製大Ⓗ中Ⓗ小Ⓗピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面方向)
東京築地活版製造所製大Ⓗ中Ⓗ小Ⓗピンマーク入り初号活字(斜め方向)
商標ピンマーク「大」

ピンマーク「大」のもの(外径約7.6mm)は書体讃歌さんから頂戴したものを含めて2025年9月現在で10本。

東京築地活版製造所製大Ⓗピンマーク入り初号活字10本(ピンマーク正面方向)
商標ピンマーク「中」

以下「風音活字」のみで「中」(外径約5.5mm)と思われるものが19本。

東京築地活版製造所製中Ⓗピンマーク入り初号活字19本(ピンマーク正面方向)
東京築地活版製造所製初号活字の「中Ⓗ」ピンマーク
商標ピンマーク「小」

そして同じく「風音活字」のみで「小」(外径約4.6mm)と思われるものが375本となります。

東京築地活版製造所製小Ⓗピンマーク入り初号活字15本(ピンマーク正面方向)

この「小」ピンマークには幾つかバリエーションがありそうだということが判ってきました。

まず、マーク径が4.7mm程度で、ややボールドな「H」でキャップハイト2.4mm程度のもの(「小Ⓗその1」ピンマーク)。

東京築地活版製造所製初号活字の「小Ⓗその1」ピンマーク

次に、マーク径が4.6mm程度で、ややワイドな「H」でキャップハイト2.2mm程度のもの(「小Ⓗその2」ピンマーク)。

東京築地活版製造所製初号活字の「小Ⓗその2」ピンマーク

そして、マーク径が4.8mm程度で、ややコンデンスな「H」でキャップハイト2.6mm程度のもの(「小Ⓗその3」ピンマーク)。

東京築地活版製造所製初号活字の「小Ⓗその3」ピンマーク

商標ピンマーク「中」と「小」の拡大写真は、顕微鏡用マイクロルーラーMR-2(https://www.nadec.co.jp/sheetgauge)を用いてOlympus Tough TG-5の顕微鏡モード最大倍率接写を行い――三脚使用――、トリミングした画像です。肉眼では十分に伝えることが難しい違いを明らかにできる見通しが立ったので、もう少しマイクロルーラーの目盛りがきちんと写るよう照明等の条件を整えながら、「中」が1種類だけなのかどうか、また「小」が3種類だけなのかどうかを確認していきたいと思います。

大阪活版製造所の「鉛版及活字」「活版印刷機械」登録商標/弘道軒の「活字版」登録商標/東京築地活版製造所の「活版」「活字」登録商標

大阪活版製造所の「鉛版及活字」登録商標

大阪活版製造所の「鉛版及活字」登録商標(第95号)は、板倉雅宣『活字東へ』(朗文堂ヴィネット07」、2002)表紙のモチーフになっている形のマークです。

元々は商標登録制度が始まった明治17年10月1日付で酒井三造――明治3年5月、大阪活版の設立に携わった人物――の名で出願され、明治18年6月5日付で登録された(特許情報プラットフォーム:https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1801/TR/JP-0000095/45/ja、「第6種」の製品(金属の製品:鋳物・打物・彫鏤品及編物等)としては最も早いタイミングで登録された商標のひとつになります。

このマークは、6月6日付『官報』で商標の登録が広告された際には「丸形ノもノ字」と表現されていました(官報広告:https://dl.ndl.go.jp/pid/2943786/1/9。また後に谷口黙次が大阪活版製造所の代表者となったことに伴い、明治19年7月22日付で当該登録商標の「譲与」が広告されています(7月24日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2944140/1/6。更にまた、明治33年10月1日付で「続用登録」が行われたようです(『日本登録商標大全 第2編』https://dl.ndl.go.jp/pid/12358934/1/30

弘道軒の「活字版」登録商標

弘道軒の「活字版」登録商標(第99号)は、「篆書ノ弘ノ字」と説明されている通りの姿です。

弘道軒の「活字版」登録商標(特許情報プラットフォームより)

元々は商標登録制度が始まった明治17年10月1日付で神崎正誼の名で出願され、大阪活版と同じく明治18年6月5日付で登録された(特許情報プラットフォーム:https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1801/TR/JP-0000099/45/ja、「第6種」の製品としては最も早いタイミングで登録された商標のひとつになります。

商標の話題からは脱線する話ですが、弘道軒神崎正誼に関係して10年ほど前に見つけた謎(「平野富二と神崎正誼の葛藤を小室樵山が仲裁?」)については、まだ何も手がかりが掴めていません。

東京築地活版製造所が発行した活字見本帖に見える商標

東京築地活版製造所――単に「活版製造所」や「築地活版製造所」と名乗っていたり平野活版と呼ばれていた時期を含む――が発行した活字見本帖のうち、表紙に商標が掲げられている最も古いものは、明治121879年に発行された『BOOK OF SPECIMENS / MOTOGI & HIRANO』(印刷図書館蔵、Za307)ではないかと思われます*1。下図のように、「9時が凹んだ子持ちの二重丸」で影つきのブラックレター「H」を囲った図柄です。

『BOOK OF SPECIMENS / MOTOGI & HIRANO』(印刷図書館蔵、Za307)表紙に掲載されている築地活版の影つきブラックレター「H」マーク

明治171884年6月に商標条例が施行されたことを受けて、築地活版は時事新報や朝野新聞などに掲載した広告で、「追白弊所右印章ヲ商標仕度既ニ出願手続中」という文言と共にこの〈「9時が凹んだ子持ちの二重丸」で影つきのブラックレター「H」を囲った図柄〉を掲げています。

明治17年6月9日付『時事新報』掲載の築地活版製造所広告(商標登録出願中)(柏書房『時事新報』復刻版より)

明治19年5月から6月にかけて大阪活版との連名で出稿された印刷機の広告では見慣れたローマン体「H」のマークになっていますから*2、ブラックレター「H」マークはかなり短期間で棄却されてしまったようです。

明治19年5月24日付『時事新報』掲載の築地活版・大阪活版連名広告(柏書房『時事新報』復刻版より)

明治15年に発行された『西洋文字各種類見本』(印刷図書館蔵、Za308)や『大見本外新製花形追加』(印刷図書館蔵、Za309)、『貮號活字總數目録 全』(長崎県立長崎図書館〈ミライon図書館〉蔵、1110437401)には商標の掲載はありませんが、明治19年4月頃までの間に発行されたものであれば、ブラックレター「H」時代の商標が記載されたものがあったかもしれません。

東京築地活版製造所が発行した活字見本帖でいま手元にある唯一のものが、入手時に「魔導書」と呼んでいた昭和11年5月『改正五號活字總數見本 全』――最後の築地五号である「ベントン五号」の見本帳――になります。

昭和11年5月『改正五號活字總數見本 全』表紙に見える東京築地活版製造所の商標

この「ベントン五号」見本帖の表紙に掲げられている商標は、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵の12冊の見本帖「仮名字形一覧」を参照――明治25年から、30年代、40年代、大正期を経て昭和5年まで――と概ね同じものになっています。

①M25二号*3 ②M27五号*4 ③M39五号*5 ④M39三号*6
⑤M41六号*7 ⑥M44六号*8 ⑦M45三号*9 ⑧T02各号*10
⑨T02五号*11 ⑩T08十六ポ*12 ⑪S04九ポ*13 ⑫S05各号*14

「大全」類に見える東京築地活版製造所の登録商標

『日本登録商標大全 第2編』には、第6類活版として明治24年7月3日登録の第3784号(「9時が凹んだ子持ちの二重丸」でヘビーウェイトなローマン体「H」を囲った図柄:https://dl.ndl.go.jp/pid/12358934/1/31――活字見本帖で実際に使われていた商標の「H」よりもだいぶヘビーなウェイト――)と、第6類活字として明治32年6月26日登録の第12762号(単なるサンセリフの「H」:https://dl.ndl.go.jp/pid/12358934/1/36)が掲載されています。

『日本登録商標大全』より築地活版の登録商標第3784号と12762号

2年ほどかけて特許情報プラットフォームで第1号から第3800号までの登録商標を眺めてみましたが、第3784号以前に東京築地活版製造所(あるいは平野富二や曲田成)がブラックレター「H」やローマン体「H」マークの登録を申請した形跡は見えません。ここまでの間に登録されていた活版印刷関係の商標は、前述の大阪活版と弘道軒だけでした。明治17年の新聞広告で手続き中と謳っていたブラックレター「H」マークですが、五号活字などに鋳印することが難しい複雑な形象のマークを活字の商標とするのはマズイんじゃないか――という実務的な判断によって申請手続きを取りやめたのではないでしょうか。

牧治三郎『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会、1972)巻末年表では「明治273月」に「東京築地活版製造所、商標登録」とありますが(702頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12047860/1/398、これは最初の登録日である「明治24年73日」が誤って伝わったものでしょう。

『日本登録商標大全 第5輯 上』には、活字一切として明治45年2月26日登録の第50811号(「9時が凹んだ子持ちの二重丸」でボールドかつコンデンスなローマン体「H」を囲った図柄:https://dl.ndl.go.jp/pid/12394791/1/167)と、印刷機等機械器具にて明治45年5月7日登録の第52402号(同様の図柄:https://dl.ndl.go.jp/pid/12394791/1/202)が掲載。『日本登録商標大全  第5輯 下』に書籍・雑誌等で明治45年5月11日に登録の第52491号(https://dl.ndl.go.jp/pid/941550/1/280)も同様の図柄。

『日本登録商標大全』より築地活版の登録商標第50811号・52402号・52491号

大阪活版製造所の「活版印刷機械」「印刷機械及附属器械」登録商標

大阪活版製造所の「活版印刷機械」登録商標(第549号)は、最初は上記新聞広告に掲げられている、「第95号」のマーク(丸形ノもノ字)の周囲を放射状の印で飾り立てた格好をしたものでした。

元々は第95号と同じく明治17年10月1日付で酒井三造名で出願され、明治18年8月4日付で登録された(特許情報プラットフォーム:https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1801/TR/JP-0000549/45/ja、「第16種」の製品(機械類:紡績機・裁縫機・製糖機・印刷機械其他諸製造機械蒸気の機関及鑵等)としては最も早いタイミングで登録された商標で、8月5日付の官報で広告されています(『官報広告』https://dl.ndl.go.jp/pid/2943838/1/8

板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)38頁に記されている通り明治18年10月の『大坂日報』991号(23日付)4面および992号(24日付)4面に「商標広告」が掲出されています――例によって同書の活字翻刻文は原テキスト通りではないので注意――

大阪活版製造所「商標広告」(明治18年10月23日付『大坂日報』4面、国会図書館マイクロフィルム紙焼き)

この第549号もまた、第95号と同じく谷口黙次が大阪活版製造所の代表者となったことに伴い、明治19年7月22日付で当該登録商標の「譲与」が広告されています(7月24日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2944140/1/6

この第549号とは別に、明治34年1月10日付で「第95号」のマーク(丸形ノもノ字)が「印刷機械及附属器械」の商標として出願され、同年3月15日付で登録されています(特許情報プラットフォーム:https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1801/TR/JP-0015492/45/ja。併用されたのか、第549号のマークが捨てられたのか、そのあたりは判りません。

*1:平野ホールに伝承されている「明治10年見本帖」の表紙は未見のため、商標の有無は判りません。

*2:板倉雅宣『活版印刷発達史――東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006年)38ページの記述によると、『東京日日新聞』では明治19年6月4日付広告がローマン体「H」マークの初出である模様。

*3:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、明治25年『二號明朝活字書體見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*4:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、明治27年『五號明朝活字書體見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*5:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、明治39年『五號明朝活字總數見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*6:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、明治39年『改正三號明朝活字書體見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*7:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、明治41年『六號明朝活字書體見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*8:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、明治44年『六號明朝活字書體見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*9:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、明治45年『改正三號明朝活字書體見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*10:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、大正2年『乙各號活版摘要録 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*11:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、大正2『五號明朝活字總數見 』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*12:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、大正8年『十六ポイント書體見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*13:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、昭和4年『九ポイント活字總數見本 全』表紙の「仮名字形一覧」画像より

*14:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、昭和5年『各號活字摘要録』表紙の「仮名字形一覧」画像より

明治3年11月・12月に大坂の本屋仲間として「活字板之義」に取り組んだ「小七」「藤野」「姫弥」が何者であるかどうすれば判るでしょう

2025年11月29日付の「大阪活版所(大坂活判所)明治3年「5月開業」説の根拠と予想した五代友厚関係文書「借用証書 本木昌造代小幡正蔵・酒井三造」を大阪企業家ミュージアムからPDFでご提供いただき別の資料と2つ併せて5月開業説なのだと判った話」に記したように、当該借用証書と五代友厚あて重野安繹書簡が「5月開業」説の双子の根拠資料となることが判明し。

これを受けて12月、「大阪活版所(大坂活判所)開業準備時に書籍販売を任せようとしていた「秋田屋」はどの秋田屋か『大坂本屋仲間記録』に手がかりを探す」ために大阪府中之島図書館『大坂本屋仲間記録』を改めて斜め読みし、更に「藩政時代の「大坂本屋仲間記録」に見える「植字(板)」と「活字(板)」の語」を拾い出すなどしていた――という状況で。

『大坂本屋仲間記録』第6巻収録の「出勤帳」72番(明治2年12月19日から明治3年7月25日まで)には特に何も見当たらなかったというわけなのですが、この前後の「出勤帳」に興味深い記録があったことに気づきました。

ひとつめは「出勤帳」70番(明治2年2月8日から明治2年6月22日まで)。長崎新聞局用書籍売買取次所と称する近江屋九兵衛が長崎の新聞を売り広めたいと願い出た話。そしてふたつめは「出勤帳」73番(明治3年8月5日から明治3年12月29日まで)に見える、大阪活版所(大坂活判所)関係者とは別の人物が「活字板之義」に取り組んだらしい記事。

このあたり、どういうふうに調べたり考えたりすればいいものか、悩んでいます。

明治2年3月に大坂で『崎陽雑報』の販売を企図していた近江屋九兵衛

『大坂本屋仲間記録』第6巻収録の「出勤帳」70番(明治2年2月8日から明治2年6月22日まで)に、近江屋九兵衛という人物の「仲間入り」に関する記録がありました。

  • 明治2年3月4日「御裁判所へ刻限ニ罷出候処、北江戸堀壱丁目近江屋九兵衛と申者より、長崎おもてニ而出来候新聞紙、右九兵衛方ゟ売弘度段願出候趣ニ付、仲間ニおゐて差支等も無之哉御尋被為在候ニ付、何分にも仲間外より、右様売弘等被致候而者取締相崩候趣、不取敢御答申上候処、左候ハヽ其旨書面ヲ以申出候様被為仰聞候事 長崎新聞局用書籍売買取次所 近江屋九兵衛」(出勤帳70番33-34丁、『大坂本屋仲間記録』〔以下〘記録〙〕第6巻331頁)
  • 明治2年3月5日「御裁判所へ昨四日、長崎において出板之趣、彼之地新聞紙、当地北江戸堀壱丁目近江屋九兵衛与申仲間外之仁ゟ売弘之儀ニ付、仲間ニおゐて差支等之有無御尋在之、夫〻御答申上候処、何分書面ヲ以相断様御沙汰ニ付、右之趣願書相認差出候処、尤之儀ニ被仰、併仲間へ加入致候ハヽ近九兵衛より売弘候義者不苦哉御尋ニ付、其儀ニ候ハヽ不苦哉御答申置候事」(出勤帳70番34-35丁、『大坂本屋仲間記録』〔以下〘記録〙〕第6巻331頁)

このように、役所側から本屋仲間の代表に対して、北江戸掘一丁目の近江屋九兵衛という者から長崎で印刷された新聞を大阪で販売したいという希望が出ているが差し支えないかと問われ、現況では差しさわりがあるが仲間に入るなら販売してもよいという回答が為されています。

加入の有無に関する記録が見当たらないため、近江屋九兵衛の扱いがどうなったか、今のところ分かりません。『崎陽雑報』は明治2年6月に第13号を発行したところで廃刊となっていますから、この話は立ち消えてしまったのかもしれません。

明治3年11月・12月に「活字板之義」に取り組んだ「小七」「板木師亀助」「姫弥」「藤野」の記録

  • 明治3年11月28日「活字板之義、積り書早〻認メ上ケ、差出候様被為仰聞候御事」(出勤帳73番77丁、『大坂本屋仲間記録』〔以下〘記録〙〕第6巻430頁)
  • 明治3年11月30日「今日より活字板一条ニ取掛ニ付、諸道具仲仕両人、近江屋小七同道ニて近九迄参候、直様御上向へ小七召連罷出、当日より仕事ニ取掛り可申旨被仰付候」(出勤帳73番79丁、〘記録〙第6巻430頁)
  • 明治3年12月3日「活字板見改之事」(出勤帳73番80丁、〘記録〙第6巻431頁)
  • 明治3年12月4日「御裁判所へ罷出候処、今日活字板掛り、仕事都合ニ付休候、小七帰り候事」(出勤帳73番80丁、〘記録〙第6巻431頁)
  • 明治3年12月5日「活字板コマ不足分在之ニ付、板木師亀助召連、小七同様、幷ニ姫弥方へ、コマ不足分夫〻申付置候事」(出勤帳73番81丁、『大坂本屋仲間記録』第6巻431頁)「御裁判所活字板掛りニ付、板木師・活字板師両人之者へ、金五両也行席ゟ取替相渡し置候事」(出勤帳73番84丁、〘記録〙第6巻432頁)
  • 明治3年12月6日「御裁判所へ、活字掛り見改旁罷越候事」(出勤帳73番85丁、〘記録〙第6巻432頁)
  • 明治3年12月7日「活字板駒不足出来分、小七へ相渡候事」「活字板掛り見改候事」(出勤帳73番86丁、〘記録〙第6巻432頁)
  • 明治3年12月8日「御裁判所活板掛り板下認方、藤野召連罷出、今日より藤野子引続板下相認させ候様申聞置候事」(出勤帳73番89丁、〘記録〙第6巻432頁)
  • 明治3年12月9日「御裁判所へ、活字板掛りニ付藤野にも板下認ニ出向、夫〻見改之事」(出勤帳73番88丁、〘記録〙第6巻432-433頁)
  • 明治3年12月10日「前同断、出来上り板下六枚御覧済之上、板木師へ急彫申聞置候事」(出勤帳73番88丁、〘記録〙第6巻433頁)
  • 明治3年12月11日「前同断、活字板掛り見改之上、姫弥へ活字箱直し申付置候事」(出勤帳73番88丁、〘記録〙第6巻433頁)
  • 明治3年12月12日「前同断見改之事」(出勤帳73番88丁、〘記録〙第6巻433頁)
  • 明治3年12月14日「活字板見改相済候事」(出勤帳73番91丁、〘記録〙第6巻434頁)
  • 明治3年12月15日「活字板掛り見改之事」(出勤帳73番92丁、〘記録〙第6巻434頁)
  • 明治3年12月16日「御裁判所活板掛り見改之事」(出勤帳73番92丁、〘記録〙第6巻434頁)
  • 明治3年12月17日「活字板掛り見改之事」「活板之内、植字六ヶ敷所六丁、彫刻出来ニ付相納置候事」(出勤帳73番93丁、〘記録〙第6巻434頁)
  • 明治3年12月18日「活板掛り見改相済候事」(出勤帳73番94丁、〘記録〙第6巻435頁)
  • 明治3年12月25日「御裁判所活字板掛見改候事」(出勤帳73番104丁、〘記録〙第6巻437頁)
  • 明治3年12月27日「前同断」(出勤帳73番104丁、〘記録〙第6巻437頁)
  • 明治3年12月28日「前同断」(出勤帳73番105丁、〘記録〙第6巻437頁)
  • 明治3年12月29日「前同断、活字板掛り場所跡片付、見改仕置候事」(出勤帳73番105丁、〘記録〙第6巻437頁)

この12月29日を最後に活字板に関する記載は途絶え、明治4年正月から始まる出勤帳74番には活字板の話題は見当たりません。

明治3年11月30日の「今日より活字板一条ニ取掛ニ付、諸道具仲仕両人、近江屋小七同道ニて近九迄参候」という文を見た時に「近九」も「活字板之義」の内容に関わった人物か――ひょっとすると『崎陽雑報』の販売を企図していた近江屋九兵衛だったりするのではないか――と思ったのですが、「下宿」として本屋仲間記録に何度も登場する近九、つまり一般的には公事宿と呼ばれている公事人下宿(『大阪商業史料集成 第一輯』53頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1872907/1/39の近江屋九郎兵衛(『大坂本屋仲間記録 第3巻』72-73頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12277268/1/44である模様。

近江屋小七

さて、「近江屋小七」ではなく「近江屋幸七」であれば、三木佐助『玉淵叢話 下』(開成館、明治35年)の「維新前後に於ける読書界」に、木活字版の「組立頭即ち今頃の文選兼植字係」を務めた者として登場しています。多治比郁夫が「大阪の木活字本」(『大阪府立図書館紀要』10号)で三木『玉淵叢話』に言及しているところによると(https://dl.ndl.go.jp/pid/1773129/1/57)、三木は大坂の本屋仲間のうちであった河内屋佐助の雇い人から後に養子になった人物。

三木『玉淵叢話 下』によると「私が安政六年に河佐家へ參りました時は貸本屋が專業でござりまして、傍ら赤本屋を兼ねて居られましたが、それが自然に新古本小賣屋と變じ後ち自宅に活字版の板摺場などを設け」てあったが(1頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/782040/1/3、「文久三年の大火に類燒致しまして其跡へ直ぐ活字版組立場と版摺場とを別に一棟建築致されました」「其時の組立頭即ち今頃の文選兼植字係が近江屋幸七と申すもので、版摺の頭即ち印刷係が利倉屋と申すもの、此二人の下に尚三四人の補助がありまして日々仕事を致して居りました」とのこと(7-8頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/782040/1/7

組立係が近江屋、版摺係が利倉屋で、近江屋幸七の配下に小七が居た――というのはありそうな話に思えます。何と言っても、この時期に本屋仲間のうちにあった活版屋という話です。三木の回想以外に何か周辺事情が出てこないものでしょうか。

板木師亀助

『大坂本屋仲間記録 第8巻』に慶応2年の『歩操新式』の件で「西高津新地三丁目大靍屋亀助方ニ而彫刻為致」という記述が見え――OCRは「大靄屋亀助」と誤認識しているので注意――、板木師に該当しそうな亀助は当人だけではないかと思われるのですが、これ以上どこをどう掘り進めたら良いものやら。

姫弥

まったく見当がつきません。

藤野

『大坂本屋仲間記録 第5巻』の頃に行事を務めたらしく、「藤野」の名は盛んに出ています。とはいえフルネームは判りません。

井上和雄編『慶長以来書賈集覧』(彙文堂書店、大正51916年、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/1870968/1/13)を坂本宗子が増訂した『増訂慶長以来書賈集覧』(高尾書店、昭和451970年)で本文と巻末リストから拾い出してみたところ、藤野九郎兵衛という名と藤野彌兵衛という名が見えます(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12278150/1/118)。藤野彌兵衛は「大坂」とあり、彌兵衛が本命でしょうか。

『大坂本屋仲間記録』には略称「藤弥」も見えるのですが、これは『増補浪花買物独案内』に「藤屋彌兵衛」(天和-天保 大坂)と出ている者でしょう。禹三郎は「藤禹」という略称があり、この他「藤九」こと「藤屋九兵衛」、「藤宗」こと「藤屋宗兵衛」、「藤徳」こと「藤屋徳兵衛」、「藤菊」こと「藤屋菊次郎」、「藤善」こと「藤屋善七」といった名が『大坂本屋仲間記録』に出てくる――ということは、これら「藤屋」は、略称「藤野」ではないと見て間違いなさそうです。

一方、慶応3年の『増補浪花買物独案内』では、「ほんや」として2件の「藤屋」が掲載されています(大阪大学附属図書館石濵文庫蔵、国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100270073/ の19コマ~23コマ)。藤屋禹三郎(19コマ左)と藤屋傳兵衛(23コマ右)です。文久元年に行司を務めている本屋が慶應3年の買物案内に掲載されていないということがあるのかどうか。

はてさて。


#NDLdigital化されている大阪府中之島図書館『大坂本屋仲間記録』