日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

大阪活版所(大坂活判所)開業準備時に書籍販売を任せようとしていた「秋田屋」はどの秋田屋か『大坂本屋仲間記録』に手がかりを探す

3年ほど前、明治期に「古印風」活字を生み出した活版製造周拡合資会社の周辺情報を調べていた際、大阪府中之島図書館『大坂本屋仲間記録』第7巻(1985)に前田菊松や瀬戸清次郎、大阪国文社の開業登録が記録されていることに驚いたわけですが――そして『大坂本屋仲間記録』が2025年6月に国会図書館デジタルコレクションの送信資料に加わってくれてとても便利になったことに喜んでいるわけですが(前田の開業は7巻398頁〔出勤帳88番25丁〕明治21年10月26日に記録されています:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277269/1/207――。

今頃になって、幕末から明治初期(具体的には文久元年6月から明治5年8月)までの「出勤帳」が翻刻掲載されている『大坂本屋仲間記録』第6巻をちゃんと見ていなかったということに気がついたので、国会図書館デジタルコレクションの送信資料になっていないこの第6巻を東北大学附属図書館から借り出し、まずは明治2年12月19日から始まり明治3年7月25日付で終わる「出勤帳」72番から、ざっと眺めてみました。

特に大阪活版所(大坂活判所)が開設された時期と思われる明治3年3月から7月までの記載は注意深く眺めたつもりですが、活版所(活判所)に関係しそうな記述はありません。

さて、先日来話題にしている通り、小松帯刀所蔵『二十一史』復刻を軸として準備が進められていた大阪活版所(大坂活判所)開業にあたって本木昌造らと五代友厚が互いに示しあった条件と思われる覚書(草稿)6箇条の中に、次のようなことが記されていました(翻刻原文:日本経営史研究所『五代友厚伝記資料』(1971年、東洋経済新報社)第4巻197頁「(翻刻)一八二」(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/104)。

  • 「二十一史」完成までは、これ以外の書籍の売上金の5%を(五代側に)納めること【二十一史摺立候迄ハ、外書籍売高の五歩、冥加差出候事】。
  • 書籍の売りさばきは秋田屋に任せること【書籍捌方は、秋田屋へ支配為致候事】。

この「秋田屋」は、明治3年4月に大坂医学校による官版『日講記聞』売弘届を出すなどしていた「秋善」(『大坂本屋仲間記録』第6巻394-395頁)こと秋田屋善助でしょうか(早稲田古典籍DB:https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ya04/ya04_00681/ya04_00681_0001/ya04_00681_0001_p0034.jpg。それとも、明治10年頃のことになりますが、東京で刷られた活版印刷物である『公法便覧』(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/788979/1/325や『團團珍聞』(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/11209952/1/8売捌き等にも柔軟に対応していた秋田屋市兵衛でしょうか。

藩政時代から大坂で書籍商を営んでいた秋田屋

井上和雄編『慶長以来書賈集覧』(彙文堂書店、大正51916年、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/1870968/1/13)を坂本宗子が増訂した『増訂慶長以来書賈集覧』(高尾書店、昭和451970年)で本文と巻末リスト(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12278150/1/76)から拾い出してみたところ、藩政時代から大阪で活動していた書籍商「秋田屋」には次のものがあったようです。

慶応3年の『増補浪花買物独案内』では、「ほんや」として次のような「秋田屋」が紹介されています(大阪大学附属図書館石濵文庫蔵、国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100270073/ の19コマ~23コマ)。

  • 秋田屋市兵衛(書物江戸積問屋/唐本和本/古本売買)
  • 秋田屋太右衛門(書物江戸積問屋/唐本和本/古本売買)
  • 秋田屋善助(唐本和本 書物売買所)
  • 秋田屋幸助(唐本和本 書物売買所)

「独案内」の4軒は「集覧」の11軒に全て含まれているわけですが、この4軒を候補と考えて良いでしょうか。『大坂本屋仲間記録』で各々の活動始期をチェックしてみました。

  • 秋田屋市兵衛は、「出勤帳 1番」の頃から大坂の本屋仲間であり、遅くとも明和31766年からは行司を務めるなどしていた模様(「出勤帳 1番」44丁〔『大坂本屋仲間記録』第1巻「出勤帳 1」19頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277417/1/18*1
  • 秋田屋太右衛門は、文化21805年10月に仲間に加入している模様(「出勤帳 21番」100丁〔『大坂本屋仲間記録』第2巻「出勤帳 2」301頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277267/1/158
  • 秋田屋善助(善介)は、太右衛門の関係者らしき人で、安堂寺に出していた「箱店」をいったん畳んで改めて天保81837年6月に仲間に加入したうえで出店した模様(「出勤帳 49番」42丁〔『大坂本屋仲間記録』第4巻「出勤帳 4」404頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277002/1/210
  • 秋田屋幸助は、元は太右衛門方の関係者らしき人で(「出勤帳 49番」51-52丁〔『大坂本屋仲間記録』第4巻「出勤帳 4」408頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277002/1/212天保111840年3月に仲間に加入した模様(「出勤帳 51番」113丁〔『大坂本屋仲間記録』第4巻「出勤帳 4」535頁〕https://dl.ndl.go.jp/pid/12277002/1/275

東北大学附属図書館から借りてきた『大坂本屋仲間記録』第6巻で、元治2年正月として始まった大坂本屋仲間「出勤帳66番」から、明治2年12月17日までを記す「出勤帳71番」までの範囲を眺めてみたところ、次のようなことが見えてきました。

この4名の他にも秋田屋一党で名が出ていた者がありました。

  • 秋良こと秋田屋良助、慶応元年10月に「仲間退」とし板木の大半や株を「秋善」管理としたい旨の願い出あり。更に慶応4年6月に「休商届」。
  • 秋復こと秋田屋復三郎、慶応2年12月「実印漸〻出来候」。
  • 秋彦こと秋田屋彦助、慶応3年12月、慶応4年5月、明治2年3月に記録あり。
  • 秋確こと秋田屋確蔵、明治元年10月、「英国歩兵練法と申全九冊物、薩摩軍局方ニ蔵版ニ出来、右売弘之儀」で「御裁判所」へ伺出(この件、同年11月、明治2年1月にも引き続き)。明治2年10月から12月、「楽山堂詩鈔」と「皇道要略」の件。

さて、というわけで。本命を秋田屋確蔵(薩摩蔵版『英国歩兵練法』の大阪での販売を企図していた)、対抗を秋田屋市兵衛(秋田屋一党の本家であり明治初期の本屋仲間で年行司も務めていた)、という具合に見るのが良かろうと思われたわけなのですが。

実際に現存している『重訂英國歩兵練法 號令詞』には「製本所:吉田源左衛門(薩摩)/秋田屋田右衛門(大坂)」とあるようで(https://opac.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/opac/opac_details/?lang=0&opkey=B176511204838820&srvce=0&amode=11&bibid=2002780757)、また『重訂英國歩兵練法』も巻末は「製本所:吉田源左衛門(薩摩)/秋田屋太右エ門(大坂)」とあることから(https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231271/576?ln=ja)、実際の本命は秋田屋太右衛門で対抗が市兵衛、大穴が確蔵――ということになるでしょうか。


以上、そのままの形では実現しなかった五代友厚本木昌造の企画「活判所取建に関する覚」(二十一史復刻に関する覚書、https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/104)の話題を扱いながら、大阪府中之島図書館『大坂本屋仲間記録』の大半が国会図書館デジタルコレクションの送信資料となってくれたことの喜びを噛みしめているのでした。

*1:蒔田稲城著・出版タイムス社編『京阪書籍商史』(出版タイムス社、昭和4年再版)第2章「大坂本屋仲間の創制」によると、秋田屋市兵衛は、元禄から享保にかけて成立しつつあった最初期の24人の「仲間」のうちの1人であった模様――少なくとも「享保91724年正月の記録」にある当初の組合員に含まれています(15-16頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1258728/1/111)――。

大阪活版所(大坂活判所)明治3年「5月開業」説の根拠と予想した五代友厚関係文書「借用証書 本木昌造代小幡正蔵・酒井三造」を大阪企業家ミュージアムからPDFでご提供いただき別の資料と2つ併せて5月開業説なのだと判った話

先日の「大阪活版所(大坂活判所)が明治3年「5月に開業」したという説の根拠かもしれない五代友厚関係文書MFの複写が「破損・劣化」のため謝絶されてがっかりしている話」にて、本木昌造側から見た大阪活版所の開設時期が概ね明治3年「3月」とされている一方で、五代友厚側から見た記述の中に明治3年「5月」開設とするものがあること、そしてそのためか「大阪活版所跡」碑には「3月」開設とあり大阪市文化財協会編『大阪市文化財』では「5月」開設と解説されていること、を記しました。また、大阪商工会議所が所蔵している「五代友厚関係文書」のうち、『五代友厚伝記資料』第4巻解説が「5月」開設としている根拠かもしれない「活判所取建に関する覚」と「借用証書 本木昌造代小幡正蔵・酒井三造 明治三年八月」――特に「借用証書」の方――の内容が知りたいと考えて国会図書館憲政資料室の五代友厚関係文書マイクロフィルムhttps://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/godaitomoatsu)からの複写を願い出て資料劣化のため謝絶されて落胆したところでした。

その後、大阪企業家ミュージアムに複写を願い出たところ、申請した下記2点につき、マイクロフィルムから作成されたPDFをお送りいただくことができました。深謝申し上げます。

さてここで、『五代友厚伝記資料』第4巻解説「雑纂」(251頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/131)が記す、大阪活版所設立前後の状況を改めて整理してみます。五代が関係した文化事業の第一として挙げられている、大阪活版所設立につながる「二十一史」復刻の話題です*1。なお、引用文中に「第一巻一〇六」等と記されている翻刻番号は国会図書館デジタルコレクションの当該箇所へのリンクとしました。

二十一史とは中国において古代から明代にいたるまでの間に編纂された二一の正史の称である。たとえば史記漢書・魏書・新唐書などの史書である。この書物は幕末になるとなかなか手に入りにくい希覯書となった。幸い小松帯刀がこれを所蔵していたので明治三年(一八七〇)三月ごろ世の読書子のためわが国において復刻しようと思いたち、このことを友厚や重野安繹に相談した(第一巻一〇六)。友厚はさっそく長崎で旧知の大村屋という印刷屋に大阪において二十一史を出版するよう勧誘するとともに、わが国において初めて活版の製作に成功した元オランダ通詞本木昌造にもこの事業に協力するように懇請してくれと書送った(第一巻一一〇)。そのうちに小松の計画(一八二)も具体化してきたので、本木は高弟酒井三造と小幡正蔵を大阪に派遣した。友厚はこの両人を後援して五月に「大阪活版所」を開業させた。このようにして出版の準備を整えているうちに惜しくも六月二七日に小松は病死した*2。中心人物を失って結局二十一史の出版計画は残念ながら立消えとならざるをえなかったのである。重野は翌年九月に小松所蔵の二十一史(書簡では二十二史となっている)を友厚の手元に返還している(第一巻九一)。

このように「友厚はこの両人を後援して五月に「大阪活版所」を開業させた」という、我々のように大阪活版所の開業が3月だったのか5月だったのかを知りたい者にとって肝心な話の論拠が示されていなかったわけなのですが。

大阪活版所(大坂活判所)明治3年「5月開業」説の双子の根拠資料

1. 五代友厚あて重野安繹書簡(R3 97 M109 4)

五代友厚関係文書目録』(大阪商工会議所、1973年)に採られている(五代友厚あて)重野安繹書簡の中に、原資料では発信の月日だけが書かれて年が欠けているものが幾つもあるのですが、そのひとつ「R3 97 M109 4」(  年五月二七日)が我々にとって重要なことを記していたと判ってきました。翻刻文を全文引用します(「目録」125頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12263074/1/77)。

元木方屋敷決定に付、千五百両拝借したき由大村より話あり、御都合願う、小松君塩梅余程よろしき由承る

本木昌造を「元木」と記すのはよくあること。大村より話あり――ということは「大村屋経由で本木昌造に協力を懇請」という3月19日付五代書簡のスキームが生きていて大村から重野に話がいったという流れでしょう。「屋敷決定」なので、小松の二十一史翻刻のために本木側から単に資機材を供給するというだけでなく活版所として活動するための拠点を決定したという話のようです。

また、後々平野富二が五代友厚に諸々ひっくるめて返済した際の資料(「本木先生の借金利子を支佛ひたる受取書(五代才助)」〔三谷『本木昌造・平野富二詳伝』〕136頁図版 https://dl.ndl.go.jp/pid/1214169/1/123には大阪活版所に関係する有利子負債の元本が「千五百両」であったことが示されており、「千五百両拝借したき由」という当初見積もりと辻褄があっています。

次の借用証書の存在と併せて考えると、内容的に「R3 97 M109 4」(  年五月二七日)は明治3年5月27日付の書簡だと判断して良いでしょう。

2. 借用証書 本木昌造代小幡正蔵・酒井三造 明治三年八月(R34 95 1590)

五代友厚伝記資料』でも『五代友厚関係文書目録』でも翻刻されていないため、資料の標題にある通り「本木昌造代 小幡正蔵 酒井三造」から五代にあてて「明治三年午八月」に差し入れられた借用証書だ、ということしか判っていませんでした。冒頭に記した通り、国会図書館憲政資料室のマイクロフィルムは活用できませんでしたが、このほど大阪企業家ミュージアムからPDFをお送りいただくことができました。「目録」ではこの項のタイトル通り「明治三年八月」とされていますが(365頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12263074/1/199、証書の日付は「明治三年午八月」と書かれています。証書の頭から読んでみます。

證書
一 金六百両也 午五月晦日請取
一 同弐百両也 同八月七日請取

𛂥活字判𛂛入用拝借仕候処
相違無御座候

10年前は個人で「くずし字OCR」を使うなど夢物語だったわけですが(#珈琲咖啡探索隊「モンヘツ御用留文書」https://x.com/uakira2/status/639765958307901440、今では自力で解読する部分とAIくずし字認識アプリ「みを(miwo)」やNDL Lab「古典籍OCR-Lite」の助けを借りる部分を比べて考量できるので、とても助かります。

とはいえ、「相違無御座候」以降の為書2行目後半と3行目を十全に読み取ることができていません――「本証書差出可申候為後証」とある定型文の前の6文字と後続の6文字について、「みを(miwo)」と「古典籍OCR-Lite」の助けを借りても精確に読めている気がしない――。

先ほどの5月27日付重野安繹書簡により、本木昌造側が大阪での活版所開業にあたり千五百両を借り受けたいと申し出ていたことが判りました。そしてこの「明治三年午八月」の借用証書により、当初資金として「五月晦日」に六百両が貸し出され、小松帯刀逝去後の8月7日に追加の二百両が貸し出されたことが判りました。

差額の七百両がいつどのようにして貸借されたのかは判りませんが、「本木先生の借金利子を支佛ひたる受取書(五代才助)」があることから、最終的には当初申込の通り合計千五百両が五代から拠出されたのは間違いないところなのでしょう。

この借用証書と、先ほどの重野安繹書簡、この2点が大阪活版所(大坂活判所)の開設時期について考察・言及する際に欠くべからざる資料であったということが、今回こうして判明しました。『五代友厚伝記資料』の編者も(おそらく当然)この2点の存在を承知していて「5月開業」としていたものの、『五代友厚伝記資料』全4巻中に取り上げていない資料だったために解説文中で言及できずにいた、というような事情なのでしょう。



ちなみに、私が読めていない部分を「?」として証書全文を翻刻してみると、次のようになります。

證書
一 金六百両也 午五月晦日請取
一 同弐百両也 同八月七日請取

𛂥活字判𛂛入用拝借仕候処
相違無御座候??????本
証書差出可申候為後証??????

明治三年午八月

本木昌造
 小幡正蔵
 酒井三造

「古典籍OCR-Lite」の読みを、読み取り重複行を整理して記すと、次のようになっていました。

謹書
一金六百両也 午五月晦日請取
一同弐百両也 同八月七日御門殿

右は右宗判然入用拝借仕候処
相違無御座候追而限に相定本
証書差出可申候為後証仍て一札如件

明治三年午八月

本木昌返代
 小幡正蔵
 酒井三造

「みを(miwo)」は次のように見ています。

証書
一 金六百雨 爾五月晦詣殿
一 同弐可日両也 同は月七日津殿

右者活字剃然入用取漬佐処
胡違も御重候追西理月相定本
証書差書可申為後証伝一礼

浪三年に八月

本大昌返代
 小晴正蔵
 海井三造

本木昌造が小幡・酒井に命じて大阪での活版所開設準備を始めさせたのは明治3年3月のうちだったかもしれませんが、実際に具体的な規模や場所が内定したのが5月下旬、賃料等を支払って「開業」できたのは早くて6月1日付だったりするのではないかと思われますが、現時点では今回判明した「双子の根拠資料」以上のことは判りません。私も「5月開業」説に与することとしておきます。



2025年12月1日追記:
先日来繰り返し記している通り、明治3年3月19日付大村屋あて書簡で五代友厚が「重野安繹と申すもの、二十一史を活字ニて、上木いたし候筈取究置候間、本木へ御示談」云々と要請したことによって大阪での活版所開設の話が動き出したわけですが(『五代友厚伝記資料』第4巻解説「雑纂」(251頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/131)の翻刻一一〇」)。

五代友厚伝記資料』第4巻解説「雑纂」が「翌年明治4年9月」としている書簡(翻刻九一」)は、実際には「英辞書銅板の義」他を伝える明治2年9月7日付五代友厚あて重野成斎安繹書簡で、その末尾に「小松家廿二史ママの書物箱、差上度奉存候処、無人ニて込り入候間、御僕、暫時、拝借仕度奉祈候」と記されているものです(『五代友厚伝記資料 第1巻』122頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12257038/1/75)。

「昨日、小松家より活版一条承知仕」を伝える明治3年3月11日付重野書簡(同130頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12257038/1/79)の少し前に「二十一史」翻刻出版の話が降って湧いたわけではなく、明治2年9月頃から3年3月までの期間に、「サツマ辞書」同様上海美華書館での印刷になるか国内で賄えるかは別として、重野らと病床の小松との間で「二十一史」の活版での翻刻出版に向けた調整が進められていたという話ではないでしょうか。


*1:前回ご紹介した古谷昌二氏のブログ『平野富二とその周辺』の2018年8月27日付記事「五代友厚と大阪活版所」でも、『五代友厚伝記資料』第4巻解説に出てくる内容以上の原資料には触れられていません。

*2:引用者注:Wikipedia小松帯刀逝去の日時に関する典拠としている高村直助『小松帯刀』(吉川弘文館、2012年)は、明治3年7月22日付の木場伝内書簡(『大久保利通関係文書 第3』145頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2982101/1/87 )に基づき、「帯刀の死は公的には七月二十日とされたが、実際には十八日夜一時頃であったと、二十二日付大久保宛の木場の書状は記して」いると書いています(『小松帯刀』273頁)。

誠貫堂活版製造所のピンマーク入り初号明朝活字

過日、名古屋の誠貫堂活版製造所が鋳造した初号明朝活字を入手していました。

誠貫堂活版製造所が鋳造した初号明朝活字(ピンマーク斜め方向)
誠貫堂活版製造所が鋳造した初号明朝活字(ピンマーク正面)

以前から「印刷業者名鑑」類や業界紙の広告から商標等のマーク類を拾い集めていたことについて「★印ピンマーク入り初号活字は東洋活版製造所が鋳造したものであろうと判断するに至った話」(2025-05-06)で触れましたが、その拾い集めた中のひとつである昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』に、この図案文字「太」マークがありました(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/202)。

「合名会社誠貫堂活版製造所」が設立されたのは大正21913年9月10日付ですが(同年9月16日付『官報』341号317頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2952441/1/7明治42年版『名古屋商業会議所統計年報 』によると明治25年6月の創立ということですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/803483/1/70

『名古屋印刷史』(名古屋印刷同業組合、1940年)の第15節「活字製造のはじめ」には、次のように書かれています(151頁-153頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/97

盛功合資會社が活字の取次を始めたのは、明治二十二年で、丁度新愛知創刊の同じ年である。ところが是より三年後れて誠貫堂活ママ製造所(所主太田健次郎)が本町二丁目に創設された(現在の店舗の向へ側)のは、たしかに當時の新聞社及活版印刷業者にとつて待望の的だつたに違ひない。

名古屋で罫輪郭の製造に先鞭をつけたのは、現太田誠貫堂主太田春雄氏の祖父に當る太田伊助である。

氏に二男あり長子は夭折し、前記次男健次郎(明治元年十二月二十六日生)が、父の遺業を繼いだがこの人棟梁の材を持ち、印刷業の前途益々有望なることを觀取して、新たに活字の製造を開始し、店舗を名古屋目拔の場所たる本町二丁目に構へ、店名を「誠を貫く」意味から誠貫堂と名付けたのである。これが抑も名古屋として活字製造の濫觴となつたのである。

紅の家おいろ『名所案内名古屋節用』(東雲堂、明治26年)に掲出されている広告では「太田誠貫堂」となっていますからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/765232/1/32*1、創業時点では単に「誠貫堂」という屋号ではなく「太田誠貫堂」と名乗っていたのかもしれません。

昭和16年版『全国工場通覧』https://dl.ndl.go.jp/pid/8312074/1/433以降「誠貫堂活版」あるいは「誠貫堂活字」の名が見えなくなりますから、企業統合の過程で消えていったのではないかと想像します。

*1:NDL全文検索「誠貫堂」では見つからない資料ですが、『名古屋印刷史』153頁( https://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/98)に、この『名古屋節用』掲載広告が図示されています。

朝日堂活版製造所の二重円型ピンマーク入り初号明朝活字

先日、大阪朝日堂活版製造所が鋳造した初号明朝活字を入手しました。

朝日堂が鋳造した「二重円型」ピンマーク入り初号明朝活字(ピンマーク斜め方向)

「朝日堂活版製造所の朝日印ピンマークと㊹ピンマークが同じ面に刻印された初号フェイス42ptボディ活字」(2024-04-14)との違いや、他の「二重円型」ピンマークとの違いをより良く記録するためにどういう用語があればいいかと考えてみたのが、昨日の「大阪青山進行堂の初号活字と一号活字・二号活字でピンマークのフォーマット類型を考える」だったのでした。

「朝日堂活版製造所の朝日印ピンマークと㊹ピンマークが同じ面に刻印された初号フェイス42ptボディ活字」には、「メーカー標」として「朝日印」が鋳記され、また「サイズ標」として(実寸が42 American point bodyであるにもかかわらず当時の日本の特殊事情から)「44」という数字が鋳記されているのでした。

今回取り上げる朝日堂が鋳造した「二重円型」ピンマーク入り初号明朝活字は、内枠の外周を明確に示す円は描かれていませんが、類型としては、①外周に回文*1があり、②内枠にメーカー標がある――という点で「二重円型」のフォーマットに則ったピンマークと考えます。

朝日堂が鋳造した「二重円型」ピンマーク入り初号明朝活字(ピンマーク正面)

内枠の外周を明確に示す円が描かれていないということ以外にも、他の「二重円型」ピンマークには見られなかった特徴があります。これまでに見てきた「二重円型」ピンマークでは、回文が次のように「メーカー名」と「都市名」を記載するものでした。

今回の朝日堂活版製初号活字では、回文テキストがローマ字を用いずに「大日本大阪電天988」と鋳記されています。「大日本大阪」までは「都市名」を表していると言えなくもありません。「電天988」は電話番号が天王寺局の988番であるという意味。「朝日堂活版製造所の朝日印ピンマークと㊹ピンマークが同じ面に刻印された初号フェイス42ptボディ活字」で触れた広告類にある通り、朝日堂の電話番号は「天王寺988番」でした。ここまでが、ユニークな点その1。

そしてユニークな点その2。「メーカー名」・「都市名」型の回文は、北半分が中心側を下にして記され、南半分が外周を下にして記されているのですが、今回の朝日堂活版製初号活字では、回文テキスト全文が中心側を下にして記されています。

大陸や半島など「海外」も販路として考慮していたtypefounderと国内販売のみを行っていたところの違いだったりするのか――等、色々と想像をかきたてられるピンマークです。

*1:二重円型ピンマークの外周に沿って円弧状に配置されているテキストを印章類の慣習に依拠して「回文」と呼ぶことにします。

大阪青山進行堂の初号活字と一号活字・二号活字でピンマークのフォーマット類型を考える

2023年の記事「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」の時点ではまだよく判っていなかった、青山進行堂が鋳造した初号活字に見られるピンマークのバリエーションが出揃ったのではないかという感触があるので、活字サイズが表示されている一号活字と二号活字の事例を含めて、ピンマークのフォーマット類型を考えてみました。

内容による分類

「メーカー標」と「サイズ標」

『英和印刷=書誌百科辞典』(世紀社、1943年、441頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1857856/1/233)など、保田訳『印刷全書』(印刷雑誌社、1892年、45頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/853849/1/44)以来の少し古い資料を見ていくと、活字のピンマークpin markという語には概ね「針標」という訳語があてられています(矢野道也『印刷術』〔丸善、1913年〕の場合、「円鍼(又は針標)」という表現〔67頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/949336/1/42〕。なお、『印刷術講座』(印刷雑誌社、1942年)では手回し式活字鋳造機の鋳型とピンマークの仕組みについて非常に判りやすく解説されています〔102-108頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1172314/1/118〕。)

「辞典」の記述が「活字の體(body)の上部側面にある通常圓形の窪み。製造所の商標、活字の大さ等を表はすことあり」と続いているように、針標ピンマークには、確かに当該活字を鋳造したメーカーを示すものと当該活字の大きさを示すものがあります――実例として「朝日堂活版製造所の朝日印ピンマークと㊹ピンマークが同じ面に刻印された初号フェイス42ptボディ活字」を示した通り――。「鋳造者を示すマーク」を指す語として「founders mark(founder's mark)」があったのだろうと思われますが、「辞典」では「pin mark」と「founders mark」が同じ意味とされています(441頁「pin mark」https://dl.ndl.go.jp/pid/1857856/1/233、203頁「founders mark」https://dl.ndl.go.jp/pid/1857856/1/114

ここでは「当該活字を鋳造したメーカーを示すものと当該活字の大きさを示すもの」を各々「メーカー標」「サイズ標」と呼ぶことにしておきたいと思います。「メーカー標founders markピンマークpin markのうちメーカーの商標等を示すもの」として呼び分ける考えです。

青山進行堂が鋳造した一号活字と二号活字に見える「メーカー標」と「サイズ標」(ピンマーク斜め方向)
青山進行堂が鋳造した一号活字と二号活字に見える「メーカー標」と「サイズ標」(ピンマーク正面)

「有徴ピンマーク/無徴ピンマーク」「商標印入り/識別印入り」

今まで、「蛮勇を奮って仮称「西磐井活字」全体の整理を始めたものの築地五号と活文舎五号以外へうまくアプローチできず己の力不足を突き付けられている話」(2024-11-09)などで「商標入りピンマーク/無印ピンマーク」という呼び名を採りつつあったわけですが。これを「有徴ピンマーク/無徴ピンマーク」として、「有徴ピンマーク」に「商標印入り」と「識別印入り」の別がある、とする方が良いのではないかと考えるようになりました。例えば青山進行堂の場合、Ⓐなら「商標印入り」で「青」なら「識別印入り」。

青山進行堂が鋳造した一号活字に見える「商標印入り」ピンマーク(A)と「識別印入り」ピンマーク(青)(ピンマーク斜め方向)
青山進行堂が鋳造した一号活字に見える「商標印入り」ピンマーク(A)と「識別印入り」ピンマーク(青)(ピンマーク正面)

商標や商標以外の識別印(文字や記号)が摩滅したわけではなく最初から鋳記されなかったように見受けられるものを「無徴ピン」あるいは「無徴ピンマーク」と呼ぶことにしようと思います。とはいえ今後も「無印ピンマーク」と記してしまうかもしれません。

大きい楕円形・大きい円形の「無徴ピンマーク」入り初号活字(ピンマーク斜め方向)
大きい楕円形・大きい円形の「無徴ピンマーク」入り初号活字(ピンマーク正面)

外形による分類

「単円型」「二重円型」

先ほど示した一号活字の「商標印入り/識別印入り」ピンマークはここで言う「単円型」でしたが、青山進行堂製の初号活字では今のところ「単円型」は見かけておらず、「二重円型」か「大判型」「小判型」のみとなっています。

手元に集まってきた青山進行堂製初号活字のうち「二重円型」のものを見ると、「識別印入り」(内枠が「青」のもの)は二重円全体が大きいもの(外径10mm程度)と小さいもの(外径7mm程度)の2種類があり、「商標印入り」(内枠が「A」のもの)は二重円全体が大きいもの(外径11mm程度)と一回り小さいもの(外径9mm程度)の2種類があるようです。

青山進行堂が鋳造した「二重円型・識別印入り」初号活字(ピンマーク斜め方向)
青山進行堂が鋳造した「二重円型・識別印入り」初号活字(ピンマーク正面)
青山進行堂が鋳造した「二重円型・商標印入り」初号活字(ピンマーク斜め方向)
青山進行堂が鋳造した「二重円型・商標印入り」初号活字(ピンマーク正面)

「二重円型」ピンマーク入り一号活字の場合、外径は7mm程度で揃っているようですが、「識別印入り」(内枠が「青」のもの)の内枠外径が少し大きいもの(3mm程度)と少し小さいもの(2mm程度)の2通りが見つかっています。

青山進行堂が鋳造した「二重円型・商標印入り/識別印入り」一号活字(ピンマーク斜め方向)
青山進行堂が鋳造した「二重円型・商標印入り/識別印入り」一号活字(ピンマーク正面)

「大判型」「小判型」

いま仮に「大判型」「小判型」と呼ぶことにしたものは外周が長円形または楕円形のもののうち、内容が2行で記載されているものを「大判型」、内容が1行で記載されているものを「小判型」と呼び分けてみるものです。

青山進行堂が鋳造した初号活字の「大判型」ピンマークと「小判型ピンマーク」(ピンマーク斜め方向)
青山進行堂が鋳造した初号活字の「大判型」ピンマークと「小判型ピンマーク」(ピンマーク正面)
青山進行堂が鋳造した一号活字の「小判型ピンマーク」(ピンマーク斜め方向)
青山進行堂が鋳造した一号活字の「小判型ピンマーク」(ピンマーク正面)

過去に取り上げた他社製品事例では「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」(2023-03-21)がここで言う「大判型」で、「大阪森川龍文堂のピンマーク2種と二号宋朝長体活字・初号龍宋体活字」(2023-05-14)の初号龍宋体活字が「小判型」になります。

「ピンマーク入り初号活字を鋳造していた黒田活版のことを #NDL全文検索 で調べてみた話」(2023-05-05)は1行のもの(田Ⓚ黒)が「小判型」で2行のもの(黒〔改行〕田Ⓚ札〔改行〕幌)が「大判型」になるわけですが、青山進行堂の例も含めて、この系統のものを無理に「大判型」「小判型」に分ける必要は無いのかもしれないなと考えさせられる事例です。

ともあれ、青山進行堂製一号活字では「小判型」の例しか今のところ見ていません。

多くのピンマーク外形は円形か長円形で、今のところ楕円形は森川龍文堂のものしか見ていません。この意味で、「無徴ピンマーク」の例として取り上げた楕円形のものは、「他に例を見ない特徴を備えた無徴ピンマーク」という、ややこしい表現になる事例です。

「表札型」

この他に「大阪加東活版製造所のピンマークと商標」(2023-05-22)で取り上げた縦型の長方形があり、これを「表札型」と呼ぶことにしておきたいと思います。この「表札型」も現時点では加東活版の例しか見ていません。

大阪活版所(大坂活判所)が明治3年「5月に開業」したという説の根拠かもしれない五代友厚関係文書MFの複写が「破損・劣化」のため謝絶されてがっかりしている話

大坂の「活判所」が開設されたのは明治3年のいつ頃か

本木昌造が長崎で起こした活版印刷事業は、明治3年から5年にかけて、大阪、京都、横浜、東京と東漸し事業拠点を増やしていきます。最初期の伝記資料である「本木昌造君の行状」には、次のように書かれています(明治24年4月『印刷雑誌』第1巻3号 https://dl.ndl.go.jp/pid/1498914/1/8)。

時ニ維新ノ偉業全ク成リテ諸藩封土ヲ奉還シ世禄ヲ廢セントノ論漸ク世ニ起リケレハ先生ヲモラク今ヨリ早ク其備ヲナサズハ我ガ長崎數百戸ノ扶持人等ノ如キモ遂ニ衣食ニ窮スルニ至ラント是ニ於テ心ヲ決シテ製銕所主任ノ職ヲ辭シ(明治三年)專ラ活字製造ニ從事シ大ニ其業ヲ興シテ彼ノ𦾔扶持人等ニ産業ヲ授ケントセリ是歳春社員小幡正藏酒井三造ノ兩氏ヲ大坂ヘ送リ五代才助氏後ニ友厚ト謀リテ同地ノ大手町ニ始テ活版所ヲ開カシム後ニ北久太郎町三町目ニ移レリ

このように明治24年の「本木昌造君の行状」では「明治3年の春、小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣し、五代友厚と相談して大手町に活版所を開設した」と書かれていたわけなのですが。

本木昌造側から見た大阪活版所の開設(明治3年[3月])

明治27年、その時点の築地活版の代表者だった曲田成によって上梓された『日本活版製造始祖故本木先生小伝』の記述は、次のようになっていました(27頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/782080/1/18)。

時ニ維新ノ偉業全ク成リテ諸藩封土ヲ奉還シ世禄ヲ廢セントノ論漸ク世ニ起リケレハ先生謂ラク今ヨリ早ク之カ備ヲナササレハ我長崎數百戸ノ扶持人等ノ如キモ遂ニ衣食ニ窮スルニ至ラント三年三月意ヲ決シテ製鐵所主任ノ職ヲ辭シ專ラ活字製造ニ從事シ大ニ其業ヲ興シ場ヲ先生ノ自宅ニ設ケ彼ノ𦾔扶持人等ニ産業ヲ授ケントセリ是ニ於テ社員小幡正藏酒井三造ノ兩氏ヲ大坂ヘ遣リ五代才助氏後ニ友厚ト謀リテ同地ノ大手町ニ始メテ活版所ヲ開カシム後ニ北久太郎町二丁目四十番地ニ移レリ

明治3年3月に、長崎の自宅に活版所を設け、小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣して大手町に活版所を開設した」と読める内容になっています。そのためでしょう、本木昌造側から見た大阪活版の開設時期は、単に明治3年とするものと、明治3年3月とするものが並びます。

明治2年とするものや明治4年とするものもあるのですが、明かな誤りと思われ、リストには掲げません。

五代友厚側から見た大阪活版所の開設(明治3年[5月])

五代友厚側から見た大阪活版所の開設時期は、明治3年または明治3年3月とされるものの中に、明治3年5月とするものが並びます。

「大阪活版所跡」碑

跡地の推定と碑の建立に尽力された方の記事が2本、1974年の『月刊印刷時報』359号に並んで掲載されており、それぞれ「3月」と「5月」になっています。

こうした両論併記的な扱いをせざるを得ないためでしょうか、大阪市文化財協会編『大阪市文化財』では碑文と解説が異なる日付を記しています(改訂第5版26頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12712941/1/18〔1982年、大阪市文化財協会〕・改訂第6版36頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13323556/1/22〔1989年、大阪市文化財協会〕)。

《碑文》明治3年3月、五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により、この地に活版所が創設された。大阪の近代印刷は、ここに始まり文化の向上に大きな役割を果した。

長崎にはじまった活版術は、やがて大阪、京都、東京と東漸し、文明開化の一端をになうことになるが、その中心となった大阪活版所は、明治3年5月、五代友厚の要請により、本木昌造が門下生小幡正藏、酒井三造らと共に設立し、活版印刷と活字類の製造販売をはじめた。

五代友厚関係文書

古谷昌二氏のブログ『平野富二とその周辺』に「五代友厚と大阪活版所」という2018年8月27日付の記事がありますhttps://hirano-tomiji.jp/archives/date/2018/08?fbclid=IwAR2R3J769wWqSHpC-Kb8V1jNuOK3KoAqSidxA1nyBc53S4ySqRwI89Q56MM。「大阪活版所の開設に関する経緯、場所、時期」について本木昌造側からの視点が必ずしも定まっていないので、諸事情を解明するため五代友厚関係文書から「大阪における活版所開設に関する各種文書(主として書簡類)を横断的に読み解いた」として以下の①②の内容が紹介されています。

五代友厚側から見た大阪活版所の開設(明治3年[5月])」の項で示した『五代友厚伝記資料』第4巻解説には、これら①②に触れたのち「本木は高弟酒井三造と木幡正蔵を大阪に派遣した。友厚はこの両人を後援して五月に「大阪活版所」を開業させた」と記されています(251頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/131)。ただし「五月に開業」とする根拠が明示されていません。

ひょっとすると、古谷氏のブログ記事で触れられていなかった、『五代友厚関係文書目録』には件名が記載されているけれども『五代友厚伝記資料』には翻刻文が紹介されていない次の資料が「五月に開業」の典拠資料なのではないか――従来は平野富二が五代友厚に諸々ひっくるめて返済した際の資料(「本木先生の借金利子を支佛ひたる受取書(五代才助)」〔三谷『本木昌造・平野富二詳伝』〕136頁図版 https://dl.ndl.go.jp/pid/1214169/1/123)しか参照されていない――

――そのように考えて、先般、国会図書館憲政資料室の五代友厚関係文書マイクロフィルムhttps://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/godaitomoatsu)から②③の遠隔複写を請求してみたわけなのですが。

今般、「誠に申し訳ありませんが、今回のお申込みは以下の理由により、お受けできませんでした。理由: 資料が破損・劣化しており、複写できません。」という複写申し込み謝絶の返信を頂戴してしまいました。残念。

宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)に見える版面の回転は2頁掛け印刷の痕跡ではないか

前々回の「#組版書誌 ノオト:宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)本文および本扉ならびに詩題の組み方について」を踏まえて前回、「宮澤賢治『春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか」を検討し、ある条件を満たせば活字組版を4頁掛にして組みつけることができたと結論づけました。

さて、『春と修羅』初版本を幾つか閲覧させていただいた際、「様々な込物飛び出し跡とTypographic errorなど」の他に気になったのが、版面が大きく回転している(傾いている)箇所があちこちにあることでした。見開きページ左右で版面の位置が上下に大きく食い違っている箇所があることや、ノンブル(の下線)がブレて二重になっているような跡があるところも気になってはいるのですが、今回はいったん忘れておくことにします。

版面の回転(傾き)というのは、例えば早稲田大学図書館古典籍総合データベース今井卓爾文庫蔵本(以下「早稲田古典籍DB今井文庫本」)における156-157頁のような状態を指します。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』156-157頁に見える版面の回転(傾き)

8頁折の形で綴られている『春と修羅』初版本が4頁掛で印刷されたのだとすると、ここは第21折の中央にあたる、連続する左右のページが同時に印刷されている見開きページに該当します。今井文庫本の場合ちょうど綴じ糸が切れているため、図のように「版面の回転(傾き)」が観察しやすい状態になっています。正立させた紙面を基準にすると版面が時計回りに1度くらい回転している(傾いている)状態ということになりますが、これは印刷時に用紙が1度くらい斜めになった状態で供給されてしまった結果ということになります。

国書データベース経由でオーテピア高知図書館近森文庫蔵本(以下「国書DB高知近森文庫本」)を眺めた限りでは、156-157頁の版面は特に回転せず正立しているか、または回転していたとしても角度がゆるやかであるように見受けられるなど、込物飛び出し跡等と同様に、現存各本で様々に異なる様相の印刷誤差として存在するのでしょう。

版面回転のところはどのように印刷されたか

版面回転のところは、活字組版が4頁掛だった場合、どのように組みつけられ、印刷されたでしょうか。

前回の「宮澤賢治『春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか」を踏まえて、早稲田古典籍DB今井文庫本に見える明らかな回転箇所について図にしてみましょう。

  1. 今井文庫本の画像を全ページ取得し、見開き状態の画像から単一ページの範囲を切り出す。
  2. 単一ページの画像について、小口が垂直になるよう角度を調整する。
  3. 理想的な4頁掛け印刷状態であると仮定できる第14折オモテと同じ状態になるよう、4つのページを配置する。

以上のような手順で4ページ分を集合させた画像に、前回同様、「#組版書誌 ノオト:宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)本文および本扉ならびに詩題の組み方について」で見出したレイアウト枠をあてがっていきます。

第21折の版面回転

小口が垂直になるよう角度を調整した単一ページ画像を一通り眺めていって、1つの折の中で最も「版面回転」が多いように見えたのが、第21折でした。

まずは第21折オモテ(153-160頁と156-157頁)。前掲図のように見開き単位で同時に印刷されていることが明らかな156-157頁だけでなく、同じ第21折オモテで左右に並ぶ153-160頁も、同じような角度で傾いている状態のようでした。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』153-160頁と156-157頁(21折オモテ)に見える版面の回転

今井文庫本を見ると、普通に4頁掛で組みつければ次図Aのようになるところ、次図Bのように天マージンを挟んで左右にズレて組みつけられた形になっています。

【図A】「美濃版チース」にノドも揃えて4頁掛で組みつけた状態(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より第14折オモテの想定)
【図B】第21折オモテが「美濃版チース」に4頁掛で組みつけられていた場合(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より想定)

実はこの第21折は、今井文庫本を見る限り、ウラも同じように天マージンを挟んで左右にズレて組みつけられ、オモテとは反対方向に回転している――という状態になっています。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』154-159頁と155-158頁(21折ウラ)に見える版面の回転

4頁掛で、わざわざ先ほどの図Bのような変な組みつけかたをするのかどうか、さて。

目次の折の版面回転

前回の「宮澤賢治『春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか」に記した通り、入沢康夫「詩集『春と修羅』の成立」(『宮沢賢治 プリシオン海岸からの報告』〔筑摩書房、初版第1刷1991年、初版第2刷1996年〕76~119頁)によると、最後の16頁分になる本文297頁から巻末の正誤表までが、第39折と第40折に相当するものを次のように入れ子にして綴ってあるのだということです(99頁「図3 初版本巻末16ページ分」を元に筆者作図)

入沢康夫「詩集『春と修羅』の成立」図3「初版本巻末16ページ分」を元に筆者作図

ここでは、正誤表が掲載されているページを含む折と目次8頁分の折のどちらが第39折でどちらが第40折かを決定せず、「目次の折」としておきます。

「目次の折」オモテは、次図のように、第21折よりも角度は緩やかですが第21折オモテと同じ方向に回転している(傾いている)ように見えます。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』「目次の折」オモテに見える版面の回転

一方で「目次の折」ウラを見ると、天マージンを挟んで版面の回転(傾き)角度が異なっているように見受けられます。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』「目次の折」ウラに見える版面の回転

これが美濃版チースに4頁掛で組みつけられたとするなら、どのような具合になるでしょうか。

「目次の折ウラ」が「美濃版チース」に4頁掛で組みつけられていた場合(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より想定)

わかりやすいようクサビを省いて図にしてみましたが、何らかの意図を持った造形詩というわけでもないのに、このように角度がズレるというのは考えられません。

考えられませんが、話の都合上、第21折オモテの想定図のように見開き印刷の版が天マージンを挟んで平行にズレている状態を「橫ズレ組みつけ」と呼び、「目次の折」ウラのように見開き印刷の版が天マージンを挟んで異なる角度になっている状態を「捻転組みつけ」と呼ぶことにしてみます。

「橫ズレ組みつけ」――第35折オモテ・ウラ

早稲田古典籍DB今井文庫本で版面回転が気になったところのうち、第35折オモテとウラが、第21折などと同様の「橫ズレ組みつけ」にあたるようでした。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第35折オモテに見える版面の回転(「橫ズレ組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第35折ウラに見える版面の回転(「橫ズレ組みつけ」に見える状態)

「捻転組みつけ」――第11折ウラ、第15折ウラ、第31折オモテ、第34折オモテ・ウラ

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第11折ウラに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第15折ウラに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第31折オモテに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第34折オモテに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第34折ウラに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)

春と修羅』初版本の版面回転は4頁掛印刷ではなく半裁紙に2頁掛印刷をした痕跡なのではないか

以上のほか、早稲田古典籍DB今井文庫本から「版面の回転」感を受ける所に、第1折本扉、第23折169頁、第29折217頁、第30折225頁、第32折245頁などがあります。

国書DB高知近森文庫本の第1折本扉には回転感がありませんが、第23折169頁は回転、第29折217頁も回転、第30折225頁も回転であるように見えます。第32折245頁は回転のようにも見えるし回転していないようにも見える、という感じ。

やはり現存各本ごとに版面の「回転感」は異なっているようです。

今回仮に「橫ズレ組みつけ」と呼ぶことにした状態も、「捻転組みつけ」と呼ぶことにした状態も、どちらも実際に4頁掛で組みつけて印刷した結果とは考えにくく、半裁紙に2頁掛で印刷した結果と考える方が自然な内容です。

2頁分の活字組版を見開き配置する場合、短辺が五号36倍(約133mm/4寸4分)程度、長辺がノドアキ分を含めて五号59倍(約218mm/7寸2分)程度の矩形となります。さすがに内寸4寸5分×7寸の「端書用チース」には収まりませんが、美濃版チースに2頁掛で組みつけて印刷できるのはもちろん、美濃半裁用チース(内寸6寸×8寸8分)だけでなく、半紙半裁用チース(内寸5寸×8寸)でも2頁掛が成り立ちます。

美濃半裁用チースに2頁掛で組みつけた状態(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より第14折オモテ相当97・104頁の想定)
半紙半裁用チースに2頁掛で組みつけた状態(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より第14折オモテ相当97・104頁の想定)

春と修羅』初版本の版面回転は、8頁1折の形で綴じられている本文用紙を、4頁掛印刷ではなく半裁紙に2頁掛印刷をした痕跡なのではないか――というのが今回の結論です。

また、本文の最大行長が五号31倍である理由として、前回は美濃版チースに4頁掛で組みつける際の限界値だった――ということを想定していましたが、もし『春と修羅』初版本が全体を通して2頁掛で印刷されていたのだとすると、半紙半裁の手フート印刷機が使われたことに由来する限界だった――とも言えそうです。

4頁掛で印刷した蓋然性が高いと言える内容はあるか

さて、『春と修羅』初版本が8頁1折の形で綴じられている――8頁1折の本は通常1枚の紙のオモテ4頁分を一度に印刷し、ウラ4頁分も一度に印刷して、両面の印刷が終わった用紙を2回折ってからノドを綴じ、天地と小口を切り揃える――、という理由から初版本が4頁掛で印刷されたと想定する以外に、例えば「インクの斑の発生具合」など印刷状態から「ここは4頁掛の印刷だ」と判断できるような痕跡が残されているでしょうか。

版面回転箇所が2頁掛印刷の痕跡であろうことは間違いないと思うのですが、4頁掛印刷の痕跡はどのように捉えればいいのか。

春と修羅』初版本には、4頁掛印刷のところと2頁掛印刷のところが混在しているのか、いないのか。

できれば別の初版本を閲覧させていただく前に方針を見つけ出しておきたいと思っています。

何かお気づきのことがある方がいらしたら、ぜひご教示ください。