日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

「明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マーク」を出版者軸と印刷者軸で読み直してみる

明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マークと活版(電気銅版)見本

神保町のオタさんから『近代出版研究 第3号』(皓星社、2024.4 https://www.libro-koseisha.co.jp/publishing/9784774408200/)をご恵贈いただきました。改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

以前twitterにて、顕道書院と積善館のパブリッシャーズマークが同じ鳳凰の絵柄であることについて、リボンを咥えた鷲の絵柄をアメリカの印刷会社がカタログに載せているような、共通の祖型があるのではないかという話をお返ししていました。

――というわけで、早速「明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マークに関する一考察」を拝読しました。例の鳳凰の絵柄を共有しているのが2社ではなく金刺芳流堂を加えた3社だったことが明らかにされるなど、2019年の「戦前期における裏表紙に刷られた出版社ロゴマークの美学」「裏表紙の社章から見た金港堂と博文館」以降、深く静かに掘り下げられていたのですね。

ちなみに、「共通の祖型」があり得たこととして念頭にあったのは、東京築地活版製造所『活版見本』(明治36年)にて電気銅版(ELECTRO-BLOCKS)として掲載されている、様々なコスチュームの人物がBillboardを掲げている図柄でした。電気銅版No.5111(ターバンを巻いた人物 https://dl.ndl.go.jp/pid/854017/1/202)が、明治22年4月25日付『時事新報』掲載自社広告に使われただけでなく、同年8月2日付『時事新報』で「中立社開業」広告に使われたという事例です。こういう濃い図柄が汎用のひながたとして使われ得たのです。

明治22年4月25日付『時事新報』東京築地活版製造所広告(復刻版より)
明治22年8月2日付『時事新報』中立社開業広告(復刻版より)

出版者軸と印刷者軸でパブリッシャーズ・マークを整理

読了後、これはやっぱり出版者軸と印刷者軸の2元で整理してみたら更に面白くなるんじゃないかと直感し、「例の鳳凰」に関係する印刷者の周囲を掘り拡げてみました。何と言っても、従来は「出版者(発行者)」しかキーワードに指定できなかった国立国会図書館デジタルコレクションの検索が、2022年12月アップデート時の全文検索機能によって大幅に強化され、かつて夢に見ることしかできなかった「印刷者名」でキーワード検索できるようになりましたからね!

以下に掲げるマークはすべて国立国会図書館デジタルコレクションのものを「100%」表示したスクリーンショットを元画像として「はてなフォトライフ」に登録し、この記事中では幅200px表示としたものです。マーク画像のリンクを辿ると、フォトライフでの元画像表示になります。

スマホ版サイトとして閲覧いただく場合に以下のマーク画像が表示されないようです。恐れ入りますがPC版サイトとしてご覧くださいますよう、お願いいたします。






顕道書院のパブリッシャーズ・マーク
顕道書院(オーナメント)

顕道書院(蓮囲み)

顕道書院(鳳凰)

顕道書院(オーナメント十字)

顕道書院(桜と何かの模様)





積善館のパブリッシャーズ・マーク
積善館(オーナメント)

積善館(鳳凰)

積善館(見返り孔雀)

積善館(見返り孔雀小型)


金刺芳流堂のパブリッシャーズ・マーク
金刺芳流堂(鳳凰)





偉業館(岡本偉業館)のパブリッシャーズ・マーク
偉業館(鶴リボン)

偉業館(鶴のみ)

偉業館(花に鳥〈名無し〉)

偉業館(蜻蛉)




大阪交盛館(武田交盛館)のパブリッシャーズ・マーク
交盛館(蜻蛉)

交盛館(花に鳥・名入り)

交盛館(印判風)

矢野松吉



開成舎のパブリッシャーズ・マーク
開成舎(花に鳥・名無し)

開成舎(花に鳥・名入り)





浜本明昇堂のパブリッシャーズ・マーク
明昇堂(鶴)

明昇堂(ライオン)

明昇堂(ライオン違い)

明昇堂(簡略版ライオン)


学友館のパブリッシャーズ・マーク
学友館


大阪島之内同盟館のパブリッシャーズ・マーク
同盟館

もし活字見本帖の類にパブリッシャーズ・マークと共通する電気銅版を見つけることがあれば、改めてご報告申し上げたいと思います。

築地初号フェイスの東京築地活版製造所製初号ボディ活字・42ptボディ活字と15mmボディ規格による錯乱の跡

2023年12月の関西蚤の市で貴重なピンマーク入り活字を入手された書体賛歌さん(https://twitter.com/typeface_anthem/status/1730789514292101371)から、先日「盛功合資会社または合資会社盛功社活版製造部のものではないかと思われる「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り初号明朝活字について」に記したものとは別に、東京築地活版製造所製と思われる活字をお譲りいただいていました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

今回は、そのうちの東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り活字に関する覚書です。

東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面方向)
東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り初号活字(斜め方向)

書体賛歌さんからお譲りいただいた「一」「○」「◆」の3本を含めて合計16本となった東京築地活版製造所製Ⓗピンマーク入り初号フェイス活字のボディサイズは変なところに外れ値らしきものが存在するため、「初号フェイスの大阪青山進行堂製初号ボディ活字・42ptボディ活字・15mmボディ活字」という補助線なしには扱いにくい、そういう資料群となっています。

まずは、「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」の時と同じように測定値の一覧表を示しておきます。

文字 縦平均 横平均 ポイント換算縦 ポイント換算横
14.819mm 14.832mm 42.172pt 42.209pt
14.853mm 14.973mm 42.267pt 42.609pt
14.758mm 14.779mm 41.998pt 42.057pt
14.784mm 14.831mm 42.072pt 42.205pt
14.739mm 14.758mm 41.944pt 41.997pt
14.735mm 14.715mm 41.933pt 41.875pt
14.769mm 14.768mm 42.029pt 42.025pt
14.824mm 14.833mm 42.186pt 42.211pt
14.808mm 14.783mm 42.139pt 42.068pt
14.860mm 14.827mm 42.289pt 42.193pt
14.770mm 14.768mm 42.031pt 42.027pt
14.910mm 14.811mm 42.429pt 42.148pt
14.802mm 14.827mm 42.123pt 42.195pt
14.824mm 14.859mm 42.186pt 42.285pt
14.776mm 14.767mm 42.048pt 42.022pt
14.865mm 14.826mm 42.303pt 42.191pt

青山進行堂と同様に分布図を作成すると、外れ値の度外れ具合が分かります。

東京築地活版製造所が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布

参考に、青山進行堂の分布と築地活版の分布を重ね合わせた分布図も作成しました。

東京築地活版製造所と大阪青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布

「外れ値」と見做した活字の度外れ具合は非常に大きいのですが、その一方で、青山進行堂と比べてサンプル数が少ないからという理由だけか、本来の築地活版で許容される寸法の誤差(公差)が小さかったと見るべきか、築地初号ボディと42ptボディの寸法の分布は、比較的狭い範囲に収まっているように見受けられます。

さて、ここからは妄想に域になるのかもしれないのですが。

築地活版の「宮」は縦方向が「築地初号ボディ」の上限よりの寸法で、横方向が「15mmボディ」の許容範囲になっているようです。また「健」は縦方向が「築地初号ボディ」の上限を超えているものの「15mmボディ」までには至らない寸法で、横方向が「築地初号ボディ」の中央値よりやや小さい寸法になっているようです。

関東大震災で物的にも人的にも大きな損害を受けた東京築地活版製造所では、製品のQCに関するノウハウが十分に継承されない状態のまま経営陣が新しい活字規格(ミリメートルボディ)を打ち出したことによって現場レベルでの混乱の度合いが増し、良質な製品を製造する工場としての再起を図れなかったことから解散を選ばざるをえなかったのではないか。

――そんなことを想像させられる計測結果でした。

初号フェイスの大阪青山進行堂製初号ボディ活字・42ptボディ活字・15mmボディ活字

「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」(日本デザイン学会『デザイン学研究特集号』30巻2号〈通巻108号〉所収)に記した通り、青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字ボディの大きさは、手元にあるものを観察した限りでは、築地系の初号ボディ(概ね42.2アメリカン・ポイント≒14.82mm角)、42アメリカン・ポイント(14.759mm角)、15mm角の3種類となるようです。

ちなみに以前「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」に記した「雪形」活字は、「謹賀年」の3本が築地初号ボディで「新」が42ptボディであると判断しています。

その後、大阪青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字が少し増えて手元にあるものが150本余りとなったので、改めて活字サイズの分布図を作成してみました。

活字サイズは「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」に記した通り、縦方向を3か所計測の平均値、横方向も3か所計測の平均値を採ったものです。

青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布

築地初号ボディも42ptボディも縦方向のばらつきは小さく、横方向のばらつきが大きくなっています。外れ値となっているように見える「エ」は縦方向が築地初号ボディ・横方向があやまって42ptボディの下限近くになってしまったもので、同じく「河」は縦方向が42ptボディで横方向が築地初号ボディの上限値近くになったものなのではないかと思われます。

縦方向が15mmボディの許容範囲かと思われる「導」は横方向が15mmボディの下限をおそらく下回って築地初号ボディの上限値近くになっており、「三」「院」は縦方向が築地初号ボディの上限を超えつつも15mmボディの下限に満たないサイズなのではないかと思うのですが、資機材の不足などの時代背景の影響でそのまま流通してしまったのではないかと想像しています。

縦方向と横方向の実際の許容範囲(寸法の公差)がどれくらいであったのかは判りません。



以下2024年4月8日追記:

昨日の記事では15mmボディも含めた分布図のみとしたので、築地初号ボディの下限付近と42ptボディの上限付近がわかりにくくなってしまいました。築地初号ボディと42ptボディのみの分布図を新たに作成したので、追記しておきます。

青山進行堂が鋳造した初号フェイスの活字サイズ分布(築地初号ボディと42ptボディのみ)

秀英舎・製文堂が鋳造した活字のピンマーク

大日本印刷の前身のひとつである秀英舎の名を刻んだ「東京秀英舎」ピンマーク入り活字と、秀英舎の初期の活字製造販売部門であった製文堂の名を刻んだ「東京製文堂」ピンマーク入り活字を入手し大きさと重さを計測してみた話を2023年3月に記していたわけですが(「秀英初号明朝フェイスの秀英舎(製文堂)製初号ボディ活字と42ptボディ活字」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/03/21/225239、その際にとても残念に思っていたのが、本と活字館がオープンし「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」が公開されたのと入れ替わりに、秀英体に関係する話題が発信・記録されていた秀英体サイト(旧:https://www.dnp.co.jp/shueitai/)がひっそりと消え去ってしまったことでした。

実はついさっきまで気づいていなかったのですが、2023年11月27日付で、「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」のコンテンツとして「リニューアル前の秀英体サイト」(https://archives.ichigaya-letterpress.jp/contents/shueitai/)が追加・公開されていたのですね!!!

リニューアル前の秀英体サイトで43回も続いていた不定期連載「秀英体のコネタ」の第12回「ピンマーク!ピンマーク!」(https://archives.ichigaya-letterpress.jp/contents/shueitai/koneta/koneta_050927.html)に、秀英舎・製文堂に関係する、「東京製文堂」を除くおそらく全ての形態のピンマークが見えていてとてもありがたいので、[archive.org]ではなく公式サイトで再び閲覧・言及できるようになった喜びを記しておきたいと思います。

ほんとうにありがとうございます。

というわけで「リニューアル前の秀英体サイト」が運営されていた時点で私が気づいていなかったことを2点ほどメモ。

1. 「生に丸」印のピンマーク

秀英体のコネタ」の第12回「ピンマーク!ピンマーク!」https://archives.ichigaya-letterpress.jp/contents/shueitai/koneta/koneta_050927.html冒頭に掲げられている「生に丸」印の解説文に「ひとつは秀英舎の社章、社名の反切から誕生した「生に丸」印です。」と記されています。

この「生に丸」印の社章あるいは商標について、明治40年版『株式会社秀英舎沿革誌』には特に何も記されていませんがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/853985大正11年版『株式会社秀英舎沿革誌』には「社名及商標ノ由来」というコラムがあり「商標ノ字ハ秀英ノ反切ニシテ創業發起人保田久成ノ起案ニ係ル」と書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970714/1/3昭和2年の『株式会社秀英舎創業五十年誌』では保田と並ぶ「創業發起者ノ一人」であった「大内青巒カ嘗テ識ストコロノ一文」として「抑モ此擧元來明教社ノ業務ト其經濟ヲ異ニシ予等四人ノ共同經營ニ過キサルヲ以テ別ニ舎名ヲ按シテ秀英舎ト稱シ又秀英ノ反切ナル生ノ字ヲ以テ記號ト爲シタルカ如キハ皆保田君ノ發案ニ係ル所ナリ」と記していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1464094/1/26

「反切」というのは康煕字典正字通など古い漢字辞典において漢字の読みを示すものだったそうで、例えば内閣文庫本『正字通』では「秀」の反切が「息救」とありますがhttps://www.digital.archives.go.jp/img/4051513 の47/87コマ)、これは「秀」の「シュウ」という読みを①「息」の読みの子音(S)と②「救」(YU)の読みの母音で示す、というもの。

「生」(SEI)という字が①「秀(S)」+②「英(EI)」で示されるという関係なので、「生の字は秀+英を反切とする」という表現になるものと思っていいのかと思うのですが、どのような言い回しが適切なのか、よく分かりません。

商標として登録されたのが明治10年代末のうちなのか、20年代ということになるのか、そのあたりも全く分かりません。また、「大内青巒カ嘗テ識ストコロノ一文」のオリジナルも探し出すことが出来ていません。いつか見つけておきたいと思っています。

2. 丸にサンセリフ体で「S」の意匠

明治37年(1904)1月の『印刷雑誌』14巻1号掲載の広告で活字を立体的なイラストとして示したものhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499065/1/20がおそらく初出で、14巻5号(]https://dl.ndl.go.jp/pid/1499069/1/18])以降少なくとも明治42年(1909)まで、活字を真横から見た図柄として表現している広告に「サンセリフのS」マークが示されているようです。

『最新欧文活字標本』(欧文略標本)ほか森川龍文堂が発行し「紀元二千六百年文化柱」に納められた活字見本類の刊行年と所在

2022年12月の国立国会図書館デジタルコレクション全文検索機能のアップデートと、2024年1月の国立国会図書館サーチのリニューアルを受けて、2015年に書いた「森川龍文堂の読みと『最新欧文活字標本』の刊行年」という記事について補足しておきたいと思います。

なお、もしこの記事をご覧いただいている方に、以下の図書資料の書誌データを扱える方がいらしたら、「龍文堂」についてほぼ全て「リュウブンドウ」という読みだけが採られているところに、別名として「リョウブンドウ」を加えていただければ幸いです。

「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」に納められた森川龍文堂もりかわりょうぶんどうの活字見本類

長野県茅野市蓼科高原)に設置された「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」https://maps.app.goo.gl/dQmFhMPK2eBPgRuJAに、1940年(昭和15)までに森川龍文堂が発行した活字見本類が11点収蔵されているらしいことを、NDL全文検索によって知りました。朝日新聞社編集部編『紀元二千六百年文化柱総目録』(昭和15年12月、朝日新聞社)の101ページhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1104999/1/86に掲げられた一覧を記します。

221 森川龍文堂 龍文堂活字清鑒 1 昭和十年発行
菊判146頁
222 新體明朝活字 1 同 95頁
223 最新龍宋活字 1 同 82頁
224 漢文正角楷書標本(ママ) 1 同 76頁
225 最新歐文活字標本 1 同 82頁
2597年版
226 四號明朝活字見本帳 1 同 44頁
227 最新假名付ケース張用紙 1
228 最新書體活字 1
229 森川龍文堂正楷書活字 1
230 カナモジカイノカナモジカツジ 1
231 森川龍文堂 カナモジウリダシ 1

なお、222番から226番までの「同」は恐らく判型が菊判であることのみを指しており、発行年がすべて昭和10年であるわけではないものと思われます。また227番から231番は1枚もの(チラシやポスターに類するもの)ではないかと予想しています。

以下、この『紀元二千六百年文化柱総目録』に掲載された森川龍文堂資料を軸にしつつ、国立国会図書館サーチなどの検索結果について、各々の刊行年と所在にかかわる覚書を記しておきたいと思います。

文化柱221『龍文堂活字清鑒』(1935.11)

森川龍文堂『龍文堂活字清鑒 邦文書体之標本』表紙(横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵)

奥付の記載(昭和十年十一月一日印刷・昭和十年十一月五日発行)に基づいて、発行年月を「1935.11」としました。各館の書誌を見ると、書名の採りかたに方針の違いが出ています。

文化柱222『新體明朝活字』(推定1938.1)

森川龍文堂『新體明朝活字』表紙(福島県立図書館蔵)

冒頭に掲げられた「新體明朝活字の種類に就て」という文の2ページ目に「當所に於て是等の條件を具備し、美術印刷向活字として、昭和八年に着手彫刻補刻數年の後漸く發賣するに至りました」「是れに新體明朝活字と名けて、本文用六號五號四號と順次作成發賣致しまして、今日漸く九種の完成を見るに至りました」とあります。この九種というのは、初号、五号三倍、二号、四号、五号、9ポイント、8ポイント、六号、6ポイントの合計9サイズを指します。少なくとも福島県立図書館本には刊記がありませんでした。

三谷幸吉『手易く出来る活版印刷開業の栞』(印刷改造社、1936年)に綴じ込まれている森川龍文堂「邦文活字の書體及規格一覧表」に見えている新體明朝は、二号、四号、五号、9ポ、六号、6ポの6サイズです(https://dl.ndl.go.jp/pid/1056304/1/9)。これ以降の刊行と思っていいでしょう。

NDLサーチでは、大きく分けて書名を「新体明朝活字」とする群と「新体明朝活字標本」とする群の2つのグループがあるようです。

第二次『印刷雑誌』21巻1号(1938年1月)雑報欄に「森川龍文堂細形明朝成る」と題して《森川龍文堂は「新體明朝活字標本」菊判アート紙刷約百頁のカタログ一冊を發行した。》とする記事が次のように記されていますから(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341163/1/146、少なくとも後半の4点はこの1938年1月に発行されたものと見て良いのではないでしょうか。


新體明朝活字に就て曰く「細型明朝活字が生れたのであります。細型活字は細線のが良いのでは御座いません。印刷面が全面的に良く揃つてゐる、字數が多い事、文字が鮮明であること、縮字轉字にしても、細線が切れずに良く字劃が判つきりしてゐる事等が揃つて居らねばなりません。當所に於て是等の條件を具備し、美術印刷向活字として、昭和八年に着手彫刻補刻數年の後漸く發賣するに至りました」とある。以て新體明朝活字の出現理由を知るに足る。収むる字種は初號三千三百字/*1五號三倍四千字、二号一萬二百字、四號八千五百十四字、五號八千八百字、九ポイント八千百字、八ポ七千五百字、六號八千ニ百字、六ポ六千ニ百字。

「収むる字種は」云々と書かれている内容は、福島県立図書館本の冒頭に掲げられた「新體明朝活字の種類に就て」という文の1ページ目に掲げられている字種一覧の引き写しであり、アート紙刷95ページの福島県立図書館本を見た限りでは、活字見本の本体部分に全サイズの全字種が掲載されているわけではありません。

2014年に実見した福島県立図書館本で「新体明朝活字標本」と記された箇所を目にした記憶がなく、前半4点と後半4点が同じ資料を示しているのか異なる資料なのか、別途確認しておきたいと思っています。三康図書館の書誌では書名として「新体明朝活字標本」と記されつつ「表紙別書名:新体明朝活字」という補足がありますから、わたくしが福島県立図書館本の何かを見落としてしまっている可能性があります。

文化柱223『最新龍宋活字』(推定1936)

森川龍文堂『最新龍宋活字』表紙と扉(福島県立図書館蔵)

印刷出版所『日本印刷需要家年鑑 昭和11年版』(1936)に森川龍文堂による龍宋活字の広告が綴じ込まれているほかhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1231434/1/501。第二次『印刷雑誌』19巻6号(1936年6月)にも、一種の名刺広告として「丸呉竹活字」「龍宋活字」「漢文正楷書」の三種が掲げられています(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341144/1/47)。

文化柱224『漢文正角楷書標本(ママ)』(推定『漢文正楷書標本』1936)

大阪出版社編『印刷美術年鑑 昭和11年版』が、同年(1936)3月の出来事として大阪市《南区安堂寺町通一丁目森川龍文堂は「漢文正楷書標本」と題し同書體各號の綜合的見本帖を發行》と記していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/266。また第二次『印刷雑誌』19巻3号(1936年3月)に「森川龍文堂の漢文正楷書標本」という記事が出ています(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341141/1/78。記事に曰く:


最近目醒しい活動を續けてゐる大阪市南區内安一森川龍文堂は又々、新刻漢文正楷書活字見本を滿載したカタログ「漢文正楷書標本」を發行した。初號、三十六、二十四ポ等大活字數十字、一號以下、二號、十八ポ、四號、五號/*2九ポ各七千餘字中より抜萃の文字を収め、特に本文用として代表的な十八ポは七千百三十四字の全部を収錄してゐる。

したがって『漢文正楷書標本』が正しい書名で、出版年が「1936.3」になるものと思います。

NDLサーチ、CiNiiブックス、Worldcatでは見当たらず、印刷図書館や印刷博物館にも所蔵されていないため、国内の図書館等では「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」にしか残っていないかもしれません。

Googleブックスによると朝鮮総督府圖書館『新書部分類目錄』(昭和12年1月1日現在)453ページに、「森川龍文堂編『漢文正楷書標本 文字の精美新活字』昭和11」と記載されているのですが、これは現在も韓国の国立中央図書館に所蔵されているようです。

文化柱225『最新欧文活字標本』(1937)

森川龍文堂『最新欧文活字標本 2597』表紙と扉(福島県立図書館蔵)

2015年の記事「森川龍文堂の読みと『最新欧文活字標本』の刊行年」において、表紙の「2597」は「皇紀2597年」すなわち西暦1937年を表しているのではないかと記していたのですが、今回、NDL全文検索によって第二次『印刷雑誌』20巻7号(1937年7月)雑報欄の「新刊紹介」記事を見つけることができました。

曰く、「大阪、森川龍文堂の「最新歐文活字標本」が新製刊行された。菊判全アート紙八〇頁、略見本としては堂々たるものである。ジョッブフェースとしてはセンチュリー、セルテンハムなど美しい字體が揃つてゐるし、ゴヂツクでは新書體のバンハートが注目される」等とあり(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341157/1/123、この概要は『最新欧文活字標本 2597』に符合しますから、表紙の「2597」は「皇紀2597年」すなわち西暦1937年の意味で間違いないでしょう。

この記事で扱う《「紀元二千六百年文化柱」に納めらた活字見本類》には含まれませんが、森川龍文堂『新聞活字』(1938刊、奥付無し、印刷図書館蔵〈Za400〉)もまた、表紙の書名が「新聞活字」のみで、扉には「新聞活字/2598」とあります。

私は『最新欧文活字標本』について、2014-2015年当時も2024年現在も福島県立図書館本と国立国会図書館本しか実見していない状態ですが、以下はすべて同じ資料ではないかと思います。

文化柱226『四號明朝活字見本帳』(推定1927-1937)

森川龍文堂『四號明朝活字見本帳』表紙(福島県立図書館蔵)

今までに実見したのは福島県立図書館蔵本だけなのですが、41ページに「普通形」平仮名(築地体後期四号書風)と「中形」平仮名(秀英四号書風)が掲げられています。仮名の活字セットとして、1933年(昭和8)の『活版総覧 : 和欧文活字と印刷機械』111ページhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1209922/1/60や、1935年の『龍文堂活字清鑒』128ページに掲載されているものと同じ内容であり、推定1937-38年『新體明朝活字』92ページの「新体四号明朝」(秀英四号ベースに独自化を試みたもの)にはなっていません。44ページに掲載されている「二分一平字」「二分一太ゴチック」「二分一太丸ゴチック」に「昭和」の字が含まれていますから、昭和2年以降の10年ほどの間に発行されたものと考えられます。

文化柱227『最新假名付ケース張用紙』

活字見本帖は印刷所が補充活字の注文などを行うために利用していた備品であるために、活字会社の廃業や活版印刷所の廃業と共に捨て去られてしまうことが多く、現在まで残っているものは極めて少ない状態です。この活字見本帖に比べても更に「実用品」度が高いため後世に残されにくいと見られるのが「活字ケース張用紙(活字ケース貼紙)」になります。

大日本印刷株式会社/市谷の杜 本と活字館「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」で公開されている「明朝9ポイント活字棚全景」から任意の活字ケースを拡大していくと、スダレケースと呼ばれる形の活字ケースの1列1列に、どういう文字が収納されるべきか、見出しが示されていることがわかります。

大日本印刷株式会社/市谷の杜 本と活字館「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」の「明朝9ポイント活字棚全景」より「出張ケース1」(部分)

森川龍文堂『最新假名付ケース張用紙』は、新聞・雑誌などの本文活字セットとして印刷所に提供する活字ケース張用紙――1段ごとに切り離す前のもの――ということになるのでしょう。下記が同じものなのではないかと予想します。

文化柱228『最新書體活字』

『印刷時報』172号(1940年1月号)に綴じ込まれた活字見本シートhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499108/1/105 - https://dl.ndl.go.jp/pid/1499108/1/109の、綴じ込み前のものなのではないかと想像しています。2040年正月に予定されているという「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」開扉時に確認してみたいものです。

文化柱229『森川龍文堂正楷書活字』

第二次『印刷雑誌』20巻3号(1937年3月)雑報欄(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341153/1/79「森川龍文堂は提携して正楷書活字の全系列を完成されたので、この普及の爲め、本號広告欄の申込」

文化柱230カナモジカイノカナモジカツジ』

『印刷美術年鑑』昭和8年版(1933)綴じ込まれた活字見本シートhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1208644/1/73に類するものなのではないかと想像しています。2040年正月に予定されているという「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」開扉時に確認してみたいものです。

文化柱231『カナモジウリダシ』

『印刷時報』180号(1940年9月号)に綴じ込まれた活字見本シートhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499116/1/65の、綴じ込み前のものなのではないかと想像しています。2040年正月に予定されているという「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」開扉時に確認してみたいものです。

*1:原文改行はのみで区切り符号無し

*2:原文改行はのみで区切り符号無し

#組版書誌 ノオト:横尾忠則『暗中模索中』(河出書房新社、1973)の「組版造形」にかかわる活版書籍印刷工程の細部を知りたい話

2024年3月25日発行の白井敬尚組版造形 タイポグラフィ名作精選』(グラフィック社 https://www.graphicsha.co.jp/detail.html?p=54159)で取り上げられている「和文組版」の幾つかについて、本文活字の書体、大きさ、組み方を推定するお手伝いをさせていただきました。2017年に発行されたパイロット版の時点で「正体不明な大正初期9ポイント活字」だったものは2017年9月どころか2024年現在でも相変わらず正体不明のままであるなど【活字書体や字間・行間の「リヴァース・エンジニアリング」を「組版書誌」という名称で担当】させていただくに当たって常々己の力不足を感じているのですが、個人的に3冊ほど、今まで念頭に無かった部分で勉強不足をつきつけられたものがあったので、メモを残しておきたいと思います。

1冊目が、今回取り上げる横尾忠則『暗中模索中』(河出書房新社、1973)です。わたくしは今回の『組版造形 タイポグラフィ名作精選』掲載予定図版によって横尾『暗中模索中』のことを初めて知りました。

通常なら奥付に記載されるはずの内容が本の「背」のみに印刷されているなど一目で分かるextraordinaryな本づくりがされていて、本文組版の造形、書容の設計においてもextremeな匂いがしています。活版書籍印刷のordinaryあるいはorthodoxな技術の細部が分かっていれば、どのくらいextraordinaryなのか、このextremeな本はどのようにしてつくりあげられたのかが、もっと楽しめるのに、今の自分には分からない悔しさ!

1.『暗中模索中』の本文組――マージンの指定がわからない

『暗中模索中』本文の活字サイズや組み方を推定するのは、1ページあるいは1見開きのことだけ考えれば、そう難しいことではありませんでした。文字活字も込め物類も全て岩田母型のポイント活字で組まれているように見受けられたからです。

インタビュー形式になっている本文は、わたくしの見立てでは横尾本人の発言が岩田明朝8ポイントのベタ組で1行67字詰(536pt)、インタビュアーの発言が岩田角ゴシック7ポイントのベタ組で1行76.5字詰(535.5pt)です。行長が正確に合致しないと金属活字の組版は成立しませんから、8ポ本文は版面の外側にクワタやスペースを足して8ポ70倍(560pt)、7ポ本文は同じく7ポ80倍(560pt)となるような文字組版になっているはずです。

横尾忠則『暗中模索中』の本文組(白井敬尚組版造形』158-159ページ掲載見開き部分の内容を元に内田作成)

『暗中模索中』本文行間のインテルは、8ポ本文と8ポ本文の間が7ポイント、7ポ本文と7ポ本文の間と8ポと7ポの間が8ポイントになっているようです。というわけで、本文が形作る矩形であるところの版面――私の造語で言うところの「本版面」https://twitter.com/uakira2/status/889846945342078976――は、タテが536pt、ヨコが概ね236pt程度なっているようです。

ノンブルはノド側に6ポイント活字で、本文とは26-27ポイント程度のアキを取り、更にノド側を大きく空けている状態。なので私の造語で言うところの「総版面」が、タテ536ptでヨコが概ね268pt程度。こうして数字を書き出してみて気がついたのですが、「総版面」はタテヨコ比がちょうど2対1になっていますね。

以上は活字組版の原版を推定したもので、原版から紙型取りし、おそらく平台印刷機で印刷するための亜鉛版を作成して印刷したものと思われました。というのも、行長が現物の実測で186.5mm――つまり上記の寸法関係を0.8%程度縮めた状態で実際の紙面と合致する内容だからです。(『組版造形 タイポグラフィ名作精選』掲載予定画像からこのあたりまで読み込んでいって、現物を手に取って眺めたくなってしまったので、ネット古書店で入手しました。)

知りたいこと、その1.1
『暗中模索中』について、『横尾忠則全装幀集』(パイ・インターナショナル、2013)では「裁ち落としギリギリまで文字を組んで、もしかしたら裁断したときに切れたところもあったかも知れないが、まあ読まれなくてもいい。ひとつの立体作品として作ったものだからね」(164ページ)と回顧されていますが、「裁断したときに切れたところ」はありません。小口と天地を(おそらく)概ね均等に空けるような指定が行われたように見えます。小口、天、地ともマージンは5mmくらいのようですが、この寸法についてどのような指定があったのでしょう。
知りたいこと、その1.2
小口、天、地の5mmほどのマージンは、本文を絶対に切り落とさずに安定的に印刷・製本できる「技術的な限界値」を目安として決定されたextremeマージンなのでしょうか、あるいは純粋に技術的にはあと1~2mm程度追い込めるが審美的な理由で本文活字2倍程度のアキとした、というようなものだったのでしょうか。

2. 1950-70年代に発行された菊判書籍の最大級の版天地を知りたい

横尾が「ひとつの立体作品として作ったものだ」という『暗中模索中』の現物を手に取ってみると、H198×W112×t33という直方体でした。敢て和風に言うと、縦がおよそ6寸5分、幅が3寸7分、厚みが1寸1分というところ。中肉中背の成人男性である自分が手にした場合、親指の腹を小口にかけ、小指で地を、また薬指と中指の腹が背を支える状態で、人差し指が重心より少し上を支えることが出来るサイズ感。

仕上がり縦寸法(198mm≒6寸5分)は、四六判(188mm≒6寸2分)より大きく、A5判(210mm)や菊判(221mm≒7寸3分)よりは小さいサイズ。なので、A判の紙か菊判の紙を大裁ちした紙に印刷したということになるのでしょう。

『暗中模索中』が仮に菊変形判――ページ天地が221mm――として造本されていた場合、本文行長536pt(≒188mm≒6寸2分)が変わらないままだとすると、この版面はどのようなサイズ感になるのでしょうか。

主婦の友社石川武美が昭和19年の『わが愛する事業』で誌面節約のために「それまでの菊版の組版を、横三寸八分を四寸一分に、竪五寸八分を六寸一分にひろげた。活字も特に鋳造したものを用ひた。その結果は内容を二割ほど増した」と記しているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1043523/1/76、マージンを削って三分(約9mm)増やしたという「菊版の組版」の縦方向よりも『暗中模索中』は更に一分(約3mm)大きいサイズです。

日本印刷学会出版部『印刷術講座 第6集 新版』(1952)では「縦組物においては、一行の長さを(1段組の場合)ページ天地の75~85%の範囲できめ、左右寸法を68~74%ていどにとれば、普通の範囲の組版面が出る」と解説されていてhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2477698/1/10、判型ごとの標準的な字詰・行数・総字数がページ天地の75%で示されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2477698/1/11

石川武美の回想をページ天地に対する版天地の比率として見直すと、当初79%だったものを84%ほどまで増やした、という話になります。『暗中模索中』の判型が菊判だった場合に版天地が536pt(≒188mm≒6寸2分)で変わらなければこれはページ天地の85%で、『印刷術講座』が記す「普通の範囲」の最大側ということになります。

知りたいこと、その2.1
1950-70年代に刊行された菊判(あるいは菊変形判、ページ天地が七寸三分〈221mm〉から七寸二分〈218mm〉程度)の書籍で、版天地がページ天地の85%(536pt≒188mm≒6寸2分)を超えるようなものは、どれくらいあったでしょうか。
知りたいこと、その2.2
1970年代までに刊行された菊判(あるいは菊変形判)の書籍で、本文活字サイズが9ポあるいは8ポのもののうち、本文の行長が536pt≒188mm≒6寸2分を超えるようなものは、どれくらいあったでしょうか。

ちなみにわたくしが記憶している菊判書籍の版天地最大級は『アイデア』356号で取り上げた鷗外森林太郎訳『即興詩人』初版(春陽堂、1902 https://dl.ndl.go.jp/pid/897037/1/25)になります。ページ天地219mm(≒7寸2分3厘)に対して、罫線の天地が204.5mm(≒6寸7分5厘)、行長は築地四号活字41字詰め199mm(≒6寸5分7厘、ページ天地の90.8%)、罫の外側にノンブルがある(!)ので、版天地が207mm(≒6寸8分3厘、ページ天地の94.5%)という、永世王者といった趣があります。

3.『暗中模索中』の「組みつけ」――「あき木」のことがわからない

『暗中模索中』のページを繰っていくと16ページごとにかがり糸が見えているので、「1折」が16ページ――ということは裁断前の紙に対して片面8ページ分の版を組みつけているはずです。

私はページものの活版印刷技術について実感的な理解をほとんど持っていないということを今回痛感しているのですが、まずは芦立昌雄『活版印刷教室』(日本印刷新聞社、1966)に掲載されている「組みつけ完成図(ページ物)https://dl.ndl.go.jp/pid/2509579/1/53」を元に、『暗中模索中』の「インポジション」を想像してみます。

横尾忠則『暗中模索中』の「8ページ本掛け組みつけ」想定図

続いて藤森善貢『出版編集技術 Ⅲ 製版印刷編』(日本エディタースクール出版部、1968第1刷、1975第5刷)428ページ「各ページの割りふり図」の内容を、今の「8ページ本掛け組みつけ」想定図に重ねてみます。

横尾忠則『暗中模索中』の「8ページ本掛け組みつけ」想定と割りふり図

芦立『活版印刷教室』と藤森『出版編集技術』に基づいて、印刷時に必要な「くわえしろ」や、製本時に最小限必要とされている「裁ちしろ」や「仕上げしろ」なども見ておきます。

横尾忠則『暗中模索中』の「8ページ掛け組みつけ」時の仕上げしろ

知りたいこと、その3.1
『暗中模索中』の地マージンは約5mmなので、折り返しの仕上げしろを9mmと見ておくと、「けした」部分の「あき木」は19mmほどのスペースを稼いでいることになります。19mmというと約54pt――五号5倍(52.5pt)より少し大きいサイズ――ですが、ページ物の「あき木」の最小サイズはどのようなものだったのでしょうか。
知りたいこと、その3.2
「けした」の間隔を決める「あき木」の寸法単位はミリでしょうか、号数あるいはポイントだったのでしょうか。号数あるいはポイントの場合、本文が号数活字ならインテルも「あき木」類も号数系、本文がポイント活字ならインテルも「あき木」類もポイント系というような感じでしょうか。
知りたいこと、その3.3
「あき木」は「ジョス」のように出来合いのものではなく、指定のレイアウトを実現するために都度製作するようなものだったのでしょうか。あるいは規格品と特製品の双方が使われていたとか?

朗文堂Salama Press ClubさんがYouTubeで公開してくださっている「活字自家鋳造+書籍印刷所 豊文社の記録」の3分50秒あたりhttps://youtu.be/jzZhLVwyWMU?si=lyqXp7jLK9B7xad9&t=230から5分36秒あたりまでがハイデルベルクの平台印刷機による8ページ掛け「原版刷り」の「組みつけ」になっていて、実際の「あき木」のイメージも鮮明につかめるのですが、上記のような細部が分からず今こうして悔しがっているわけです。

端物印刷に用いるテキンのチェースに版を組みつける際に用いる「あき木」「締め木」の類は、木製のものと金属製のものがあり、幅が広いものと五号n分のものを組み合わせて位置合わせを行いますが、ページ物でも同じような感じなのでしょうか。

4. 紙型鉛版と「台付け」――鉛版と「鉛版釘」の周辺事情がわからない

現在精興社のウェブサイトで示されている「活版印刷における工程」で「鉛版」の項目を見ると「できた鉛版は1ページごとに切り分け、余分な箇所を切り落とします。」と書かれていますhttps://www.seikosha-p.co.jp/corporate/process.html

知りたいこと、その4.1
切り落とすのは、下図の赤細線のように「総版面」の外側を長方形に切る感じでしょうか。青点線のように「本版面」の外側をなぞりつつノンブルが途切れないよう最小の面積でつないでおく感じでしょうか。緑太線のように、直線的に削れるところを削っておく感じでしょうか。

『暗中模索中』174ページによって鉛版の切り落とし具合を例示

同じく精興社ウェブサイト「活版印刷における工程」で「印刷」の項目を見ると、「1ページ単位に仕上がった鉛版を印刷機に組み付けます。鉛版を1台分(8の倍数ページの用紙1枚分)ごとに並べ、メタルベースに接着し」とありますhttps://www.seikosha-p.co.jp/corporate/process.html

せんだいメディアテーク活版印刷研究会で樹脂版を作成して「メタルベースに接着」すること――専用の両面テープを用いる手法――も経験しているので、そこはイメージできるのですが、木製の台木(木台)に釘打ちして鉛版を固定していた時期のことが、いまひとつ判りません。

『日本印刷年鑑1953』の「印刷用語集」には見えなかった「鉛版釘」という語がhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2472045/1/178、『印刷時報』185号(1959年10月)の「印刷用語辞典40」には見えているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434648/1/59、「平鉛版を木台に打つけるための釘」という説明があるだけで具体的な姿はイメージできません。

鉛版釘のサイズ感については『印刷ハンドブック 凸版印刷技術編』(東京都印刷工業組合、1966)に「長さ約12mm」と記されているほかhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2510566/1/13、言及されている資料を見たことがないように思います。なお、『印刷ハンドブック』では、版を「釘で固定する」手順についても「接着剤で固定する」手順についても文章で解説されているのでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2510566/1/13、とても助かります。

実は今まで気にしたことが無かったため、目にしたことが無いか目にしていてもそれと判っていなかったか定かではないのですが、世の中には「鉛版釘」の釘頭にインクがついてしかも印刷物に痕跡が残ってしまったものがあるようです。ね太郎氏の「名作三十六佳撰メモ」http://www.ongyoku.com/E2/j70/jouhou70a.htmの中に、①「表紙意匠の違い」によって鉛版釘の位置が異なる例(絵本太閤記)、②「同じ表紙意匠で裏表紙の広告が異なって」いても鉛版釘の位置が同じ例(絵本太閤記)、③「同じ表紙意匠で裏表紙の広告が異なる」と鉛版釘の位置が異なる例(生写朝顔日記)が挙げられているのを知り(「名作三十六佳撰 メモ補足」http://www.ongyoku.com/E2/j70/jouhou70m.htm、とても驚いています。おかげで、『印刷ハンドブック』の「釘で固定する」手順④「谷の深い部分」というのが五号全角相当の行間であれば十分に鉛版釘を打つことができるのだと判りました。

知りたいこと、その4.2
明治20~30年代の鉛版釘の釘頭はルビ活字より大きく見えhttp://www.ongyoku.com/E2/j70/jouhou70m.htm、ひょっとすると六号活字(7.75pt~8.0pt相当)くらいの直径なのではないかと見えるのですが、1970年代の鉛版釘ならば『暗中模索中』の本文行間(7pt)に打ち込むことが可能だったのでしょうか。
知りたいこと、その4.3
『暗中模索中』のように本文の行間が狭い(7pt)場合には紙型から鉛版を鋳造する際に小口なりノドなりの余白を広くして上図のように釘を打てるようにするなどしていたのでしょうか。

『暗中模索中』174ページによって鉛版を釘で固定するイメージを例示

知りたいこと、その4.4
あるいは、『暗中模索中』が印刷・出版された1970年代前半には、台木(木台)への釘打ちは既に主流ではなく「メタルベースへの接着」が一般的だったのでしょうか。


横尾忠則『暗中模索中』というextraordinaryな造形の図書が設計された際、活版書籍印刷におけるextremeな技術が要求されていたのか、ordinaryあるいはorthodoxな技術をextraordinaryに使うよう指示されていたというものなのか、「その時代の技術」のことをもっともっと知りたいと思ったことでした。この話題で2冊目、3冊目に続くかどうか、実は自分でも判りません。

安積澹泊・貝原益軒周辺に見える刊本字様「明朝流」という語彙の周辺事情――元禄8年刊『和漢名数大全』「聖堂品々献上目録」は大学頭林鳳岡の目録に依拠か

現代の日本で「明朝体」と呼ばれ、中国で「宋体」と呼ばれるこの字様・書体の印刷文字は、日本で、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ばれるようになったのでしょうか。

小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(グラフィック社、2020)の「明朝体の定着 ―名称と書体」の項に「日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか。調べたいと思っていながらそのままにしています。」と記されているのですが(254-255頁)、仮の起点として、明治8年(1875)に書かれた『東京日日新聞』の本木昌造追悼記事に「漢字は明朝風も楷書も大小いろ〳〵あり」とあるものが嚆矢ではないかとされていました。

小宮山先生から勝手に受け取った「日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか」という宿題について調べ続けているシリーズの、今回は第3回になります。

まずは過去2回分のおさらいをしておきたいと思います。

第1回 19世紀前半(1830年代)の事例

このテーマについて2022年1月にいったんまとめたのが「幕末に池田草庵と松崎慊堂が「明朝」と呼んだ刊本字様」というブログ記事でしたhttps://uakira.hateblo.jp/entry/2022/01/17/195623

整板本や木活字本として学術出版を行っていた漢学者たちの活動に目を向けてみようと考えて幕末から遡って行き、池田草庵を経て松崎慊堂(1771生-1844没)が残した『慊堂日曆』に出会ったものです。

朱子學大系第14巻「幕末維新朱子學者書簡集」』(明德出版社、1975)の「楠本碩水書簡」の項に、佐々謙三郎(=楠本碩水:1832生-1916没)と池田禎蔵(=池田草庵:1813生-1878没)とのやりとりが収められているのですが、楠本碩水が企図した『康齋先生日録』出版についての池田草庵からの幾つかの返信のうち、碩水が慶応2年(1866)丙寅5月21日領手したものに「板ハ文字明朝様が冝敷奉存候如何」(板刻する文字書体は「明朝体」が良いと思うがどうだろうか)と書かれていたのです(大系第14巻315ページ)。

漢学者たちの活動を追うという線は、色々な発見がありそうだと思えました。

更に30年遡った天保7年(1836)12月27日の松崎慊堂手録には『欽定武英殿聚珍板程式』を読みながら書かれた覚書があり(東洋文庫377『慊堂日曆』5巻28-29頁)、「写宋字毎百個工銀二分」という原文に対して「写宋字、明朝の筆耕、百個ごとに銀二分。」と書かれていました。慊堂は、武英殿聚珍板に用いられている木活字の字様(活字書体)が(少なくとも「武英程式」において)「宋字」と呼ばれていることを理解しつつ、それが当時の日本で「明朝」と呼ばれる刊本字様であるという認識を持っていたと言えるでしょう。

第2回 18世紀前半(1730年代)の事例

池田草庵や松崎慊堂の事例を含めた調査過程で「明朝 板下」というキーワード検索に浮上してきたのが、『大日本史編纂記録』に収録されている元文年間(1736-1741)の「往復書案」になります。安積老牛こと安積澹泊から小池源太右衛門(小池友識)*1・打越弥八(打越樸斎)にあてて記された細々とした指示のひとつに「板下の文字ニ候間明朝流之板行流之様ニたてをふとくよこをほそく成様ニ」と書かれているのでした(『茨城県史料 近世思想編 大日本史編纂記録』https://dl.ndl.go.jp/pid/9644333/1/53。「縦線が太く横線が細い」というのは現在言われる「明朝体」の説明としても通用するような内容です。

これについては「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」(2023年12月『デザイン学研究特集号』30巻2号 https://doi.org/10.11247/jssds.30.2_20で一定の結論に達しました。

近年非常に充実してきた各種古典籍デジタルアーカイブを縦覧したところ、17世紀末から18世紀初め頃の日本の刊本に1冊の本の中で複数の字様を使い分ける事例が出てきていて、その中に「明朝体」も含まれていたのです。何らかの形で刊本の字様について言及する必要がある際に「たてをふとくよこをほそく成様ニ」書かれた印刷文字のことを「明朝流之板行流」と呼ぶ背景事情が理解できると考えるに至りました。

この時期まで彰考館総裁として『大日本史』編纂について主導的な役割を果たしていた水戸藩安積澹泊(1656生-1738没)の名と、水戸藩の藩版を手掛けた書肆柳枝軒(小川多左衛門)の名に、注意しておきたいと思います。柳枝軒は貝原益軒と縁の深い書肆でもあります*2

第3回 現在探索中の17世紀末(1690年代)の事例(←イマココ)

元禄8年刊『和漢名数大全』末尾の「聖堂品々献上目録」に見える御三家献納本の書誌

今回注目したいのは、元禄8年(1695)刊『和漢名数大全』の「聖堂品々献上目録」に見える造本・装丁の記述です。

貝原益軒が貝原篤信の名で元禄2年(1689)序文を記した元禄5年刊『和漢名数』は15種類の事物が集められていて末尾が「仏家類」となっているのですが広島大学図書館教科書コレクション画像データベース https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/5020141209172854、上田元周重編とある元禄8年刊『和漢名数大全』では「仏家類」に続けて(類別番号を付さずに)「古銭目録」「聖堂品々献上目録」が追加されています。

聖堂というのは湯島聖堂のことを指し、元禄3年に徳川綱吉から与えられた土地に孔子廟と林家塾が移されたもの。翌元禄4年、林家当主の林鳳岡従五位下に叙され大学頭の官職を任ぜられました。こうした一連の過程で諸大名から聖堂に典籍や祭器が献納された、その典籍の目録が「聖堂品々献上目録」になるようです。

『徳川実記第4編(常憲院殿御實紀)』(経済雑誌社、1904)の巻22、元禄3年10月7日の条に「七日孔庿に典籍、祭器等を進献有しは。尾張大納言光友卿。紀伊大納言光貞卿。甲府宰相綱豊卿。水戸宰相光圀卿。松平左京太夫頼純。松平摂津守義行。松平讃岐守頼経。松平出雲守義昌。松平軽部大輔頼元。松平播磨守頼隆。松平兵部大輔昌親。松平出羽守綱近。松平大和守直矩。松平若狭守直明。松平中務大輔昌勝。松平加賀守綱紀。松平薩摩守綱貴。松平肥後守綱政。松平越中守定重。松平丹後守光茂。宗対馬守義真。本多中務大輔忠国。本多下野守忠平。松平伊豆守信輝は典籍。(引用者注:以降の祭器献上者名省略)」と「湯原日記」からの記事として書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917856/1/184

「聖堂品々献上目録」では多くの献納本について造本・装丁など書誌事項に関するコメントが記載されていて、冒頭に甲府、続けて御三家からの献納本が記されているのですが*3、そこに気になる一言が書かれているのです。

御三家本の掲載順は尾州紀州・水戸の順ですが、まず水戸から見ていきましょう。

水戸(徳川光圀)献納『和朝史記』については「書本也表紙黄色紫糸ムスビトジ」であると記されてます。

宮内庁書陵部の平成14年展示目録「書写と装丁」https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/900/900200211000.pdfによると「元禄4年(1694)徳川光圀湯島聖堂に献じたうちの一本」である『日本書紀(日本記)』は「表紙は黄檗染地に藍と緋で霞が描かれ、紫糸で綴じられており」、『和漢名数大全』に記述されている通りとのこと(PDFの18-19ページ)。

展示目録の図22として掲げられている光圀献納本『日本書紀(日本記)』表紙にはよく見ると図書寮文庫の函架番号「506・3」のラベルが見え、「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」によると確かに「徳川光圀校」である元禄4年の写本に該当しますhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000000930000。残念ながら画像公開資料ではありません。

森馨「和図書装丁研究史の諸問題―大和綴を中心に」(『国学院雑誌』96巻1号〔1995年1月〕)に、この光圀献納本のうち『旧事記』『古事記』『続日本後記』は国立公文書館、『日本書紀』が宮内庁書陵部、『続日本紀』が国会図書館に所蔵されているとありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3365693/1/61国会図書館の『続日本紀』は藤森が記す通り「現在はやや変色して樺色、すなわち茶水色になっている」ものの「表紙は黄檗染地に藍と緋で霞が描かれ、紫糸で綴じられて」いる状態だと判りますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2546865

以上を踏まえて、尾州本と紀州本の造本・装丁事項を見ていきたいと思います。

尾州徳川光友)献納『廿一史』には「帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板」とあります(強調引用者)。

早稲田古典籍総合DB元禄8年刊『和漢名数大全』109丁裏110丁表を集中線加工

続く紀州徳川光貞)献納『十三経註疏』は「白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙コハゼ四分一彫物唐草 外題榊原玄輔」。

水戸本には「書本也」と書かれていて写本であったわけですが、尾州本と紀州本にはそうした注記が無いため、刊本だったものと思われます。どちらも帙入りで、尾州本の帙は「緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重」でコハゼが「赤銅彫物唐草」、紀州本の帙は「緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練」でコハゼが「四分一彫物唐草」。尾州本は表紙が唐紙と書かれ本文用紙の言及は無し、紀州本の「白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙」は「裏白練表紙」であることと本文が「白紙」であることを指しているのかとも思うのですが、よく判りません。

紀州本の外題は、貞享4年(1687)に紀州藩の儒官となったという榊原玄輔の筆になるもので、私の読み取りが間違っていなければ尾州本の外題は「明朝流ノ板」つまり明朝体で板刻・印刷されたものと書かれています。

杉浦三郎兵衛『雲泉荘山誌 巻之2』で「其華麗なる美本想像に余りあり」と記されたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1240168/1/31尾州本『廿一史』の姿を確認することができないでしょうか。

文政元年写『昌平志』巻第四「経籍誌」に見える御三家由来本の書誌

国会図書館デジタルコレクションの文政元年(1818)写『昌平志』巻第四「経籍誌」に見える、御三家由来本の書誌事項は次のようになっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2550771/1/4

  • 『二十一史』 五百本五十帙。共四凾。部面茶褐色紙。書帙縹縉。素凾銅鎖。 右尾張公源宗睦置購 安永七年戊戌二月
  • 『十三経』 二百二本。共二凾。部面黄紙。帙表嫩緑花文緞子。裏靣光縉。銅撿紫縧。素凾銅鎖。○按元禄午十一月所置巻丹籖題皆榊原玄輔書 右紀伊公源治貞購置 天明元年辛丑八月
  • 『旧事記』十本『故事記』三本『日本記』二十二本『続日本記』二十五本『続日本後記』十本『文徳実録』五本『三代実録』二十五本 以上共七分。凡百本。並黄紙褾子。裏面金砂紙。綴以紫縷子。護書青光縉。毎部公自署巻尾曰。元禄肆年。歳次辛未。正月貮拾陸日。前権中納言従三位水戸侯源朝臣光圀謹識。

尾州本『二十一史』は徳川宗睦によって安永7年(1778)に再購されたもの、そして紀州本『十三経』は一部が元禄5年当初のもので徳川貞治によって天明元年(1781)に再購されたもの、――と書かれているようです。

小野則秋『日本文庫史研究 下』(臨川書店、1979)「近世における文庫」の第2章「昌平坂学問所文庫の研究」(56-112ページ)では、林羅山が最後に手元に置いていたものの焼失以来、昌平坂学問所文庫が何度も火難に遭い、辛うじて生き残ってきた様と、残念ながら明和の大火で多くが焼失したこと(一部が残ったこと)が『昌平志』から読み解かれています。

森馨湯島聖堂旧蔵徳川光圀献上本の所在確認と装訂―結び綴の意義」(『大倉山論集 37』〔1995年3月〕)によると、「このように元禄三・四年に諸大名より湯島聖堂に献上された諸本は、明和九年(一七七二)に発生した目黒行人坂を火元とする大火で聖堂も罹災したため、その多くが灰燼に帰した。光圀献上本は、そうした中で焼失を免れた稀有のもの」とありましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/4412121/1/21

徳川光友献納『廿一史』の「帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板」について現物で確認することは出来ない相談というわけです。

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』に見える御三家由来本の書誌

先ほど記した『雲泉荘山誌』に尾州本『二十一史』の書誌を記す書籍目録として記されていた「御献上目録」のことを調べてみたところ、元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』の外題であることが国書データベースによって判りました。

国書データベース経由で横浜国立大学附属図書館蔵『奉納聖堂品々目録』(元禄四辛未九月中浣)を閲覧してみたところ、冒頭が甲府、続けて御三家という構成になっていますhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100349579/3?ln=ja。御三家本を順に拾い出してみましょう。

  • 尾州徳川光友)献納『廿一史』帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板
  • 紀州徳川光貞)献納『十三経註疏』白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙コハゼ四分一彫物カラクサ 外題榊原玄輔
  • 水戸(徳川光圀)献納『和朝史記』書本也表紙黄色紫糸ムスビトジ

松平讃岐守からの献納本を「通鑑司馬温公」とするか(『奉納聖堂品々目録』https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100349579/5?ln=ja)、「通鑑司馬公」とするか(『和漢名数大全』https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=117)、これ以外はカナと漢字の表記違いを除いて両者が合致しており、大全は元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』を引き写したものと考えて良いのでしょう。

当初は、外形的な特徴のみとはいえ諸大名からの献納本一式について一通りの記録を取ることが出来た人物と想像された、元禄8年刊『和漢名数大全』の「重編者」である上田元周の人物情報を何とかして探し出せないかと考えていましたが、その必要は無さそうです。

元禄4年に『奉納聖堂品々目録』としてまとめるべき典籍を実見して記録を取ることができるような人物。林鳳岡の周辺事情を考えればいいわけです。

刊本の外形的特質に対する林家三代の目線

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』の前、あるいは少し後に作られたような蔵書目録の類は無かったでしょうか。

小野則秋昌平坂学問所文庫の研究」68-69ページに、林鳳岡の先代である林鵞峰が「寛文八年の夏二旬を費やしてこれが曝書をして書目を新たにし、その跋に」(中略)「と述べているが」とあり、「忍岡文庫書目」という目録が作られたらしく記されていました。

跋文の全体は国書データベース経由で筑波大学附属図書館蔵『鵞峰先生林学士文集』から探し出すことができましたが(文集巻98「題忍岡文庫書目後」https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1974?ln=ja、目録それ自体の手がかりを得ることが出来ません。

いったん目録探しから離れて、語彙を探してみたいと思います。

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』・元禄8年刊『和漢名数大全』の「聖堂品々献上目録」を見ると、甲府『三大全』や、松平左京太夫五経集註』、松平大和守『孔聖全書』には「唐本」と書かれています。松平摂津守『朱子語類大全』と宗対馬守『朱子文集大全』には「朝鮮本」*4。松平兵部大輔『通鑑全書』には「明朝新撰」の語が添えられています。

『鵞峰先生林学士文集』巻98を見ていくと、「爾雅跋」に「韓本」「唐本」という語彙が見えますhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1982?ln=ja。また「書授島周史記後」には「嵯峨板ノ大本」「嵯峨本」という語彙が記されているのですがhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1978?ln=ja、これはいわゆる「光悦本・角倉本」の方ではなく、五山版のひとつ臨川寺版のことかと思われます。

実は『鵞峰先生林学士文集』は、序文と凡例が楷書https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/9?ln=ja、目次以下本文が「明朝流」で板刻されhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/11?ln=ja、後序が行書となっているのですがhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/4707?ln=ja、刊本の字様に関する言及が、どこかに書かれていないものでしょうか。「文集」ではなく「日記」になるのでしょうか。

刊本字様「明朝流」に関する林家三代の言及が「ここにある」「ここには無い」等、――あるいは、荻生徂徠・山井崑崙にある(無い)といった、17世紀末の状況をご存じの方がいらしたら、ぜひご教示ください。もちろん17世紀末よりずっと遡るような事例でも大歓迎です。

*1:小池友識について、コトバンク等では通称「源太左衛門」と書かれていますが https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E5%8F%8B%E8%AD%98-1073623(2024年1月5日閲覧)、木戸之都子「水戸藩人士の墓碑銘索引」(2009)には「源太衛門小池君墓表・倉澤安」とあります(https://rose-ibadai.repo.nii.ac.jp/record/9983/files/20090200.pdf)。

*2:横田冬彦『日本近世書物文化史の研究』(岩波書店、2018)第11章「作者・書肆・読者 ―益軒と柳枝軒をめぐって」

*3:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=116https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=117、早稲田古典籍総合データベース https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i03/i03_01860/i03_01860_p0115.jpghttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i03/i03_01860/i03_01860_p0116.jpg

*4:対馬守による『朱子文集大全』献納事情の詳細も含む阿比留章子「対馬藩における朝鮮本の輸入と御文庫との関係につ いて」(『雅俗』14巻、2015年7月 https://doi.org/10.15017/4742028)の面白さ!