日本語練習虫

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中村光子『緑なす大樹の蔭に 草田男曼荼羅』に登場する印刷所と句誌『萬緑』奥付に記載されている印刷所

国会図書館デジタルコレクションの全文検索で「組版屋」という語彙が含まれているらしいと判ったことから読み始めた中村光子『緑なす大樹の蔭に 草田男曼荼羅』(ぺりかん社、1995)。特定語彙の周辺だけ摘まみ読みしようと思っていたのに、あまりに面白かったので冒頭に戻って通読してしまった。

本書の主題は、一般的には草田男を中心とした『萬緑』同人たちと、草田男の義妹である著者光子を含む中村一族の各々が織りなす人間模様であろう。モデルとなった人物のうち、「みすず書房社長の北野民夫」(出版・読書メモランダム「古本夜話1423 中村草田男句集『萬緑』と北野民夫」参照)のようにそのままの名前と属性で描かれている人物がある一方で、モデルとは異なる仮名を与えられて登場する人物もある(例えば12頁に記される、著者の中村光子が参加することとなった『萬緑』新編集委員の4委員中1名のみは仮名扱いであり〔『萬緑』304号「編集後記」https://dl.ndl.go.jp/pid/7921985/1/42 参照〕、また304号「編集後記」で判る通り従来『萬緑』誌の校正等を担当していた「和木さん」というのも仮名)。

本書のもうひとつの味わいどころは、昭和最期の十余年、活版文芸同人誌がどのようなところでどのように組版・印刷されていたかという記録になっているという点にある。光子が関わることとなった『萬緑』印刷所のうち最後の「豊栄印刷」をのぞく4社が文中では変名で記されているのだが(110頁には「私が『萬緑』の仕事に携わってから十年余、数えてみれば、五色、横田、三栄堂、住吉、国文堂そして現在の豊栄印刷と、六ヵ所も『萬緑』誌の印刷所は変っているのである」とあるが、このうち「国文堂」は組版専門で『萬緑』奥付に記載のない印刷所である)、国会図書館デジタルコレクションで送信資料扱いとなっている『萬緑』のバックナンバーで奥付を見ていくと、モデルと異なっているのは名称だけで、所在や佇まいといったところは特段の脚色・改変を施されずに記録されているように思われた。

以下、「社史を持たない印刷所」の歴史の一断面として読み取っていった、『萬緑』印刷所の話。

「五色印刷」こと一色印刷(28頁)

 四月号の割付を終り、原稿を印刷所に渡すために、和木さんと私は地下鉄の茗荷谷駅で落ち合った。
 賑やかな商店街の表通りを少し歩いて、二つ目の信号を左に折れると、ゆるい下り坂になってはるか向うに緑の森が見えた。小石川植物園である。
 坂を下りきって道に突当たる左の角に、小さな雑貨屋が一階にあるビルがあった。食料品から洗剤まで売っている何でも屋の店の隅に階段があった。
 その階段を踊場で曲がってあがっていくと突当りに部屋のドアがあった。ドアの横に五色印刷株式会社と書かれた木の看板がぶら下がっているが、四畳半ほどの部屋の中には事務机と椅子、それに接客用の応接セットがあるだけである。
 つまりここは完全に印刷ブローカーの拠点にすぎないのだ。

  • 昭和401965年8月号から昭和521977年4月号までの『萬緑』印刷所は、「五色印刷」ならぬ「一色印刷株式会社」
  • 昭和401965年8月号(20巻8号:通巻188号)から昭和411966年3月号(21巻3号:通巻195号)まで、一色印刷株式会社の所在は文京区茗荷谷16
  • 昭和411966年4月号(21巻4号:通巻196号)から昭和501975年6月号(30巻6号:通巻305号)まで、一色印刷株式会社の所在は文京区小日向4-8-8
  • 昭和501975年7月号(30巻7号:通巻306号)から昭和521977年4月号(32巻4号:通巻327号)まで、一色印刷株式会社の所在は文京区小石川5-34-12

光子がかかわることとなった時期の所在地である小石川五丁目34番地というのは、「五色印刷」の描写通り茗荷谷駅から都道436号線(千川通り)に向かって坂を下ったところに位置し、そのまま千川通りを超えると小石川植物園に行き当たる。また千川通り沿いに少し南下すると小石川四丁目に共同印刷の本社があり、つまり「太陽のない街」と呼ばれたかつての氷川下町・白山御殿町・久竪町・戸崎町エリアであることに気づく。

『文京区史』巻1(東京都文京区、1967)に折り込まれた「東京都文京区住居表示案内図」によると、小日向四丁目8番地(https://dl.ndl.go.jp/pid/3010394/1/295)は旧町名「茗荷谷町」だったエリア(https://dl.ndl.go.jp/pid/3010394/1/298)を半分ほど含むようなので、「文京区茗荷谷16」から「文京区小日向4-8-8」への所在地の変更は、移転したわけではなく住所の表記方法が1966年に変更されたことを反映したのみであるかもしれない。この点は、もう少し細かい地図で確認しておきたいところ。

「草田男曼荼羅」を手に取ったそもそもの発端である「組版屋」という語は、まず最初にこの「五色印刷」の下請けとして40頁に出てくる。

 地図をたよりに十分ほど歩いて訪ねた先は、四畳半ひと間の印刷ブローカーが発注するにふさわしい九尺二間の長屋然としたしもたやで、入口とおぼしきくもり硝子の戸を引くと、活字の棚が背中合わせにびっしりと並ぶ三和土で、体を斜めにして入って行くような狭い場所だった。
 中で何人かの人が活字を拾っていた。

 私はがっかりした。こんな所へ直接持ってきたってどうにもならない。高野が安心して私に来させるのももっともだ。ここは下請のまた下請みたいな零細な組版屋で、印刷は別のところに持っていくのだ。

場所柄、小石川五丁目34番地から「十分ほど歩いて訪ねた先」は共同印刷の企業城下町としての「零細な組版屋」が多数生き残っていた中のひとつであろうと想像される。類的な姿を思い浮かべることは出来ても個別に特定することは難しい。

「横田印刷」こと鎌倉印刷(42-43頁)

 詳しいことは分からないが、次に私が高野の代りに足を運んで校正を受取りに行ったのは、国電田端駅のプラットホームから、袖看板の文字がはっきりと読み取れる横田印刷株式会社であった。
 広い貨物の操車場を下に見て高架線を渡ると、たくさんの自転車が置かれた一郭へ下りる狭い階段があった。そこを通るのが近道で横田印刷は駅から五分とかからなかった。
 戦災にも焼け残ったがっちりした六階建の大きなビルは、灰色のコンクリートむき出しで古めかしく、入ると冷んやりと倉庫みたいな感じで、屏風開きに開いたり閉じたりする古色蒼然の扉のエレベーターが入口近くにあった。そして何よりも、耳慣れた印刷機の稼働音が、一歩足を踏み入れた私に古巣に辿りついたようなうれしさを与えてくれた。

 ここも同族会社らしく、目の鋭いかなり老齢の会長が、杖を突いて気むずかしそうに歩む姿を見かけたが、実際の営業や工務の責任者は、広い部屋の中央にいちだん大きな机を構えて陣取った常務と呼ばれる五十がらみの男らしかった。

  • 昭和521977年5月号(32巻5号:通巻328号)からの『萬緑』印刷所は、「横田印刷」ならぬ鎌倉印刷株式会社(北区東田端1-8-10)
  • 日本歴史学会『日本歴史』の印刷所を見ていくと、鎌倉印刷株式会社(代表者川瀬壬子)について、次のような所在の変遷が辿れる。
    • 昭和301955年5月号(通巻84号)から昭和411966年5月号(通巻216号)まで千代田区神田鎌倉町13
    • 昭和411966年6月号(通巻217号)から昭和421967年9月号(通巻232号)まで千代田区内神田2-4-10
    • 昭和421967年10月号(通巻233号)から昭和441969年6月号(通巻253号)まで北区田端町1098
    • 昭和441969年7月号(通巻254号)から北区東田端1-8-10

東田端一丁目8番地はJR田端駅北口を出て新田端大橋を渡り、坂を下ったところ。

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Googleストリートビューでは、坂下の交差点付近に、整備された駐輪場が見える。

鎌倉印刷の川瀬自身は遅くとも昭和111936年から東京市神田区鎌倉町11-6「川瀬印刷所」川瀬壬子として営業を始めていた模様(富岡定吉『弓ノ教示法ニ就テ』〔東亜高等鉄道学校出版部、1936〕https://dl.ndl.go.jp/pid/1104307/1/37)。昭和18年8月刊の田沢八重子『詩集 桃樹夏枝』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1034086/1/53)や同年12月刊『国史大系 第23巻 新訂増補』(https://dl.ndl.go.jp/pid/3431636/1/276)では同じ所在で「第二川瀬印刷所」川瀬壬子となっており、このあたり、どういう事情があったか定かでない。いま見つかっている戦中最後の印刷物である昭和19年の実方清『日本歌論』も同所「第二川瀬印刷所」川瀬壬子(https://dl.ndl.go.jp/pid/1069618/1/258)。

敗戦後、まずは「川瀬印刷製本所」という屋号で神田鎌倉町13にて活動を再開した模様(広瀬哲士訳編『新生の書』〔新人社、1947〕https://dl.ndl.go.jp/pid/1039162/1/146)。

昭和231948年5月刊『輿論通信 シリーズ第1集』では神田鎌倉町13「川瀬印刷製本所」川瀬壬子だったが(https://dl.ndl.go.jp/pid/2975857/1/41)、同年12月の佐野袈裟美『中國歴史讀本』では神田鎌倉町13「鎌倉印刷株式会社」川瀬壬子になっている(https://dl.ndl.go.jp/pid/8795364/1/207)。昭和23年中に「鎌倉印刷株式会社」を設立したと考えてよいだろう。

この川瀬壬子と同時期に神田鎌倉町で活版印刷に携わっていた川瀬丙午郎という人物がいる。

昭和81933年に神田区鎌倉町20番地の川瀬丙午郎(明治391906年生なのだろう)が篠原豊『隠れたる史実日本裏面史』では「川瀬印刷所」の名を用い(https://dl.ndl.go.jp/pid/1041548/1/491)、同年の志村作太郎『自力更生と日本精神』では「川瀬活版所」名義としている(https://dl.ndl.go.jp/pid/1211474/1/267)。

神田区鎌倉町20番地の川瀬という印刷屋。

角田善苗によって大正131923年に神田区千代田町28番地に設立された合資会社三共舎印刷所(『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2955760/1/6 ――後に神田区松下町12:『東京市工場要覧』https://dl.ndl.go.jp/pid/1142943/1/348)という印刷会社があり、昭和31928年の印刷物(奥泉欽次郎『最新自動車点灯始動点火電気装置講義』https://dl.ndl.go.jp/pid/1224203/1/340)や昭和4年の印刷物(巽清治『新型各種実用自動車詳解』https://dl.ndl.go.jp/pid/1052204/1/186)に「印刷者(神田区鎌倉町20)川瀬松太郎・印刷所(神田区松下町16)三共舎印刷所」という組み合わせが見える。昭和51930年(奥泉欽次郎『新型シボレー自動車図解』https://dl.ndl.go.jp/pid/1036424/1/267)・昭和6年(奥泉欽次郎『最新図解模範自動車教科書』https://dl.ndl.go.jp/pid/1188888/1/326)・昭和7年(小山誠一『自動車故障発見並修理法』https://dl.ndl.go.jp/pid/1121096/1/270)でも「印刷者(神田区鎌倉町20)川瀬丙午郎・印刷所(神田区松下町16)三共舎印刷所」という組み合わせである。

川瀬丙午郎と川瀬壬子は夫婦で補い合う業態を営んでいた可能性はあるのだが(西英作『東京業種別電話番號簿 中央編 増補版』〔日本弘報社、1949〕16頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/8322713/1/18 では、「神田鎌倉7『川瀬活版所』川瀬丙午郎」と「神田鎌倉町11『川瀬活版所事務所・同工場』川瀬生ママ子」)、実際のところは分からない(『東京都千代田区商工名鑑 1951』307頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2459468/1/172 では、「神田鎌倉町7『合資会社協和印刷所』川瀬丙午郎〔印刷〕」と「神田鎌倉町13『鎌倉印刷株式会社』川瀬壬子〔印刷製本〕」)。

ともあれ、そんな横田印刷との取り引きは思わぬ形で終了してしまう(121-126頁)。

 昭和五十三年の年の瀬も押し詰まり、クリスマスも間近いことだから帰りに新宿で買物をしよう、仕事もこれを渡せば一段落だと安心していた。この時私は横田印刷に急変が起きていようとは夢にも思わなかった。

 再校の出る約束の日に、私は横田印刷へ出かけた。やはりシャッターは閉り、赤旗も依然として立っていたが、裏階段を上って営業部の扉を押すといつもの女の子ではなく、年配の恰幅のいい一見重役然とした男が、笑顔で声をかけてくれた。この人は自分も句集を出したくらいの俳人で『野菊』の同人であり、戦時中に中島飛行機か何かの句会に、草田男を講師として招待したという経験もあって、以前から折にふれて話しかけてくる人だった。
「大丈夫ですよ。今引受けている仕事でお得意さんに迷惑は絶対かけません」
 言い切ってくれた時の有難さ、うれしさは未だに消えない。消えないからこそその後の度重なる変遷を通して、現在にまで繋りのある戸山正二である。

先に記した通り日本歴史学会『日本歴史』の印刷も鎌倉印刷が手掛けていたが、同社倒産により印刷所を第一印刷所に切り替えている(1979年2月通巻369号 https://dl.ndl.go.jp/pid/7910425/1/28)。

「三栄堂印刷」こと三松堂印刷(127-129頁)

 争議真っ最中の横田印刷で、戸山から渡された名刺が、次号から『萬緑』の印刷所になるという三栄堂印刷のものであった。

 三栄堂印刷は地下鉄の神保町駅から歩いて五分くらいの、高速道路下の川っ縁に近い、立派なビルだった。

『萬緑』の印刷所に通うのは最初が茗荷谷、次の田端、三番目の神保町とどれも同じくらいの時間がかかったが、会社はだんだんに格が上がっていく感じだった。
 田端の横田印刷のほうが三栄堂より建物は大きいが、鉄筋コンクリート丸出しの暗い感じのビルで、何年も経たないうちに倒産してしまうくらいの会社だから、北野民夫が初めて訪問してくれた折も、応接間の灰皿に煙草の吸殻がそのままで、女の子もいるのに掃除の行届かぬ汚なさが気になったが、三栄堂はまるで違っていた。
 押して入る事務室のガラス戸もピカピカなら出迎える女社員も行儀よく丁寧だった。初めて社長に紹介されるべく通された応接室は、皮張りの黒いソファーが柔らかく、印刷協同組合何某と、名前と判この押された表彰状がずらりと掲げられていた。

 百頁足らず、たった千二百部の同人誌をほんとにここで組んで刷るのだろうか。僅かな時間いただけでも、耳に入ってくる事務所の電話のやりとりはちっぽけな同人誌とはおよそ無縁な、多色刷ポスターの仕様や、大日本印刷とか凸版印刷とか、一流企業の社名や何万枚といった数量である。長年の印刷関係の経験から、『萬緑』は三栄堂が実際には手をつけず、どこか下請に回されるのじゃないか、と私は直感した。

  • 昭和541979年2月号(34巻2号:通巻349号)からの印刷所は、「三栄堂印刷」ならぬ三松堂印刷株式会社(千代田区西神田3-2-2)

西神田三丁目2番地は専修大学神田キャンパスの北側の街区である。首都高速5号池袋線の高架下は水道橋で神田川から分岐し永代橋で隅田川に合流する日本橋川だ。神保町の駅から歩くと日本橋川の「川っ縁」に近づいていく5分ほどの道のり。

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三松堂印刷の略歴は『東京の印刷組合百年史 別冊』(東京都印刷工業組合、1991)にある(96頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13096601/1/83)。百年史巻末に会員名簿があり準会員を含めて2843社の名があるうち、「組合員企業の沿革」で取り上げられているのは172社(おそらく企業規模順で上位企業――共同印刷・大日本印刷・凸版印刷は別格の「関連協賛企業」扱い――)。

三松堂印刷は、ここに1社1頁の枠で略歴が掲載される程度に大規模な印刷会社なのだと諒解される。

「住吉出版印刷」こと住友出版印刷(129-141頁)

 それでも『萬緑』の奥付に三栄堂印刷の名が刷りこまれるようになってから二年三ヵ月の月日が過ぎ、三栄堂の二階の事務所に上ってゆく階段の踊場の突当りにある月刊本見本棚に、毎号『萬緑』が並ぶのを確認して私はなんとなく安心していたけれど、遂に『萬緑』は戸山と一緒に下請の小さな活版印刷に渡されてしまう日が来た。

 それが私、つまり『萬緑』と三栄堂との縁離れであったが、有難いことに指示された場所は三栄堂から歩いて五分と離れていない目と鼻の九段通りで、見上げれば靖国神社の大鳥居がはっきりと目に入る坂下の神保町であった。

 大通りに面して奥行の浅い横長の、そのビルの前を通り越して一つ道を突っ切り、専修大学前の交差点に突き当たる丁度真ん中辺り。
 ――中華料理屋と薬屋の間の道……
 地図を見ながら探していくと、道ならぬ雨傘がつっかえそうな路地の突当りに目指す住吉印刷出版株式会社の看板を見つけた。

 人間一人がやっと通れるくらいの通路をあけて、地面すれすれのコンクリートの床一面に、拝み合せに立てかけられた活字の棚が並んでいる。その仕事場の中で四、五人の職人が左手に葉書大の木製の文選箱と原稿を持って、右手で活字を棚から拾っている、私には長年見馴れた組版現場の光景があった。

やがて現れた社長は、「住吉出版印刷株式会社」と名乗るだけに、小なりといえども一国一城の主の風格で、活版屋の親爺、などと呼ぶのをはばかる若くて品のいい男だった。

 住吉は印刷会社と看板は出していても、印刷機は一台も持っておらず、言うところの組版屋であった。

  • 昭和561981年5月号(36巻5号:通巻376号)からの印刷所は、「住吉印刷」ならぬ住友出版印刷株式会社(千代田区神田神保町3-2)

神田神保町三丁目2番地内を通るL型の路地沿いに住友出版印刷があったということになるのだろう。

この「印刷機は一台も持っておらず、言うところの組版屋であった」という住友出版印刷のみが印刷所として奥付に記されている意味合いが、まだちょっとよく飲み込めない。

例えば1977年に明玄書房が発行した森三十郎『思想と憲法』、藤丸昭・森正史・市原輝士・坂本正夫『四国の祝事』、和田完・馬場雄二『人間 この知恵ある者にして気ままなる者』の3点は「組版:住友出版印刷・印刷:国際印刷」という分業体制が奥付に記載されている。

あるいは朝日出版社から出ている①武内考次訳『意味論序説』(1977)では「製版所:住友出版印刷・印刷所:信毎書籍印刷」、同じく②Donald Keene・藤井章雄編『米英俗語辞典』(1981)では「製版所:住友出版印刷株式会社・印刷所:凸版印刷株式会社」、また③田所信成『ことば学事始め』(1981)では「製版:住友出版印刷・印刷:誠文社・製本:東和製本」、④稲村博『親たちの誤算』(1981)では「本文印刷:住友出版印刷株式会社、表紙・カバー印刷:錦明印刷株式会社」、⑤八束はじめ『迷走するバベル』(1982)では「印刷所:住友出版印刷株式会社+錦明印刷株式会社・製本所:栄久堂」――という具合。①②③は組版屋としてのクレジットということのようだが、④⑤は本文の印刷を手掛けたという意味に読める。

東京都印刷工業組合の『組合員名簿 1983』で、神田神保町3-2の住友出版印刷株式会社は頁物印刷物を手がける活版印刷業者という文類分類になっているが(55頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917481/1/28)、組版専業なのか印刷も直接手掛けているのかは、他の事業者も含めて名簿には全く手がかりが無い。

ともあれ、当該地の再開発によって住友出版印刷の移転問題が発生する。

 住吉印刷が神保町から移転する、というのだ。何でも地主がこの地にビルを建てるとかで住吉を路地の突当りにして入口の両側に建っている中華料理屋と薬局の三軒が取り壊される。勿論居住権があるから新築のビルの中に店を持つことは出来るが、活版屋として生存に関わる活字鋳造の許可が、都心に建つビルでは下りないのだ。勢い立退料を貰って都心から離れる仕儀に立ち至った。

東京都印刷工業組合『組合員名簿 1984』では、所属は千代田支部第3地区のままだが、所在が北区西が丘2-9-13になっている(53頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917474/1/27)。営業品目と業態は頁物印刷物を手がける活版印刷業者のまま。住友出版印刷は、少なくとも『組合員名簿 2000』頃までは西が丘で営業を続けていた模様。

「豊栄印刷」=豊栄印刷(144-148頁)

 住吉印刷を出て二分くらい歩き、神保町の交差点を渡ってから右へ、また交差点を突っ切って学士会館の方へ歩くと、大通りに面して小学館、集英社の大きなビルが右手に見える。その向い側の神田さくら通りの一つ先の道を左に入ると、一つ目の道の右側の角に戸山のいう事務所があった。
 「旧好堂」という、そこは鉛版屋だった。道に面して角っこの二方が、下半分が曇り硝子上半分が素通しのガラス戸で、冬近い播州の寒さから人を守って戸は閉められていたが、中で働く数人の人と鉛版や紙型を作る何台かの機械と積み上げられた活字の箱がガラス戸越しに見えた。

東京都印刷工業組合『組合員名簿 1983』に「東京紙型鉛版工業協同組合組合員名簿」が掲載されていて、神田神保町1-33に「有限会社新好堂鉛版所」の名が見える(287頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917481/1/144)。

神保町の交差点から白山通りを南下し、小学館のビルが右手に見えてきつつ、さくら通りと白山通りの丁字路を過ぎてすぐ左折という位置関係は合致する。新好堂もまた、変名で登場する印刷関係事業所のひとつだったようだ。


 大人の靴を四足置けるかどうかもあやしい狭い土間の入口から、急こう配の油光りする木の梯子段があって二階に続いていた。手摺につかまって滑り落ちないか用心をしながら昇ってゆき、二階を覗くと、見たことのある人なつっこい笑顔の女の人がいた。

 つい先日、住吉印刷の事務所で見かけたその人は、組み上がった『萬緑』の活字の箱を受け取るべく、自分でライトバンを運転して取りにきていた。初対面のその時、私は下阪のため編集後記の念校が出るのを待って事務室にいた。

 その人が何と豊栄印刷の女社長だったのだ。
 旧好堂という鉛版屋はこの人の亭主が社長をしている町工場で、現に神保町のど真中で鉛を溶かす臭いや、鉛版を漬ける薬の入った水が湯になって立ち上る湯気や、独特の空気が狭い仕事場に満ちていた。

  • 昭和581983年11月号(38巻11号:通巻406号)からの印刷所は、豊栄印刷株式会社(江戸川区松江7-32-20)

跡見学園女子大学美学美術史学科『美学・美術史学科報 13』の奥付には、神田神保町1-33「有限会社豊栄印刷所」の名が見える(https://dl.ndl.go.jp/pid/4421913/1/38)。「新好堂」が豊栄印刷の事務所も兼ねていたという裏付けになるだろう。

東京都印刷工業組合『組合員名簿』1983-1984等に、江戸川区松江あるいは神田神保町の豊栄印刷に該当する名は見えない。NDL全文検索でも、江戸川区の豊栄印刷株式会社は、そもそも『萬緑』奥付のものしかヒットしない。Yahoo地図によると、当該地には現在も「有限会社豊栄印刷所」が存在するようだ。奥付に記載された「豊栄印刷株式会社」という名称が実は美称だったということになるのだろうか。


「国文堂」:未詳(148-150頁)

 それから数日後、割付の終った原稿を携えて、戸山に連れて行かれたのは何とまた、田端であった。

 いくつか目印を教えられてついて行くと、街中には珍しい緑の繁った小さな公園があった。その公園の入口と道一つ隔てて国文堂とガラス戸に書かれてその組版屋があった。これも全く組版だけの小さな下請けだ。

 床が板張りなのがちょっと違うが、いずこも同じ組版屋の現場で、活字の棚が背中合せにずらりと並び、幾通りかの細い通路に立って文選箱と原稿を手に職人が仕事をしていた。職人の数は見たところ主あるじを入れて三人しかいない。奥まった所で壁を背に据えられた機械に向かって、奥さんらしい人がタイプ印刷のキーをカチャカチャと打っていた。
 仕事場の真ん中へんに、二階に通じる階段があり、その辺が活字棚の切れ目の狭い空間で階段下に机が一つ置かれて、帳簿類の本立てや電話がその上に載っていて、どうやら其処が事務所の代りらしい。零細企業の見本のような組版屋だ。

 国電の田端駅から来るよりも或いは近いかもしれないから、と言って戸山が帰路に案内した道は、地下鉄の西日暮里駅へ出るはじめて通る道だった。

書きぶりからすると「国文堂」の所在地は、田端駅と西日暮里駅に挟まれる、田端一丁目か西日暮里四丁目と思われるのだが、『組合員名簿 1983』にそれらしい名は見えない。組合員では無かった可能性がある、ということなのだろう。

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「曼珠社」こと真珠社(157頁)

ほどなく、様々な不便を感じる「国文堂」から、組版の請負先が変えられることになった。

 曼珠社という名のその会社は、豊栄から歩いて二分とかからぬ同じ神保町の一丁目で、学士会館の建物の側面が道路一つ隔てて臨める位置にあった。灰白色の三階建のきれいなビルで、しっかりした中規模の印刷会社だった。ここはオーナーである会長が総括しているが、同じ程度の規模の会社が傘下に三つあって、それぞれに熟練の雇われ社長が配置されていて、その一人が豊栄の小母ちゃん社長の縁戚であったわけである。

  • 平成元1989年4月号(4巻4号:通巻471号)からは、印刷所:豊栄印刷株式会社(江戸川区松江7-32-20)・組版:真珠社という表記

東京都印刷工業組合『組合員名簿 1983』に神田神保町1-67「真珠社」という頁物活版印刷業者が掲載されていて(57頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917481/1/29)、「曼珠社」はこの変名ということのようだ。

真珠社単体で多くの書籍奥付に印刷者としての名が出ているが、平井雷太『子育て中止宣言』(本阿弥書店、1984)では「製版:真珠社・印刷:豊栄印刷」となっている(https://dl.ndl.go.jp/pid/12107859/1/86)。

真珠社は、神保町一丁目交差点付近にあったということになるのだろう。


「スマイル企画」「平河工業」(奥付)

中村光子『緑なす大樹の蔭に 草田男曼荼羅』(ぺりかん社、1995)の奥付には「印刷――スマイル企画・平河工業」とある。

1993年から96年に発行された書籍を眺めていると、明石書店の場合は「組版:スマイル企画・印刷:平河工業社」と記載しているのに対して、ぺりかん社の場合多くは一緒くたに両者が印刷担当として掲載され、「なるには」シリーズのみ「組版:スマイル企画・印刷:(例えば)図書印刷」と担当範囲を分けて記してある。

草田男曼荼羅の仕事も、組版と印刷で仕事内容が各社分業になっていたのだとしたなら、奥付も分業状況を反映させておいて欲しかったところだ。

大正9年頃の時事新報と大阪毎日新聞に見える築地15ポ半活字の平仮名が大正11年『百人一首講義』第丗二版に見える例の《築地三号細仮名*変奏版*》の姿をしている件

築地15ポ半活字の平仮名が大正11年『百人一首講義』第丗二版に見える例の《築地三号細仮名変奏版ヴァリエイション》の姿をしている――ということが8年経過してようやく判ってきました。



2018年6月から7月にかけてのことでした。

東京の文字塾第六期で築地三号細仮名*1に依拠した書体づくりに挑戦されていた上杉望さんに、実用例のイチオシ参考資料として佐佐木信綱『百人一首講義』(明治27年、博文館 https://dl.ndl.go.jp/pid/874036/1/13)を挙げていたところ、神田区錦町の秀好堂印刷所が印刷した「第32版」(大正11年1月、博文館)で使われている三号仮名が不思議な書体だったとお教えいただきました。

2018年7月の時点では《こうした「こ」「ぬ」「ま」は、例えば築地活文舎のような、〈似てるけどちょっと違う書体〉を手がけたところのものかもしれません。》と考えつつも先日まで何の手がかりも無い状態だったわけですが(https://x.com/uakira2/status/1022833032598712322)。

2026年5月に至って大正11年の森川龍文堂『活字一班』(印刷図書館蔵、)に本件三号仮名が掲載されていることに気づき、改めて色々と見直していったところ…………


大正9年から10年頃の時事新報と大阪毎日新聞に見える築地15ポ半活字

先日、大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字を手元の新聞原紙で再確認していた際に、変奏版ヴァリエイションの特徴である、元の三号細仮名とは異なる「て」「ぬ」「も」「を」が、7ポ75本文活字の2倍活字である15ポ半活字として紙面に使われていることに気がつきました。

大正9年11月の『時事新報』原紙に見えていた15.5ポイント活字

築地三号細仮名の実用開始時期と現在知られている活字見本

実用開始時期

明治19年の『新調三號和文假名文字體鑑』で活字見本デビューを果たした「築地三号細仮名」ですが、明治21年10月に発行された佐藤洋治『産前産後』序文(https://dl.ndl.go.jp/pid/849301/1/1)では「和様三号」と「三号細仮名」が混用され、現場レベルではまだ移行期間中だったことが伺えます(印刷所:築地活版製造所 https://dl.ndl.go.jp/pid/849301/1/63)。

明治27年『改正三号明朝風活字総数見本』
  • 大阪活版製造所、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵
明治36年『活版見本』三号片平仮名書体見本
明治39年『改正三号明朝活字書体見本 全』
明治45年『改正三号明朝活字書体見本 全』
大正8年『改正三号明朝活字書体見本 全』
  • 東京築地活版製造所、印刷図書館蔵
大正8年『十六ポイント書体見本 全』
昭和3年『三号明朝活字総数見本 全』
  • 東京築地活版製造所、桑山書体デザイン室KD文庫蔵

総合見本帖である明治36年『活版見本』を除く他の総数見本帖では「か」「し」「ひ」「ゐ」に2字形が掲げられているのですが*2、明治27年見本帖から昭和3年見本帖に至るまで、今回問題としている変奏版ヴァリエイションのような、大きな変化は見られません。

そのため、本件変奏版ヴァリエイションは築地オリジナルではないものと考えていたわけなのですが。

大正9年6月21日付で本文活字を秀英電胎8ポイント活字から築地7ポ75活字へと切り替えた『時事新報』や、同時期に築地7ポ75活字を本文活字としていた『大阪毎日新聞』に見られる2倍活字が本件変奏版ヴァリエイションの姿をしているということは、これは築地活版の「三号明朝活字/16ポイント明朝活字」ではなく、「15.5ポイント明朝活字」だった可能性が高いのではないか。

手元の原紙に見えない仮名を集字

神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫経由

まず、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫で、本文が7ポ75だった時期の『大阪毎日新聞』をひたすら眺め、2倍活字に不足平仮名が出現するのを拾い出していきます。

国会図書館のレファレンスに、これこれの見出しに該当する記事がないか、あるなら何面かを尋ねます。レファレンス回答を元に、マイクロフィルムからの紙焼き複写を依頼します。『時事新報』も同様。

時事新報復刻版(大正期)経由

柏書房から発行継続中の『時事新報 復刻版 大正期』で、本文が7ポ75だった時期の『時事新報』をひたすら眺め、2倍活字に不足平仮名が出現するのを拾い出していきます。2026年6月現在、まだ大正10年下半期を扱う第19回配本が実施されたばかりなので(https://www.kashiwashobo.co.jp/book/9784760156672)、7ポ75期の全容を見通すことはできません。

復刻版で見つけていた大正9年7月7日の夕刊冒頭面(表題下の日付は7月6日、柱の日付は7月7日)の記事「予算委員総会 陸相顔色を変ゆ」のマイクロ紙焼き複写を国会図書館に依頼したところ、朝刊の終わりである「4面」と、夕刊の2面め3面めである「6面」「7面」のコマは収録されているが、ちょうど夕刊冒頭面である「5面」が欠落しているとのこと。このような事例については、慶応義塾大学三田メディアセンターにて原紙の閲覧を依頼したいところです。

もちろん、復刻版で見つけた不足仮名が国会図書館蔵マイクロフィルムの紙焼きで複写できたものもありました。

私製した築地15ポ半明朝活字の平仮名見本

というわけで、2026年6月末の段階で集字し私製した築地15ポ半明朝活字の平仮名見本です。

私製した築地15ポ半明朝活字の平仮名見本(カラー図は手元の新聞原紙由来、白黒図はNDLマイクロ紙焼き由来)

なお、「し」は『時事新報』が使っている方の字形を掲げましたが、『大阪毎日新聞』は《点付きの「し」》の方を標準字形としているなど、現時点の私製見本に反映していない内容もあります。

以上取り急ぎご報告。

15ポイント(7ポ半の2倍活字)なんかも、この変奏版ヴァリエイションスタイルだった可能性があるんじゃないかといった新しい問題も当然出てくるわけですが、現時点ではまだ調べ始めるに至っていません。



以下2026年7月5日追記:
築地活版が大正から昭和にかけて時折発行していた『活字と機械』をよくよく見ると、15ポイント半と15ポイントが共に本件変奏版ヴァリエイションっぽいことに気づくことが出来ていた……かも……しれない。――と思わないでもないんですが、いや、15ポ半の「も」が三号細仮名の形で載ってたりするので、「よ」の字だけで変奏版ヴァリエイションと判断するのはやっぱり難しいでしょ、という気持ち。

印刷図書館蔵『活字と機械』ポイント活字見本(昭和6年版、Za353)

*1:築地三号細仮名の、デビュー当時の呼び名は「新調三号和文仮名」でした。参考:「築地活版『新調三號和文假名文字體鑑』の変体仮名を読んでみる」https://uakira.hateblo.jp/entries/2010/11/27

*2:残念ながら「小宮山博史文庫仮名字形一覧」はシステム構築時の都合により代表字形以外を切り捨てているので、別字形を確認したい場合は原本に当たる必要があります。

艦艇名標や「アンチック活字」の元になった明治20年代の太字の書家について知りたい(2017年1月作成の故twitterモーメント)

旧twitterがXになり、「モーメント(Moments)」機能でまとめたメモの閲覧もできなくなってしまったのが自分にとって想像以上に不便である――twilogのキーワード検索では「流れ」や「塊」がうまく拾い出せなかったりする――ので、標記モーメント(https://x.com/i/events/818094082920546306)を2017年1月の吹囀履歴から再構成してみました:




第六管区海上保安本部が〈船名番号等表示要領〉に「大正、昭和時代に宮内庁で侍従を務められた広幡氏」http://kaiho.mlit.go.jp/06kanku/news/press/press.pdf/24-12-04.pdf
と書いてる人物、広幡忠隆 https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89
とは異なる平行世界の広幡氏?(或は宮内庁侍従で別の広幡氏が?)
https://x.com/uakira2/status/818009751481122816


『海軍制度沿革』中「艦艇名文字書体に関する件」に触れられているのは巻8の僅かな箇所(第三第七節の一部)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/192 のみである模様。例の仮名書体の原図は無い。「艦船造修試験検査規則第60条」を探さねば。

「艦艇名文字書体に関する件」

https://x.com/uakira2/status/818038767646687232


問題の「艦船造修試験検査規則第60条」は、同じ『海軍制度沿革』巻8の第三章第一節に収録されている明治37年7月2日付のもの(達106)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/98 が初出だった。掲示場所と文字色に関する規定はあるけれど、書体の見本は無い。

「艦船造修試験検査規則第60条」

https://x.com/uakira2/status/818047736654114816



艦船名を掲示する場所と色に関しては、明治31年「艦船造修試験検査規則」第53条で既に規定されているようだ。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/90
https://x.com/uakira2/status/818065329293172736


更に遡って、明治27年「艦船造修試験検査規則」第54条にも艦船名に関して「軍艦名は平仮名水雷艇及船名は漢字を以て艦船尾に附著すべし其書体及寸法は鎮守府司令長官之を定め海軍大臣の認可を受くべし」との規定がある。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/84
https://x.com/uakira2/status/818066605615652864


明治31年の規則53条「軍艦名及水雷艇名は平仮名船名は漢字」「軍艦名の文字は金色」に合致するから、横須賀に係留されている「みかさ」http://judas.air-nifty.com/ikusabune/2005/08/post_0a7b.html は、やはり《ほぼ日本海海戦時(明治38年 1905)のまま》ということだろうか。
https://x.com/uakira2/status/818067742548893697


ともあれ、明治27年の「艦船造修試験検査規則」第54条によって艦船尾記載の名称表示に使う文字の「ひながた」整備が必要になったのだとすると、「原字を伊藤中将が揮毫した」https://x.com/fuyuzuki601/status/816965712883236864 というのは時期的に(「宮内庁侍従の広幡氏」よりも)信憑性が高い。
https://x.com/uakira2/status/818087844820357121


明治20年代に作られた(書かれた)「四角い枠に収まるような整った極太の平仮名(の雛型)」の一つに、明治21年刊『新撰讃美歌』に使われた日本で最初の「和文アンチック形」活字 http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=3218 があり、これが「艦船名の仮名」と同系統の書風。

明治21年刊『新撰讃美歌』

https://x.com/uakira2/status/818089282241892353


そして推定明治29年発行の秀英舎製文堂『活版見本帖 未完』の「太字仮名」(『秀英体研究』235頁掲載)もまた、この築地活版による最初期和文アンチック活字や、先ほどの「船名書体」と同系統の書風。

秀英舎製文堂『活版見本帖 未完』の「太字仮名」(『秀英体研究』235頁掲載)

https://x.com/uakira2/status/818093136341676032


「菱湖風」が当時の「いろは仮名」手本の主流であったように、《その流儀で普通に書くとこの「太仮名」になる》というような書家があったのだろうか。アンチゴチに関係することなら何でも知りたい自分、とても知りたい。
https://x.com/uakira2/status/818093924161982467


以上、2017年1月作成の故twitterモーメント《艦艇名標や「アンチック活字」の元になった明治20年代の太字の書家について知りたい》でした。

以下2025年5月の短信:




以下、今回の故twitterモーメント再構築にあたり追記:
「近デジ」ローラー作戦を継続していた2005年の暮れに明治21年版『新撰讃美歌』に出会い、その重要性を伝えるべく「聖アンチック体」という記事(https://uakira.hateblo.jp/entry/20060217)でお知らせして以降、考えてみれば私製「仮名見本」の姿を提示していなかったと気がつきました。

2005-2006年当時はウェブ資源化されておらず、2011年になって高画質でデジタル化された国会図書館蔵『新撰讃美歌』(明治21年版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1919179)に基づく、築地活版が手掛けた最初期和文アンチックひらがな活字の私製見本を掲げておきます。

国会図書館蔵『新撰讃美歌』(明治21年版)に見える「最初期和文アンチック活字」の平仮名

大正14年10月16日付『秋田魁新報』夕刊の本文に使われている「築地活版製造所が震災後に新鋳せる」7.5ポイント活字が秀英電胎8ポイント書風である件

「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」(2017-05-20)の予備作業中、国内各地の新聞社史を眺めている中で、『秋田魁新報百二十年史』(1995)101頁に大正14年9月の出来事として書かれている、気になる記述を見つけていました。

築地活版製造所が震災後に新鋳した7ポ半の活字に切り替える。

『秋田魁新報八十年の歩み』(1954)では「築地活版製造所」云々の情報は無く、大正14年の出来事は次のように書かれています(21頁:NDLデジコレ:https://dl.ndl.go.jp/pid/2932601/1/20)。

十四年九月一日からは地方部を新設、土崎、本荘、大曲、大館、横手、湯沢、小坂の県内八か所に通信部を設けて、通信網の充実を期した。また東京にも特置出張員を置いて中央との連絡に当たらせることになつた。いまの東京支社の前身である。
その二五日からは紙面に七ポイント半の新活字を使い、八頁に増して夕刊を発行した。

「80年の歩み」にも「120年史」にも、大正8年3月からの事として「ふりがな付8ポイント半活字を使用」「10段組」、「同年8月からは11段組」とあり、また「120年史」には大正9年11月から新活字使用とあります。国会図書館から取り寄せたマイクロフィルムの紙焼き遠隔複写で紙面を眺めた限り、確かに大正8年3月から築地系8ポイント半と見える活字で16字詰め10段組み、更に8月からは同じ活字で15字詰め11段組みになっています。また大正9年11月以降の活字は築地系の8ポイントまたは7.75ポイントのようです(15字詰め12段組み)。

続けて取り寄せたマイクロフィルム紙焼きによると、大正14年8月1日付一面と9月1日付一面に紙面刷新を告げる「本紙の大拡張」社告が掲げられていて、そこに「築地活版製造所が震災後に新鋳せる七ポイント半の新活字を以て全部を一新」と記されているのでした。

大正14年8月1日付『秋田魁新報』1面(部分、国会図書館蔵マイクロフィルム紙焼きより)

先般、「築地活版製造所が震災後に新鋳せる七ポイント半の新活字」の使用開始から間もない大正14年10月16日付『秋田魁新報』夕刊(10月17日発行)を入手したので、一部を掲げておきます。

大正14年10月16日付『秋田魁新報』夕刊(10月17日発行)1面(部分)

「秀英電胎8ポイント書風」の活字であることが見て取れ、また「築地活版製造所が震災後に新鋳」した7ポ半活字であると同時代史料にて示されている、重要な「築地7.5ポイント活字」の資料。

古い新聞の探し方がもっと巧ければ、ずっと早く探し出すことが出来ていたかもしれないのですが、結局10年かかってしまいました。ここ10年ほどの自分の活動を振り返ると、『秋田魁新報百二十年史』の記述が無ければ原紙を探そうとしなかったし、当然出会うこともなかったであろうことが容易に思い浮かびます。改めて、「120年史」編纂に携わった方々が「80年の歩み」の記述に一言付け加えてくださったことに対して、深く感謝を捧げたいと思います。



以上は当然、「大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」(2026-05-31)と「大正9年7月11日付『岩手日報』に見える秀英電胎8ポイント書風の7ポ75仮名付活字」(2026-06-01)を踏まえての話題でした。

大正9年7月11日付『岩手日報』に見える秀英電胎8ポイント書風の7ポ75仮名付活字

秀英電胎8ポイント書風の登場と7ポ75活字への展開

2022年12月の「六号雑記(『書物学』第21巻「活字」に書かせていただいた〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉という記事の後書)」では、初出に関する答えは『書物学』第21巻「活字」をお読みいただきたいという意図から、ブログ記事中には❝仄めかし❞しか記していませんでした。

実用上の初出は大正7年のある大手紙(東京の十大紙に数えられる中の一つ)になります――『書物学』第21巻では具体的な紙名も記しています――。

秀英舎では8ポイント活字と7ポ75活字を(ほぼ)同時に並行して開発していたようで、秀英舎活版製造所による「再び新聞活字の御披露 東京秀英舎の七、七五ポイント式十二段新聞用」広告が『印刷雑誌』大正8年5月号に掲載されています(この広告は『書物学』第21巻ほかで披露しておらず、初めて目にする方も多いのではないかと思います)。

印刷図書館蔵『印刷雑誌』大正8年5月号掲載の秀英舎7ポ75活字広告

残念ながら「あ」の字は広告に含まれていませんが、「秀英電胎8ポイント書風」であることは十分に伝わる内容となっています。

岩手日報による秀英電胎7ポ75活字(ルビ付活字)の採用

この広告が掲載された大正8年5月、『岩手日報』が秀英舎の「七ポ七五仮名付活字」を採用しています。『岩手日報百十年史』(岩手日報社、昭和63年)や『岩手日報百二十年表』(岩手日報社、平成8年)に記されている通り、大正8年5月17日付の社告に「最新式七ポ七五仮名付活字採用」「東京の秀英舎に命じ、巨額の資本を投じて新活字の鋳造に着手せしめたり」と記されていて、同年5月20日付で秀英電胎7ポ75活字(ルビ付活字)が採用されています*1。

というわけで原紙が入手できた翌9年7月11日付の紙面を掲げておきましょう。

大正9年7月11日付『岩手日報』1面(部分)

だいぶ文字面の摩滅や欠損が進んでいるようなのですが、全体的に見て、本文の7ポ75(仮名付)活字が秀英電胎8ポイント書風であること、また8ポイント活字よりも「あ」の字が左に傾いていることなどを確認するには十分でしょう。

大正9年の「岩手日報」に見える秀英電胎8ポイント書風7ポ75活字のひらがなとカタカナ

秀英電胎8ポイント書風7ポ75活字のひらがな
秀英電胎8ポイント書風7ポ75活字のカタカナ

「大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」と比べていただくと、関東大震災以前の段階で、ほぼ同時期に、築地書風8ポ・7ポ75活字と秀英書風8ポ・7ポ75活字が明確に異なる書体としてデビューしていたことが一目瞭然かと思います。

また、大正3年に発行された秀英舎『活版見本帖』に掲載されている六号明朝(「秀英後期六号」:「秀英舎製文堂の六号仮名の変遷」)とも違った書体であるということもまた、一目瞭然かと思います。

*1:実際には、『岩手日報百二十年表』では大正8年5月20日の出来事として「7ポイント75のルビ付新活字を採用、同時に12段制とす。」とだけ記されていて(20頁)、また『岩手日報百十年史』196-197頁に引用されている「新活字導入社告」には掲載日付が示されていないほか「秀英社しゅうえいしゃに命じ」と記載されていました(強調引用者)。『岩手日報』マイクロフィルムを確認したことにより、社告が5月17日付2面に掲載されていたことと、実際の社告では「秀英舎しうえいしゃに命じ」と正しい漢字を用いて旧かな遣いによるフリガナが振られていると判りました。

大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字

「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」と「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する、築地活版の本文系初期ポイント活字の話を、3つほど書き継いできました。

今回は、2019年2月の時点では「昭和新刻7ポ75」と考えていて(「東京築地活版製造所「昭和新刻7ポ75」(仮称)のこと」)、2022年に大正8年初出と判明した(「六号雑記(『書物学』第21巻「活字」に書かせていただいた〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉という記事の後書)」)、「築地新刻8ポ」書風であるところの7ポ75活字について。

大阪毎日新聞における「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」の使用時期

『毎日新聞七十年』によると、大阪毎日新聞では大正8年1月1日付の大阪毎日新聞から大正11年4月3日まで、本文活字として7ポ75活字が使われていたようです(614-615頁「建ページ・活字・定価変遷表」https://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/329)。

神戸大学新聞記事文庫のスクラップ記事画像をピックアップした観察によると、大正8年、9年を通して「築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」が本文に使われているものと見えました(「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」)。大正10年も同様です。

『毎日新聞百年史』技術編「5 モノタイプと活版の改革」の「邦文モノタイプの導入」の項(486-487頁)に、大阪毎日新聞では大正9年秋から邦文モノタイプの導入を始め試験的には好成績を上げたが新聞用としてはあまり使われなかったとあり、また「最新式のトムソン活字鋳造機を採用」の項(487-489頁)には、「大阪はもっぱら築地活版から買っており自家鋳造の経験がなかった」と書かれています(488頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277848/1/512)。

邦文モノタイプ導入以前に採用された最後の本文活字がこの7ポ75活字ということになり、大正8年1月から11年3月の大阪毎日新聞原紙が「築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」の見本代わりに使える資料になると考えて良さそうです。

というわけで原紙を入手できたのが、大正9年2月20日付『大阪毎日新聞』(1・2面と15・16面)になります。

大正9年2月20日付『大阪毎日新聞』1面(部分)

時事新報における「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」の使用時期

神戸大学新聞記事文庫のスクラップ記事画像をピックアップした観察によると、大正7年12月までは築地9ポ、8年3月から9年3月までは秀英電胎8ポ書風の本文活字になっているようでした(「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」)。大正9年下半期以降は築地新刻8ポイント書風のように見えました。

『新聞総覧』大正8年版によると『時事新報』では大正8年2月に8ポイント活字の使用を開始(https://dl.ndl.go.jp/pid/949178/1/116)、『新聞総覧』10年版では大正9年7月から7ポイント75活字を使用とありますが(https://dl.ndl.go.jp/pid/11619538/1/129)、実際のところはどうだったでしょうか。

柏書房で継続刊行されている、大正期の時事新報復刻版ですが、2026年3月期に大正10年末分に至っています(第19回配本 https://www.kashiwashobo.co.jp/book/9784760156672)。国会図書館では概ね1年前に刊行された分まで参照できるようですから(https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I023550255)、大正7年初から9年末までの復刻版で、本文活字と段制の変遷を細かく追ってみました。

まず、大正7年6月29日付『時事新報』2面の社告にて「7月10日から1行15字詰め10段組に変更する」旨が示されています。その時点では1行16字詰め10段組(本文築地9ポまたは8ポ半)でした。この社告は以降「6月29日付」のまま連日掲載されています。そして予告通り大正7年7月10日付の紙面から1行15字詰め10段組となり、また従来は天マージンにあった日付等を示す「柱」(横組)が、小口マージンに移され縦組になっています。本文活字の大きさには変更が無いようです。

次に、大正8年2月7日付『時事新報』朝刊2面に「活字改正」社告があり、「2月11日付夕刊から本文を8ポイント活字にする」旨が示されます。この頃の「朝刊」「夕刊」の日付や発行順は少しややこしく、2月12日付朝刊までは本文築地で1行15字詰め11段組、2月11日付夕刊から本文秀英電胎8ポイント活字で1行16字詰め11段組となっています。本文は秀英舎になりますが、2倍見出しは築地(旧三号)のままであるなど、少し変わった体裁の紙面です。

そして大正9年6月16日付『時事新報』朝刊2面の社告で、6月21日から本文を7ポ75活字として1行15字詰め12段組とすると告げられました。予告の通り、同日発行された6月21日付朝刊および6月20日付夕刊から、本文に「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」が使われるようになっていました。

大正11年1月以降の状況をマイクロフィルムで追ったところ、大正12年9月1日付までは特に変化がなく、関東大震災に罹災したことで9月2日から9月11日付まで欠号、12日付から特殊な形態での発行となっていきます。東京築地活版製造所も壊滅的な被害を受けていたことから、秀英舎の活字が混用される形で9月24日から1行15字詰め12段組の体裁に戻っての再スタートが切られていました。

時事新報における「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」の使用時期は、大正9年6月21日から同12年9月1日付までということになるようです。

というわけで原紙を入手できたのが、大正9年12月11日付『時事新報』(1・2面と11・12面)になります。1面は題字のほかが全て広告となっていますから、通常の「1面」に相当する記事が掲載される2面を掲げておきましょう。

大正9年12月11日付『時事新報』2面(部分)

大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のひらがなとカタカナ

残念ながら全ての字種を拾い出すことは出来ていませんが、大正9年2月20日付『大阪毎日新聞』(1・2面と15・16面)と大正9年12月11日付『時事新報』(1・2面と11・12面)から、築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のひらがなとカタカナを集字してみました。

築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のひらがな
築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のカタカナ

松本文字塾一期生の石原環さんが「築地新刻8ポイント」をモチーフにして「えのころ」という仮名書体を製作されましたが、特に平仮名の方は築地9ポイント系統の「末っ子」らしさを感じる書体、ですね。

#NDL全文検索 で作字・造字・装字などを辿り国語辞典編纂者の視点の偏りを思う

2026年4月16日、「作字」という言葉を巡って次のような吹囀ツイートを流しました。

手元にある『精選版 日本国語大辞典』は物書堂が毎年春に実施してる「新学期・新生活応援セール」(https://www.monokakido.jp/ja/news_release/2026/sale2026.html)で入手したもので、紙本とは違って後方一致検索が効く。

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

「精選版」だからなのだろうけれど、後方一致検索をやってみたら「造字」が収録されていないことが判って2度びっくり! pic.twitter.com/T8RpQhpUTt

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

そして「精選版 日国」で「作字」の2番目の語義である「文字の書き方」という用法は不勉強のためまったく知らなかったので吃驚!(調べてみると確かに菱湖流の書家内田不賢が版下を手がけた書の手本でタイトルが『作字必須』というものが明治6年に出版されている:https://dl.ndl.go.jp/pid/852353)

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

ワープロ専用機を使ったことがあるような中高年が最初に思い浮かべるであろう語義(「印刷で、ふだん用意のない活字を新たに作ること」)は、「精選版 日国」では3番目に掲載されるものなのでした。 pic.twitter.com/q6m1ftDQP9

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

この「作字」の3番目の語義も、元々は、書家が古筆などから集字して手本とし新しいフレーズを書く際に、あてはまる文字が拾えなかった場合に「扁旁を合せて作字」する(新修書道講義録 https://dl.ndl.go.jp/pid/1150373/1/)用法が先行していると思いますが、「精選版」には採られていませんね。

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

AJ1-6に対応している電子活字が普及して以降という言い方でいいのか、2010年代から(?)語義3の存在感が消えて「図案文字を生成する」意味が一般化している(①https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&display=panel&from=0&size=20&sort=published:desc&q-title=%E4%BD%9C%E5%AD%97&f-ht=ndl②https://jssd.jp/8595)ところが味わい深いですね。

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

以下、この続きです。


「造字」という語彙について

多くの国語辞典に「造字ぞうじ」が載っていなかったことに吃驚

手元のアプリ『精選版 日本国語大辞典』(辞書 by 物書堂 https://www.monokakido.jp/ja/old_product/japanese/nds/)だけでなく、図書館で引いてみた『日本国語大辞典』第2版(小学館、2001年、第8巻256-257頁)、『広辞苑』第7版(岩波書店、2018年、1689頁)、『大辞林』第4版(三省堂、2019年、1571頁)、『大辞泉』第2版(小学館、2012年、下巻2109頁)、『言泉』(小学館、1989年、1349頁)にも「造字ぞうじは掲載されていませんでした。

「造字」という語彙については、「漢字の造字法たる六書といふのは左の如し」(渋川玄耳『文字・書道』〔玄耳叢書刊行会、大正14〕28頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/982127/1/24)というような具合に、漢字学習の文脈で出会う言葉であり、かつ漢字学習の文脈でしか出会わない漢語であって国語辞典の対象ではない――という判断があったのでしょうか。

ちょっと不審に思われたので、NDL Ngram Viewerで「造字」と「造字法」の2ワードについて眺めてみました。

NDL Ngram Viewerで1860年から2022年に刊行された図書・雑誌から「造字/造字法」を検索

「造字」での検索結果には、現時点のOCR性能と検索の癖によって、川島梅坪他編『訂正古今紀要 巻3』(埼玉県、明治181885)の「長崎ノ人元木昌造ヲ獲テ。活版社ヲ創建ス。昌造字母ヲ製スルノ術を得テ。」(49丁裏、強調引用者 https://dl.ndl.go.jp/pid/11581947/1/51)や石川鴻斎『文章軌範諺解 正1』(山中市兵衛、明治121879)の「温處士名ハ造、字ハ簡」(17丁表、強調引用者 https://dl.ndl.go.jp/pid/896228/1/29)のようにOCRがよく読めているけれども求める語彙ではないものが拾われているケースの他に、宇喜多小十郎 著・川瀬益 書『往復日用文』(文明書楼、明治111878)のOCRテキスト「ヘリケライ奴隷喜鐵製造字ゑセヤ約定盟約ヤク体つ」(13丁表 https://dl.ndl.go.jp/pid/865728/1/14?keyword=%22%E9%80%A0%E5%AD%97%22)のように明らかに「(仮称)図デコファントム」を拾っているものなど、想像以上に多数のノイズが紛れ込んでいます。

そうしたノイズや明かな漢文、漢字字書の類を除いて用例を探していくと、やはり漢字学習・研究に関係する事例になっていきます。

今泉定介・畠山健編『百家説林』(吉川半七、明治24)9頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/993399/1/194
指事。象形。形聲。會意の四つは。造字の本轉注假借の二つは。使用の法なれば。一をも闕くべからざれば。六書と定めしなり。
後藤朝太郎『文字の研究』(成美堂、明治43)178頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/902854/1/117
大凡そ文字の出來る其の出來かたには色々方法があるものであつて、古來六つの方法から造字されるものであると云ふやうに云はれて居りまするが

冒頭の吹囀ツイートに対してx.com旧ツイッターでMeme-Memeさんにお教えいただいたところによると、①ジャパンナレッジでヒットするのは『新選漢和辞典』のみ、②《辞書 by 物書堂》収録の中小型国語辞書と広辞苑では『三省堂国語辞典』以外の立項が確認できない、とのことでした(https://x.com/Meme_Meme_/status/2044984406935548067)。

宮城県図書館が所蔵している『三省堂国語辞典』の各版を確認してみたところ、「新装版(昭和43年第6刷)」・「第4版(1995年第14刷)」・「第5版(2001年第1刷)には「作字さくじ」も「造字ぞうじ」も立項されておらず、「第7版(2015年第2刷)」と「第8版(2022年第1刷)」で「作字さくじ」が無く「造字ぞうじ」がある、という状況でした。各々の語釈を掲げておきます。

第7版837頁:
ぞう じ【造字】(名・他サ)〔文〕新しい字を作ること。「―の方法」
第8版837頁:
ぞう じ【造字】(名・他サ)〔文〕新しい字を作ること。また、その字。「―の方法」

そんなわけで気を取り直して国会図書館デジタルコレクションを鍵語キーワード「造字」で全文検索すると、「新しく作り出された漢字」という意味合いの言葉として「『海上花列伝』の作者による造字」(『魯迅全集』11巻〔学習研究社、1986〕507頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12574640/1/260)、「新島による造字は通行の文字に改めたが、当て字は原文のままにした」(『新島襄全集 4』〔同朋舎出版、1989〕凡例iii https://dl.ndl.go.jp/pid/12408379/1/7)といった例が見られ、『三省堂国語辞典』第8版で追加された語釈の的確であることが頷けます。

この3例にはルビが振られていませんが、NDL全文検索の結果には、単に新しく作り出された漢字というだけでなく「新しく作り出された私的な漢字」というニュアンスが読み取れる「造字」の用例に「つくりじ」というルビが振られているものがありました。

奥村柾兮『法螺物語』(駸々堂、明治21)13頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/882709/1/8
古事記こじきには女篇をんなへんに夫ふの字じを書かいてあるが造字つくりじで
『戦友』228号(軍人会館出版部、1929)46頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1844556/1/28
則天武后そくてんぶこうと云いふ賢明けんめいな太宗たいそうの后こうが自分じぶんで十數字すうじを新あらたに作つくつて用もちひさせたがそれ等らの造字つくりじは間まもなく亡ほろびて了しまつてゐる

更にまた今回のNDL全文検索のおかげで、クリエイトされる対象は漢字とは限らず「楔形文字独自の造字法も考案されている」(吉川守・NHK取材班『NHK大英博物館 1 (メソポタミア・文明の誕生)』〔日本放送出版協会、1990〕34頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13231842/1/20)のだということを知りました。「新しい漢字を作ること」ではなく「新しい字を作ること」とした『三省堂国語辞典』の語釈の適切さが改めて解ります。

「つくりじ」という語彙とその漢字表記

落合直文『日本大辞典 ことばの泉』(大倉書店、明治37年第21版)に「つくりジ」という言葉が立項されています(921頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/862876/1/503)。語釈は次のように書かれています。

作字。わが國にて、漢字にまねて作りたる文字。例へば、榊、鯖、辻などの類。和字。俗字。

このほかに国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる国語辞典類の語釈も漢字表記も概ね右に倣えの状態です。

手元のアプリ『精選版 日本国語大辞典』でも見出し語として「つくりじ」を引くことが出来、①漢字をまねて、日本で作った文字。辻・峠・裃などの類。国字。さくじ。②自分勝手に作ったうそ字。③物などで、文字の形を作ること。また、その文字。――という、3種の語釈が示されているのでした。いま気がついたんですが、アプリなので検索窓に「さくじ」「つくりじ」という読みを入力する国語辞典の引き方だけでなく、「作字」という漢字を入力して「さくじ【作字】」「つくりじ【作字】」という2通りの言葉を引くこともできるんですね。これは便利!

図書館で幾つか引いてみた紙本の辞書は、次のように記していました。

『広辞苑』第7版
【作り字】①日本で漢字に模して創製した文字。榊・峠・辻などの類。国字。②自分勝手に作ったうそ字。③文字の形をつくること。また、その文字。人文字の類。
『大辞泉』第2版
【作り字】①日本で、漢字をまねて作った文字。「峠」「辻」「畑」など。国字。②自分勝手に作った字。③物などを並べて文字の形を作ること。また、その文字。
『新明解国語辞典』第7版
【作り字】①個人的なうそ字。②「国字」の江戸時代における称。

NDL全文検索で「"作字" "つくりじ"」の組み合わせを「複合語は200文字以内にある場合のみヒット」の絞り込み条件で検索すると、明治以降の事例は基本的に辞書的な資料にのみ出現しているように見えました。『精選版 日本国語大辞典』の「つくりじ」語釈のうち「国字」に対応する用例が『俳諧 鷹筑波』三(1638)の「玉章つきの内に作字ツクリジ書入れて あかぬいとまにやるは田畠〈一滴〉」でしたから、単に国字とするのではなく「国字の江戸時代における称」とした新明解の記述は非常に有用な情報を含んでいるようです。

「作字」という語彙について

現行中小型国語辞典に見られる「作字さくじ」

宮城県図書館でざっと拾い出したところを記します。

①『広辞苑』第7版(岩波書店、2018)1161頁
手持ちの活字二種以上の一部分を組み合わせて、特殊な文字の活字を作ること。またコンピューターなどに登録されていない文字を作成すること。
②『大辞林』第4版(三省堂、2019)1084頁
印刷用の活字や文字フォントを作ること。また、パソコンなどに登録されていない文字を作成すること。
③『大辞泉』第2版(小学館、2012)上1438頁
印刷で、必要とする活字がないときに、既存の活字の部分を合成したり削ったりして新しい活字を作ること。また、その作った活字。パソコンなどで、内蔵・登録されていない字体を作ることにもいう。
④『言泉』(小学館、1989)920頁
印刷で、用意のない特殊な活字を既存の活字の各要素を組み合わせて作ること。
⑤『集英社 国語辞典』第3版(集英社、2012)677頁
①(活版印刷で)該当する活字がないとき、二種以上の活字から不要な部分を削り、必要な部分を取り合わせて新しい字を合成すること。「削字」とも書く。②(ワープロなどで)日本工業規格の第一・第二水準漢字以外の文字を作ること。
⑥『新明解国語辞典』第7版(三省堂、2012)572頁
〔原稿に書いてある文字の用意が無い場合〕既存の活字を組み合わせたり削ったりして、目的の文字の形を作ること。〔広義では、木版作成をも含む〕【表記】削る場合には、「削字」とも書く。
⑦『三省堂 現代新国語辞典』第7版(三省堂、2024)588頁
コンピューターであつかう、標準では使えない(形の)文字や記号を、新たに作ること。

OA時代に対応する語釈を丁寧に記載しようとしたことが仇になって『集英社 国語辞典』の②に時代臭が残ってしまっているところと、『三省堂 現代新国語辞典』第7版が活版印刷を捨て去ってIT技術の進展に照らして長く使えそうな語釈になっているところが面白いですね。

また、⑧『辞林21』机上版(三省堂、1994第2刷、820頁)、⑨『明鏡国語辞典』第2版(大修館書店、2010、668頁)、⑩『新潮国語辞典』第2版(新潮社、1995、850頁)、⑪『岩波国語辞典』第8版(岩波書店、2019、580頁)、⑫『旺文社国語辞典』第12版(旺文社、2023、585頁)、⑬『新選国語辞典』第10版(小学館、2022、514頁)、そして『三省堂国語辞典』の新装版(1968)・第4版(1995)・第5版(2001)・第7版(2015)・⑭第8版(2022)では「作字さくじ」が立項されていませんでした。

なお、先ほど記した「つくりじ」という語彙も上記①~⑭について調べてみています。①②③④⑤⑥⑧⑪⑫には立項されていて、⑦⑨⑩⑬⑭には「つくりじ」が立項されていませんでした。

印刷技術の中の「作字」

活版印刷における「作字」と「削字」

三谷幸吉『手易く出来る活版印刷開業の栞』(印刷改造社、昭和11)「作字法」の説明は文章だけで書かれているので(12-13頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1056304/1/28)、辞書的抽象的には飲み込めるのですが、具体的な作業を思い浮かべるのは難しい内容になっています。

活字が一本か二本ないために、往々にして印刷に取り掛かることが出來ぬことがあります。其場合には、扁と旁とを互に、鑿か鑢か鉋(輪廓削があればそれにて削り)で削り、扁と旁を合せて活字を作るのであります。

ヨゼフ・ナジ『工業高等学校印刷術教科書 第2学年用』(帝都育英工業高等学校、1954)の「作字」解説は、図入りで判りやすく示されています(219-222頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2476705/1/116)。「ネッキ」が活字の腹側でなく背側に図示されているのは御愛嬌というものなのか、当時そういう活字を用いる一派があったのか。

このように単に「作字」とだけ記す向きが主流であるようには見えるのですが、「さくじ」という技術用語に「削字」という漢字を用い、「作字」を従とする一派があるようです。管見の限りでは凸版印刷株式会社編『解説印刷用語集』(印刷出版研究所、1964、73頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2504748/1/41)と水沼辰夫『文選・植字の技術』(印刷学会出版部、1961、20頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2493837/1/16)が「削字」派でした。

写真植字における「作字」

写真植字で不足字を「作字」する方法としては、金属活字の場合と同様に既成文字のパーツを組み合わせる手法として㋑普通に印刷印字・現像した幾つかの文字を切り貼りして版下に貼りこむ、㋺不要な扁旁冠脚などのパーツを覆い隠して必要部分を感光させ多重露光で合成する――というものと、写植ならではの手法として㋩新しく描き起こしたレタリングから簡易文字盤を作成する、という3種類がありました。

印画紙の切り貼りによる実際の作例画像を掲げる例が、『編集デザインハンドブック』(視覚デザイン研究所、1979)178-179頁に掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/12289461/1/92)。

難読地名を多く含む書籍を写植で制作する際に、既成字体の扁旁冠脚などからパーツを寄せ集めて「作字」するのではなく、既成書体に似せて不足文字をレタリングし外字用の簡易文字盤を作成したと見られる事例が「同台経済人の記録」刊行委員会『草萌え : 同台経済人の記録 第1巻』(同台経済懇話会、1978)巻末の「編集にあたって」に記されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/12255784/1/190)。

穆陵(ムーリン)、兗州(イエンチョン)などの中国の難読地名は植字の原板になく、新しく手描きで作字する、という悩みもありました。

単に字を書くあるいは文章を書くという意味合いらしき「作字」

NDL全文検索でキーワードを「作字する」というサ変動詞にしてみたところ、次のような例が見つかりました。

エル・エル・ジーンス『生産初歩』(白川県洋学校、明治6)26丁表 https://dl.ndl.go.jp/pid/838682/1/30
今日日本人民自己ノ國語ヲ讀ミ或ハ作字スル者多ク彼ノ歐洲文明開化ノ國人モ及バザル有リ
クラフト『歩兵論』(偕行社、明治23)118頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/844576/1/62
無學ニシテ入營セル新兵ニシテ其役期中ニ讀書シ作字スルヲ得タル者ハ寡ナシトセス

ただ単に字を書くという意味に留まるのか、「文章」を書くところまで含めるのか、そのあたりは判然としません。

明治期にのみ現れる特殊な用例といった位置づけになるように見えましたが、国会図書館の外に広がる文献世界を渉猟したら、より古い事例や、より新しい事例が見られるかもしれません。

習字・書道における「作字」

習字・書道用語としての「作字」を確認するため「NDC分類728」という絞り込み条件をつけて「作字」をNDL全文検索してみたところ、大きく分けて2つの意味合いが読み取れました。まずひとつは、「活字」の場合と同じく、必要な字(あるいは欲しい文字)を得るために複数の手本字からパーツを寄せ集めて合成するという意味合いです。

『新修書道講義録』(興文社、昭和9)117頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1150373/1/47
これ丈の書が全部あつた譯でなく、中には扁旁を合せて作字したものも勿論あります。
『書道技法講座 44』(二玄社、1981)85頁(倣書のための集字の説明) https://dl.ndl.go.jp/pid/12428484/1/46
同じことばがあればそのまま集める。文字がどうしても見当たらないときは、部分をつぎ合わせて作字する。

ふたつめは、「均整の取れた文字を書く」といった意味合いで使われているように見受けられる事例(私の理解が誤っているようでしたら、お教えください)。

前田円『書学捷径 乾』(博文館、明治36)10-11頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/852566/1/9
點畫を十分に習熟するときは、文字の結體も容易たやすく、而して其作る所の文字に筋骨が備りて立派な書になる、是れが作字の捷徑である。然るに從來の如く最初より一字の形態かたちを爲せし文字を習ふが故に、文字の形態かたちを作ることに窘くるしめられ。遂に立派な文字が作れないのである。《中略:引用者》拙匠は棟柱梁椽等の作方を十分にせずして家屋を建築することを速いそぎ。拙書は點畫を習熟せずして文字を作ることを速く。爲めに堅牢なる家屋も出來ず。亦た立派な文字も出來ないのである。
村岡梅太郎『書法精義』(村岡梅太郎、大正5)20丁裏-21丁表 https://dl.ndl.go.jp/pid/1183308/1/27
作字とは、手本を離れて臨機應變、何れの字に當つても其時其時に、こんな字はこんな風に作らねばならぬ、此字はこんな模樣に書かねばならぬ、と云ふ樣に文字を書くに手本によらず自分で考へて組み立てゝ書く事を作字と云ふのであるが《中略:引用者》此結構法さへよくよく含み込んで居れば、如何なる文字に出遭ふとも文字を都合よく作れないと云ふ事は無い筈である。
入沢昕江『書学楷梯』(研文社、大正7)287頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/959272/1/151
細字にては僅に一枚を而も手本を見ることなく、思ふまゝを書く樣では、鉛筆を以て書取をなすと同じく、全く習字の意味を失ひ、實用はかへつて無用となる。假令かなりに作字しても、決して萬人に通ずる美的文字は望むことは出來ぬ。《中略:引用者》習字は單に早く書くの、字を覺えさすの、字を正確にかくのなどは第二である。既に習字科なるものがある以上は、十分第一義たる美的文字を練習せしめねばならぬ。

このうち、村岡『書法精義』と入沢『書学楷梯』は「ただ単に文字を書くこと」を超えて「均整の取れた文字を書く」ことを作字と呼んでいるといって差し支えないように思うのですが、実は前田『書学捷径 乾』の事例をそのように扱っていいのか、迷っています。日本国語大辞典が「作字さくじ」の語釈②「文字の書き方」の用例に挙げている『日本風俗備考』七「小學校に詣り、讀書及び作字の法を習ふ」という事例ともども、単に文字の書き方という意味合いであるものと見た方がいいのかどうか……。

昭和期に「レタリング」に類する意味で使われたと解せる「作字」の例

装幀の描き文字

斎藤昌三「閑却されてゐる装釘家」(『書痴の散歩』書物展望社、昭和71932)が取り上げている齋藤松洲の仕事のひとつに、星野麥人・篠山吟葉編『紅葉遺文』(隆文館、明治43)があります(122-123頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1858078/1/89)。

本文も頁の外肩に紅葉散しのオーナメントを輕くあしらつて、殆ど本文を障げぬ程度に入れ、オーナメントの下の紅葉遺文の四字も、活字體にない作字で入れてあり

――などと書かれていて、実際に『紅葉遺文』を見てみると「頁の外肩に紅葉散しのオーナメント」があしらわれている、その下に、「紅葉遺文」の作字レタリングが凸版に起こされて「柱」として印刷されているのが判ります(2-3頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/889044/1/10)。

『紅葉遺文』2-3頁(国会図書館デジタルコレクションより)

関川左木夫「青山二郎の装本を中心に」(『本の美しさを求めて』昭和出版、1979)が取り上げている小林秀雄『續文藝評論』の解説に、次のように記されています(148頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12235155/1/77)。

外箱はボールに黄土色の和紙を貼って、この表紙に、著者名、書名、発行所名を、木活の大型文字で入れ、背にもやや小型の木活文字、裏には中央の二重枠の中に発行年、左下に定価を表紙と同型の木活文字で印刷しているが、この木活とみえる活字は、青山二郎の創意になる作字であるかも知れない。

平成の事例ですが、小池四郎について記す小池一子『空間のアウラ』(白水社、1992)に、次の文がありました(22-23頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13317494/1/14)。

アプトン・シンクレアの原著は『ジャッドへの手紙 アメリカの労働者』だったが、クララ社、小池四郎訳の日本版は、『人は何故 貧乏するか』となった。その表題を彼はアール・デコ風の日本文字の作字で表わした。

次も平成初期の事例で、田村義也の装幀について書かれた金石範「田村さんの装幀」(『転向と親日派』岩波書店、1993)から(253頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13178904/1/132)。

私はいままで八冊を田村さんに装幀してもらったが、そのうちの二冊の評論集を除き、六冊の小説本の装幀はカバー、あるいは箱、表紙、扉をふくめて活字体をそのまま使ったものはない。どれも試行錯誤のプロセスを経た田村さん自身の作字であり(活字体の場合も、すぐには眼につかぬ何らかの変形と操作が加えられている)、そのまま造形的な象形性をおびるに至る。

装飾文字の生成

以上の装幀の描き文字とは少し趣が異なる用例として、『月刊保険評論』28巻6号(通巻342号、保険評論社、1976年6月)に、ロッキード事件に言及する次の文がありました(47頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1391277/1/25)。

それでも尚「米国筋から判明」「黒い高官に現職大臣」……こんなショッキングなタイトルが特大作字で新聞をにぎわしている。

同じ『月刊保険評論』28巻の9号45頁には次のように(https://dl.ndl.go.jp/pid/1391280/1/24)。

たまたま夕刊新聞「新関西」(八月三日の)に特大作字の〝白ヌキ〟で、でっかく「田中、獄中一週間」とあり「独房に流す油汗」とこれも又特大作字で第一面いっぱいに「運転手の自殺も知らず」「寝不足で目は充血」「連日十二時間取調べ」などなど

――この「作字」は、変形や地紋などを用いて「演出された文字」「装飾の施された文字」というような意味合いと考えれば良いでしょうか。新聞の見出しが必ずしも「活字」書体で刷られるとは限らないことから、やはりレタリングの謂いでしょうか。

中田功『レタリング入門 1』(美術出版社、1978改訂版)131頁には、次の図と共に「この頁に図示した、さまざまなKは、写真操作によって、ディスプレイタイプが作字できることを示す、デモンストレーション広告からの抜粋で、Gloor Satz Repro KGの性能の一部である。」という文が記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/12428256/1/70)。

Gloor Satz Repro KG広告(中田功『レタリング入門 1』131頁)

また平成の事例になってしまうものの、《装飾文字を「書き上げる」》というような意味合いで「作字」が使われている例が、『FBがわかる本 1』(モード学園出版局、1992)「レタリングの技法〈5〉装飾文字の書き方」に出ています(107頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13262446/1/56)。

①重ね文字=限られたスペースに字体を書き込む時に、文字を重ねて書けば、うまく収まり力強い効果が生まれる。エンピツで下書きし、塗り込んで作字できる。

狭義のレタリングと活字書体の原字

増川幸男『レタリングとトレース : デザイン文字・トレースの基礎から応用技術まで』(金園社、1977)に、次の内容がありました(136頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12428247/1/80)。

明朝体の文字を描く上に必要な基本点画をマスターしてください。明朝体でも、作字、活字、写植などを比べた時、わずかであるが違いがあります。しかし基本構造は共通しております。この約束事を無視すれば明朝体でなくなりますから、気をつけてください。

自由な筆記ではなくデザイン上の制約・要求を満たすように文字を清書する――「作図」のニュアンスに近しい「作字」――といった事例が小坂和夫『教程地図編集と投影』(山海堂、1982)に見えます(63頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/9584412/1/40)。

地図に使用する文字は、正方形、長方形、または平行四辺形の方眼を作り、その中に形が良く収まるように作字する

デザイン上の制約・要求を満たすように多数の文字を清書するという行為は、活字書体の原字づくりという行為に繋がります。

デコマス委員会『経営戦略としてのデザイン統合 理論編』(三省堂、1971)には、「専用タイプフェースとは、企業が独自の方法によって統一して使用する文字のことである」とし、日本の場合はカナ・漢字・英数の「すべてオリジナルに作字することは困難なので漢字は必要なものだけ作り、カタカナと数字をとくに作字することがある」と記しています(68-69頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12021144/1/38)。

写植文字の原字の設計(≒レタリング)というような意味合いが、牧とらを『エディトリアル・レイアウト : 編集者必携ガイドブック』(日本ジャーナリスト専門学院、1980)の「「歯ヅメ」について」に記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/12274216/1/8)。

文字は作字するときに寸法いっぱいに、つくるのではなく、天地左右に10%ほどの余裕を持たせてある。

明らかに写植文字の原字の設計レタリングの意味で「作字」と記すのが佐藤敬之輔「書と活字」(『佐藤敬之輔記念誌』佐藤敬之輔記念誌編集委員会、1982)の中の「その背反と等質性」の項です(120-121頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12428284/1/65)。

現在の写真植字(コールドタイプという)と活字(鉛合金を溶かして鋳造するのでホットタイプという)とを問わず、組みかえて繰り返し使える量産用の文字機構を、広義の活字と総括することにしよう。それらの原字(もとになる字)は誰かがどこかで書いたものが、カメラを通して処理される。原字は普通二インチ(五・〇八センチ)平方の方眼紙に書かれる。そこで、次のような「見込み計算」がさけられぬ難行苦行となる。《中略:引用者》このように種々の予想の上に、計算づくで作字するのである。

ここ50年ほどの間20世紀後半に使われていた「作字さくじ」という言葉の意味合いを捉え直す

現時点での私なりのまとめとして。

「作字さくじ」とは、主に「既成の扁旁などパーツを組み合わせて必要字体を作る」ことと「一定のデザインルールに合わせて造形意図に基づいて文字(の形)を書き/描き出す」ことを指す。

前者は概ね、金属・写植・デジタルの標準活字セットに含まれていない文字(=外字)の製作や、書・印章原稿の集字において使われる。あえてデジタルフォントの考え方に寄せると「必要字体・不足字体への対応」。

後者は概ね、アナログ製作時代の地図の文字、あるいは活字原図などの作図や、(印刷等のための)描き文字の作成を指す。「レタリング」と近似または同義するが「書」として書くこともいう。あえてデジタルフォントの考え方に寄せると「要求書体・欲求書体への対応」。

まことに僭越ながら、過去の国語辞典編纂者は、辞書編纂行為に密接にかかわるのであろう「外字製作」のことが身近にありすぎたため、近現代において「作字さくじ」という言葉がカバーしている領域のうち、前者の一部分しか目に入っていなかったのではないでしょうか。

「装字」と「レタる」

仮に20世紀末から21世紀初め頃に自分がフリースタイルレタリングに入れ込んでいる当事者だったら、どういう呼び方を探っただろうか――と想像した際に出てきた言い回しが「装字」「フリレタ」「レタる」というものでした。

「装字」

よっぽど不注意に生きてきたからか、単に眺める本の数量が不足していたからか、本の装幀に用いた絵のクレジットに「装画」誰々という表記をするように、題字などのクレジットを「装字」誰々とするケースがある――ということを知りませんでした。

昭和9年に百田宗治の椎の木社から刊行された三好達治『日まはり』の題字を萩原朔太郎が書いていて、「装字」とクレジットされているのですね(https://dl.ndl.go.jp/pid/1213896/1/11)。

この他、パっと目に入った範囲では、平井照敏『俳句 沈黙の塔』(永田書房、1974 https://dl.ndl.go.jp/pid/12460262/1/4)や小林秀子『句集 芽以』(鷹俳句会、1980 https://dl.ndl.go.jp/pid/12496282/1/13)などの用例がありました。

「レタる」

このフレーズをGoogle検索してみた際にAI Overvewで出会って初めて知ったのですが、世の中に「モモカ帝国の公用語」である「モモカ語」というものがあり、その「モモカ語」では「手紙を書く」ことを「レタる」と言う、らしいです(https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/MomokaAkashi/mokago.html)。

知らなかった……。