日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

セクス・ポクリットの輪番新連載「ハイクノスガタ」第1回「子規と明治期の活字」を拝読して気になった日本新聞社の活字と明治20年代前半の秀英舎五号仮名

「俳句がもっと楽しくなるポータルサイト」と銘打たれたウェブサイト「セクト・ポクリット」で2024年11月下旬に始まった新連載「ハイクノスガタ」第1回「子規と明治期の活字」でご参照頂いたおかげで、『書体のよこがお:時代と発想でよみとく書体ガイド』(グラフィック社、2023)の「築地体」「秀英体①」「弘道軒清朝体」「江川活版三号行書仮名」のもまた、「明治期の和文活字書体(書体史)というものをどういう具合に捉えていけばよいか」についてのスケッチのひとつであったなぁと気がつきました。「子規と明治期の活字」のような記事で横浜市歴史博物館「小宮山博史文庫◉仮名字形一覧」が活用されていることを知れて、我がことのようにうれしいです。

「ハイクノスガタ」は、字游工房の書体デザイナであり俳人である木内縉太さんhttps://x.com/kinouchi9、造本作家・造本探偵であり歌人俳人である佐藤りえさんhttps://x.com/sato_rie、俳句とカリグラフィーと句具の後藤麻衣子さんhttps://x.com/goma121による輪番連載ということで、今後の展開がとても楽しみ。


日本新聞社が書籍印刷で混用していた五号仮名活字

「子規と明治期の活字」で取り上げられていた子規『獺祭書屋俳話』(明治26年5月20日印刷〈印刷者:日本新聞社・佐々木正綱〉、日本叢書、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/992734)を国会図書館デジタルコレクションで見た感じでは、この時期の秀英舎と同様の「調合混植ブレンド(2種以上の活字書体が混用されるが文字種別に見ていくと1種類の書体が選ばれている状態)ではなく「乱雑混植ジャンブル(2種以上の活字書体が混用されかつ個々の文字種でも複数の書体が混ざっている状態)のように思われました*1。次の図で、少なくとも3種類の「ぬ」が混用されていると判ります。

『獺祭書屋俳話』5-6頁(国会図書館デジタルコレクションより加工)

明治26年以前に存在したベンダ固有の五号仮名活字には、美華書館のSmall Pica Japanese*2、築地活版(平野活版)の前期五号仮名*3、紙幣局の五号仮名*4、博聞社の五号仮名*5印刷局の五号仮名*6、そして国文社の五号仮名*7がありました。『獺祭書屋俳話』では、このうち確かに紙幣局の五号と築地活版(平野活版)の前期五号が大きな部分を占めているものの、国文社の五号も含めた「乱雑混植ジャンブル」となっているようです。

参考のため、東京・大阪の国文社が用いていた明朝五号の標準仮名見本を掲げておきます。

大阪国文社「五号活字總數目録」(印刷図書館蔵『活版花形見本』25-26丁より)

『獺祭書屋俳話』の他の頁をチラ見した感じでも、紙幣局の活字と築地活版の活字の混用を徐々に整理していく過程――どちらか一方に寄せていくか、「秀英五号」のようにブレンド型にしていくか――、とは異なるような気がしたので、日本新聞社が印刷したものを遡って幾つか見てみました。

陸羯南『行政時言』(明治24年9月29日印刷〈印刷者:日本新聞社・大橋鐵太郎〉、日本叢書、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/783002/1/37)――印刷コンディションやマイクロフィルム化・デジタル画像化の際のノイズ等ではない、明らかに異なる活字が混用されています。

『行政時言』16-17頁(国会図書館デジタルコレクションより加工)

陸羯南『近時政論考』(明治24年6月3日印刷〈印刷者:日本新聞社・中村留吉〉、日本叢書、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/783013/1/89)――印刷コンディションやマイクロフィルム化・デジタル画像化の際のノイズ等ではない、明らかに異なる活字が混用されています。

『近時政論考』10-11頁(国会図書館デジタルコレクションより加工)

陸羯南『予算論』(明治23年12月9日印刷〈印刷者:松本秋齋〉、日本叢書、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/800244/1/15)――本郷区湯島一丁目13番地の松本秋齋は明治10年頃から営業していた葆光社(葆光社活版所)の印刷者として明治21年からクレジットされるようになった人物ですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/870200/1/317。ひょっとすると松本守が本名であったかもしれませんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/868689/1/39https://dl.ndl.go.jp/pid/1498921/1/13。葆光社松本秋齋が明治20年代に手掛けた印刷物を「近デジ」で調査した際のメモによると、限りなく「全て」に近い数が前期五号で印刷されており、本書の基本活字も前期五号です。

山本育太郎『日本外政私議』(明治22年8月12日印刷〈印刷者:日本新聞社・遠山英一〉、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/785638/1/99)――印刷コンディションやマイクロフィルム化・デジタル画像化の際のノイズ等ではない、明らかに異なる活字が混用されています。また、個人的に注目している「き」以外に目印をつけませんが、紙幣局五号と国文社五号(≒印刷局五号)が多用されており、明治24年や26年の版面とはだいぶ異なるテクスチャーになっていることが一目瞭然かと思います。

『日本外政私議』2-3頁(国会図書館デジタルコレクションより加工)

以上はマイクロフィルムからデジタル化された不安定な画像なので、できれば原本によって再確認しておきたいところではあります。

『日本』紙と『国家経済会報告』に見える現時点では正体不明の五号仮名

さて、「子規と明治期の活字〈前編〉」https://sectpoclit.com/artisanal-1z/で示されている明治25年5月27日付『日本』に掲載された「かけはしの記」も同時期の秀英五号ではなく紙幣局五号と築地体前期五号を主として他の五号を含めた「乱雑混植ジャンブル」になっているのですが、個人的に三行目「畫にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし」の「き」がとても気になります。

国会図書館デジタルコレクション中で比較的最近デジタル化・ウェブ資源化された良好な画像である『国家経済会報告』の明治23年11月「第一回」(https://dl.ndl.go.jp/pid/1477306/1/17)を見ると、明治22年『日本外政私議』の活字群から明治24年『近時政論考』の活字群への移行の途中である様子が記録されています。

『国家経済会報告』「第一回」10頁(部分、国会図書館デジタルコレクションより)

『国家経済会報告』「第一回」の画像によって改めて字形が詳細に観察できるようになった気になる「き」(10頁下方:https://dl.ndl.go.jp/pid/1477306/1/8「米茶の如き」「毛布帛の如き」)、どういう活字書体なのか、いつか判明する時が来て欲しいと願っています。

秀英舎が明治20年代前半に混用していた五号仮名活字

片塩二朗『秀英体研究』(大日本印刷、2004)で明らかにされたように(第7章「秀英舎と築地活版所 見本帳別の考察」のうち五号活字の節〔522-531頁〕)、秀英舎の五号活字は、明治22年発行の総数見本と明治29年発行の総合見本で初期の姿を見ることができ、この期間に若干手が入っているようです。

十数年前に採りためていた「近デジ」メモから、秀英舎が明治20年代前半に本文を漢字ひらがな交じりの五号明朝で刷っている資料を拾い出してみましょう。

今回各資料を見返して「乱雑混植ジャンブル」のものが存在していたことに気づいて驚きました。てっきり、創業時から明治30年代末*8まで、明治22年版見本帖や明治29年版見本帖に見えるようなブレンド型で落ち着いていたものとばかり思い込んでいました。例外があったのですね。

ちなみに私は、ブレンド型としての前期秀英五号を考える際、紙幣局五号と築地体前期五号に加えて印刷局五号・国文社五号との関係も比較検討が必要だと思っているのですが、これはまた別の話。

*1:調合混植ブレンド」と「乱雑混植ジャンブル」は、明治書院『日本語学』43巻4号(2024年冬号:https://www.meijishoin.co.jp/book/b645441.html)でも記した通り、この記事のような話題を扱うために筆者が準備している用語です。「和欧混植」という用語からの借用でこれまで「調合混植」・「乱雑混植」としてきましたが、植字の問題ではなく棚に収める活字セットの問題なので、「調合セット」(調合フォント)・「乱混セット」(乱混フォント)のような表現の方が良いのかもしれません。

*2:美華書館のSmall Pica Japaneseの姿は、宮坂弥代生「近代日本の印刷業誕生前史 ガンブルの講習と二つのミッションプレス」(『書物学』15巻〔勉誠出版、2019、https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101002〕)に掲載されている活字見本で確認できます。『聚珍録』刊行の頃にはまだ宮坂氏の調査が知られておらず、「本木-平野五号仮名第一次型」であるものと扱われていました。

*3:築地体前期五号仮名の姿は、明治10年刊『Book of Specimens』(平野ホール蔵、影印を片塩二朗『富二 奔る』〔朗文堂ヴィネット08』、2002〕にて参照可能)、明治12年刊『Book of Specimens』(印刷図書館蔵、Za307、影印を板倉雅宣『和様ひらかな活字』〔朗文堂ヴィネット03』、2002〕にて参照可能)、明治27年刊『五号明朝活字書体見本 全』(横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵、仮名字形一覧 https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/jikei/data_katsuji/002018940/ にて参照可能)等が知られています。

*4:紙幣局五号仮名の姿は、明治10年発行の大蔵省紙幣局活版部『活版見本』(印刷図書館蔵、ZZ001)に掲載されており、影印を板倉雅宣『和様ひらかな活字』(前掲)や片塩二朗『秀英体研究』(大日本印刷、2004)、府川充男『聚珍録』第三篇(三省堂、2005)で参照可能。

*5:博聞社五号仮名の活字見本類は確認されていません。「博聞社『西洋礼式』序文と見出し四号本文五号」(https://uakira.hateblo.jp/entry/20111107)を手掛かりにしてください。

*6:印刷局五号仮名は、明治18年発行の『活字紋様見本』に掲載されている見本を国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能で(https://dl.ndl.go.jp/pid/853858/1/12)、影印を府川充男『聚珍録』第三篇(前掲)で参照可能。また印刷図書館蔵本(Za293)の影印を板倉雅宣『和様ひらかな活字』(前掲)で参照可能。

*7:国文社五号仮名は、大阪国文社名義で明治20年に発行された『活版花形見本』(印刷図書館蔵、ZZ004)に掲載されており、府川充男『聚珍録』第三篇298-299頁と板倉雅宣『和様ひらかな活字』(前掲)に「楷書五号」影印が掲出されています。我々の文脈では、少なくとも『聚珍録』では大阪国文社『活版花形見本』25-26丁の(明朝)五号活字總數目録が掲出されるべきでした。

*8:明治30年代末すなわち「秀英舎(製文堂)の五号平仮名が前期築地型に切り替はる時期」(https://uakira.hateblo.jp/entry/20050504

『日本語学』43巻4号(2024年冬号)に「明治の和文活字書体―― 一九世紀日本語印刷文字史の結実と二〇世紀日本語印刷文字史のはじまり――」という小文を書かせていただきました

2024年12月1日付で明治書院『日本語学』43巻4号(2024年冬号)が発行されました。「文字とデザイン」「ローマ字の規範」という2本立ての特集のうち、「文字とデザイン」特集に「明治の和文活字書体―― 一九世紀日本語印刷文字史の結実と二〇世紀日本語印刷文字史のはじまり――」という小文を書かせていただきました。

ここ20年ほど、「府川充男『聚珍録』の隙間を埋めていく」作業であったり「牧治三郎『京橋の印刷史』を訂正していく」作業であったり、そんなことを続けていて、小宮山博史『明朝活字 その起源と形成』(グラフィック社、2020)を経て改めて「明治期の和文活字書体(書体史)というものをどういう具合に捉えていけばよいか」についてのスケッチを繰り返していたわけですが――

――、これはその一番新しいものになります。

『日本語学』は明治書院のウェブサイトで、当該号https://www.meijishoin.co.jp/book/b645441.htmlやバックナンバーの「試し読み」が可能になっています。

ご高覧と御批正を頂戴出来れば幸いです。


備忘録。明治期に続く時期として私が捉えなおそうと試みている「二〇世紀日本語印刷文字史」の前半部分――大正から昭和戦前期の、ベントン以前の和文活字・書体史――は、①明朝・角ゴにおけるポイント活字の登場と展開、②新しい基本活字としての丸ゴ(「篆書」含む)、宋朝、正楷書等の登場、というのが大きな潮流になっていた、という具合にざっくりまとめちゃっていいような気はしているのですが。

ポイント活字の登場と展開について、『聚珍録』第三篇十三「初期ポイント活字の仮名」(695-716)の記述では食い足りないという個人的な動機によって、特に明らかにしておきたい特定ポイント活字の周辺も整理し直してみようと試みているのが、新聞活字史を中心とした和文ポイント活字史(メモ)なのでした。

このあと少しばかり明治20年頃の五号活字に少し寄り道して、更に「西磐井活字」の件にいったん区切りをつけたら、改めて20世紀前半の本文活字史を考える上で欠かせない新聞活字史関連に戻ります。

それほど遠くない近未来に、7.5ポイントと7.0ポイントまでは追っかけてみるつもりです。

蛮勇を奮って仮称「西磐井活字」全体の整理を始めたものの築地五号と活文舎五号以外へうまくアプローチできず己の力不足を突き付けられている話

はじめに

先日、五号活字を主体とする、文選箱およそ2箱分の古い活字を入手しました。縞木綿の包みを開くと、おそらく当初の姿を保っているのであろう文選箱1つ(主にひらがな活字)と、三分の一程度が崩れてしまったらしき文選箱1つ(主に漢字活字)、そして後者の文選箱から崩れ出たものと思しき活字が古新聞にくるまれた状態で出てきました。

縞木綿の結び目を少し緩めたところ
文選箱2つ(荷ほどき当初の状態)
崩れ出ていた分の活字(荷ほどき当初の状態)

これは「初荷品につき入手した状態で」とされていた通りの姿であり、1箱分の一部が崩れていること等は承知していました。

入手の決め手は2つ。まず何といっても大きかったのは、いわゆる築地体後期五号仮名に見える活字と前期五号仮名に見える活字が数多く含まれていたことです。このサイズの明朝活字で、ベントン以前のものなど、本当に存在していいのか?!という感じです。もし、1本でもオリジナルのピンマーク入り活字が含まれていたら……

そしてもうひとつの決め手。当初からの緩衝材である可能性が高そうに見える古新聞に日付の情報があれば、当該活字の鋳造時期を想定するなどの手がかりになり得ます。少なくとも、「製作後100年を超えたもの」であるかどうかの判断基準にはなるでしょう*1

実際のところ、どれくらい古い活字なのでしょうか。

もしも築地体前期五号仮名に見える活字が築地活版オリジナルであれば明治301897年末または明治31年頭までに鋳造されたものであり、築地体後期五号仮名に見える活字が築地活版オリジナルであれば明治311898年から大正121923年8月まで――前期五号仮名・後期五号仮名の切り替わりから関東大震災の前まで――の期間に鋳造されたものである、ということになるのですが、果たして……。

仮に「西磐井活字」と名づける理由

文選箱の外に崩れ出た活字の緩衝材となっていた古新聞を丁寧に広げてみると、明治401907年8月の『巖手毎日新聞』であることが判りました。

箱外活字を覆っていた古紙(全体像)
箱外活字を覆っていた古紙(題字部分)
箱外活字を覆っていた古紙(日付部分)

この活字群がひとつのコレクションとして成立したのが『巖手毎日新聞』販売地域においてであったと思われることと、今回、その当時西磐井郡だった地域からインターネット経由で入手したものであること、――以上2点から、当該活字コレクションを仮に「西磐井活字」と呼ぶことにしておきます。

広げた新聞をよく見ると、文選箱の底面になっていたのであろう折り癖が残っているところがありました。

文選箱の底部に沿った折り癖が残っているところ

また、ひらがなメインの文選箱に詰め物として使われていた部分を取り出してみたところ、発行日が年月日すべて揃っており、かつ箱外活字を覆っていた古紙につながる内容であったことが判りました。

ひらがなメインの文選箱から取り出して広げた(元)詰め物
元詰め物だった「巖手毎日」の日付部分を接写(明治40年8月28日)

この「西磐井活字」がひとつのコレクションとして成立したのが、今から117年前であること。これはおそらく確実です。

ひらがなメインの文選箱の端から100本をチェックしてみたら

内寸で2寸5分×5寸(約7.5cm×15cm)の標準的な文選箱の場合、五号活字なら20本×40行で800本ほどが収まります。

果たして、「西磐井活字」には無印ピンマークしか無いのか、何らかの商標が刻印されたピンマーク入り活字が含まれているのか。入手時の原状は何らかの指標によって整理分類された結果であるのかどうか――活字の向きもまちまちで、少なくとも仮名の書風も特に整理された状態には見えないのですが――。

端から20本ずつ、活字サイズを実測しながら合計100本をサンプリングしてみた際の驚きの一端を記したのが、先日の「築地五号仮名フェイスの築地五号ボディ活字を20本並べてデジタルノギスで計った寸法のメモ(5組測定の100本中1本は築地活版のピンマーク入り)」でした。

概ね「築地五号ボディ(約3.71mm角)」と考えてよいサイズだった「西磐井活字」のひらがな活字、最初の100本中1本に、東京築地活版製造所の商標ピンマークが刻印されていたことの驚きと喜び!!!

初号活字なら商標ピンマークが刻印されている活字が伝存していても不思議はなく、実際これまでにも入手していましたが*2、まさか五号活字が残されていたとは。そして手元に置いて観察する機会に恵まれるとは。

板倉雅宣『号数活字サイズの謎』朗文堂ヴィネット12」、2004 asin:4947613726の裏表紙に、東京築地活版製造所のカタログ『活字と機械』(大正31914年版)の「各号及ポイント角」というページに掲載されている図が引用されているのですが――表紙のモチーフにもなっています――、手元にある初号活字は図の通り「太1本ネッキ」となっていて、この商標ピンマーク入り築地五号活字は足元から順に「太・細・細」がほぼ等間隔で並んだ、図の通りの「3本ネッキ」でした!

板倉『号数活字サイズの謎』裏表紙に置いたオリジナル築地五号活字

衝動のまま「メモ」を公開し、一夜明け。

この最初の100本には、少なくとも3種類のネッキがあり、特に整理分類された様子がないことから、原状を保存する必要性は極めて薄いと判断しました。

が、その一方で。

せめて整理分類に至る経過をある程度記録しておかなきゃマズいんじゃないか。博物館の学芸員だったら――とりわけ印刷博物館であったなら――、どういう風にこの「西磐井活字」と向き合っただろうか。

――と、文化財を扱う責任の重さを改めて痛感したことから、このような記事を書き残すこととした次第です。

漢字メインの文選箱から活字を取り出してネッキ別ピンマーク別に分類整理

いったん仮名メインの文選箱を離れ、一部が崩れてしまっている漢字メインの文選箱を整理することにします。並びを整えて見なければ何とも言えませんが、こぼれている活字の数量は、漢字メインの文選箱にうまく収まるくらいの本数であるように思われます。

漢字メインの文選箱から活字を取り出してネッキとピンマークで仕分けした状態

まずは漢字から順に、ネッキとピンマークで分類した活字を文選箱に収めていきます。続いて仮名活字を同様に。

入手時点で漢字メインの文選箱に入っていた活字を揃えて戻した状況

文選箱の、ほぼちょうど4分の3となりました。

同じ要領で、箱外にこぼれていた活字を整理し戻してみます。

箱外にこぼれていた活字を漢字メインの文選箱に戻した状況

入手時点で漢字メインの文選箱に入っていた詰め物が、ちょうどいい塩梅に隙間を埋める状態になることが判りました。

ちなみに、こちらの詰め物は「巖手毎日」ではなく、古いノートの切れ端でした。

漢字メインの文選箱に入っていた詰め物を広げてみた状態

3本ネッキの仮説的分類

こうしていったん文選箱に収めた「西磐井活字」に見られた3本ネッキの活字は、少なくとも5種類、ひょっとすると6種類に分類できる
――分類しなければならない――ようでした。

3本ネッキの位置関係から、当時の鋳型では最大5本のネッキを設定できたように見受けられたことから、活字の足元から文字面に向かってネッキの特徴を表記してみることにします。

①「太細細・・」:築地型
東京築地活版製造所のピンマーク入り活字のネッキ
②「太太太・・」:築地活文舎型
築地活文舎のピンマーク入り活字のネッキ

築地活文舎のピンマークについては、商標の形象がより鮮明に残されているものの速報「築地活文舎五号仮名フェイスの築地活文舎製築地五号ボディ活字(築地活文舎のピンマークと五号活字ネッキの覚書)」をご参照ください。

③「細・細・細」:未詳
商標の痕跡が崩れて判読できないピンマーク入り活字のネッキ
④「・太細細・」:未詳(Aか?)
商標の痕跡が崩れて判読できないピンマーク入り活字のネッキ
⑤(または⑤と⑥)「太太・・太」:少なくとも左側2本は江川活版か?
少なくとも左2本は商標の痕跡が「T」かと思われる活字のネッキ

活字のネッキについて何かご存じの方がいらしたら、ぜひご教示くださいますよう、お願いします。

今後の整理方針をどうしたものか

現時点では当初の文選箱の方向性に従って、「漢字・仮名の別>ネッキの種類>ピンマークの種類」という階層によって整理してみつつあるところだったのですが。

こうして記事を書き進めてみて、「ネッキの種類>ピンマークの種類>漢字・仮名の別(>少なくとも仮名は文字種別に整列)」という階層に切り替えた方がtypefounder研究という観点からも好ましいのではないかという気がしてきたところです。

さてどうしたものか。

*1:関税法でいう第97類「こっとう」の観点

*2:「築地初号フェイスの東京築地活版製造所製初号ボディ活字・42ptボディ活字と15mmボディ規格による錯乱の跡」https://uakira.hateblo.jp/entry/2024/04/08/225523

築地活文舎五号仮名フェイスの築地活文舎製築地五号ボディ活字(築地活文舎のピンマークと五号活字ネッキの覚書)

文選箱の「最初の100本」に東京築地活版製造所のピンマーク入り活字が含まれていた話「築地五号仮名フェイスの築地五号ボディ活字を20本並べてデジタルノギスで計った寸法のメモ(5組測定の100本中1本は築地活版のピンマーク入り)」の続きです。

築地活文舎と「築地活文舎五号仮名」について

築地活文舎の概要については、2024年1月の記事「新しい書体の活字を製品化する際に関わる全工程の担当責任者名を掲げた唯一無二の「製字専業」築地活文舎による三号太仮名のことと国光社「晩稼流」活字のこと」をご参照ください。

「築地活文舎五号仮名」は平野活版(後の築地活版)のいわゆる築地体前期五号仮名のバリエーションのひとつと見られる書風の活字で、小宮山博史氏による復刻版デジタルフォントが大日本スクリーン製造(当時)から発売されていた際の解説が同社「タイポグラフィの世界」に掲載されていますhttps://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography/05typo/05_8typo.html。同フォントは、現在ではモリサワ扱いになっていますから(https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/1855)、ご覧になっていたりお使いになっていたりする方も大勢いらっしゃることでしょう。

築地活文舎五号仮名活字(文字ヅラ正面の反転画像)

築地活文舎五号仮名活字のピンマークとネッキ

築地活文舎五号仮名活字(ナナメ方向)
築地活文舎五号仮名活字(ピンマーク正面)

印刷雑誌』に集中掲載されていた広告中で示されている商標(丸カ)はかなり太字の「カ」でしたがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499001/1/13、ピンマークとして刻印された形象は、だいぶ細字の「カ」だったようです。

築地五号仮名フェイスの築地五号ボディ活字を20本並べてデジタルノギスで計った寸法のメモ(5組測定の100本中1本は築地活版のピンマーク入り)

2020年代に入ってから大きな幸運に恵まれて実現した、古い時代に鋳造されたことが明らかであるような和文活字の大きさを計ってみるシリーズ。

JIS規格より古い時代に鋳造された「号数活字」の寸法は、弘道軒清朝活字を除いて「初号」などの呼び名とおよその大きさは共通していましたが、実寸には各社微妙な違いがありました。

過去3回ほど記してきた初号フェイス活字に続く4回目となる今回は、築地五号仮名フェイスの活字がテーマです。まだ十分に整理分類していないのですが、よく見ると築地体前期五号仮名フェイスの活字と築地体後期五号仮名フェイスの活字が混ざっているように見えます。ひょっとすると、どちらでもない書体の活字も含まれているかもしれません。

文選箱の築地五号活字(部分)
文選箱の築地五号活字(部分、左右反転)

初号活字は1000分の1mmが測れるマイクロメーターで活字ボディの寸法を1本1本拾っていましたが、今回は20本分の寸法(五号20倍相当)をデジタルノギスで計ってみました。20本分をまとめて――というのはプロクター・ヘブラー法を意識したものですhttps://x.com/uakira2/status/1122310269286244352

築地五号ボディ活字1行め20本(74.37mm/1本あたり3.72mm弱)
築地五号ボディ活字2行め20本(73.91mm/1本あたり3.70mm弱)
築地五号ボディ活字3行め20本(73.96mm/1本あたり3.70mm弱)
築地五号ボディ活字4行め20本(74.13mm/1本あたり3.71mm弱)
築地五号ボディ活字5行め20本(74.11mm/1本あたり3.71mm弱)

というわけで、若干のバラつきはありますが、印刷物の計測から3.71mm角程度と考えていた「築地五号ボディ」規格の五号活字と考えてよいように思われます。

手はじめに計測した100本中98本は「無印ピンマーク」でしたが、1本だけ、極めて重要な商標が刻印された痕跡がありました。1行めの20本を接写した中にあります。

築地五号ボディ活字1行め接写(左側)
築地五号ボディ活字1行め接写(右側)

右から5本めの活字(平仮名「り」)に築地活版の商標が刻印されているのでした。

築地五号ボディ活字1行め更に接写

通常ならすべてメツ活字としてとっくの昔に処分されてしまっていてもおかしくない面構えの活字群ですが、よくぞ生き延びていてくれました。

読売より半年先に本文へ築地9ポを採用していた中央新聞は都式活字への切り替えも読売より半年近く早かったが予想外に早く都式から築地9ポ半に乗り換えていた模様

さて、①往時の新聞各紙のうち『中央新聞』が本文活字として築地9ポイント明朝を採用した嚆矢であると言われていて、牧治三郎『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会、1972年)や矢作勝美『活字=表現・記録・伝達する』(出版ニュース社、1986年)が「明治39年12月から」だとしているのは誤りで実際は明治38年に築地9ポ化されているという話を去る5月に記し「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」、その後9月の末に②「早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」、③「読売新聞の本文活字は明治42年1月1日から大正6年2月末まで「都式活字」基調だが明治42年2月からは築地9ポ半が乱雑混植されていた(ので都式活字は9.5ポイントで間違いない)」という話を書き継いできたわけですが。

今回は、『中央新聞』が本文活字として築地9ポイント明朝を捨てて都式活字を採用するタイミングと、都式活字をやめて築地9ポ半へ乗り換える時期についての話です。

明治41年1月26日付『中央新聞』1面(部分、本文築地9ポイント明朝)

中央新聞が築地9ポから都式活字に切り替えるタイミング

6年ほど前に何度か遠隔複写を取得し、更に国会図書館東京本館に出かけてマイクロフィルムを閲覧したところ、『中央新聞』の本文活字は明治41年6月15日から都式活字に切り替わっているのでした。


明治43年2月26日付『中央新聞』1面(部分、本文都式活字)

中央新聞が都式活字を離れ築地9ポ半に切り替えるタイミング

デジタル化されたマイクロ資料の紙焼きを遠隔複写で取り寄せたところ、どうやら明治43年6月2日から9月1日までの間に本文活字が再び都式活字から築地9ポ半へと切り替わったように見受けられます。

明治43年6月1日付『中央新聞』1面(部分、国会図書館蔵デジタル化資料の紙焼き、本文都式活字)
明治43年9月1日付『中央新聞』2面(部分、国会図書館蔵デジタル化資料の紙焼き、本文都式活字)

飛び飛びに取得した遠隔複写資料によると、明治44年3月1日付3面、明治45年3月1日付3面、大正2年3月1日付3面、大正3年3月1日付3面――は明治43年と同じ1段18字詰め・1頁8段組(本文築地9ポ半活字)でした。

大正4年3月1日付3面、大正5年3月1日付3面、大正6年3月1日付3面は1段16字詰め・1頁9段組(本文築地9ポ半活字)。

大正7年3月1日付3面は1段15字詰め・1頁10段組となっており、おそらく本文は築地8ポ半活字。

読売新聞と中央新聞がが9ポ半を脱するタイミングについて「早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」、可能であれば双方の大正6~7年の原紙を確かめてみたいところですが、今のところは残念ながら未確認。

明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―③名古屋新聞の事例

明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探ってみようという試みの2紙目として、『毎日電報』に続き、今回は『名古屋新聞』を取り上げてみます。

明治42年版『新聞名鑑』では1行18字詰め・1頁8段組みとされておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/55、これは本文9.5ptまたは10.0pt活字の段制です「明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―①ブランケット判の段数・字数と活字サイズ」

本文9.5pt活字なのか10.0pt活字なのか、現時点で、『新聞名鑑』の段制情報からは判断できません。

『名古屋新聞』は、明治41年11月3日付『大阪毎日新聞』3面掲載の築地活版による「祝紙面改良」広告で「大ママ毎日新聞、毎日電報、名古屋新聞紙面其他雑誌ニ於テ御使用ノ榮ヲ蒙」っていると言及された、築地10テンポイント明朝早期採用紙のひとつでした「「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」と東京築地活版製造所の10ポ・9ポ半明朝活字」

明治42年版『新聞名鑑』の時点では本文が10ポイント活字だったものと考えて良いでしょう。

名古屋新聞が築地活版製ポイント活字を本文活字に採用するタイミング

国会図書館の遠隔複写でマイクロフィルムの紙焼きを取得し明治41年12月から遡って確認してみたところ、次のようになっていました。

  • 明治41年12月1日付:1行18字詰め・1頁8段組み、本文築地10ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説も10ポイント)
  • 明治41年11月1日付:1行18字詰め・1頁8段組み、本文築地10ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説も10ポイント)
  • 明治41年10月1日付:1行19字詰め・1頁8段組み、本文築地9ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説は本文旧五号活字)
  • 明治41年9月1日付:1行19字詰め・1頁8段組み、本文築地9ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説は本文旧五号活字)
  • 明.1治41年6月1日付:1行19字詰め・1頁8段組み、本文築地9ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説は本文旧五号活字)
  • 明治41年3月1日付:1行19字詰め・1頁8段組み、本文築地9ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説は本文旧五号活字)
  • 明治40年6月1日付:1行19字詰め・1頁8段組み、本文築地9ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説も9ポイント)
  • 明治39年12月1日付:1行19字詰め・1頁8段組み、本文築地9ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説も9ポイント)
  • 明治39年11月6日付:1行19字詰め・1頁8段組み、本文築地9ポイント活字(「今古西東」コラムや連載小説も9ポイント)

念のため、大正4年版『新聞総覧』に記されている「沿革」を手掛かりにhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/162、改題前の『中京新報』についても確認してみました。

  • 明治38年7月16日付:1行19字詰め・1頁7段組み、本文築地五号活字

どうやら、『中京新報』から『名古屋新聞』への改題を機に、本文を五号活字から築地9ポイント活字へと更新したということになるようです。また、9ポイントでは小さすぎるという悪評に対して、都式活字へ流れずに築地10ポイントを採用した(数少ない?)新聞社ということにもなりそうです。

名古屋新聞が10ポから9ポ半に切り替わるタイミング――1段行数で10ポと9ポ半を識別できるか

ところで、大正4年版『新聞総覧』に「活字種類 九ポイント半」と記されているのが気になります(1行16字詰・1段106行・1頁9段:https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/162)。どのタイミングで10ポイントから9ポ半に切り替わったのでしょう。

明治42年版の「新式五号」すなわち築地10ポイント明朝採用時点の紙面は「1行18字詰・1段100行・1頁8段」でしたから(https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/55)、本文活字ベタ100行分の幅は計算上10×0.3514×100=351.4mmです。遠隔複写で取得した明治42年12月1日1面に掲載されている連載小説「四十三年」第13回の本文は1段62行(総ルビ)でした。

大正2年版『新聞総覧』では「特製五号」(1行18字詰・1段107行・1頁8段:https://dl.ndl.go.jp/pid/2390577/1/24)、明治44年版では「新式五号」(1行18字詰・1段106行・1頁8段:https://dl.ndl.go.jp/pid/897420/1/24)となっています。

本文活字ベタ106行は9.5×0.3514×106で353.8mmですから、10ポ100行と左右幅がほぼ同等。というわけで、明治42年から44年頃の間に本文活字が10ポから9ポ半に切り替わり、大正4年版『新聞総覧』の頃でも9ポ半だった、――と考えて良いでしょうか。

遠隔複写の追加を試みます。以下の期間、すべて1段18字詰・1頁8段でした。

明治43年6月1日付(築地10ポ)
1面に掲載されている連載小説「春日局」(碧瑠璃園)第18の6回の本文は1段60行(総ルビ)でした。本文活字に見える「あ」「な」「た」「の」は築地10ポイント型「「大阪毎日新聞」に見える東京築地活版製造所の9ポ・8ポ半明朝活字」

明治43年6月1日付『名古屋新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルムからの紙焼き)

明治43年12月1日付(築地10ポ)
1面に掲載されている連載小説「振袖比丘尼」(山田旭南)第43回の本文は1段60行(総ルビ)でした。本文活字に見える「あ」「な」「た」「の」は築地10ポイント型。

明治44年6月1日付(築地10ポ)
1面に掲載されている連載小説「今魯智深」(山田旭南)第12回の本文は1段63行(総ルビ)でした。本文活字に見える「あ」「な」「た」「の」は築地10ポイント型。

明治44年6月1日付『名古屋新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルムからの紙焼き)

明治44年12月1日付(築地10ポ)
1面に掲載されている連載小説「毒矢」(河原〓雨)第73回の本文は1段61行(総ルビ)でした。本文活字に見える「あ」「な」「た」「の」は築地10ポイント型。

明治45年6月1日付(築地10ポ)
1面に掲載されている連載小説「大石良雄」(碧瑠璃園)第147回は掲載箇所が1面1・2段にあり左右罫目一杯ではなくなっているため、他の箇所を組み合わせて推定した総ルビ本文の行数は1段63行です。本文活字に見える「あ」「な」「た」「の」は築地10ポイント型。

明治45年6月1日付『名古屋新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルムからの紙焼き)

大正元年12月1日付(乱混9ポ半)
1面に掲載されている連載小説「大石良雄」(碧瑠璃園)第326回は掲載箇所が1面1・2段にあり左右罫目一杯ではなくなっているため、他の箇所を組み合わせて推定した総ルビ本文の行数は1段65行です。本文活字に見える「あ」「な」「た」「の」ほか基本活字が都式活字で他の9ポ半活字が乱雑混植の状態になっているように思われます。

大正元年6月1日付『名古屋新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルムからの紙焼き)

――というわけで、名古屋新聞が10ポから9ポ半に切り替わるタイミングは明治45年6月2日から大正元年12月1日までの期間だったようで、また、1段行数で10ポと9ポ半を識別できるかどうかは依然として不明という感じです。

大正2年7月21日付『名古屋新聞』本文9ポ半活字に乱雑混植ジャンブルされている正体不明の9ポ半活字

大正2年7月21日付『名古屋新聞』1面(部分)

少し前に入手できた大正2年7月21日付『名古屋新聞』は、本文の基本活字が実測で9ポ半。多くが都式活字(「B型」)だったようですが、一見すると築地前期五号活字かと思われる大きな文字面の仮名(実際は9ポ半ボディに収まっている)数種を含め、正体不明の9ポ半を含む乱雑混植となっていました。

大正2年7月21日付『名古屋新聞』1面に見える平仮名活字

築地活版の9ポ半「「大阪毎日新聞」に見える東京築地活版製造所の9ポ・8ポ半明朝活字」とも、都式活字「『都新聞』と同附録『都の華』に見える「都式活字」A型仮名とB型仮名、そして松藤善勝堂が1910年代に印刷した雑誌・書籍に見えるABブレンド型仮名」とも、更に大日本印刷秀英体活版印刷ライブラリー」で公開されている秀英舎製文堂の大正3年版『活版見本帖 Type Specimens(仮)』に掲載されている九ポイント半/九ポイント半仮名付https://uv-v3.netlify.app/#?manifest=https%3A%2F%2Farchives.ichigaya-letterpress.jp%2Fapi%2Fpresentation%2F2%2F196c01948e81%2Fmanifest.json&c=&m=&s=&cv=16&xywh=0%2C-414%2C5435%2C4907とも異なる、未知の9ポ半活字。

過渡的なものなのか、また『名古屋新聞』独自のものなのか、他紙にも見られるものなのか。はてさて。