国会図書館デジタルコレクションの全文検索で「組版屋」という語彙が含まれているらしいと判ったことから読み始めた中村光子『緑なす大樹の蔭に 草田男曼荼羅』(ぺりかん社、1995)。特定語彙の周辺だけ摘まみ読みしようと思っていたのに、あまりに面白かったので冒頭に戻って通読してしまった。
本書の主題は、一般的には草田男を中心とした『萬緑』同人たちと、草田男の義妹である著者光子を含む中村一族の各々が織りなす人間模様であろう。モデルとなった人物のうち、「みすず書房社長の北野民夫」(出版・読書メモランダム「古本夜話1423 中村草田男句集『萬緑』と北野民夫」参照)のようにそのままの名前と属性で描かれている人物がある一方で、モデルとは異なる仮名を与えられて登場する人物もある(例えば12頁に記される、著者の中村光子が参加することとなった『萬緑』新編集委員の4委員中1名のみは仮名扱いであり〔『萬緑』304号「編集後記」https://dl.ndl.go.jp/pid/7921985/1/42 参照〕、また304号「編集後記」で判る通り従来『萬緑』誌の校正等を担当していた「和木さん」というのも仮名)。
本書のもうひとつの味わいどころは、昭和最期の十余年、活版文芸同人誌がどのようなところでどのように組版・印刷されていたかという記録になっているという点にある。光子が関わることとなった『萬緑』印刷所のうち最後の「豊栄印刷」をのぞく4社が文中では変名で記されているのだが(110頁には「私が『萬緑』の仕事に携わってから十年余、数えてみれば、五色、横田、三栄堂、住吉、国文堂そして現在の豊栄印刷と、六ヵ所も『萬緑』誌の印刷所は変っているのである」とあるが、このうち「国文堂」は組版専門で『萬緑』奥付に記載のない印刷所である)、国会図書館デジタルコレクションで送信資料扱いとなっている『萬緑』のバックナンバーで奥付を見ていくと、モデルと異なっているのは名称だけで、所在や佇まいといったところは特段の脚色・改変を施されずに記録されているように思われた。
以下、「社史を持たない印刷所」の歴史の一断面として読み取っていった、『萬緑』印刷所の話。
「五色印刷」こと一色印刷(28頁)
四月号の割付を終り、原稿を印刷所に渡すために、和木さんと私は地下鉄の茗荷谷駅で落ち合った。
賑やかな商店街の表通りを少し歩いて、二つ目の信号を左に折れると、ゆるい下り坂になってはるか向うに緑の森が見えた。小石川植物園である。
坂を下りきって道に突当たる左の角に、小さな雑貨屋が一階にあるビルがあった。食料品から洗剤まで売っている何でも屋の店の隅に階段があった。
その階段を踊場で曲がってあがっていくと突当りに部屋のドアがあった。ドアの横に五色印刷株式会社と書かれた木の看板がぶら下がっているが、四畳半ほどの部屋の中には事務机と椅子、それに接客用の応接セットがあるだけである。
つまりここは完全に印刷ブローカーの拠点にすぎないのだ。
昭和40 年8月号から昭和52 年4月号までの『萬緑』印刷所は、「五色印刷」ならぬ「一色印刷株式会社」昭和40 年8月号(20巻8号:通巻188号)から昭和41 年3月号(21巻3号:通巻195号)まで、一色印刷株式会社の所在は文京区茗荷谷16昭和41 年4月号(21巻4号:通巻196号)から昭和50 年6月号(30巻6号:通巻305号)まで、一色印刷株式会社の所在は文京区小日向4-8-8昭和50 年7月号(30巻7号:通巻306号)から昭和52 年4月号(32巻4号:通巻327号)まで、一色印刷株式会社の所在は文京区小石川5-34-12
光子がかかわることとなった時期の所在地である小石川五丁目34番地というのは、「五色印刷」の描写通り茗荷谷駅から都道436号線(千川通り)に向かって坂を下ったところに位置し、そのまま千川通りを超えると小石川植物園に行き当たる。また千川通り沿いに少し南下すると小石川四丁目に共同印刷の本社があり、つまり「太陽のない街」と呼ばれたかつての氷川下町・白山御殿町・久竪町・戸崎町エリアであることに気づく。
『文京区史』巻1(東京都文京区、1967)に折り込まれた「東京都文京区住居表示案内図」によると、小日向四丁目8番地(https://dl.ndl.go.jp/pid/3010394/1/295)は旧町名「茗荷谷町」だったエリア(https://dl.ndl.go.jp/pid/3010394/1/298)を半分ほど含むようなので、「文京区茗荷谷16」から「文京区小日向4-8-8」への所在地の変更は、移転したわけではなく住所の表記方法が1966年に変更されたことを反映したのみであるかもしれない。この点は、もう少し細かい地図で確認しておきたいところ。
「草田男曼荼羅」を手に取ったそもそもの発端である「組版屋」という語は、まず最初にこの「五色印刷」の下請けとして40頁に出てくる。
地図をたよりに十分ほど歩いて訪ねた先は、四畳半ひと間の印刷ブローカーが発注するにふさわしい九尺二間の長屋然としたしもたやで、入口とおぼしきくもり硝子の戸を引くと、活字の棚が背中合わせにびっしりと並ぶ三和土で、体を斜めにして入って行くような狭い場所だった。
中で何人かの人が活字を拾っていた。
私はがっかりした。こんな所へ直接持ってきたってどうにもならない。高野が安心して私に来させるのももっともだ。ここは下請のまた下請みたいな零細な組版屋で、印刷は別のところに持っていくのだ。
場所柄、小石川五丁目34番地から「十分ほど歩いて訪ねた先」は共同印刷の企業城下町としての「零細な組版屋」が多数生き残っていた中のひとつであろうと想像される。類的な姿を思い浮かべることは出来ても個別に特定することは難しい。
「横田印刷」こと鎌倉印刷(42-43頁)
詳しいことは分からないが、次に私が高野の代りに足を運んで校正を受取りに行ったのは、国電田端駅のプラットホームから、袖看板の文字がはっきりと読み取れる横田印刷株式会社であった。
広い貨物の操車場を下に見て高架線を渡ると、たくさんの自転車が置かれた一郭へ下りる狭い階段があった。そこを通るのが近道で横田印刷は駅から五分とかからなかった。
戦災にも焼け残ったがっちりした六階建の大きなビルは、灰色のコンクリートむき出しで古めかしく、入ると冷んやりと倉庫みたいな感じで、屏風開きに開いたり閉じたりする古色蒼然の扉のエレベーターが入口近くにあった。そして何よりも、耳慣れた印刷機の稼働音が、一歩足を踏み入れた私に古巣に辿りついたようなうれしさを与えてくれた。
ここも同族会社らしく、目の鋭いかなり老齢の会長が、杖を突いて気むずかしそうに歩む姿を見かけたが、実際の営業や工務の責任者は、広い部屋の中央にいちだん大きな机を構えて陣取った常務と呼ばれる五十がらみの男らしかった。
昭和52 年5月号(32巻5号:通巻328号)からの『萬緑』印刷所は、「横田印刷」ならぬ鎌倉印刷株式会社(北区東田端1-8-10)- 日本歴史学会『日本歴史』の印刷所を見ていくと、鎌倉印刷株式会社(代表者川瀬壬子)について、次のような所在の変遷が辿れる。
東田端一丁目8番地はJR田端駅北口を出て新田端大橋を渡り、坂を下ったところ。
Googleストリートビューでは、坂下の交差点付近に、整備された駐輪場が見える。
鎌倉印刷の川瀬自身は遅くとも
敗戦後、まずは「川瀬印刷製本所」という屋号で神田鎌倉町13にて活動を再開した模様(広瀬哲士訳編『新生の書』〔新人社、1947〕https://dl.ndl.go.jp/pid/1039162/1/146)。
この川瀬壬子と同時期に神田鎌倉町で活版印刷に携わっていた川瀬丙午郎という人物がいる。
神田区鎌倉町20番地の川瀬という印刷屋。
角田善苗によって
川瀬丙午郎と川瀬壬子は夫婦で補い合う業態を営んでいた可能性はあるのだが(西英作『東京業種別電話番號簿 中央編 増補版』〔日本弘報社、1949〕16頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/8322713/1/18 では、「神田鎌倉7『川瀬活版所』川瀬丙午郎」と「神田鎌倉町11『川瀬活版所事務所・同工場』川瀬
ともあれ、そんな横田印刷との取り引きは思わぬ形で終了してしまう(121-126頁)。
昭和五十三年の年の瀬も押し詰まり、クリスマスも間近いことだから帰りに新宿で買物をしよう、仕事もこれを渡せば一段落だと安心していた。この時私は横田印刷に急変が起きていようとは夢にも思わなかった。
再校の出る約束の日に、私は横田印刷へ出かけた。やはりシャッターは閉り、赤旗も依然として立っていたが、裏階段を上って営業部の扉を押すといつもの女の子ではなく、年配の恰幅のいい一見重役然とした男が、笑顔で声をかけてくれた。この人は自分も句集を出したくらいの俳人で『野菊』の同人であり、戦時中に中島飛行機か何かの句会に、草田男を講師として招待したという経験もあって、以前から折にふれて話しかけてくる人だった。
「大丈夫ですよ。今引受けている仕事でお得意さんに迷惑は絶対かけません」
言い切ってくれた時の有難さ、うれしさは未だに消えない。消えないからこそその後の度重なる変遷を通して、現在にまで繋りのある戸山正二である。
先に記した通り日本歴史学会『日本歴史』の印刷も鎌倉印刷が手掛けていたが、同社倒産により印刷所を第一印刷所に切り替えている(1979年2月通巻369号 https://dl.ndl.go.jp/pid/7910425/1/28)。
「三栄堂印刷」こと三松堂印刷(127-129頁)
争議真っ最中の横田印刷で、戸山から渡された名刺が、次号から『萬緑』の印刷所になるという三栄堂印刷のものであった。
三栄堂印刷は地下鉄の神保町駅から歩いて五分くらいの、高速道路下の川っ縁に近い、立派なビルだった。
『萬緑』の印刷所に通うのは最初が茗荷谷、次の田端、三番目の神保町とどれも同じくらいの時間がかかったが、会社はだんだんに格が上がっていく感じだった。
田端の横田印刷のほうが三栄堂より建物は大きいが、鉄筋コンクリート丸出しの暗い感じのビルで、何年も経たないうちに倒産してしまうくらいの会社だから、北野民夫が初めて訪問してくれた折も、応接間の灰皿に煙草の吸殻がそのままで、女の子もいるのに掃除の行届かぬ汚なさが気になったが、三栄堂はまるで違っていた。
押して入る事務室のガラス戸もピカピカなら出迎える女社員も行儀よく丁寧だった。初めて社長に紹介されるべく通された応接室は、皮張りの黒いソファーが柔らかく、印刷協同組合何某と、名前と判この押された表彰状がずらりと掲げられていた。
百頁足らず、たった千二百部の同人誌をほんとにここで組んで刷るのだろうか。僅かな時間いただけでも、耳に入ってくる事務所の電話のやりとりはちっぽけな同人誌とはおよそ無縁な、多色刷ポスターの仕様や、大日本印刷とか凸版印刷とか、一流企業の社名や何万枚といった数量である。長年の印刷関係の経験から、『萬緑』は三栄堂が実際には手をつけず、どこか下請に回されるのじゃないか、と私は直感した。
昭和54 年2月号(34巻2号:通巻349号)からの印刷所は、「三栄堂印刷」ならぬ三松堂印刷株式会社(千代田区西神田3-2-2)
西神田三丁目2番地は専修大学神田キャンパスの北側の街区である。首都高速5号池袋線の高架下は水道橋で神田川から分岐し永代橋で隅田川に合流する日本橋川だ。神保町の駅から歩くと日本橋川の「川っ縁」に近づいていく5分ほどの道のり。
三松堂印刷の略歴は『東京の印刷組合百年史 別冊』(東京都印刷工業組合、1991)にある(96頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13096601/1/83)。百年史巻末に会員名簿があり準会員を含めて2843社の名があるうち、「組合員企業の沿革」で取り上げられているのは172社(おそらく企業規模順で上位企業――共同印刷・大日本印刷・凸版印刷は別格の「関連協賛企業」扱い――)。
三松堂印刷は、ここに1社1頁の枠で略歴が掲載される程度に大規模な印刷会社なのだと諒解される。
「住吉出版印刷」こと住友出版印刷(129-141頁)
それでも『萬緑』の奥付に三栄堂印刷の名が刷りこまれるようになってから二年三ヵ月の月日が過ぎ、三栄堂の二階の事務所に上ってゆく階段の踊場の突当りにある月刊本見本棚に、毎号『萬緑』が並ぶのを確認して私はなんとなく安心していたけれど、遂に『萬緑』は戸山と一緒に下請の小さな活版印刷に渡されてしまう日が来た。
それが私、つまり『萬緑』と三栄堂との縁離れであったが、有難いことに指示された場所は三栄堂から歩いて五分と離れていない目と鼻の九段通りで、見上げれば靖国神社の大鳥居がはっきりと目に入る坂下の神保町であった。
大通りに面して奥行の浅い横長の、そのビルの前を通り越して一つ道を突っ切り、専修大学前の交差点に突き当たる丁度真ん中辺り。
――中華料理屋と薬屋の間の道……
地図を見ながら探していくと、道ならぬ雨傘がつっかえそうな路地の突当りに目指す住吉印刷出版株式会社の看板を見つけた。
人間一人がやっと通れるくらいの通路をあけて、地面すれすれのコンクリートの床一面に、拝み合せに立てかけられた活字の棚が並んでいる。その仕事場の中で四、五人の職人が左手に葉書大の木製の文選箱と原稿を持って、右手で活字を棚から拾っている、私には長年見馴れた組版現場の光景があった。
やがて現れた社長は、「住吉出版印刷株式会社」と名乗るだけに、小なりといえども一国一城の主の風格で、活版屋の親爺、などと呼ぶのをはばかる若くて品のいい男だった。
住吉は印刷会社と看板は出していても、印刷機は一台も持っておらず、言うところの組版屋であった。
昭和56 年5月号(36巻5号:通巻376号)からの印刷所は、「住吉印刷」ならぬ住友出版印刷株式会社(千代田区神田神保町3-2)
神田神保町三丁目2番地内を通るL型の路地沿いに住友出版印刷があったということになるのだろう。
この「印刷機は一台も持っておらず、言うところの組版屋であった」という住友出版印刷のみが印刷所として奥付に記されている意味合いが、まだちょっとよく飲み込めない。
例えば1977年に明玄書房が発行した森三十郎『思想と憲法』、藤丸昭・森正史・市原輝士・坂本正夫『四国の祝事』、和田完・馬場雄二『人間 この知恵ある者にして気ままなる者』の3点は「組版:住友出版印刷・印刷:国際印刷」という分業体制が奥付に記載されている。
あるいは朝日出版社から出ている①武内考次訳『意味論序説』(1977)では「製版所:住友出版印刷・印刷所:信毎書籍印刷」、同じく②Donald Keene・藤井章雄編『米英俗語辞典』(1981)では「製版所:住友出版印刷株式会社・印刷所:凸版印刷株式会社」、また③田所信成『ことば学事始め』(1981)では「製版:住友出版印刷・印刷:誠文社・製本:東和製本」、④稲村博『親たちの誤算』(1981)では「本文印刷:住友出版印刷株式会社、表紙・カバー印刷:錦明印刷株式会社」、⑤八束はじめ『迷走するバベル』(1982)では「印刷所:住友出版印刷株式会社+錦明印刷株式会社・製本所:栄久堂」――という具合。①②③は組版屋としてのクレジットということのようだが、④⑤は本文の印刷を手掛けたという意味に読める。
東京都印刷工業組合の『組合員名簿 1983』で、神田神保町3-2の住友出版印刷株式会社は頁物印刷物を手がける活版印刷業者という文類分類になっているが(55頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917481/1/28)、組版専業なのか印刷も直接手掛けているのかは、他の事業者も含めて名簿には全く手がかりが無い。
ともあれ、当該地の再開発によって住友出版印刷の移転問題が発生する。
住吉印刷が神保町から移転する、というのだ。何でも地主がこの地にビルを建てるとかで住吉を路地の突当りにして入口の両側に建っている中華料理屋と薬局の三軒が取り壊される。勿論居住権があるから新築のビルの中に店を持つことは出来るが、活版屋として生存に関わる活字鋳造の許可が、都心に建つビルでは下りないのだ。勢い立退料を貰って都心から離れる仕儀に立ち至った。
東京都印刷工業組合『組合員名簿 1984』では、所属は千代田支部第3地区のままだが、所在が北区西が丘2-9-13になっている(53頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917474/1/27)。営業品目と業態は頁物印刷物を手がける活版印刷業者のまま。住友出版印刷は、少なくとも『組合員名簿 2000』頃までは西が丘で営業を続けていた模様。
「豊栄印刷」=豊栄印刷(144-148頁)
住吉印刷を出て二分くらい歩き、神保町の交差点を渡ってから右へ、また交差点を突っ切って学士会館の方へ歩くと、大通りに面して小学館、集英社の大きなビルが右手に見える。その向い側の神田さくら通りの一つ先の道を左に入ると、一つ目の道の右側の角に戸山のいう事務所があった。
「旧好堂」という、そこは鉛版屋だった。道に面して角っこの二方が、下半分が曇り硝子上半分が素通しのガラス戸で、冬近い播州の寒さから人を守って戸は閉められていたが、中で働く数人の人と鉛版や紙型を作る何台かの機械と積み上げられた活字の箱がガラス戸越しに見えた。
東京都印刷工業組合『組合員名簿 1983』に「東京紙型鉛版工業協同組合組合員名簿」が掲載されていて、神田神保町1-33に「有限会社新好堂鉛版所」の名が見える(287頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917481/1/144)。
神保町の交差点から白山通りを南下し、小学館のビルが右手に見えてきつつ、さくら通りと白山通りの丁字路を過ぎてすぐ左折という位置関係は合致する。新好堂もまた、変名で登場する印刷関係事業所のひとつだったようだ。
大人の靴を四足置けるかどうかもあやしい狭い土間の入口から、急こう配の油光りする木の梯子段があって二階に続いていた。手摺につかまって滑り落ちないか用心をしながら昇ってゆき、二階を覗くと、見たことのある人なつっこい笑顔の女の人がいた。
つい先日、住吉印刷の事務所で見かけたその人は、組み上がった『萬緑』の活字の箱を受け取るべく、自分でライトバンを運転して取りにきていた。初対面のその時、私は下阪のため編集後記の念校が出るのを待って事務室にいた。
その人が何と豊栄印刷の女社長だったのだ。
旧好堂という鉛版屋はこの人の亭主が社長をしている町工場で、現に神保町のど真中で鉛を溶かす臭いや、鉛版を漬ける薬の入った水が湯になって立ち上る湯気や、独特の空気が狭い仕事場に満ちていた。
昭和58 年11月号(38巻11号:通巻406号)からの印刷所は、豊栄印刷株式会社(江戸川区松江7-32-20)
跡見学園女子大学美学美術史学科『美学・美術史学科報 13』の奥付には、神田神保町1-33「有限会社豊栄印刷所」の名が見える(https://dl.ndl.go.jp/pid/4421913/1/38)。「新好堂」が豊栄印刷の事務所も兼ねていたという裏付けになるだろう。
東京都印刷工業組合『組合員名簿』1983-1984等に、江戸川区松江あるいは神田神保町の豊栄印刷に該当する名は見えない。NDL全文検索でも、江戸川区の豊栄印刷株式会社は、そもそも『萬緑』奥付のものしかヒットしない。Yahoo地図によると、当該地には現在も「有限会社豊栄印刷所」が存在するようだ。奥付に記載された「豊栄印刷株式会社」という名称が実は美称だったということになるのだろうか。
「国文堂」:未詳(148-150頁)
それから数日後、割付の終った原稿を携えて、戸山に連れて行かれたのは何とまた、田端であった。
いくつか目印を教えられてついて行くと、街中には珍しい緑の繁った小さな公園があった。その公園の入口と道一つ隔てて国文堂とガラス戸に書かれてその組版屋があった。これも全く組版だけの小さな下請けだ。
床が板張りなのがちょっと違うが、いずこも同じ組版屋の現場で、活字の棚が背中合せにずらりと並び、幾通りかの細い通路に立って文選箱と原稿を手に職人が仕事をしていた。職人の数は見たところ
主 を入れて三人しかいない。奥まった所で壁を背に据えられた機械に向かって、奥さんらしい人がタイプ印刷のキーをカチャカチャと打っていた。
仕事場の真ん中へんに、二階に通じる階段があり、その辺が活字棚の切れ目の狭い空間で階段下に机が一つ置かれて、帳簿類の本立てや電話がその上に載っていて、どうやら其処が事務所の代りらしい。零細企業の見本のような組版屋だ。
国電の田端駅から来るよりも或いは近いかもしれないから、と言って戸山が帰路に案内した道は、地下鉄の西日暮里駅へ出るはじめて通る道だった。
書きぶりからすると「国文堂」の所在地は、田端駅と西日暮里駅に挟まれる、田端一丁目か西日暮里四丁目と思われるのだが、『組合員名簿 1983』にそれらしい名は見えない。組合員では無かった可能性がある、ということなのだろう。
「曼珠社」こと真珠社(157頁)
ほどなく、様々な不便を感じる「国文堂」から、組版の請負先が変えられることになった。
曼珠社という名のその会社は、豊栄から歩いて二分とかからぬ同じ神保町の一丁目で、学士会館の建物の側面が道路一つ隔てて臨める位置にあった。灰白色の三階建のきれいなビルで、しっかりした中規模の印刷会社だった。ここはオーナーである会長が総括しているが、同じ程度の規模の会社が傘下に三つあって、それぞれに熟練の雇われ社長が配置されていて、その一人が豊栄の小母ちゃん社長の縁戚であったわけである。
平成元 年4月号(4巻4号:通巻471号)からは、印刷所:豊栄印刷株式会社(江戸川区松江7-32-20)・組版:真珠社という表記
東京都印刷工業組合『組合員名簿 1983』に神田神保町1-67「真珠社」という頁物活版印刷業者が掲載されていて(57頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/11917481/1/29)、「曼珠社」はこの変名ということのようだ。
真珠社単体で多くの書籍奥付に印刷者としての名が出ているが、平井雷太『子育て中止宣言』(本阿弥書店、1984)では「製版:真珠社・印刷:豊栄印刷」となっている(https://dl.ndl.go.jp/pid/12107859/1/86)。
真珠社は、神保町一丁目交差点付近にあったということになるのだろう。
「スマイル企画」「平河工業」(奥付)
中村光子『緑なす大樹の蔭に 草田男曼荼羅』(ぺりかん社、1995)の奥付には「印刷――スマイル企画・平河工業」とある。
1993年から96年に発行された書籍を眺めていると、明石書店の場合は「組版:スマイル企画・印刷:平河工業社」と記載しているのに対して、ぺりかん社の場合多くは一緒くたに両者が印刷担当として掲載され、「なるには」シリーズのみ「組版:スマイル企画・印刷:(例えば)図書印刷」と担当範囲を分けて記してある。
草田男曼荼羅の仕事も、組版と印刷で仕事内容が各社分業になっていたのだとしたなら、奥付も分業状況を反映させておいて欲しかったところだ。




















