日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

大阪活版所(大坂活判所)が明治3年「5月に開業」したという説の根拠かもしれない五代友厚関係文書MFの複写が「破損・劣化」のため謝絶されてがっかりしている話

大坂の「活判所」が開設されたのは明治3年のいつ頃か

本木昌造が長崎で起こした活版印刷事業は、明治3年から5年にかけて、大阪、京都、横浜、東京と東漸し事業拠点を増やしていきます。最初期の伝記資料である「本木昌造君の行状」には、次のように書かれています(明治24年4月『印刷雑誌』第1巻3号 https://dl.ndl.go.jp/pid/1498914/1/8)。

時ニ維新ノ偉業全ク成リテ諸藩封土ヲ奉還シ世禄ヲ廢セントノ論漸ク世ニ起リケレハ先生ヲモラク今ヨリ早ク其備ヲナサズハ我ガ長崎數百戸ノ扶持人等ノ如キモ遂ニ衣食ニ窮スルニ至ラント是ニ於テ心ヲ決シテ製銕所主任ノ職ヲ辭シ(明治三年)專ラ活字製造ニ從事シ大ニ其業ヲ興シテ彼ノ𦾔扶持人等ニ産業ヲ授ケントセリ是歳春社員小幡正藏酒井三造ノ兩氏ヲ大坂ヘ送リ五代才助氏後ニ友厚ト謀リテ同地ノ大手町ニ始テ活版所ヲ開カシム後ニ北久太郎町三町目ニ移レリ

このように明治24年の「本木昌造君の行状」では「明治3年の春、小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣し、五代友厚と相談して大手町に活版所を開設した」と書かれていたわけなのですが。

本木昌造側から見た大阪活版所の開設(明治3年[3月])

明治27年、その時点の築地活版の代表者だった曲田成によって上梓された『日本活版製造始祖故本木先生小伝』の記述は、次のようになっていました(27頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/782080/1/18)。

時ニ維新ノ偉業全ク成リテ諸藩封土ヲ奉還シ世禄ヲ廢セントノ論漸ク世ニ起リケレハ先生謂ラク今ヨリ早ク之カ備ヲナササレハ我長崎數百戸ノ扶持人等ノ如キモ遂ニ衣食ニ窮スルニ至ラント三年三月意ヲ決シテ製鐵所主任ノ職ヲ辭シ專ラ活字製造ニ從事シ大ニ其業ヲ興シ場ヲ先生ノ自宅ニ設ケ彼ノ𦾔扶持人等ニ産業ヲ授ケントセリ是ニ於テ社員小幡正藏酒井三造ノ兩氏ヲ大坂ヘ遣リ五代才助氏後ニ友厚ト謀リテ同地ノ大手町ニ始メテ活版所ヲ開カシム後ニ北久太郎町二丁目四十番地ニ移レリ

明治3年3月に、長崎の自宅に活版所を設け、小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣して大手町に活版所を開設した」と読める内容になっています。そのためでしょう、本木昌造側から見た大阪活版の開設時期は、単に明治3年とするものと、明治3年3月とするものが並びます。

明治2年とするものや明治4年とするものもあるのですが、明かな誤りと思われ、リストには掲げません。

五代友厚側から見た大阪活版所の開設(明治3年[5月])

五代友厚側から見た大阪活版所の開設時期は、明治3年または明治3年3月とされるものの中に、明治3年5月とするものが並びます。

「大阪活版所跡」碑

跡地の推定と碑の建立に尽力された方の記事が2本、1974年の『月刊印刷時報』359号に並んで掲載されており、それぞれ「3月」と「5月」になっています。

こうした両論併記的な扱いをせざるを得ないためでしょうか、大阪市文化財協会編『大阪市文化財』では碑文と解説が異なる日付を記しています(改訂第5版26頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12712941/1/18〔1982年、大阪市文化財協会〕・改訂第6版36頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13323556/1/22〔1989年、大阪市文化財協会〕)。

《碑文》明治3年3月、五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により、この地に活版所が創設された。大阪の近代印刷は、ここに始まり文化の向上に大きな役割を果した。

長崎にはじまった活版術は、やがて大阪、京都、東京と東漸し、文明開化の一端をになうことになるが、その中心となった大阪活版所は、明治3年5月、五代友厚の要請により、本木昌造が門下生小幡正藏、酒井三造らと共に設立し、活版印刷と活字類の製造販売をはじめた。

五代友厚関係文書

古谷昌二氏のブログ『平野富二とその周辺』に「五代友厚と大阪活版所」という2018年8月27日付の記事がありますhttps://hirano-tomiji.jp/archives/date/2018/08?fbclid=IwAR2R3J769wWqSHpC-Kb8V1jNuOK3KoAqSidxA1nyBc53S4ySqRwI89Q56MM。「大阪活版所の開設に関する経緯、場所、時期」について本木昌造側からの視点が必ずしも定まっていないので、諸事情を解明するため五代友厚関係文書から「大阪における活版所開設に関する各種文書(主として書簡類)を横断的に読み解いた」として以下の①②の内容が紹介されています。

五代友厚側から見た大阪活版所の開設(明治3年[5月])」の項で示した『五代友厚伝記資料』第4巻解説には、これら①②に触れたのち「本木は高弟酒井三造と木幡正蔵を大阪に派遣した。友厚はこの両人を後援して五月に「大阪活版所」を開業させた」と記されています(251頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/131)。ただし「五月に開業」とする根拠が明示されていません。

ひょっとすると、古谷氏のブログ記事で触れられていなかった、『五代友厚関係文書目録』には件名が記載されているけれども『五代友厚伝記資料』には翻刻文が紹介されていない次の資料が「五月に開業」の典拠資料なのではないか――従来は平野富二が五代友厚に諸々ひっくるめて返済した際の資料(「本木先生の借金利子を支佛ひたる受取書(五代才助)」〔三谷『本木昌造・平野富二詳伝』〕136頁図版 https://dl.ndl.go.jp/pid/1214169/1/123)しか参照されていない――

――そのように考えて、先般、国会図書館憲政資料室の五代友厚関係文書マイクロフィルムhttps://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/godaitomoatsu)から②③の遠隔複写を請求してみたわけなのですが。

今般、「誠に申し訳ありませんが、今回のお申込みは以下の理由により、お受けできませんでした。理由: 資料が破損・劣化しており、複写できません。」という複写申し込み謝絶の返信を頂戴してしまいました。残念。

宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)に見える版面の回転は2頁掛け印刷の痕跡ではないか

前々回の「#組版書誌 ノオト:宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)本文および本扉ならびに詩題の組み方について」を踏まえて前回、「宮澤賢治『春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか」を検討し、ある条件を満たせば活字組版を4頁掛にして組みつけることができたと結論づけました。

さて、『春と修羅』初版本を幾つか閲覧させていただいた際、「様々な込物飛び出し跡とTypographic errorなど」の他に気になったのが、版面が大きく回転している(傾いている)箇所があちこちにあることでした。見開きページ左右で版面の位置が上下に大きく食い違っている箇所があることや、ノンブル(の下線)がブレて二重になっているような跡があるところも気になってはいるのですが、今回はいったん忘れておくことにします。

版面の回転(傾き)というのは、例えば早稲田大学図書館古典籍総合データベース今井卓爾文庫蔵本(以下「早稲田古典籍DB今井文庫本」)における156-157頁のような状態を指します。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』156-157頁に見える版面の回転(傾き)

8頁折の形で綴られている『春と修羅』初版本が4頁掛で印刷されたのだとすると、ここは第21折の中央にあたる、連続する左右のページが同時に印刷されている見開きページに該当します。今井文庫本の場合ちょうど綴じ糸が切れているため、図のように「版面の回転(傾き)」が観察しやすい状態になっています。正立させた紙面を基準にすると版面が時計回りに1度くらい回転している(傾いている)状態ということになりますが、これは印刷時に用紙が1度くらい斜めになった状態で供給されてしまった結果ということになります。

国書データベース経由でオーテピア高知図書館近森文庫蔵本(以下「国書DB高知近森文庫本」)を眺めた限りでは、156-157頁の版面は特に回転せず正立しているか、または回転していたとしても角度がゆるやかであるように見受けられるなど、込物飛び出し跡等と同様に、現存各本で様々に異なる様相の印刷誤差として存在するのでしょう。

版面回転のところはどのように印刷されたか

版面回転のところは、活字組版が4頁掛だった場合、どのように組みつけられ、印刷されたでしょうか。

前回の「宮澤賢治『春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか」を踏まえて、早稲田古典籍DB今井文庫本に見える明らかな回転箇所について図にしてみましょう。

  1. 今井文庫本の画像を全ページ取得し、見開き状態の画像から単一ページの範囲を切り出す。
  2. 単一ページの画像について、小口が垂直になるよう角度を調整する。
  3. 理想的な4頁掛け印刷状態であると仮定できる第14折オモテと同じ状態になるよう、4つのページを配置する。

以上のような手順で4ページ分を集合させた画像に、前回同様、「#組版書誌 ノオト:宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)本文および本扉ならびに詩題の組み方について」で見出したレイアウト枠をあてがっていきます。

第21折の版面回転

小口が垂直になるよう角度を調整した単一ページ画像を一通り眺めていって、1つの折の中で最も「版面回転」が多いように見えたのが、第21折でした。

まずは第21折オモテ(153-160頁と156-157頁)。前掲図のように見開き単位で同時に印刷されていることが明らかな156-157頁だけでなく、同じ第21折オモテで左右に並ぶ153-160頁も、同じような角度で傾いている状態のようでした。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』153-160頁と156-157頁(21折オモテ)に見える版面の回転

今井文庫本を見ると、普通に4頁掛で組みつければ次図Aのようになるところ、次図Bのように天マージンを挟んで左右にズレて組みつけられた形になっています。

【図A】「美濃版チース」にノドも揃えて4頁掛で組みつけた状態(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より第14折オモテの想定)
【図B】第21折オモテが「美濃版チース」に4頁掛で組みつけられていた場合(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より想定)

実はこの第21折は、今井文庫本を見る限り、ウラも同じように天マージンを挟んで左右にズレて組みつけられ、オモテとは反対方向に回転している――という状態になっています。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』154-159頁と155-158頁(21折ウラ)に見える版面の回転

4頁掛で、わざわざ先ほどの図Bのような変な組みつけかたをするのかどうか、さて。

目次の折の版面回転

前回の「宮澤賢治『春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか」に記した通り、入沢康夫「詩集『春と修羅』の成立」(『宮沢賢治 プリシオン海岸からの報告』〔筑摩書房、初版第1刷1991年、初版第2刷1996年〕76~119頁)によると、最後の16頁分になる本文297頁から巻末の正誤表までが、第39折と第40折に相当するものを次のように入れ子にして綴ってあるのだということです(99頁「図3 初版本巻末16ページ分」を元に筆者作図)

入沢康夫「詩集『春と修羅』の成立」図3「初版本巻末16ページ分」を元に筆者作図

ここでは、正誤表が掲載されているページを含む折と目次8頁分の折のどちらが第39折でどちらが第40折かを決定せず、「目次の折」としておきます。

「目次の折」オモテは、次図のように、第21折よりも角度は緩やかですが第21折オモテと同じ方向に回転している(傾いている)ように見えます。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』「目次の折」オモテに見える版面の回転

一方で「目次の折」ウラを見ると、天マージンを挟んで版面の回転(傾き)角度が異なっているように見受けられます。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』「目次の折」ウラに見える版面の回転

これが美濃版チースに4頁掛で組みつけられたとするなら、どのような具合になるでしょうか。

「目次の折ウラ」が「美濃版チース」に4頁掛で組みつけられていた場合(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より想定)

わかりやすいようクサビを省いて図にしてみましたが、何らかの意図を持った造形詩というわけでもないのに、このように角度がズレるというのは考えられません。

考えられませんが、話の都合上、第21折オモテの想定図のように見開き印刷の版が天マージンを挟んで平行にズレている状態を「橫ズレ組みつけ」と呼び、「目次の折」ウラのように見開き印刷の版が天マージンを挟んで異なる角度になっている状態を「捻転組みつけ」と呼ぶことにしてみます。

「橫ズレ組みつけ」――第35折オモテ・ウラ

早稲田古典籍DB今井文庫本で版面回転が気になったところのうち、第35折オモテとウラが、第21折などと同様の「橫ズレ組みつけ」にあたるようでした。

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第35折オモテに見える版面の回転(「橫ズレ組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第35折ウラに見える版面の回転(「橫ズレ組みつけ」に見える状態)

「捻転組みつけ」――第11折ウラ、第15折ウラ、第31折オモテ、第34折オモテ・ウラ

早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第11折ウラに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第15折ウラに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第31折オモテに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第34折オモテに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)
早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』第34折ウラに見える版面の回転(「捻転組みつけ」に見える状態)

春と修羅』初版本の版面回転は4頁掛印刷ではなく半裁紙に2頁掛印刷をした痕跡なのではないか

以上のほか、早稲田古典籍DB今井文庫本から「版面の回転」感を受ける所に、第1折本扉、第23折169頁、第29折217頁、第30折225頁、第32折245頁などがあります。

国書DB高知近森文庫本の第1折本扉には回転感がありませんが、第23折169頁は回転、第29折217頁も回転、第30折225頁も回転であるように見えます。第32折245頁は回転のようにも見えるし回転していないようにも見える、という感じ。

やはり現存各本ごとに版面の「回転感」は異なっているようです。

今回仮に「橫ズレ組みつけ」と呼ぶことにした状態も、「捻転組みつけ」と呼ぶことにした状態も、どちらも実際に4頁掛で組みつけて印刷した結果とは考えにくく、半裁紙に2頁掛で印刷した結果と考える方が自然な内容です。

2頁分の活字組版を見開き配置する場合、短辺が五号36倍(約133mm/4寸4分)程度、長辺がノドアキ分を含めて五号59倍(約218mm/7寸2分)程度の矩形となります。さすがに内寸4寸5分×7寸の「端書用チース」には収まりませんが、美濃版チースに2頁掛で組みつけて印刷できるのはもちろん、美濃半裁用チース(内寸6寸×8寸8分)だけでなく、半紙半裁用チース(内寸5寸×8寸)でも2頁掛が成り立ちます。

美濃半裁用チースに2頁掛で組みつけた状態(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より第14折オモテ相当97・104頁の想定)
半紙半裁用チースに2頁掛で組みつけた状態(早稲田古典籍DB今井文庫本『春と修羅』より第14折オモテ相当97・104頁の想定)

春と修羅』初版本の版面回転は、8頁1折の形で綴じられている本文用紙を、4頁掛印刷ではなく半裁紙に2頁掛印刷をした痕跡なのではないか――というのが今回の結論です。

また、本文の最大行長が五号31倍である理由として、前回は美濃版チースに4頁掛で組みつける際の限界値だった――ということを想定していましたが、もし『春と修羅』初版本が全体を通して2頁掛で印刷されていたのだとすると、半紙半裁の手フート印刷機が使われたことに由来する限界だった――とも言えそうです。

4頁掛で印刷した蓋然性が高いと言える内容はあるか

さて、『春と修羅』初版本が8頁1折の形で綴じられている――8頁1折の本は通常1枚の紙のオモテ4頁分を一度に印刷し、ウラ4頁分も一度に印刷して、両面の印刷が終わった用紙を2回折ってからノドを綴じ、天地と小口を切り揃える――、という理由から初版本が4頁掛で印刷されたと想定する以外に、例えば「インクの斑の発生具合」など印刷状態から「ここは4頁掛の印刷だ」と判断できるような痕跡が残されているでしょうか。

版面回転箇所が2頁掛印刷の痕跡であろうことは間違いないと思うのですが、4頁掛印刷の痕跡はどのように捉えればいいのか。

春と修羅』初版本には、4頁掛印刷のところと2頁掛印刷のところが混在しているのか、いないのか。

できれば別の初版本を閲覧させていただく前に方針を見つけ出しておきたいと思っています。

何かお気づきのことがある方がいらしたら、ぜひご教示ください。

宮澤賢治『春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか

さて、小倉豊文「『春と修羅』初版について」宮沢賢治研究会編『四次元』昭和30年4月号〔第7巻第4号〕、復刻版:国書刊行会宮沢賢治研究 四次元 第4冊』〔昭和57年〕)には、『春と修羅』初版本を手掛けた「地元花巻の印刷屋」のことが「田舎町の印刷屋のことであるから手刷の小さな機械しかなく、殊に詩集などの印刷には馴れてもいなかつた」と記されているのでした。

この「手刷の小さな機械」というのは、どのようなものだったでしょうか。

明治末に発行された青山進行堂『富多無可思』は前半が活字書体のカタログで後半が他の資機材のカタログという構成になっていて、「フートプレス」(フート式印刷機)として合計3種の印刷機が掲載されています。

青山進行堂『富多無可思』掲載「はがき印刷器械(フートプレス)」
青山進行堂『富多無可思』掲載「手押フートプレス」
青山進行堂『富多無可思』掲載「足踏フートプレス」

少し長くなるのですが、大阪出版社『最新活版印刷業案内』(大正14年)に書かれたフート式印刷機の解説を見ておきましょう(102-103頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/1017790/1/64

 偖て最も簡略に名刺印刷を開業するにはその土地に應じて必要な活字や、よく人の姓名にあるやうな活字を用意し、若し活字の無い場合は活字製造所から買入れることゝし、込物は取交ぜて參圓位いものを求め、黑インキ半ポンド、よく人の用ひる形の名刺紙若干と、手刷器一臺を求め、先づ三十圓も投ずれば開業することが出來る。
 しかし四十圓内外を出せば手フートの小型印刷機があるからそれを求めると、ハガキとか狀袋のやうなものが印刷出來るから仕事の範圍も廣くなり隨つて注文も多くなる道理である、手フート印刷機には座して作業するものと立つて作業するものとがある、立つて仕事するものは半紙判や美濃判位いのものが印刷出來るから至極便利である。
 元來フートは足踏式の印刷機の稱であるが、足踏の代りに手引式に改造されたものを手フートと呼ぶやうになつたのである

大正活版所(吉田印刷所)が設備していた可能性がある「手刷りの小さな機械」は、青山進行堂『富多無可思』で言うところの「はがき印刷器械」ではなく、「手押フートプレス」の類か、または「足踏フートプレス」が「足踏の代りに手引式に改造されたもの」の類のどちらかだっただろうと思われるのですが、どちらだったか決め手はあるでしょうか。

また、機構の決め手は見つからないとしても、そもそも『春と修羅』4頁分の活字組版を一度に組み付けて印刷できる「手刷の小さな機械」とは、どのようなサイズ感のものだったでしょう。

大正活版所(吉田印刷所)が設備していた可能性がある「手刷りの小さな機械」

西岡長作『活版印刷開業案内』では、「手フート」印刷機について「專ら名刺、はかき等の印刷に適當するように作られたものが、同業案内中に記されたる手フートである」「大型と小型があつて、大型は半紙半枚のものまで印刷が出來る」と解説されています(巻末の藤村悌次「活版材料の種類と値段及其買ひ方」4ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/919297/1/39

少し後ろに「手フート」とだけキャプションがつけられた写真が掲載されているのですが(下図:https://dl.ndl.go.jp/pid/919297/1/52、「大型」なのか「小型」なのか、ちょっと見当がつきません。

西岡長作『活版印刷開業案内』巻末掲載の「手フート」印刷機

大阪出版社『最新活版印刷業案内』には「半紙半枚」対応であろう大型「手フート」と、「足踏の代りに手引式に改造された」もの、2種類の写真が掲載されています。

大阪出版社『最新活版印刷業案内』102-103頁掲載「手フート(一)」右側/「手フート(二)」左側

大阪出版社『最新活版印刷業案内』103頁に掲載されている「手フート(二)」が、「足踏の代りに手引式に改造された」弾み車を回転させる方式の印刷機になります。ここでは「手フート(一)」形式のものを「レバー式」の手フート印刷機、「手フート(二)」形式のものを「車式」の手フート印刷機と呼んでおきます。

大正活版所が開業する頃に存在していたかどうかは判りませんが、三谷幸吉『誰にも判かる印刷物誂方の秘訣』(昭和5年)に掲載されている明京社印刷機械店の広告によるとhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1175447/1/52、「レバー式」の手フート印刷機として、更に大きな美濃判や半紙判に印刷できるものも作られていたようです。先ほど引用した大阪出版社『最新活版印刷業案内』で「立つて仕事するもの」と言われているのが、このサイズに相当しますね。

三谷幸吉『誰にも判かる印刷物誂方の秘訣』(昭和5年)に掲載されている明京社印刷機械店の「フート印刷機械」広告

手フート印刷機の仕組みをおさらいしておきましょう。「レバー式」の手フート印刷機であるAdana(8x5)で、インキローラーを取り外して「仕組み」を判りやすくした状態。

Adanaの版盤と圧盤

印刷する際には、「版盤」へ鉄枠chaseに組み付けた活字組版を取り付け、「圧盤」側に用紙をセットします。

Adanaの版盤に鉄枠(組版)をセットし圧板に用紙をセットしたイメージ

レバーを押し下げると圧盤がヒンジ運動で版盤に接近し、接触・加圧されることで、組まれた版の文字(や図)の表面に塗布されたインキが用紙に転写されます。

このイメージのように圧盤より大きい用紙をセットすることも可能ですが、1度に印刷され得るのは、鉄枠chaseに組み付け可能な版の大きさまでとなります。

せんだいメディアテーク地下の活版印刷工房にある手フート印刷機(「テキン」とも称されます)は明京社印刷機械店の「フート印刷機械」広告の小型の方(半紙半裁)と外見はそっくりのもので、内寸6寸×8寸に相当する大きさのchaseとなっており、ハガキサイズの紙に印刷する版を組み付けたところが次の写真になります。

カレンダー兼活字見本(ハガキサイズ)の組版を半紙半裁「チース」に組み付けた状態

当時の締め具は写真のような両開きの「ジャッキ」ではなく、スライド式の金具(森川龍文堂『活版総覧』〈昭和8年〉より「鉄製クサビ」の図:https://dl.ndl.go.jp/pid/1209922/1/164か単純なクサビのどちらかだったようですが、いずれにせよ、最小限必要な締め具や押さえ木の寸法を考えると、チース内径よりタテもヨコも1寸から1寸5分程度は小さい寸法が組みつけ可能な最大サイズになりそうです。

印刷材料新報社『印刷材料品仕入案内 1930 関西版』(昭和5年)には、色々な大きさの「フート印刷機械」の流通価格が用紙サイズと対応する「チース(chase:組付枠)」の寸法と共に示されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1055936/1/65。表として拾い出してみると、次のような感じです。

名称 チース内径
名刺端書用 4寸×6寸
端書用 4寸5分×7寸
半紙半裁用 5寸×8寸
美濃半裁用 6寸×8寸8分
ビクトリヤ型 5寸×8寸
半紙版 7寸5分×10寸
美濃版 9寸5分×10寸3分

フート式印刷機としては、半紙版や美濃版――更に特別なものとして美濃寸延版(長手方向を一寸延ばしたもの)――が最大寸法となるようです。

春と修羅』初版本は何ページ折か

東京都立中央図書館本のように改装されたものは別として、綴じ糸が弱った状態の原装本を見ると、8頁を1折として綴じられている様がよく分かります。本扉から序文末までが第1折で、第2折から第38折まで――「春と修羅」章扉から本文296頁まで――が8頁単位でひとつの塊になっています。

右綴じ(右開き)8頁折の任意の1折を天から見た模式図

右綴じ(右開き)8頁折の任意の1折を天から見ると図のようになるわけですが、ここで早稲田大学図書館古典籍総合データベースで今井文庫の『春と修羅』画像を眺めてみましょう。綴じ糸が無くなっていてかつ比較的撮影時の紙面湾曲が少ない箇所では、例えば96頁が第13折の最終ページ、97頁が第14折の開始ページでありhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko03a/bunko03a_00851/bunko03a_00851_p0061.jpg、98頁は第14折の2頁目で99頁は第14折の3頁目(なので、98頁・103頁の面から99頁の面が浮いている: https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko03a/bunko03a_00851/bunko03a_00851_p0062.jpg、100頁と101頁は第14折の中央見開きで、ほぼ間違いなく当該見開きが同時に印刷されている状態https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko03a/bunko03a_00851/bunko03a_00851_p0063.jpg、102頁は98頁と対になる第14折の6頁目(なので、これも98頁・103頁の面から浮いている:https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko03a/bunko03a_00851/bunko03a_00851_p0064.jpg、104頁が第14折の最終ページで105頁は第15折の開始ページであるhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko03a/bunko03a_00851/bunko03a_00851_p0065.jpg――といったことが見て取れます。

初版本のうち、例えば2025年3月に閲覧させていただいた日本近代文学館蔵本は、①44-45頁、②124-125頁、③132-133頁、④140-141頁、⑤156-157頁、⑥172-173頁、⑦180-181頁、⑧188-189頁、⑨196-197頁、⑩204-205頁、⑪212-213頁、⑫220-221頁、⑬228-229頁、⑭236-237頁、⑮244-245頁、⑯252-253頁――の16か所で綴じ糸の保持力が失われていて、8頁折の中央であることが明確に確認できました。

さて、先ほど「第2折から第38折まで――「春と修羅」章扉から本文296頁まで――が8頁単位でひとつの塊になって」いると記しました。入沢康夫「詩集『春と修羅』の成立」(『宮沢賢治 プリシオン海岸からの報告』〔筑摩書房、初版第1刷1991年、初版第2刷1996年〕76~119頁)によると、最後の16頁分になる本文297頁から巻末の正誤表までが、第39折と第40折に相当するものを次のように入れ子にして綴ってあるのだということです(99頁「図3 初版本巻末16ページ分」を元に筆者作図)

入沢康夫「詩集『春と修羅』の成立」図3「初版本巻末16ページ分」を元に筆者作図

この巻末16頁分も、8頁1折を特別な順番で印刷し、入れ子にして綴ったもの――と考えられます。

4頁分の活字組版をどのように配置するか

8頁1折の場合、1枚の紙に表側4頁、裏側4頁をまとめて印刷するわけですが、最初の折り目を本の天側にするか地側にするかで、各頁の活字組版のチースへの組みつけかた(版の掛けかた)が異なります。

4頁掛の第1折オモテ:天中央と地中央の違い

この図では単に各頁の版の向きが違うだけであるように見えますが、現物に即して考えると、天マージンと地マージンが大きく異なっているので、限られたチースの枠内に版面が収まるかどうかという問題が隠れています。

「#組版書誌 ノオト:宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)本文および本扉ならびに詩題の組み方について」(2025/10/04)で検討した通り、縦方向の本文最大寸法は五号31倍(約115mm/3寸8分)――ノンブルも含めると縦方向は五号34倍(約125mm/4寸2分弱)――で、横方向は五号23倍から23.5倍という寸法でした。

天側であるにせよ地側であるにせよ、折って裁断するための断ちしろがマージンの外側に少なくとも9mm(3分)程度必要と想定し、また私の用語で言う「総版面」の外周を五号全角の木インテルで押さえてやる必要がある、――という前提で4頁分を組みつけるのに必要な最小スペースを確認してみましょう。

早稲田古典籍DB『春と修羅』第14折オモテが天側を中央にして刷られていた場合

春と修羅』第14折オモテが天側を中央にして刷られていた場合、図のように、長辺が五号84倍(約311mm/10寸2分5厘)程度、短辺が五号59倍(約218mm/7寸2分)程度の矩形になります。美濃版のチースには長辺がギリギリ収まりますが、半紙版以下のチースには収まりません(天側の断ちしろがゼロで良ければ、長辺五号81倍半から82倍程度≒ほぼ丁度10寸となり半紙版チースに収まりますが、断ちしろゼロはナンセンスな仮定です)

早稲田古典籍DB『春と修羅』第14折オモテが地側を中央にして刷られていた場合

春と修羅』第14折オモテが地側を中央にして刷られていた場合、図のように、長辺が五号93倍(約344mm/11寸3分6厘)程度、短辺が五号59倍(約218mm/7寸2分)程度の矩形になります。美濃版のチースにも収まらず、美濃寸延版でも収まるかどうかわからないサイズ感。

地側を中央にして組みつけることが可能だった場合、「#組版書誌 ノオト:宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)本文および本扉ならびに詩題の組み方について」で触れたような、一部の字間をベタにして行長を五号31倍に収めるような調整は全く不要で、全て四分アキで通すことが可能です。

美濃寸延版のチースにギリギリ収まったかも――という可能性は捨てて良いでしょう。

4頁分の組版をどのように組みつけたか

大正期に8頁掛けでチースに組みつけている様子が、矢野道也『印刷術 上巻』(丸善大正2年)に図示されています(180頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/949336/1/99。これに倣いつつ当時の「4ページ本掛け組みつけ」(天側を中央にしている場合)の一般的な状態を図にしてみます。

大正期の「4ページ本掛け組みつけ」概念図

先ほど検討した「『春と修羅』第14折オモテが天側を中央にして刷られていた場合」の寸法と美濃版チース(9寸5分×10寸3分)のサイズ感に基づいて検討すると、実際の「4ページ本掛け組みつけ」は次のような状態であったと考えられます。

春と修羅』の「4ページ本掛け組みつけ」想定図

ところどころ行の並びが微妙に歪んでいっている頁が散見されることを勘案すると、「締め木」は2頁分にまたがる形ではなく1頁分に届いているかいないかの、調整が難しそうな形になっていたかもしれません。

当面の結論

さて、今回の問いは「宮澤賢治春と修羅』初版本は活字組版を4頁掛にして「手刷の小さな機械」で刷ることができたか」というものでした。

  • 「美濃版の手フート」なら少なくとも活字組版を4頁掛にして組みつけることはできた。
  • 天側を中央にして組みつけられたものと考えて良い。

――というところを、当面の結論としておきます。

現在私たちが印刷博物館市ヶ谷の杜 本と活字館で体験印刷をさせていただける「手刷りの小さな機械」はAdana 8x5という「葉書用」に相当するサイズ(チースが8インチ×5インチ:約6寸7分×4寸2分)ですから、これに比べるとだいぶ大きい印刷機になります。市ヶ谷の杜 本と活字館に据えられている本格的な書籍印刷にも使われ得る平台印刷機等に比べて「小さな機械」という評なのでしょう。

#組版書誌 ノオト:宮澤賢治『春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)本文および本扉ならびに詩題の組み方について

先日の「宮澤賢治『春と修羅』初版(関根書店、大正13〔1924〕)各本の様々な込物飛び出し跡とTypographic errorなど」(2025/09/22)に記した通り、「宮澤賢治『春と修羅』初版本に使われている活字のうち盛岡の山口活版所から買い足されたものを想像する(前篇)――大正末の山口活版所の仮名活字はどのようなものだったか――」(2025/02/16)「宮澤賢治『春と修羅』初版本に使われている活字のうち盛岡の山口活版所から買い足されたものを想像する(後編)――大正活版所(吉田印刷所)の規模感と漢字活字セット――」(2025/02/23)を書いた後になってようやく、『校本 宮澤賢治全集 第二巻』(筑摩書房昭和481973年、以下『S48校本』)、『【新】校本 宮澤賢治全集 第二巻 詩Ⅰ校異篇』(筑摩書房平成71995年、以下『H7新校本』)を手に取って、色々と驚いていました。

宮澤賢治春と修羅』初版本(関根書店、大正13〔1924〕)の組み方

「校本全集」に記されている組み方

さて、『校本 宮澤賢治全集 第二巻』「校異」によると、『春と修羅』初版本の体裁は次のようになっています(『S48校本』263頁〔箱・表紙・奥付の情報は割愛〕)。

 内容は、見返しの次に薄紙一枚のあと、本文と同じ紙の本扉(縦に十三本の細罫(長さ104mm 間隔7.9mm)を引いた上に
   心象スツケママチ           (四号活字)
    春 と 修 羅         (三号活字)
          大正十一、二年   (三号活字)
と印刷してある。裏は白)、「序」六頁(ノンブル3~8)、以下本文三〇一頁(中扉八丁十六頁を含む。本文は十二行一段組、五号活字で字間四分。題名は八字下ゲで四号活字。中扉章題名は三号活字。中扉にはノンブルがなく、本文ノンブルはあらためて3からはじまって301まで。301裏は白)、「目次」八頁(ノンブルなし。「目次」という文字は三号活字、章題名は四号活字、詩篇題名は五号活字)、奥付一頁(裏罫の枠内に次の内容が印刷されている。検印は朱肉)、

これが『【新】校本 宮澤賢治全集 第二巻 詩Ⅰ校異篇』「校異」によると、『春と修羅』初版本の体裁は次のようになっています(『H7新校本』5頁〔箱・表紙・奥付の情報は割愛〕)。

 内容は、見返しの次に薄紙一枚のあと、本文と同じ紙の本扉(縦に十三本の細罫(長さ104mm 間隔7.9mm)を引いた上に
   心象スツケママチ           (四号活字)
    春 と 修 羅         (三号活字)
          大正十一、二年   (三号活字)
と印刷してある。裏は白)、「序」六頁(ノンブル3~8)、以下本文三〇一頁(中扉八丁十六頁を含む。本文は十二行一段組、五号活字で字間四分。題名は四号活字で、「春と修羅」の章から「小岩井農場」の章までは本文活字で六字(分強)下ゲ、「グランド電柱」の章以降は八字(分強)下ゲ。但し、「春と修羅」の章の第二折(九~一七頁。詩篇「コバルト山地」から「春光呪〔詛〕」まで)は八字(分強)下ゲ。また、「無声慟哭」の章の「松の針」及び「オホーツク挽歌」の章の「オホーツク挽歌」のみは六字(分強)下ゲ。中扉章題名は三号活字。中扉にはノンブルがなく、本文ノンブルはあらためて3からはじまって301まで。301裏は白)、「目次」八頁(ノンブルなし。「目次」という文字は三号活字、章題名は四号活字、詩篇題名は五号活字)、奥付一頁(裏罫の枠内に次の内容が印刷されている。検印は朱肉)、

このように、基本の情報について『S48校本』が踏襲されつつ、『H7新校本』では題字の組み方に関する情報が大きく増えていました。『H7新校本』の記載はじゅうぶん素晴らしいのですが、自分なりの観点で「#組版書誌 ノオト」を追記しておきたいと思います。

春と修羅』初版本文の組み方――字間・行間のアキと最大版面を探る

この項は、国会図書館デジタルコレクションの画像https://dl.ndl.go.jp/pid/979415/1/2、以下「国会デジコレ」)と、早稲田大学図書館古典籍総合データベースの画像https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko03a/bunko03a_00851/index.html、以下「早大古典籍DB」)高知市民図書館近森文庫本の国書データベース画像https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300004580/1?ln=ja、以下「国書DB高知近森」)、そして
日本近代文学館による精選名著復刻全集の影印版https://www.bungakukan.or.jp/publication/pub_list/、以下「精選復刻」)に基づきます。

「序」の末尾、著者名が行末まで下げて組まれている箇所を、まずは最大行長の候補と見てみましょう。

精選復刻『春と修羅』初版「序」8頁(想定本文組加工:筆者)

本文は五号活字で字間四分、行間が五号全角で1頁12行1段組。行頭から著者名末尾「治」まで五号29.5倍。――となっています。

この「五号29.5倍」の升目を当てながら本文を読み進めていくと、版面がタテ五号31倍となっているところが8ページほど見つかりました。

精選復刻『春と修羅』初版「蠕蟲舞手」60頁(想定本文組加工:筆者)

このうち「小岩井農場」パート三82頁4行目、「白い鳥」201頁2行目、「青森挽歌」213頁7行目の3箇所は字間のアキが一部ベタ(アキ無し)になるよう調整して全体を五号31倍に収めてあるので、印刷上の制約からタテ五号31倍が最大値なのであろうと思われます。

またこのうち「白い鳥」201頁は1行目にルビが付されているため、縦ヨコ共に最大となる版面になっています。

精選復刻『春と修羅』初版「白い鳥」201頁(想定本文組加工:筆者)

このように『春と修羅』初版「白い鳥」201頁は、私の用語で言う「本版面」がhttps://x.com/uakira2/status/889846945342078976、タテ五号31倍で、ヨコ五号23倍半。同じくノンブル領域を含む「総版面」はタテ五号34倍程度。

春と修羅』初版に見える三号活字・四号活字の大きさと詩題の組み方

春と修羅』初版の本扉に先ほど図解した「想定本文組」のマス目を当てはめてみると、初版本の印刷に使われた三号活字と四号活字の(五号活字に対する)相対的な大きさが概ね判明しました。

精選復刻『春と修羅』初版の本扉(想定本文組加工:筆者)

五号31倍(五号全角ベタ31字分)の行長と四号24倍(四号全角ベタ24字分)の行長がほぼ同じ(四号活字は五号活字の約1.29倍)――五号31倍と四号24倍は厚紙1枚か2枚程度は違うかもしれません――、五号30倍(33倍)の行長と三号20倍(22倍)の行長がおそらく同じ(三号活字は五号活字の1.5倍)――薄紙程度の違いがあるかもしれません――。

本扉の「心象スツケチ」は四号3字サゲで始まり、四号活字・二分アキ組。「春と修羅」は三号4字サゲで始まり、三号活字・一倍+二分アキ組。「大正十一、二年」は三号11字半サゲで始まり、三号活字・四分アキ組(読点は四分サイズを字間に配置)。

罫線の長さは「本版面」の最大行長である五号31倍より五号四分から二分程度短いくらいかと思われ、また罫線の間隔は五号二倍と同等か五号一倍+八分の七程度かと思われます。

詩題「くらかけの雪」

四号活字のサイズ感の検証を兼ねて、詩題「くらかけの雪」の組み方を見てみます。

精選復刻『春と修羅』初版4頁「くらかけの雪」(想定本文組加工:筆者)

本扉のサイズ感でマス目を当ててみたところ、四号6字サゲで始まり、四号活字・ベタ組で「くらかけの雪」――と見て間違いないようです。

詩題「春と修羅

同様に「春と修羅」の組み方を。

精選復刻『春と修羅』初版12頁「春と修羅」(想定本文組加工:筆者)

四号8字サゲで始まり、四号活字・二分アキ組で「春と修羅」。

詩題「小岩井農場
精選復刻『春と修羅』初版63頁「小岩井農場」「パート一」(想定本文組加工:筆者)

小岩井農場」は四号6字サゲで始まり、四号二分アキ。「パート一」は四号8字サゲで始まり、四号活字・二分アキ組。

詩題「オホーツク挽歌」
精選復刻『春と修羅』初版228頁「オホーツク挽歌」(想定本文組加工:筆者)

「オホーツク挽歌」は四号6字サゲで始まり、四号活字・ベタ組。

――というような具合でしたから、四号活字のサイズ感は本扉からの想定で、間違いないでしょう。

* * *

「蠕蟲舞手」に使われている「8」「γ」「e」「6」「α」はタテ四号ヨコ五号に相当する大きさの活字であるように見受けられるのですが、前掲図(「60頁」)の通り、行組版の検討は未了です。

モトヤ商店の㋲ピンマーク入り初号明朝活字と一号明朝活字

金属活字、写植、デジタルフォントと技術環境の変化に寄り添いながら和文活字書体を供給し続けてくれている株式会社モトヤ(https://www.motoyafont.jp/)は、昭和331958年に社名変更するまで、株式会社モトヤ商店という商号を掲げていました*1

株式会社モトヤ商店は、『国勢総覧 第17版』(国際連合通信社、昭和33年)では「大正14年創業」「昭和24年4月創立」とされているのですが(294ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/1692760/1/694、『兵庫県の印刷史』(兵庫県印刷紙工品工業協同組合、昭和31年)には「活字販売で有名なモトヤ商店が、姫路に店を開いたママ大正11、2年ごろであった」とあり(77ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/2495054/1/42、また『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年)では「大正11年、初代の慶次郎氏が姫路において創業、活字、母型の製造を開始」「昭和24年4月1日、改組して株式会社モトヤ商店とする」とあります(485ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/255

創業に関しては、『大阪印刷百年史』に「大正11年2月、古門慶次郎(古門正夫の厳父)により、姫路市において創業」とあるように(「各社沿革史」398ページ:https://dl.ndl.go.jp/pid/12047111/1/205、公式サイト「モトヤフォントの歴史」が記す大正111922年2月11日に創業というのが間違いのないところなのでしょう。

㋲ピンマーク入り初号明朝活字・一号明朝活字(ピンマーク正面方向)
㋲ピンマーク入り初号明朝活字・一号明朝活字(斜め方向)

この3年ほどの間に、先日の中空活字「盛功社吉田民助の特許である中空大型活字鋳造装置によって太平洋戦争期に鋳造されたものと思われる初号明朝活字」と同じ印刷所さんに伝存していた、28本の㋲ピンマーク入り初号明朝活字と1本の㋲ピンマーク入り初号角ゴシック活字、そして一号明朝活字をお迎えさせていただいていました。

㋲ピンマーク入り初号明朝活字・初号角ゴシック・一号明朝活字(文字面正面)

旧字体の具合やモトヤの履歴から、この活字は大正末か昭和ヒトケタから昭和23~24年頃までの期間に鋳造されたものと、以降昭和33年頃までに鋳造されたものの2グループに分かれているのではないかと予想しています*2

ちなみに、モトヤ商店名義でおそらく昭和321957年に発行された総合見本帖『書体』には、主に旧字体の漢字を掲げる「初号明朝」の見本と、主に新字体の漢字を掲げる「42pt明朝」の見本が掲載されていて、どちらも「総字数5,000字」とあります。

モトヤ商店『書体』(推定昭和32年刊見本帖)表紙
モトヤ商店『書体』(推定昭和32年刊見本帖)30頁「42P明朝」
モトヤ商店『書体』(推定昭和32年刊見本帖)47頁「初号明朝」

モトヤ製活字の大きさと重さ

今般、朝日堂の時などと同じく、「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」と同じ計り方で初号活字の大きさと重さを計ってみました。「築地初号フェイスの東京築地活版製造所製初号ボディ活字・42ptボディ活字と15mmボディ規格による錯乱の跡」に記した青山進行堂の活字と築地活版の活字のサイズ分布に今回のモトヤ初号を重ねてみましたが、概ね42ptボディーと見て良さそうです(縦方向の大きさを見ると29本中26本は14.598±0.18mmの範囲に収まっており、これは42ptボディーと思って間違いないものと思われるのですが、14.78mmを超える「授」「要」「秘」の3本は単なる外れ値ではなく「築地初号格」かもしれません)

モトヤ商店・東京築地活版製造所・大阪青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布

従来作っていなかったグラフで今回我ながら興味深く感じられたのが、重さの分布です。

モトヤ商店が鋳造した初号活字の重量分布

外れ値のものが見つかるのは常のことですが、微妙な大きさのバラつきとは別に、大きく分けて38グラムより重いグループと37グラムより軽いグループに分かれているように見受けられます。重量級17本のうち10本は40.14グラムから42.03グラムの範囲にあり、軽量級12本のうち8本が34.55グラムから36.42グラムの範囲にあります。

初号活字の重さについては「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」の後半でも触れていて、〈「初号ボディ」で38g前後、「42ポイントボディ」で40g前後となるグループ(点、正、洗、濯、毅、段、和、量)と、「初号ボディ」で30g前後のもの(江、牢、物)の2グループ〉に分かれているようだ――という観察結果でした。

モトヤ製の活字も、「菜、ケ、樣」等は軽量級の外れ値ではなく〈「初号ボディ」で30g前後〉に相当する超軽量グループと見るべきで、「時、授、歳」等は重量級の外れ値ではなく超重量級グループということになるのでしょうか。

2種類の㋲ピンマークとモトヤ製初号活字の重さ

ピンマーク斜め方向の写真を撮った「葉」は軽量級の最重量である36.42グラム、「音」は重量級の標準範囲と思われる40.61グラムでした。29本の初号活字に刻印されているピンマークをよく見ると、細丸ゴシック風の「モ」(「音」に刻印されているもの)と、中太角ゴシック風の「モ」(「葉」に刻印されているもの)という2種類に分類できそうです。

重さの分布について、y軸を「活字サイズ縦」から「ピンマーク種別」に変更して確認してみましょう。

ピンマーク太字㋲・細字㋲の別とモトヤ製初号活字の重さ

細丸ゴシック風の「㋲」には軽量級のものが無く、中太角ゴシック風の「㋲」は概ね軽量級(一部「超軽量級」と「重量級」含む)という状態に分かれていました。

先ほどまでとは少し見方を変え、ピンマークと重さの関係は、次のように考えるのが良さそうに思えます。

  1. 細丸ゴシック風の「㋲」は「初号ボディ」用の鋳型で特定の鋳造機によって鋳込まれた。
  2. 中太角ゴシック風の「㋲」は「42ptボディ」用の鋳型で鋳込まれている。
  3. 42ptボディの活字は複数の鋳造機によって鋳込まれており、㋑「ス」が多く入ってしまい超軽量に仕上がる機械、㋺ほどほどの重さに仕上がる機械、㋩「ス」の入りが極めて少なく重量級に仕上がる機械――の少なくとも3種類が使われた。

3番目の観点のうち特に㋑は、実際には鋳造に用いた機械(機種)の違いではなく、終戦直後の時期に「文字面にさえスが入っていなければ十分」という粗製乱造(せざるを得なかった状況)によるものかもしれません。

先ほどのモトヤ商店『書体』(推定昭和32年刊)の冒頭、同社の「経歴書」は、次のような書き出しになっています。

 当社は大正十一年現社長の先代古門慶次郎氏が兵庫県姫路市本町に於てモトヤ商店を創業、活字の製造印刷材料の販売を開始第二次世界大戦まで堅実に営業して参りました、昭和二十年七月四日戦災を蒙り一切を灰燼に帰しましたが翌月直に戦災機械を修理復興に着手、姫路に於て活字製造を再開いたしました
 昭和二十一年三月大阪市南区塩町通り一丁目の現住所に進出、母型・活字の製造販売を開始、関西印刷業者の復興に率先協力、大方業者より多大の感謝を寄せられました
 昭和二十四年四月一日組織を株式会社に改め(資本金壱百萬円也)古門正夫社長、古門龍雄専務に就任、本店を大阪へ移し、姫路は支店として全国的に販路の拡張を図りました

いつか「活字資料館」を訪問する機会を持てたら、初号活字のピンマークが2種類存在することと活字鋳造機の関係について、伺ってみたいと思います。

*1:「社名変更」を告げる『月刊印刷時報』172号(昭和33年9月)の雑報欄では大阪本社・東京支社・九州支社が「株式会社モトヤ」とされ、創業地のみ「株式会社姫路モトヤ商店」となっている一方で(88頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/11434635/1/67)、短冊広告での名称は東京支社も大阪本社も「株式会社モトヤ商店」のままでした(https://dl.ndl.go.jp/pid/11434635/1/77)。

*2:株式会社モトヤでは平成81996年まで金属活字の鋳造販売を継続しておられたそうなので(「モトヤフォントの歴史」https://www.motoyafont.jp/about/history.html・「活字資料館」https://www.motoyafont.jp/about/motoya-typo-museum.html)、初号活字に関してはピンマーク入りになるような鋳造機が最後まで稼働していた――というような事情があったかもしれません。その場合、より新しい方の活字は昭和33年頃と言わず、昭和末や平成初期まで下った時期に鋳造されたものの可能性があります。

宮澤賢治『春と修羅』初版(関根書店、大正13〔1924〕)各本の様々な込物飛び出し跡とTypographic errorなど

先日の「宮澤賢治『春と修羅』初版本に使われている活字のうち盛岡の山口活版所から買い足されたものを想像する(前篇)――大正末の山口活版所の仮名活字はどのようなものだったか――」「宮澤賢治『春と修羅』初版本に使われている活字のうち盛岡の山口活版所から買い足されたものを想像する(後編)――大正活版所(吉田印刷所)の規模感と漢字活字セット――」を書いた後になってようやく、森荘已池「『春と修羅異稿について」(『宮沢賢治全集 別巻』〔筑摩書房昭和441969年〕、111-124頁)、『校本 宮澤賢治全集 第二巻』(筑摩書房昭和481973年、以下『S48校本』)、『【新】校本 宮澤賢治全集 第二巻 詩Ⅰ校異篇』(筑摩書房平成71995年、以下『H7新校本』)を手に取ってみました。

宮沢清六「燻淨された原稿」(『四次元』第7巻第4号〔宮沢賢治友の会、昭和401965年4月〕1-3頁/復刻版『宮沢賢治研究 四次元 第4冊』〔国書刊行会昭和571982年〕1377-1379頁)において、昭和201945年8月10日の空襲で焼けてしまった宮澤家の土蔵から『春と修羅』入稿原稿が再発見された状況が報告されていたわけなのですが。森荘已池「『春と修羅異稿について」によると「この原稿を見て、先ず目につくのは、吉田印刷所にない活字を示すために、赤インクで丸を書いてあることである」と書かれていた「吉田印刷所にない活字」が何であったかについて、『H7新校本』では「『春と修羅』詩集印刷原稿に関する補説」で網羅的に示されているのでした(『H7新校本』166-169頁)。びっくり。

国会図書館デジタルコレクションの『春と修羅』初版本を眺めて、「吉田印刷所にない活字」に関係があるのか無いのかと気になっていた「込物飛び出し跡Spacing material work-up」なのですが、幾つか見比べていったところ諸本の間に思いのほか違いがあることが見えてきて、各本に見える「込物飛び出し跡」の違い自体が面白くなってきました。

今後各地に存在する初版原本を閲覧させていただく機会に恵まれた際に活用するため、2025年4月時点で気がついた「込物飛び出し跡」を比較表の形で取りまとめておきます。

思ったより多くの違いがある――ということに気づいていない段階で閲覧させていただいた日本近代文学館蔵本と東京都立多摩図書館蔵本は、どちらも全体を通してチェックしたつもりではあるのですが、他の本で出現していた飛び出し跡の確認という意識が薄かった箇所については飛び出し跡の有無を示すメモを残していなかったため「?」とせざるを得ない状況です。ひょっとすると他にも多くの見落としがあるかもしれません。お気づきの方がいらしたら、お教えください。

このメモは距離的に一番近い仙台文学館を再訪して「?」を減らしてから公開するつもりでいたのですが、「B公開制限」資料のため予定を調整して訪問する必要があり、なかなか再訪を果たせそうにないことから、不十分な内容と思いながらも現状で公開してしまうことにしました。

宮澤賢治春と修羅』初版各本の込物飛び出し跡とTypographic errorなど

込物飛出し跡はいわゆるテキストに関わらない印刷ミスのため、全集等で言及されていないようですが、個人的にとても面白がっているものです。大半は本文の字間に使われている四分スペースが浮き上がってインクが付着してしまったもので、表中では「■」で示しました。

Typographic errorはいわゆるテキストに関係する印刷ミスを含むため全集等で言及されている箇所がある――と、後から知りました。あるべき(であろう)文字が消失している箇所は「□」で示しました。活字の受傷や摩滅またはインク不足あるいはその組み合わせによって各文字の一部画線が欠落したように見える箇所が複数文字や複数行に及んでいるような状態を「不定カスレUneven inking」としました。また複数行等にわたって文字写りが薄墨状になっているものを「インク薄弱」や「インク極薄」としました。活字の摩滅等によって不自然に太字になっている箇所が幾つもあることにも気づいていますが、現時点では観察対象外としています。

表の略称:

頁/行内容国会今井近森多摩近代仙台
3/ノンブル形式下線 下線 下線(n)下線下線
4/ノンブル形式下線 下線 下線(n)下線下線
5/ノンブル形式下線 下線 下線(n)下線下線
6/ノンブル形式下線 下線 下線(n)下線下線
7/ノンブル形式下線 下線 下線(n)下線下線
8/ノンブル形式下線 下線 下線_(_n_)_下線下線
15不定カスレUneven inking前から6-7行目 7行目「た」 7行目「た」
35/不定カスレUneven inking特になし 末3行 最終行「え」
36/ノンブル状態あり 極薄 あり
43/3熖■をナシ ナシ あり
43/4ゆき■きナシ ナシ あり
46/2たほれて■あり あり ありあり
52/ノンブル状態極薄 あり あり極薄
53/ノンブル状態極薄 あり あり極薄
60/ノンブル状態極薄 □□ あり極薄
65/7「あるひ」はあるひ あるひ あるひ□□□
74インク薄弱前4行 前4行・全行冒頭
75インク薄弱末3行 末3行 特になし
77/6fluorescencefl.. fl.. fl..
78/1の■だこの鳥■のあり ナシ ありあり
79/-3「並樹に」(薄い) 並樹に 並□□
79/-2飾繪「式だ」式だ 式だ 式□
79/-1偶然「だから」□□□ だから だか□
102/2から■松ナシ あり ナシ
106/3雨■でか■へ薄い 薄い 薄い極薄
114インク薄弱前2行 前4行 前2行
120/mentalsketchmodified
(下から上・空白ナシ)
ママ ママ ママ
129インク極薄全行 全行 5-7行太り
133インク薄弱全行 全行 全行
136インク薄弱全行 全行 特になし
144/5たう■たうあり あり 薄いあり薄いあり
145/8四■角あり あり ありありありあり
149/-2月■光薄い 極薄 ナシナシナシナシ
149/-1で■す薄い 薄い ナシナシナシナシ
156不定カスレUneven inking前2行 全行 各行3-7文字目辺
158/-1の■雲あり 薄い 薄いありありあり
159/6鋼■青薄い 極薄 薄いナシありあり
161インク薄弱前8行 前8行 前6行
164インク薄弱全行 特になし 特になし
165インク薄弱全行 特になし 前1行
168インク薄弱全行 全行 末6行
170不定カスレUneven inking前3行軽度 前3行 前3行
171不定カスレUneven inking特になし 末1行 末3行
198インク薄弱全行 特になし 特になし
199インク薄弱全行 特になし 特になし
200不定カスレUneven inking各行5-10文字目辺 インク薄弱 インク薄弱
207/ノンブル位置小口 小口 小口小口小口小口
208/ノンブル位置小口 小口 小口小口小口小口
211/2ルビ■ヅウナシ ナシ ナシありナシ
224/5まも■つてナシ ナシ ナシナシありナシ
226/4あ■いつ薄い あり ありありナシあり
228/-1ルビる■りえき■だあり ナシ ナシナシナシ
228/-1瑠■璃液■だあり ナシ ナシ瑠■璃液だナシナシ
236/-1「お」まへ転倒 転倒 転倒
241インク薄弱各行3-6文字目 少し薄め 少し薄め
244/ノンブル状態極薄 極薄
247/-3三■稜ナシ 薄い ナシありあり薄い
258/1行頭「粗剛な」□□□ 粗剛な 粗剛な
259/-5雲■が■う薄い ナシ ナシ薄い極薄
272インク薄弱6-8行 特になし 少し薄め
290/4月■光ナシ あり ありありあり
295不定カスレUneven inking全行 特になし 特になし
300/ノンブル「800」800 800 800
目次1/恋と熱病(一九二、二二、二 二、二 二、二
目次6/章題無■聲慟哭ナシ あり ナシナシ
目次7/樺■太鉄道あり ナシ ナシあり
目次7/鈴■谷平原あり ナシ ナシあり

〈『カムイ伝』の「印刷原版」〉としてネットオークションに出ていた例のブツは小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」、1968.9)の亜鉛版だった模様

2025年8月29日付「〈『カムイ伝』の「印刷原版」〉としてネットオークションに出ていた小島剛夕『土忍記』亜鉛版の素性が知りたい話」に対して、『コミックmagazine』での初出掲載からほどなくして編まれた作家別(作品別)「長編コミック傑作集」の版なのではないかというコメントを頂戴し(ゆめのさかえ様、ありがとうございます)、さっそく日本の古本屋経由で入手してみました。

小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)オモテ表紙

この記事のタイトルは当該書の背文字の塩梅に従って「小島剛夕『秘剣影流し』」としておきましたが、奥付の表記に従えば題名は『土忍記 / 秘剣陰流し』になるようです――という点を、検索の便も考慮して記載しておきます――。昭和431968年9月21日発行、発行者:孝寿芳春・発行所:芳文社・印刷所:光邦印刷。

小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)ウラ表紙

第1話「陰に棲む者」の冒頭16ページ分(当該書3~18ページ)だけが(おそらく初出誌と同じ)2色カラー印刷で、残りはモノクロ印刷。そして例の亜鉛版裏面に赤ペンで記された数字と、『秘剣影流し』のノンブルは4点とも合致していました。

小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)134頁と亜鉛版134番
小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)154頁と亜鉛版154番

カラー原稿からモノクロ版に起こされた際に調整されたアミ点の具合も合致しているようです。

小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)133頁と亜鉛版133番
小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)133頁と亜鉛版133番(部分)
小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)153頁と亜鉛版153番
小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)153頁と亜鉛版153番(部分)

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さて、改めて、この亜鉛版はどういう版なのでしょう。

小島剛夕先生によるオリジナル原稿から写真製版によって得られた「マンガ本文」をモノクロ印刷するための亜鉛版――というところまでは間違いないところであるように思われます。

前掲画像に見える通り、当該書は「マンガ本文」の天マージン小口側にノンブルが振られており、また見開きのうち左ページにのみ各話タイトルを示す柱があります。

ここから先は想像の話なのですが、芳文社「長編コミック傑作集」の本番印刷までの工程として。

  1. 「マンガ本文」をモノクロ印刷するための亜鉛版(仮称「本文原版」)を作成
  2. 「本文原版」をアルミベースに貼付し、活字を拾ってノンブルや柱を組み付け、校正刷り用の版を作成
  3. 校了した版を本番印刷の割り付けに合わせて8ページ分組み合わせる
  4. 8ページ分の紙型を取る
  5. 紙型から輪転機用の(曲がった)鉛版を作成

最初の印刷まではこのような段取りで進行し、増刷の際は「本文原版」が作成済みである段階から改めて進む。――という具合だったために小島剛夕『秘剣影流し』(芳文社「長編コミック傑作集2」)の「本文原版」が残されていたのではないか。

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この亜鉛版は、いったいどういう版なのでしょうか。ご存じの方、あるいは予想が立つ方がいらしたら、ぜひご教示ください。