日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

艦艇名標や「アンチック活字」の元になった明治20年代の太字の書家について知りたい(2017年1月作成の故twitterモーメント)

旧twitterがXになり、「モーメント(Moments)」機能でまとめたメモの閲覧もできなくなってしまったのが自分にとって想像以上に不便である――twilogのキーワード検索では「流れ」や「塊」がうまく拾い出せなかったりする――ので、標記モーメント(https://x.com/i/events/818094082920546306)を2017年1月の吹囀履歴から再構成してみました:




第六管区海上保安本部が〈船名番号等表示要領〉に「大正、昭和時代に宮内庁で侍従を務められた広幡氏」http://kaiho.mlit.go.jp/06kanku/news/press/press.pdf/24-12-04.pdf
と書いてる人物、広幡忠隆 https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6%EF%BC%89
とは異なる平行世界の広幡氏?(或は宮内庁侍従で別の広幡氏が?)
https://x.com/uakira2/status/818009751481122816


『海軍制度沿革』中「艦艇名文字書体に関する件」に触れられているのは巻8の僅かな箇所(第三第七節の一部)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/192 のみである模様。例の仮名書体の原図は無い。「艦船造修試験検査規則第60条」を探さねば。

「艦艇名文字書体に関する件」

https://x.com/uakira2/status/818038767646687232


問題の「艦船造修試験検査規則第60条」は、同じ『海軍制度沿革』巻8の第三章第一節に収録されている明治37年7月2日付のもの(達106)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/98 が初出だった。掲示場所と文字色に関する規定はあるけれど、書体の見本は無い。

「艦船造修試験検査規則第60条」

https://x.com/uakira2/status/818047736654114816



艦船名を掲示する場所と色に関しては、明治31年「艦船造修試験検査規則」第53条で既に規定されているようだ。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/90
https://x.com/uakira2/status/818065329293172736


更に遡って、明治27年「艦船造修試験検査規則」第54条にも艦船名に関して「軍艦名は平仮名水雷艇及船名は漢字を以て艦船尾に附著すべし其書体及寸法は鎮守府司令長官之を定め海軍大臣の認可を受くべし」との規定がある。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716/84
https://x.com/uakira2/status/818066605615652864


明治31年の規則53条「軍艦名及水雷艇名は平仮名船名は漢字」「軍艦名の文字は金色」に合致するから、横須賀に係留されている「みかさ」http://judas.air-nifty.com/ikusabune/2005/08/post_0a7b.html は、やはり《ほぼ日本海海戦時(明治38年 1905)のまま》ということだろうか。
https://x.com/uakira2/status/818067742548893697


ともあれ、明治27年の「艦船造修試験検査規則」第54条によって艦船尾記載の名称表示に使う文字の「ひながた」整備が必要になったのだとすると、「原字を伊藤中将が揮毫した」https://x.com/fuyuzuki601/status/816965712883236864 というのは時期的に(「宮内庁侍従の広幡氏」よりも)信憑性が高い。
https://x.com/uakira2/status/818087844820357121


明治20年代に作られた(書かれた)「四角い枠に収まるような整った極太の平仮名(の雛型)」の一つに、明治21年刊『新撰讃美歌』に使われた日本で最初の「和文アンチック形」活字 http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=3218 があり、これが「艦船名の仮名」と同系統の書風。

明治21年刊『新撰讃美歌』

https://x.com/uakira2/status/818089282241892353


そして推定明治29年発行の秀英舎製文堂『活版見本帖 未完』の「太字仮名」(『秀英体研究』235頁掲載)もまた、この築地活版による最初期和文アンチック活字や、先ほどの「船名書体」と同系統の書風。

秀英舎製文堂『活版見本帖 未完』の「太字仮名」(『秀英体研究』235頁掲載)

https://x.com/uakira2/status/818093136341676032


「菱湖風」が当時の「いろは仮名」手本の主流であったように、《その流儀で普通に書くとこの「太仮名」になる》というような書家があったのだろうか。アンチゴチに関係することなら何でも知りたい自分、とても知りたい。
https://x.com/uakira2/status/818093924161982467


以上、2017年1月作成の故twitterモーメント《艦艇名標や「アンチック活字」の元になった明治20年代の太字の書家について知りたい》でした。

以下2025年5月の短信:




以下、今回の故twitterモーメント再構築にあたり追記:
「近デジ」ローラー作戦を継続していた2005年の暮れに明治21年版『新撰讃美歌』に出会い、その重要性を伝えるべく「聖アンチック体」という記事https://uakira.hateblo.jp/entry/20060217でお知らせして以降、考えてみれば私製「仮名見本」の姿を提示していなかったと気がつきました。

2005-2006年当時はウェブ資源化されておらず、2011年になって高画質でデジタル化された国会図書館蔵『新撰讃美歌』(明治21年版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1919179)に基づく、築地活版が手掛けた最初期和文アンチックひらがな活字の私製見本を掲げておきます。

国会図書館蔵『新撰讃美歌』(明治21年版)に見える「最初期和文アンチック活字」の平仮名

大正14年10月16日付『秋田魁新報』夕刊の本文に使われている「築地活版製造所が震災後に新鋳せる」7.5ポイント活字が秀英電胎8ポイント書風である件

「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」(2017-05-20)の予備作業中、国内各地の新聞社史を眺めている中で、『秋田魁新報百二十年史』(1995)101頁に大正14年9月の出来事として書かれている、気になる記述を見つけていました。

築地活版製造所が震災後に新鋳した7ポ半の活字に切り替える。

『秋田魁新報八十年の歩み』(1954)では「築地活版製造所」云々の情報は無く、大正14年の出来事は次のように書かれています(21頁:NDLデジコレ:https://dl.ndl.go.jp/pid/2932601/1/20)。

十四年九月一日からは地方部を新設、土崎、本荘、大曲、大館、横手、湯沢、小坂の県内八か所に通信部を設けて、通信網の充実を期した。また東京にも特置出張員を置いて中央との連絡に当たらせることになつた。いまの東京支社の前身である。
その二五日からは紙面に七ポイント半の新活字を使い、八頁に増して夕刊を発行した。

「80年の歩み」にも「120年史」にも、大正8年3月からの事として「ふりがな付8ポイント半活字を使用」「10段組」、「同年8月からは11段組」とあり、また「120年史」には大正9年11月から新活字使用とあります。国会図書館から取り寄せたマイクロフィルムの紙焼き遠隔複写で紙面を眺めた限り、確かに大正8年3月から築地系8ポイント半と見える活字で16字詰め10段組み、更に8月からは同じ活字で15字詰め11段組みになっています。また大正9年11月以降の活字は築地系の8ポイントまたは7.75ポイントのようです(15字詰め12段組み)。

続けて取り寄せたマイクロフィルム紙焼きによると、大正14年8月1日付一面と9月1日付一面に紙面刷新を告げる「本紙の大拡張」社告が掲げられていて、そこに「築地活版製造所が震災後に新鋳せる七ポイント半の新活字を以て全部を一新」と記されているのでした。

大正14年8月1日付『秋田魁新報』1面(部分、国会図書館蔵マイクロフィルム紙焼きより)

先般、「築地活版製造所が震災後に新鋳せる七ポイント半の新活字」の使用開始から間もない大正14年10月16日付『秋田魁新報』夕刊(10月17日発行)を入手したので、一部を掲げておきます。

大正14年10月16日付『秋田魁新報』夕刊(10月17日発行)1面(部分)

「秀英電胎8ポイント書風」の活字であることが見て取れ、また「築地活版製造所が震災後に新鋳」した7ポ半活字であると同時代史料にて示されている、重要な「築地7.5ポイント活字」の資料。

古い新聞の探し方がもっと巧ければ、ずっと早く探し出すことが出来ていたかもしれないのですが、結局10年かかってしまいました。ここ10年ほどの自分の活動を振り返ると、『秋田魁新報百二十年史』の記述が無ければ原紙を探そうとしなかったし、当然出会うこともなかったであろうことが容易に思い浮かびます。改めて、「120年史」編纂に携わった方々が「80年の歩み」の記述に一言付け加えてくださったことに対して、深く感謝を捧げたいと思います。



以上は当然、「大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」(2026-05-31)と「大正9年7月11日付『岩手日報』に見える秀英電胎8ポイント書風の7ポ75仮名付活字」(2026-06-01)を踏まえての話題でした。

大正9年7月11日付『岩手日報』に見える秀英電胎8ポイント書風の7ポ75仮名付活字

秀英電胎8ポイント書風の登場と7ポ75活字への展開

2022年12月の「六号雑記(『書物学』第21巻「活字」に書かせていただいた〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉という記事の後書)」では、初出に関する答えは『書物学』第21巻「活字」をお読みいただきたいという意図から、ブログ記事中には❝仄めかし❞しか記していませんでした。

実用上の初出は大正7年のある大手紙(東京の十大紙に数えられる中の一つ)になります――『書物学』第21巻では具体的な紙名も記しています――。

秀英舎では8ポイント活字と7ポ75活字を(ほぼ)同時に並行して開発していたようで、秀英舎活版製造所による「再び新聞活字の御披露 東京秀英舎の七、七五ポイント式十二段新聞用」広告が『印刷雑誌』大正8年5月号に掲載されています(この広告は『書物学』第21巻ほかで披露しておらず、初めて目にする方も多いのではないかと思います)。

印刷図書館蔵『印刷雑誌』大正8年5月号掲載の秀英舎7ポ75活字広告

残念ながら「あ」の字は広告に含まれていませんが、「秀英電胎8ポイント書風」であることは十分に伝わる内容となっています。

岩手日報による秀英電胎7ポ75活字(ルビ付活字)の採用

この広告が掲載された大正8年5月、『岩手日報』が秀英舎の「七ポ七五仮名付活字」を採用しています。『岩手日報百十年史』(岩手日報社、昭和63年)や『岩手日報百二十年表』(岩手日報社、平成8年)に記されている通り、大正8年5月17日付の社告に「最新式七ポ七五仮名付活字採用」「東京の秀英舎に命じ、巨額の資本を投じて新活字の鋳造に着手せしめたり」と記されていて、同年5月20日付で秀英電胎7ポ75活字(ルビ付活字)が採用されています*1

というわけで原紙が入手できた翌9年7月11日付の紙面を掲げておきましょう。

大正9年7月11日付『岩手日報』1面(部分)

だいぶ文字面の摩滅や欠損が進んでいるようなのですが、全体的に見て、本文の7ポ75(仮名付)活字が秀英電胎8ポイント書風であること、また8ポイント活字よりも「あ」の字が左に傾いていることなどを確認するには十分でしょう。

大正9年の「岩手日報」に見える秀英電胎8ポイント書風7ポ75活字のひらがなとカタカナ

秀英電胎8ポイント書風7ポ75活字のひらがな
秀英電胎8ポイント書風7ポ75活字のカタカナ

「大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」と比べていただくと、関東大震災以前の段階で、ほぼ同時期に、築地書風8ポ・7ポ75活字と秀英書風8ポ・7ポ75活字が明確に異なる書体としてデビューしていたことが一目瞭然かと思います。

また、大正3年に発行された秀英舎『活版見本帖』に掲載されている六号明朝(「秀英後期六号」:「秀英舎製文堂の六号仮名の変遷」)とも違った書体であるということもまた、一目瞭然かと思います。

*1:実際には、『岩手日報百二十年表』では大正8年5月20日の出来事として「7ポイント75のルビ付新活字を採用、同時に12段制とす。」とだけ記されていて(20頁)、また『岩手日報百十年史』196-197頁に引用されている「新活字導入社告」には掲載日付が示されていないほか「秀英しゅうえいしゃに命じ」と記載されていました(強調引用者)。『岩手日報』マイクロフィルムを確認したことにより、社告が5月17日付2面に掲載されていたことと、実際の社告では「秀英しうえいしゃに命じ」と正しい漢字を用いて旧かな遣いによるフリガナが振られていると判りました。

大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字

「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する、築地活版の本文系初期ポイント活字の話を、3つほど書き継いできました。

今回は、2019年2月の時点では「昭和新刻7ポ75」と考えていて「東京築地活版製造所「昭和新刻7ポ75」(仮称)のこと」、2022年に大正8年初出と判明した「六号雑記(『書物学』第21巻「活字」に書かせていただいた〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉という記事の後書)」、「築地新刻8ポ」書風であるところの7ポ75活字について。

大阪毎日新聞における「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」の使用時期

『毎日新聞七十年』によると、大阪毎日新聞では大正8年1月1日付の大阪毎日新聞から大正11年4月3日まで、本文活字として7ポ75活字が使われていたようです(614-615頁「建ページ・活字・定価変遷表」https://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/329)。

神戸大学新聞記事文庫のスクラップ記事画像をピックアップした観察によると、大正8年、9年を通して「築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」が本文に使われているものと見えました「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」。大正10年も同様です。

『毎日新聞百年史』技術編「5 モノタイプと活版の改革」の「邦文モノタイプの導入」の項(486-487頁)に、大阪毎日新聞では大正9年秋から邦文モノタイプの導入を始め試験的には好成績を上げたが新聞用としてはあまり使われなかったとあり、また「最新式のトムソン活字鋳造機を採用」の項(487-489頁)には、「大阪はもっぱら築地活版から買っており自家鋳造の経験がなかった」と書かれています(488頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277848/1/512)。

邦文モノタイプ導入以前に採用された最後の本文活字がこの7ポ75活字ということになり、大正8年1月から11年3月の大阪毎日新聞原紙が「築地新刻8ポイント書風の7ポ75活字」の見本代わりに使える資料になると考えて良さそうです。

というわけで原紙を入手できたのが、大正9年2月20日付『大阪毎日新聞』(1・2面と15・16面)になります。

大正9年2月20日付『大阪毎日新聞』1面(部分)

時事新報における「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」の使用時期

神戸大学新聞記事文庫のスクラップ記事画像をピックアップした観察によると、大正7年12月までは築地9ポ、8年3月から9年3月までは秀英電胎8ポ書風の本文活字になっているようでした「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」。大正9年下半期以降は築地新刻8ポイント書風のように見えました。

『新聞総覧』大正8年版によると『時事新報』では大正8年2月に8ポイント活字の使用を開始https://dl.ndl.go.jp/pid/949178/1/116、『新聞総覧』10年版では大正9年7月から7ポイント75活字を使用とありますがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11619538/1/129、実際のところはどうだったでしょうか。

柏書房で継続刊行されている、大正期の時事新報復刻版ですが、2026年3月期に大正10年末分に至っています(第19回配本 https://www.kashiwashobo.co.jp/book/9784760156672。国会図書館では概ね1年前に刊行された分まで参照できるようですからhttps://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I023550255、大正7年初から9年末までの復刻版で、本文活字と段制の変遷を細かく追ってみました。

まず、大正7年6月29日付『時事新報』2面の社告にて「7月10日から1行15字詰め10段組に変更する」旨が示されています。その時点では1行16字詰め10段組(本文築地9ポまたは8ポ半)でした。この社告は以降「6月29日付」のまま連日掲載されています。そして予告通り大正7年7月10日付の紙面から1行15字詰め10段組となり、また従来は天マージンにあった日付等を示す「柱」(横組)が、小口マージンに移され縦組になっています。本文活字の大きさには変更が無いようです。

次に、大正8年2月7日付『時事新報』朝刊2面に「活字改正」社告があり、「2月11日付夕刊から本文を8ポイント活字にする」旨が示されます。この頃の「朝刊」「夕刊」の日付や発行順は少しややこしく、2月12日付朝刊までは本文築地で1行15字詰め11段組、2月11日付夕刊から本文秀英電胎8ポイント活字で1行16字詰め11段組となっています。本文は秀英舎になりますが、2倍見出しは築地(旧三号)のままであるなど、少し変わった体裁の紙面です。

そして大正9年6月16日付『時事新報』朝刊2面の社告で、6月21日から本文を7ポ75活字として1行15字詰め12段組とすると告げられました。予告の通り、同日発行された6月21日付朝刊および6月20日付夕刊から、本文に「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」が使われるようになっていました。

大正11年1月以降の状況をマイクロフィルムで追ったところ、大正12年9月1日付までは特に変化がなく、関東大震災に罹災したことで9月2日から9月11日付まで欠号、12日付から特殊な形態での発行となっていきます。東京築地活版製造所も壊滅的な被害を受けていたことから、秀英舎の活字が混用される形で9月24日から1行15字詰め12段組の体裁に戻っての再スタートが切られていました。

時事新報における「築地新刻8ポイント書風7ポ75活字」の使用時期は、大正9年6月21日から同12年9月1日付までということになるようです。

というわけで原紙を入手できたのが、大正9年12月11日付『時事新報』(1・2面と11・12面)になります。1面は題字のほかが全て広告となっていますから、通常の「1面」に相当する記事が掲載される2面を掲げておきましょう。

大正9年12月11日付『時事新報』2面(部分)

大正9年の「大阪毎日新聞」と「時事新報」に見える築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のひらがなとカタカナ

残念ながら全ての字種を拾い出すことは出来ていませんが、大正9年2月20日付『大阪毎日新聞』(1・2面と15・16面)と大正9年12月11日付『時事新報』(1・2面と11・12面)から、築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のひらがなとカタカナを集字してみました。

築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のひらがな
築地新刻8ポイント書風7ポ75活字のカタカナ

松本文字塾一期生の石原環さんが「築地新刻8ポイント」をモチーフにして「えのころ」という仮名書体を製作されましたが、特に平仮名の方は築地9ポイント系統の「末っ子」らしさを感じる書体、ですね。

#NDL全文検索 で作字・造字・装字などを辿り国語辞典編纂者の視点の偏りを思う

2026年4月16日、「作字」という言葉を巡って次のような吹囀ツイートを流しました。

手元にある『精選版 日本国語大辞典』は物書堂が毎年春に実施してる「新学期・新生活応援セール」(https://www.monokakido.jp/ja/news_release/2026/sale2026.html)で入手したもので、紙本とは違って後方一致検索が効く。

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

「精選版」だからなのだろうけれど、後方一致検索をやってみたら「造字」が収録されていないことが判って2度びっくり! pic.twitter.com/T8RpQhpUTt

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

そして「精選版 日国」で「作字」の2番目の語義である「文字の書き方」という用法は不勉強のためまったく知らなかったので吃驚!(調べてみると確かに菱湖流の書家内田不賢が版下を手がけた書の手本でタイトルが『作字必須』というものが明治6年に出版されている:https://dl.ndl.go.jp/pid/852353

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

ワープロ専用機を使ったことがあるような中高年が最初に思い浮かべるであろう語義(「印刷で、ふだん用意のない活字を新たに作ること」)は、「精選版 日国」では3番目に掲載されるものなのでした。 pic.twitter.com/q6m1ftDQP9

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

この「作字」の3番目の語義も、元々は、書家が古筆などから集字して手本とし新しいフレーズを書く際に、あてはまる文字が拾えなかった場合に「扁旁を合せて作字」する(新修書道講義録 https://dl.ndl.go.jp/pid/1150373/1/)用法が先行していると思いますが、「精選版」には採られていませんね。

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

AJ1-6に対応している電子活字が普及して以降という言い方でいいのか、2010年代から(?)語義3の存在感が消えて「図案文字を生成する」意味が一般化している(①https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&display=panel&from=0&size=20&sort=published:desc&q-title=%E4%BD%9C%E5%AD%97&f-ht=ndlhttps://jssd.jp/8595)ところが味わい深いですね。

— UCHIDA Akira (@uakira2) April 16, 2026

以下、この続きです。


「造字」という語彙について

多くの国語辞典に「造字ぞうじ」が載っていなかったことに吃驚

手元のアプリ『精選版 日本国語大辞典』(辞書 by 物書堂 https://www.monokakido.jp/ja/old_product/japanese/nds/)だけでなく、図書館で引いてみた『日本国語大辞典』第2版(小学館、2001年、第8巻256-257頁)、『広辞苑』第7版(岩波書店、2018年、1689頁)、『大辞林』第4版(三省堂、2019年、1571頁)、『大辞泉』第2版(小学館、2012年、下巻2109頁)、『言泉』(小学館、1989年、1349頁)にも「造字ぞうじは掲載されていませんでした。

「造字」という語彙については、「漢字の造字法たる六書といふのは左の如し」(渋川玄耳『文字・書道』〔玄耳叢書刊行会、大正14〕28頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/982127/1/24というような具合に、漢字学習の文脈で出会う言葉であり、かつ漢字学習の文脈でしか出会わない漢語であって国語辞典の対象ではない――という判断があったのでしょうか。

ちょっと不審に思われたので、NDL Ngram Viewerで「造字」と「造字法」の2ワードについて眺めてみました。

NDL Ngram Viewerで1860年から2022年に刊行された図書・雑誌から「造字/造字法」を検索

「造字」での検索結果には、現時点のOCR性能と検索の癖によって、川島梅坪他編『訂正古今紀要 巻3』(埼玉県、明治181885)の「長崎ノ人元木昌造ヲ獲テ。活版社ヲ創建ス。昌造字母ヲ製スルノ術を得テ。」(49丁裏、強調引用者 https://dl.ndl.go.jp/pid/11581947/1/51や石川鴻斎『文章軌範諺解 正1』(山中市兵衛、明治121879)の「温處士名ハ造、字ハ簡」(17丁表、強調引用者 https://dl.ndl.go.jp/pid/896228/1/29のようにOCRがよく読めているけれども求める語彙ではないものが拾われているケースの他に、宇喜多小十郎 著・川瀬益 書『往復日用文』(文明書楼、明治111878)のOCRテキスト「ヘリケライ奴隷喜鐵製造字ゑセヤ約定盟約ヤク体つ」(13丁表 https://dl.ndl.go.jp/pid/865728/1/14?keyword=%22%E9%80%A0%E5%AD%97%22のように明らかに「(仮称)図デコファントム」を拾っているものなど、想像以上に多数のノイズが紛れ込んでいます。

そうしたノイズや明かな漢文、漢字字書の類を除いて用例を探していくと、やはり漢字学習・研究に関係する事例になっていきます。

今泉定介・畠山健編『百家説林』(吉川半七、明治24)9頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/993399/1/194
指事。象形。形聲。會意の四つは。造字の本轉注假借の二つは。使用の法なれば。一をも闕くべからざれば。六書と定めしなり。
後藤朝太郎『文字の研究』(成美堂、明治43)178頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/902854/1/117
大凡そ文字の出來る其の出來かたには色々方法があるものであつて、古來六つの方法から造字されるものであると云ふやうに云はれて居りまするが

冒頭の吹囀ツイートに対してx.com旧ツイッターでMeme-Memeさんにお教えいただいたところによると、①ジャパンナレッジでヒットするのは『新選漢和辞典』のみ、②《辞書 by 物書堂》収録の中小型国語辞書と広辞苑では『三省堂国語辞典』以外の立項が確認できない、とのことでした(https://x.com/Meme_Meme_/status/2044984406935548067)。

宮城県図書館が所蔵している『三省堂国語辞典』の各版を確認してみたところ、「新装版(昭和43年第6刷)」・「第4版(1995年第14刷)」・「第5版(2001年第1刷)には「作字さくじ」も「造字ぞうじ」も立項されておらず、「第7版(2015年第2刷)」と「第8版(2022年第1刷)」で「作字さくじ」が無く「造字ぞうじ」がある、という状況でした。各々の語釈を掲げておきます。

第7版837頁:
ぞう じ【造字】(名・他サ)〔文〕新しい字を作ること。「―の方法」
第8版837頁:
ぞう じ【造字】(名・他サ)〔文〕新しい字を作ること。また、その字。「―の方法」

そんなわけで気を取り直して国会図書館デジタルコレクションを鍵語キーワード「造字」で全文検索すると、「新しく作り出された漢字」という意味合いの言葉として「『海上花列伝』の作者による造字」(『魯迅全集』11巻〔学習研究社、1986〕507頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12574640/1/260、「新島による造字は通行の文字に改めたが、当て字は原文のままにした」(『新島襄全集 4』〔同朋舎出版、1989〕凡例iii https://dl.ndl.go.jp/pid/12408379/1/7といった例が見られ、『三省堂国語辞典』第8版で追加された語釈の的確であることが頷けます。

この3例にはルビが振られていませんが、NDL全文検索の結果には、単に新しく作り出された漢字というだけでなく「新しく作り出された私的な漢字」というニュアンスが読み取れる「造字」の用例に「つくりじ」というルビが振られているものがありました。

奥村柾兮『法螺物語』(駸々堂、明治21)13頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/882709/1/8
古事記こじきには女篇をんなへんかいてあるが造字つくりじ
『戦友』228号(軍人会館出版部、1929)46頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1844556/1/28
則天武后そくてんぶこう賢明けんめい太宗たいそうこう自分じぶんで十數字すうじあらたつくつてもちひさせたがそれ造字つくりじもなくほろびてしまつてゐる

更にまた今回のNDL全文検索のおかげで、クリエイトされる対象は漢字とは限らず「楔形文字独自の造字法も考案されている」(吉川守・NHK取材班『NHK大英博物館 1 (メソポタミア・文明の誕生)』〔日本放送出版協会、1990〕34頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13231842/1/20)のだということを知りました。「新しい漢字を作ること」ではなく「新しい字を作ること」とした『三省堂国語辞典』の語釈の適切さが改めて解ります。

「つくりじ」という語彙とその漢字表記

落合直文『日本大辞典 ことばの泉』(大倉書店、明治37年第21版)に「つくりジ」という言葉が立項されています(921頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/862876/1/503)。語釈は次のように書かれています。

作字。わが國にて、漢字にまねて作りたる文字。例へば、榊、鯖、辻などの類。和字。俗字。

このほかに国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる国語辞典類の語釈も漢字表記も概ね右に倣えの状態です。

手元のアプリ『精選版 日本国語大辞典』でも見出し語として「つくりじ」を引くことが出来、①漢字をまねて、日本で作った文字。辻・峠・裃などの類。国字。さくじ。②自分勝手に作ったうそ字。③物などで、文字の形を作ること。また、その文字。――という、3種の語釈が示されているのでした。いま気がついたんですが、アプリなので検索窓に「さくじ」「つくりじ」という読みを入力する国語辞典の引き方だけでなく、「作字」という漢字を入力して「さくじ【作字】」「つくりじ【作字】」という2通りの言葉を引くこともできるんですね。これは便利!

図書館で幾つか引いてみた紙本の辞書は、次のように記していました。

『広辞苑』第7版
【作り字】①日本で漢字に模して創製した文字。榊・峠・辻などの類。国字。②自分勝手に作ったうそ字。③文字の形をつくること。また、その文字。人文字の類。
『大辞泉』第2版
【作り字】①日本で、漢字をまねて作った文字。「峠」「辻」「畑」など。国字。②自分勝手に作った字。③物などを並べて文字の形を作ること。また、その文字。
『新明解国語辞典』第7版
【作り字】①個人的なうそ字。②「国字」の江戸時代における称。

NDL全文検索で「"作字" "つくりじ"」の組み合わせを「複合語は200文字以内にある場合のみヒット」の絞り込み条件で検索すると、明治以降の事例は基本的に辞書的な資料にのみ出現しているように見えました。『精選版 日本国語大辞典』の「つくりじ」語釈のうち「国字」に対応する用例が『俳諧 鷹筑波』三(1638)の「玉つきの内に作字ツクリジ書入れて あかぬいとまにやるは田畠〈一滴〉」でしたから、単に国字とするのではなく「国字の江戸時代における称」とした新明解の記述は非常に有用な情報を含んでいるようです。

「作字」という語彙について

現行中小型国語辞典に見られる「作字さくじ

宮城県図書館でざっと拾い出したところを記します。

①『広辞苑』第7版(岩波書店、2018)1161頁
手持ちの活字二種以上の一部分を組み合わせて、特殊な文字の活字を作ること。またコンピューターなどに登録されていない文字を作成すること。
②『大辞林』第4版(三省堂、2019)1084頁
印刷用の活字や文字フォントを作ること。また、パソコンなどに登録されていない文字を作成すること。
③『大辞泉』第2版(小学館、2012)上1438頁
印刷で、必要とする活字がないときに、既存の活字の部分を合成したり削ったりして新しい活字を作ること。また、その作った活字。パソコンなどで、内蔵・登録されていない字体を作ることにもいう。
④『言泉』(小学館、1989)920頁
印刷で、用意のない特殊な活字を既存の活字の各要素を組み合わせて作ること。
⑤『集英社 国語辞典』第3版(集英社、2012)677頁
①(活版印刷で)該当する活字がないとき、二種以上の活字から不要な部分を削り、必要な部分を取り合わせて新しい字を合成すること。「削字」とも書く。②(ワープロなどで)日本工業規格の第一・第二水準漢字以外の文字を作ること。
⑥『新明解国語辞典』第7版(三省堂、2012)572頁
〔原稿に書いてある文字の用意が無い場合〕既存の活字を組み合わせたり削ったりして、目的の文字の形を作ること。〔広義では、木版作成をも含む〕【表記】削る場合には、「削字」とも書く。
⑦『三省堂 現代新国語辞典』第7版(三省堂、2024)588頁
コンピューターであつかう、標準では使えない(形の)文字や記号を、新たに作ること。

OA時代に対応する語釈を丁寧に記載しようとしたことが仇になって『集英社 国語辞典』の②に時代臭が残ってしまっているところと、『三省堂 現代新国語辞典』第7版が活版印刷を捨て去ってIT技術の進展に照らして長く使えそうな語釈になっているところが面白いですね。

また、⑧『辞林21』机上版(三省堂、1994第2刷、820頁)、⑨『明鏡国語辞典』第2版(大修館書店、2010、668頁)、⑩『新潮国語辞典』第2版(新潮社、1995、850頁)、⑪『岩波国語辞典』第8版(岩波書店、2019、580頁)、⑫『旺文社国語辞典』第12版(旺文社、2023、585頁)、⑬『新選国語辞典』第10版(小学館、2022、514頁)、そして『三省堂国語辞典』の新装版(1968)・第4版(1995)・第5版(2001)・第7版(2015)・⑭第8版(2022)では「作字さくじ」が立項されていませんでした。

なお、先ほど記した「つくりじ」という語彙も上記①~⑭について調べてみています。①②③④⑤⑥⑧⑪⑫には立項されていて、⑦⑨⑩⑬⑭には「つくりじ」が立項されていませんでした。

印刷技術の中の「作字」

活版印刷における「作字」と「削字」

三谷幸吉『手易く出来る活版印刷開業の栞』(印刷改造社、昭和11)「作字法」の説明は文章だけで書かれているので(12-13頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1056304/1/28、辞書的抽象的には飲み込めるのですが、具体的な作業を思い浮かべるのは難しい内容になっています。

活字が一本か二本ないために、往々にして印刷に取り掛かることが出來ぬことがあります。其場合には、扁と旁とを互に、鑿か鑢か鉋(輪廓削があればそれにて削り)で削り、扁と旁を合せて活字を作るのであります。

ヨゼフ・ナジ『工業高等学校印刷術教科書 第2学年用』(帝都育英工業高等学校、1954)の「作字」解説は、図入りで判りやすく示されています(219-222頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2476705/1/116)。「ネッキ」が活字の腹側でなく背側に図示されているのは御愛嬌というものなのか、当時そういう活字を用いる一派があったのか。

このように単に「作字」とだけ記す向きが主流であるようには見えるのですが、「さくじ」という技術用語に「削字」という漢字を用い、「作字」を従とする一派があるようです。管見の限りでは凸版印刷株式会社編『解説印刷用語集』(印刷出版研究所、1964、73頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2504748/1/41と水沼辰夫『文選・植字の技術』(印刷学会出版部、1961、20頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2493837/1/16が「削字」派でした。

写真植字における「作字」

写真植字で不足字を「作字」する方法としては、金属活字の場合と同様に既成文字のパーツを組み合わせる手法として㋑普通に印刷印字・現像した幾つかの文字を切り貼りして版下に貼りこむ、㋺不要な扁旁冠脚などのパーツを覆い隠して必要部分を感光させ多重露光で合成する――というものと、写植ならではの手法として㋩新しく描き起こしたレタリングから簡易文字盤を作成する、という3種類がありました。

印画紙の切り貼りによる実際の作例画像を掲げる例が、『編集デザインハンドブック』(視覚デザイン研究所、1979)178-179頁に掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/12289461/1/92)。

難読地名を多く含む書籍を写植で制作する際に、既成字体の扁旁冠脚などからパーツを寄せ集めて「作字」するのではなく、既成書体に似せて不足文字をレタリングし外字用の簡易文字盤を作成したと見られる事例が「同台経済人の記録」刊行委員会『草萌え : 同台経済人の記録 第1巻』(同台経済懇話会、1978)巻末の「編集にあたって」に記されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/12255784/1/190)。

穆陵(ムーリン)、兗州(イエンチョン)などの中国の難読地名は植字の原板になく、新しく手描きで作字する、という悩みもありました。

単に字を書くあるいは文章を書くという意味合いらしき「作字」

NDL全文検索でキーワードを「作字する」というサ変動詞にしてみたところ、次のような例が見つかりました。

エル・エル・ジーンス『生産初歩』(白川県洋学校、明治6)26丁表 https://dl.ndl.go.jp/pid/838682/1/30
今日日本人民自己ノ國語ヲ讀ミ或ハ作字スル者多ク彼ノ歐洲文明開化ノ國人モ及バザル有リ
クラフト『歩兵論』(偕行社、明治23)118頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/844576/1/62
無學ニシテ入營セル新兵ニシテ其役期中ニ讀書シ作字スルヲ得タル者ハ寡ナシトセス

ただ単に字を書くという意味に留まるのか、「文章」を書くところまで含めるのか、そのあたりは判然としません。

明治期にのみ現れる特殊な用例といった位置づけになるように見えましたが、国会図書館の外に広がる文献世界を渉猟したら、より古い事例や、より新しい事例が見られるかもしれません。

習字・書道における「作字」

習字・書道用語としての「作字」を確認するため「NDC分類728」という絞り込み条件をつけて「作字」をNDL全文検索してみたところ、大きく分けて2つの意味合いが読み取れました。まずひとつは、「活字」の場合と同じく、必要な字(あるいは欲しい文字)を得るために複数の手本字からパーツを寄せ集めて合成するという意味合いです。

『新修書道講義録』(興文社、昭和9)117頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1150373/1/47
これ丈の書が全部あつた譯でなく、中には扁旁を合せて作字したものも勿論あります。
『書道技法講座 44』(二玄社、1981)85頁(倣書のための集字の説明) https://dl.ndl.go.jp/pid/12428484/1/46
同じことばがあればそのまま集める。文字がどうしても見当たらないときは、部分をつぎ合わせて作字する。

ふたつめは、「均整の取れた文字を書く」といった意味合いで使われているように見受けられる事例(私の理解が誤っているようでしたら、お教えください)

前田円『書学捷径 乾』(博文館、明治36)10-11頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/852566/1/9
點畫を十分に習熟するときは、文字の結體も容易たやすく、而して其作る所の文字に筋骨が備りて立派な書になる、是れが作字の捷徑である。然るに從來の如く最初より一字の形態かたちを爲せし文字を習ふが故に、文字の形態かたちを作ることにくるしめられ。遂に立派な文字が作れないのである。《中略:引用者》拙匠は棟柱梁椽等の作方を十分にせずして家屋を建築することをいそぎ。拙書は點畫を習熟せずして文字を作ることを速く。爲めに堅牢なる家屋も出來ず。亦た立派な文字も出來ないのである。
村岡梅太郎『書法精義』(村岡梅太郎、大正5)20丁裏-21丁表 https://dl.ndl.go.jp/pid/1183308/1/27
作字とは、手本を離れて臨機應變、何れの字に當つても其時其時に、こんな字はこんな風に作らねばならぬ、此字はこんな模樣に書かねばならぬ、と云ふ樣に文字を書くに手本によらず自分で考へて組み立てゝ書く事を作字と云ふのであるが《中略:引用者》此結構法さへよくよく含み込んで居れば、如何なる文字に出遭ふとも文字を都合よく作れないと云ふ事は無い筈である。
入沢昕江『書学楷梯』(研文社、大正7)287頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/959272/1/151
細字にては僅に一枚を而も手本を見ることなく、思ふまゝを書く樣では、鉛筆を以て書取をなすと同じく、全く習字の意味を失ひ、實用はかへつて無用となる。假令かなりに作字しても、決して萬人に通ずる美的文字は望むことは出來ぬ。《中略:引用者》習字は單に早く書くの、字を覺えさすの、字を正確にかくのなどは第二である。既に習字科なるものがある以上は、十分第一義たる美的文字を練習せしめねばならぬ。

このうち、村岡『書法精義』と入沢『書学楷梯』は「ただ単に文字を書くこと」を超えて「均整の取れた文字を書く」ことを作字と呼んでいるといって差し支えないように思うのですが、実は前田『書学捷径 乾』の事例をそのように扱っていいのか、迷っています。日本国語大辞典が「作字さくじ」の語釈②「文字の書き方」の用例に挙げている『日本風俗備考』七「小學校に詣り、讀書及び作字の法を習ふ」という事例ともども、単に文字の書き方という意味合いであるものと見た方がいいのかどうか……。

昭和期に「レタリング」に類する意味で使われたと解せる「作字」の例

装幀の描き文字

斎藤昌三「閑却されてゐる装釘家」(『書痴の散歩』書物展望社、昭和71932)が取り上げている齋藤松洲の仕事のひとつに、星野麥人・篠山吟葉編『紅葉遺文』(隆文館、明治43)があります(122-123頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1858078/1/89)。

本文も頁の外肩に紅葉散しのオーナメントを輕くあしらつて、殆ど本文を障げぬ程度に入れ、オーナメントの下の紅葉遺文の四字も、活字體にない作字で入れてあり

――などと書かれていて、実際に『紅葉遺文』を見てみると「頁の外肩に紅葉散しのオーナメント」があしらわれている、その下に、「紅葉遺文」の作字レタリングが凸版に起こされて「柱」として印刷されているのが判ります(2-3頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/889044/1/10)。

『紅葉遺文』2-3頁(国会図書館デジタルコレクションより)

関川左木夫「青山二郎の装本を中心に」(『本の美しさを求めて』昭和出版、1979)が取り上げている小林秀雄『續文藝評論』の解説に、次のように記されています(148頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12235155/1/77)。

外箱はボールに黄土色の和紙を貼って、この表紙に、著者名、書名、発行所名を、木活の大型文字で入れ、背にもやや小型の木活文字、裏には中央の二重枠の中に発行年、左下に定価を表紙と同型の木活文字で印刷しているが、この木活とみえる活字は、青山二郎の創意になる作字であるかも知れない。

平成の事例ですが、小池四郎について記す小池一子『空間のアウラ』(白水社、1992)に、次の文がありました(22-23頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13317494/1/14)。

アプトン・シンクレアの原著は『ジャッドへの手紙 アメリカの労働者』だったが、クララ社、小池四郎訳の日本版は、『人は何故 貧乏するか』となった。その表題を彼はアール・デコ風の日本文字の作字で表わした。

次も平成初期の事例で、田村義也の装幀について書かれた金石範「田村さんの装幀」(『転向と親日派』岩波書店、1993)から(253頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13178904/1/132)。

私はいままで八冊を田村さんに装幀してもらったが、そのうちの二冊の評論集を除き、六冊の小説本の装幀はカバー、あるいは箱、表紙、扉をふくめて活字体をそのまま使ったものはない。どれも試行錯誤のプロセスを経た田村さん自身の作字であり(活字体の場合も、すぐには眼につかぬ何らかの変形と操作が加えられている)、そのまま造形的な象形性をおびるに至る。

装飾文字の生成

以上の装幀の描き文字とは少し趣が異なる用例として、『月刊保険評論』28巻6号(通巻342号、保険評論社、1976年6月)に、ロッキード事件に言及する次の文がありました(47頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1391277/1/25)。

それでも尚「米国筋から判明」「黒い高官に現職大臣」……こんなショッキングなタイトルが特大作字で新聞をにぎわしている。

同じ『月刊保険評論』28巻の9号45頁には次のように(https://dl.ndl.go.jp/pid/1391280/1/24)。

たまたま夕刊新聞「新関西」(八月三日の)に特大作字の〝白ヌキ〟で、でっかく「田中、獄中一週間」とあり「独房に流す油汗」とこれも又特大作字で第一面いっぱいに「運転手の自殺も知らず」「寝不足で目は充血」「連日十二時間取調べ」などなど

――この「作字」は、変形や地紋などを用いて「演出された文字」「装飾の施された文字」というような意味合いと考えれば良いでしょうか。新聞の見出しが必ずしも「活字」書体で刷られるとは限らないことから、やはりレタリングの謂いでしょうか。

中田功『レタリング入門 1』(美術出版社、1978改訂版)131頁には、次の図と共に「この頁に図示した、さまざまなKは、写真操作によって、ディスプレイタイプが作字できることを示す、デモンストレーション広告からの抜粋で、Gloor Satz Repro KGの性能の一部である。」という文が記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/12428256/1/70)。

Gloor Satz Repro KG広告(中田功『レタリング入門 1』131頁)

また平成の事例になってしまうものの、《装飾文字を「書き上げる」》というような意味合いで「作字」が使われている例が、『FBがわかる本 1』(モード学園出版局、1992)「レタリングの技法〈5〉装飾文字の書き方」に出ています(107頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13262446/1/56)。

①重ね文字=限られたスペースに字体を書き込む時に、文字を重ねて書けば、うまく収まり力強い効果が生まれる。エンピツで下書きし、塗り込んで作字できる。

狭義のレタリングと活字書体の原字

増川幸男『レタリングとトレース : デザイン文字・トレースの基礎から応用技術まで』(金園社、1977)に、次の内容がありました(136頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12428247/1/80)。

明朝体の文字を描く上に必要な基本点画をマスターしてください。明朝体でも、作字、活字、写植などを比べた時、わずかであるが違いがあります。しかし基本構造は共通しております。この約束事を無視すれば明朝体でなくなりますから、気をつけてください。

自由な筆記ではなくデザイン上の制約・要求を満たすように文字を清書する――「作図」のニュアンスに近しい「作字」――といった事例が小坂和夫『教程地図編集と投影』(山海堂、1982)に見えます(63頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/9584412/1/40)。

地図に使用する文字は、正方形、長方形、または平行四辺形の方眼を作り、その中に形が良く収まるように作字する

デザイン上の制約・要求を満たすように多数の文字を清書するという行為は、活字書体の原字づくりという行為に繋がります。

デコマス委員会『経営戦略としてのデザイン統合 理論編』(三省堂、1971)には、「専用タイプフェースとは、企業が独自の方法によって統一して使用する文字のことである」とし、日本の場合はカナ・漢字・英数の「すべてオリジナルに作字することは困難なので漢字は必要なものだけ作り、カタカナと数字をとくに作字することがある」と記しています(68-69頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12021144/1/38

写植文字の原字の設計(≒レタリング)というような意味合いが、牧とらを『エディトリアル・レイアウト : 編集者必携ガイドブック』(日本ジャーナリスト専門学院、1980)の「「歯ヅメ」について」に記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/12274216/1/8)。

文字は作字するときに寸法いっぱいに、つくるのではなく、天地左右に10%ほどの余裕を持たせてある。

明らかに写植文字の原字の設計レタリングの意味で「作字」と記すのが佐藤敬之輔「書と活字」(『佐藤敬之輔記念誌』佐藤敬之輔記念誌編集委員会、1982)の中の「その背反と等質性」の項です(120-121頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12428284/1/65)。

現在の写真植字(コールドタイプという)と活字(鉛合金を溶かして鋳造するのでホットタイプという)とを問わず、組みかえて繰り返し使える量産用の文字機構を、広義の活字と総括することにしよう。それらの原字(もとになる字)は誰かがどこかで書いたものが、カメラを通して処理される。原字は普通二インチ(五・〇八センチ)平方の方眼紙に書かれる。そこで、次のような「見込み計算」がさけられぬ難行苦行となる。《中略:引用者》このように種々の予想の上に、計算づくで作字するのである。

ここ50年ほどの間20世紀後半に使われていた「作字さくじ」という言葉の意味合いを捉え直す

現時点での私なりのまとめとして。

作字さくじ」とは、主に「既成の扁旁などパーツを組み合わせて必要字体を作る」ことと「一定のデザインルールに合わせて造形意図に基づいて文字(の形)を書き/描き出す」ことを指す。

前者は概ね、金属・写植・デジタルの標準活字セットに含まれていない文字(=外字)の製作や、書・印章原稿の集字において使われる。あえてデジタルフォントの考え方に寄せると「必要字体・不足字体への対応」。

後者は概ね、アナログ製作時代の地図の文字、あるいは活字原図などの作図や、(印刷等のための)描き文字の作成を指す。「レタリング」と近似または同義するが「書」として書くこともいう。あえてデジタルフォントの考え方に寄せると「要求書体・欲求書体への対応」。

まことに僭越ながら、過去の国語辞典編纂者は、辞書編纂行為に密接にかかわるのであろう「外字製作」のことが身近にありすぎたため、近現代において「作字さくじ」という言葉がカバーしている領域のうち、前者の一部分しか目に入っていなかったのではないでしょうか。

「装字」と「レタる」

仮に20世紀末から21世紀初め頃に自分がフリースタイルレタリングに入れ込んでいる当事者だったら、どういう呼び方を探っただろうか――と想像した際に出てきた言い回しが「装字」「フリレタ」「レタる」というものでした。

「装字」

よっぽど不注意に生きてきたからか、単に眺める本の数量が不足していたからか、本の装幀に用いた絵のクレジットに「装画」誰々という表記をするように、題字などのクレジットを「装字」誰々とするケースがある――ということを知りませんでした。

昭和9年に百田宗治の椎の木社から刊行された三好達治『日まはり』の題字を萩原朔太郎が書いていて、「装字」とクレジットされているのですね(https://dl.ndl.go.jp/pid/1213896/1/11)。

この他、パっと目に入った範囲では、平井照敏『俳句 沈黙の塔』(永田書房、1974 https://dl.ndl.go.jp/pid/12460262/1/4)や小林秀子『句集 芽以』(鷹俳句会、1980 https://dl.ndl.go.jp/pid/12496282/1/13)などの用例がありました。

「レタる」

このフレーズをGoogle検索してみた際にAI Overvewで出会って初めて知ったのですが、世の中に「モモカ帝国の公用語」である「モモカ語」というものがあり、その「モモカ語」では「手紙を書く」ことを「レタる」と言う、らしいです(https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/MomokaAkashi/mokago.html)。

知らなかった……。

「活字指定」「組方指定」「本文指定」の概説を探す

今年の頭に、「入稿原稿」や「組方指定」を主題として2018年1月に作成していたtwitterモーメント10件をブログ記事として再編してみたわけなのですが、まとめて振り返ってみて、入稿原稿に付される「活字指定」「組み方指定」などの用語の初期用例を #NDL全文検索 で探してみようじゃないかと思い至りました。

というのも、「こういう種類の資料が残っていませんか?」ということを呼びかけるのに用いることができる、適切な用語を改めて知りたくなったからなのです。


活字指定(活字の指定)

元々は新聞や雑誌で原稿の整理を行う作業の一環として「標題」「小見出し」「本文」の活字サイズを指定する「編輯部員の事後の任務」として「活字指定」があるという言い回しだったようです。

楚人冠杉村広太郎『最近新聞紙学』(慶應義塾出版局、大正41915)の「七.活字指定」に「原稿に標題、『小見出し』の選定がすむと、標題は何號活字、『小見出し』は何號、本文は何號に印刷するか、指定しなければならぬ。」以下略とあります( 129-130頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/953933/1/262

単行本を対象とする志水松太郎『出版事業とその仕事の仕方』(峯文荘、昭和121937 訂補再版)の「原稿の整理とその方法」でも「活字指定」という語が使われています(47頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1220299/1/37)。

高畠素之『批判マルクス主義』(日本評論社、昭和41929)の「編者序」の書き出しは次のようになっていました:吾々は、恩師高畠素之先生の遺稿を整理してゐるうち、はからずも『批判マルクス主義』と題する一束の原稿を發見した。序文や目次ばかりでなく活字の指定さへつけられ、上梓するばかりになつてゐる原稿である。」(https://dl.ndl.go.jp/pid/1443988/1/4

組み指定・組方指定・組み方指定・組方の指定(指定書・指定表)

戦後に編まれた印刷・編集の代表的な入門書に、「組方の指定書」「組方指定」が例示されていました。

多くの「入稿原稿」1枚目の余白に記されている一般的な「組方指定」の例が、水田茂・戸台俊一・高橋錦吉『編集入門』(ダヴィッド社、昭和321957 )「指定のしかた」で示されています(126-127頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2941702/1/73)。

水田・戸台・高橋『編集入門』127頁(組方指定の例)

モノクロ画像であるために少し判りにくいところもあるのですが、多くの「入稿原稿」1枚目の余白に記されているのを見てきたものと同等の指定書式であることが読み取れます。

単行本の製作を念頭に置いている山岡謹七『造本と印刷』(印刷学会出版部、昭和231948 )は「組方の指定書」という表現をし、参考として同書の指定内容が示されています(29-30頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2511191/1/24)。

最初に印刷所に組版を依頼する時には、組方の指定をするために、原稿をよく調べ、全ページにわたってナンバーを附し、原稿枚数を数え、一番上の原稿にその枚数をきちんと赤書することが必要である。それと同時に、やはりその一番上の紙に組方の指定書をつけるのである。
組方の指定書とゆうと、活字の大きさの指定、これにはルビをつけるのかどうか、ゴジックは何ポイントの活字に適用するか、といったようなことも書いておく。

参考までに本書の原稿に添付した指定書を1例として掲げよう。

「『造本と印刷』指定書」(山岡謹七『造本と印刷』29-30頁から構成)

「京都学派アーカイブで公開されている西田幾多郎史料(入稿原稿に記された組方指示)に関する「日本語マイクロ・タイポグラフィの精神史」覚書(2018年1月作成の故twitterモーメント)」で取り上げた西田幾多郎史料では、他の多くが「入稿原稿」1枚目の余白に記されている組方指定(活字指定)のみであるのに対して、扉の指定など様々なバリエーションが残されているところが興味深いものだったのですが、さすがにこの「『造本と印刷』指定書」のような内容までは伝わらなかったようで、ちょっと残念に思っています。

このタイプの「指定書」まで保存されているアーカイブ(デジタルアーカイブでなくても構いません)をご存じの方がいらしたら、ぜひお教えください。

それはさておき。

鈴木敏夫『基本・本づくり : 編集制作の技術と出版の数学』(印刷学会出版部、昭和421967)では「本文指定」「組み版指定」とされていて、写真版で示されている「「本文指定」の実例」が指示している小見出しの組み方と、実際の紙面が少しだけ違った仕上がりで良しとされているところが面白く(72-83頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/3047997/1/48)、また雑誌ではゴム印を用いた簡素な指定、単行本では丁寧な指定という割り切りも興味深いところです。

松岡譲「『明暗』の原稿」(『ああ漱石山房』朝日出版社、昭和421967)では次のように「組み指定」とされています:「原稿は雑誌なり新聞社なりに渡れば、それに組み指定がマークされて直ちに印刷へまわされ、特別の所望が無い限り著作者のところには戻って来ない習慣になっているもの」(https://dl.ndl.go.jp/pid/1348353/1/95)。今後の検索では「組み指定」という語彙も使われ得たのだと忘れないようにしなければ。

百田宗治『現代詩講座 第5巻 詩の作り方研究』

百田宗治『現代詩講座 第5巻 詩の作り方研究』(金星堂、昭和41929)には、「原稿の整理」作業の一つとして用字用語の統一を挙げ、その項に拗促音の小書き指定について「(原稿中の当該文字を)丸で囲んでおくのが習慣である」と記し(354-355頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1188295/1/187)、また〔「句読点の打ち場所」に注意する。「括弧」や「ハイフンの長さ」などにも注意する。〕と記されていますが、指定の例などは挙げられていません(355頁)。――が、その少し後に「指定表をつくる」として現代詩講座第4巻の例を掲げています(357-358頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1188295/1/189)。

「指定表」といふのは、組み方の細かい部分を總括的に指定するものである。例へば、この講座の前號を活版所に渡す時であると、

 現代詩講座指定表 第四巻

本文九ポ四十三字詰十四行。
各標題毎に扉をつくり、裏より組初める。
柱は各標題を七號にて奇數頁だけに入れる。
引例の詩は本文と同じ活字にて本文三字下り、前後各一行あき。
註は六號にて本文一字下りにて下一杯まで。
見出しは本文を三行分とり、四號にて本文二字下り。

 といふやうな風に書いてやる。その上で、細かい部分はやつぱり編輯者がこれを標準として一々原稿紙に朱筆で指定しておく必要がある。

この、百田宗治が優秀な編集実務者だったと感じられる内容に出会ったことで、ついうっかり略歴を辿り直すようなことになってしまったというわけです「Wikipedia風に百田宗治の略歴をまとめ『現代詩講座 第5巻』(金星堂、1929)における「詩の作り方(≒本づくり)」指南の源を知る」

調べてみて、百田は『読書感興』第3号(昭和11年7月)のアンケートに「趣味」として「造本など、酒を少し。」と回答し(https://dl.ndl.go.jp/pid/1466976/1/47)、一方で『愛書』第4冊「装幀号」(昭和10年9月)のアンケート「自著の中で装幀の最もお気に召したもの」に対して「みな失敗です。つまらぬ欲は出すものではありません。」と応えてみせる、そんな限定本書肆の出版人でもあったと判りました。百田が手掛けた詩集の指定表などは残っていたりしないでしょうか。あるいは、同時代の出版人――『アイデア』354号「日本オルタナ出版史1923-1945 ほんとうに美しい本」で取り上げられたような人々――の指定表などは……。

ちなみに、百田の「現代詩講座指定表 第四巻」を目にして思い起こしたのは、「青空文庫 注記一覧」にまとめられている、レイアウト注記のことでした。「表示ソフトウェア」で活用されることを意図した注記が、植字工程への指示と似たものになるのは当然と言えば当然のことですね。



関連:2018年1月6日付「入稿原稿の「組方指定」または「組版指定」の歴史を眺める」

西村月杖(西村雪骨)こと西村茂の経歴が判らない

2026年1月から3か月ほどチマチマと調べ続けて4月4日付で公開した「Wikipedia風に百田宗治の略歴をまとめ『現代詩講座 第5巻』(金星堂、1929)における「詩の作り方(≒本づくり)」指南の源を知る」で言及した百田宗治の交友関係のうち、西村月杖(西村雪骨)こと西村茂の人物像が気にかかっています。

まず、百田の略年譜に大正141925年の項目として「俳人・西村月杖と親交を結び句作を始める」とあることについて*1*2

①百田宗治『私の綴方帖』(大和出版社、昭和171942)に「私の古い友だちの西村月杖といふ俳人が」と書かれていること(81頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1130169/1/46
②伊藤整「百田宗治」(『作家論 第1』角川書店、昭和391964)に「百田宗治が長い間最も親密に交際した西村茂は俳人西村月杖である」と書かれていること(266-267頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1336866/1/135
③西村月杖は少なくとも明治431910年までは雪骨の号で俳句を詠みつつ(「大阪市南区逢坂上ノ町、西村雪骨」(『ホトトギス』13巻7号、ホトトギス社、1910年、86頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/7972280/1/47)本名の西村茂で百田らと「扉の会」を結成し(『大阪の文芸』339頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12502256/1/179)百田の雑誌『表現』に詩を書くなどしていること(『大阪の文芸』340頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12502256/1/180

――等を踏まえると、少なくとも大正末から西村との交流が始まったわけではない、ということは注意しておきたいと思います。

『近代文学研究叢書』では「十四年二月には上京し、大森新井宿子母沢の西村茂(俳人·西村月杖)宅に寄寓した。西村との交際を深め、句作を行い」という表現になっていました。

百田宗治『私の綴方帖』より

先ほどの百田宗治『私の綴方帖』において西村月杖に言及している箇所は、「「暮鳥忌」句稿その他」という項に記されているのでした。改めて引用しておきます(81-82頁)。

 今度は最近の私達の仲間の句會のことを書かう。仲間と云つても、別にわれわれで團體をつくつて俳句を勉強してゐるわけでも何でもなく、私の古い友だちの西村月杖といふ俳人が世話を燒いてくれるので、それなら一つやらうかといふので、その西村が年古く大森に住み、魚眠洞主人とも友交のあるところから、犀星、私、月杖の三人の名をつらねて知友十數名を語らひ、舊臘十一月中旬、大森海岸福利庵の海添ひの一室ではじめてひらいた。
 そのときの出席者は、室生犀星、萩原朔太郎、西脇順三郎、田中冬二、衣巻省三、内田忠、竹村俊郎、柏木俊三、近藤東、阪本越郎、丸山薫、那須辰造、小澤豐吉、高松章、小生、月杖の十六名で、兼題は「珈琲」、席題は「木の實」であつた。

「「暮鳥忌」句稿その他」には引き続き第二回、第三回のことも記されているのですが、ここでは省きます。

月杖の句会に参加したことに関する言及がある資料

百田が「「暮鳥忌」句稿その他」に記した句会の参加者のうち、「"西村月杖" "句帖"」「"西村月杖" "大森"」を鍵語としてNDL全文検索で拾い出せた範囲では、次の資料に言及がありました。

昭和戦前期における当局の「新興俳句に対する認識」のうち「生活俳句に於ける諸グループと其の交流関係について」、この西村月杖の主催誌『句帖』に対する見解が次の資料に記されていました。

大森の射的場主としての西村に関する言及

百田は「「暮鳥忌」句稿その他」において「西村が年古く大森に住み」と記していますが、いつごろ大阪から上京したのでしょうか。「"西村月杖" "大森"」等の鈎語でNDL全文検索を試み、どうやら西村は「八景坂の上に、「日本帝國小銃射的協會」と嚴めしい門札の掛かつてゐる廣大な射撃場の主事」をしていたらしいと判りました。上京のタイミング等は不明のままです。

  • 上田周二『詩人乾直恵』(潮流社、1982)「大森の射的場主で百田宗治とは古い友人だった西村月杖」https://dl.ndl.go.jp/pid/12462431/1/183
  • 水巴「廿四五年前」(『曲水』184号、曲水社、1932-07)「大阪に在つて雪骨と號してゐた其の頃の事は知らないけれど、それから二昔餘りもたつた今日の西村月杖君は、東京府入新井町新井宿といふよりは寧ろ一概に大森と云つてしまつた方がわかりがしさうな八景坂の上に、「日本帝國小銃射的協會」と嚴めしい門札の掛かつてゐる廣大な射撃場の主事である。」https://dl.ndl.go.jp/pid/6045273/1/13

大森テニスクラブ支配人としての西村に関する言及

  • 染谷孝哉『大田文学地図』(蒼海出版、1971)122頁「二丁目にいくと、俳人西村月杖の経営するテニス・コート(むかしは射撃場であった)がある。」https://dl.ndl.go.jp/pid/12501829/1/64
  • 石井小一郎「慶應大森コート」(『折々の便り 続』石井小一郎、1985)56頁「忘れ難いのは、協会の事務局長の西村氏御夫妻で事務所内に常住しておられたので、皆叱られもしたが、大変お世話になった。終戦後、ここが大森テニスクラブとなった時には、西村氏が支配人になった。」https://dl.ndl.go.jp/pid/12412008/1/37
  • 『東京都体育協会史』(東京都体育協会、1993)649頁「東京テニス協会が本格的に組織立って活動を始めたのは、早稲田大学テニス部OBでポプラテニスクラブの山崎喜作氏が新会長になられた時代からである。」「協会運営の要となる理事長には皇居内にあったパレステニスクラブの伊藤滋郎氏、常務理事には大森テニスクラブの西村茂氏(以下略)」「昭和三十八年に理事長として永年にわたって活躍された伊藤滋郎氏にかわって、西村茂氏が就任された。」https://dl.ndl.go.jp/pid/13296837/1/340

人物事典類の記述

  • 『現代俳人名彙 新版』(素人社、1935)「月杖:西村茂【現在】東京市大森区山王二丁目 水巴門。近く「オホヅラ」創刊。」https://dl.ndl.go.jp/pid/1874551/1/75
  • 『文芸年鑑 2603年版』(桃蹊書房、1943)「西村月杖 ゲツヂヤウ(俳)大森區山王二ノ二二一〇(電大森四七三一)本名茂 明二四生、大阪「句帖」主宰、小銃射的協會主事。」https://dl.ndl.go.jp/pid/1072004/1/178
  • 『現代俳句大辞典』(明治書院、1980)365-366頁「西村月杖 明治二四・一二・二二~昭和四五・二・三。大阪生。本名茂。「曲水」初期、雪骨の俳号で活躍、休俳の後、昭和六年、月杖と改めて復活したが次第に新興俳句運動に傾斜、また俳句と詩の統合を志し曲水を離れ昭和一一年一月「句帖」を創刊。室生犀星ら詩人の執筆も多かった。戦時中、文学報国会句会部に関係、「句帖」等を通じた協力に責任を感じ、戦後、俳句を断った。」(檜野)https://dl.ndl.go.jp/pid/12450467/1/194
  • 『俳文学大辞典』(角川書店、1995)「西村月杖 にしむら げつじょう 明治二四(一八九一)・一二・二二~昭和四五(一九七〇)・二・三、七八歳。大阪生れ。本名、茂。渡辺水巴門。『曲水』初期、雪骨の俳名で投句。のち月杖名で昭和六~九年に活躍。同六年、「流觴会」俳句研究会第一回を月杖居で開く。【句】「ざうざうと木枯ひかる椿山」[森田かずや]
  • 『昭和人物事典 戦前期』(日外アソシエーツ、2017)589頁「西村月杖 にしむら げつじょう 俳人 明治24年(1891年)12月22日~昭和45年(1970年)2月3日 【生】大阪府 【名】本名=西村茂、別号=西村雪骨 【歴】「曲水」初期、雪骨の俳号で活躍、昭和6年、月杖と改める。その後新興俳句運動に傾斜。「曲水」を離れ昭和11年「句帖」を創刊。戦時中、文学報国会俳句部会に協力した責任を感じ、戦後、俳句を断った。」



――という具合で、NDL全文検索やGoogleスカラー検索では「西村月杖(西村茂)が上京したのはいつ頃か」「いつどのようにして射撃場主となったか」といった疑問を解消する手掛かりが得られそうにないと判ってきたところです。

*1:『日本の詩歌 第13』(中央公論社、昭和441969)418頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1363424/1/221

*2:『大正期人物年表 5』(日外アソシエーツ、昭和621987)470頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12193611/1/243