先日の「大阪活版所(大坂活判所)が明治3年「5月に開業」したという説の根拠かもしれない五代友厚関係文書MFの複写が「破損・劣化」のため謝絶されてがっかりしている話」にて、本木昌造側から見た大阪活版所の開設時期が概ね明治3年「3月」とされている一方で、五代友厚側から見た記述の中に明治3年「5月」開設とするものがあること、そしてそのためか「大阪活版所跡」碑には「3月」開設とあり大阪市文化財協会編『大阪市の文化財』では「5月」開設と解説されていること、を記しました。また、大阪商工会議所が所蔵している「五代友厚関係文書」のうち、『五代友厚伝記資料』第4巻解説が「5月」開設としている根拠かもしれない「活判所取建に関する覚」と「借用証書 本木昌造代小幡正蔵・酒井三造 明治三年八月」――特に「借用証書」の方――の内容が知りたいと考えて国会図書館憲政資料室の五代友厚関係文書マイクロフィルム(https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/godaitomoatsu)からの複写を願い出て資料劣化のため謝絶されて落胆したところでした。
その後、大阪企業家ミュージアムに複写を願い出たところ、申請した下記2点につき、マイクロフィルムから作成されたPDFをお送りいただくことができました。深謝申し上げます。
- 「活判所取建に関する覚」(二十一史復刻に関する覚書)
- 日本経営史研究所『五代友厚伝記資料』(1971年、東洋経済新報社)第4巻197頁「(翻刻)一八二」(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/104)
- 大阪商工会議所『五代友厚関係文書目録』(大阪企業家ミュージアムDB:https://www.justice.co.jp/kigyoka/godai_document_search.php?page_book=1&search_book=%E6%B4%BB%E5%88%A4%E6%89%80)
さてここで、『五代友厚伝記資料』第4巻解説「雑纂」(251頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/131)が記す、大阪活版所設立前後の状況を改めて整理してみます。五代が関係した文化事業の第一として挙げられている、大阪活版所設立につながる「二十一史」復刻の話題です*1。なお、引用文中に「第一巻一〇六」等と記されている翻刻番号は国会図書館デジタルコレクションの当該箇所へのリンクとしました。
二十一史とは中国において古代から明代にいたるまでの間に編纂された二一の正史の称である。たとえば史記・漢書・魏書・新唐書などの史書である。この書物は幕末になるとなかなか手に入りにくい希覯書となった。幸い小松帯刀がこれを所蔵していたので
明治三年 三月ごろ世の読書子のためわが国において復刻しようと思いたち、このことを友厚や重野安繹に相談した(第一巻一〇六)。友厚はさっそく長崎で旧知の大村屋という印刷屋に大阪において二十一史を出版するよう勧誘するとともに、わが国において初めて活版の製作に成功した元オランダ通詞本木昌造にもこの事業に協力するように懇請してくれと書送った(第一巻一一〇)。そのうちに小松の計画(一八二)も具体化してきたので、本木は高弟酒井三造と小幡正蔵を大阪に派遣した。友厚はこの両人を後援して五月に「大阪活版所」を開業させた。このようにして出版の準備を整えているうちに惜しくも六月二七日に小松は病死した*2。中心人物を失って結局二十一史の出版計画は残念ながら立消えとならざるをえなかったのである。重野は翌年九月に小松所蔵の二十一史(書簡では二十二史となっている)を友厚の手元に返還している(第一巻九一)。
このように「友厚はこの両人を後援して五月に「大阪活版所」を開業させた」という、我々のように大阪活版所の開業が3月だったのか5月だったのかを知りたい者にとって肝心な話の論拠が示されていなかったわけなのですが。
大阪活版所(大坂活判所)明治3年「5月開業」説の双子の根拠資料
1. 五代友厚あて重野安繹書簡(R3 97 M109 4)
『五代友厚関係文書目録』(大阪商工会議所、1973年)に採られている(五代友厚あて)重野安繹書簡の中に、原資料では発信の月日だけが書かれて年が欠けているものが幾つもあるのですが、そのひとつ「R3 97 M109 4」( 年五月二七日)が我々にとって重要なことを記していたと判ってきました。翻刻文を全文引用します(「目録」125頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12263074/1/77)。
元木方屋敷決定に付、千五百両拝借したき由大村より話あり、御都合願う、小松君塩梅余程よろしき由承る
本木昌造を「元木」と記すのはよくあること。大村より話あり――ということは「大村屋経由で本木昌造に協力を懇請」という3月19日付五代書簡のスキームが生きていて大村から重野に話がいったという流れでしょう。「屋敷決定」なので、小松の二十一史翻刻のために本木側から単に資機材を供給するというだけでなく活版所として活動するための拠点を決定したという話のようです。
また、後々平野富二が五代友厚に諸々ひっくるめて返済した際の資料(「本木先生の借金利子を支佛ひたる受取書(五代才助)」〔三谷『本木昌造・平野富二詳伝』〕136頁図版 https://dl.ndl.go.jp/pid/1214169/1/123)には大阪活版所に関係する有利子負債の元本が「千五百両」であったことが示されており、「千五百両拝借したき由」という当初見積もりと辻褄があっています。
次の借用証書の存在と併せて考えると、内容的に「R3 97 M109 4」( 年五月二七日)は明治3年5月27日付の書簡だと判断して良いでしょう。
2. 借用証書 本木昌造代小幡正蔵・酒井三造 明治三年八月(R34 95 1590)
『五代友厚伝記資料』でも『五代友厚関係文書目録』でも翻刻されていないため、資料の標題にある通り「本木昌造代 小幡正蔵 酒井三造」から五代にあてて「明治三年午八月」に差し入れられた借用証書だ、ということしか判っていませんでした。冒頭に記した通り、国会図書館憲政資料室のマイクロフィルムは活用できませんでしたが、このほど大阪企業家ミュージアムからPDFをお送りいただくことができました。「目録」ではこの項のタイトル通り「明治三年八月」とされていますが(365頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12263074/1/199)、証書の日付は「明治三年午八月」と書かれています。証書の頭から読んでみます。
證書
一 金六百両也 午五月晦日請取
一 同弐百両也 同八月七日請取右
𛂥 活字判𛂛 入用拝借仕候処
相違無御座候
10年前は個人で「くずし字OCR」を使うなど夢物語だったわけですが(#珈琲咖啡探索隊「モンヘツ御用留文書」https://x.com/uakira2/status/639765958307901440)、今では自力で解読する部分とAIくずし字認識アプリ「みを(miwo)」やNDL Lab「古典籍OCR-Lite」の助けを借りる部分を比べて考量できるので、とても助かります。
とはいえ、「相違無御座候」以降の為書2行目後半と3行目を十全に読み取ることができていません――「本証書差出可申候為後証」とある定型文の前の6文字と後続の6文字について、「みを(miwo)」と「古典籍OCR-Lite」の助けを借りても精確に読めている気がしない――。
先ほどの5月27日付重野安繹書簡により、本木昌造側が大阪での活版所開業にあたり千五百両を借り受けたいと申し出ていたことが判りました。そしてこの「明治三年午八月」の借用証書により、当初資金として「五月晦日」に六百両が貸し出され、小松帯刀逝去後の8月7日に追加の二百両が貸し出されたことが判りました。
差額の七百両がいつどのようにして貸借されたのかは判りませんが、「本木先生の借金利子を支佛ひたる受取書(五代才助)」があることから、最終的には当初申込の通り合計千五百両が五代から拠出されたのは間違いないところなのでしょう。
この借用証書と、先ほどの重野安繹書簡、この2点が大阪活版所(大坂活判所)の開設時期について考察・言及する際に欠くべからざる資料であったということが、今回こうして判明しました。『五代友厚伝記資料』の編者も(おそらく当然)この2点の存在を承知していて「5月開業」としていたものの、『五代友厚伝記資料』全4巻中に取り上げていない資料だったために解説文中で言及できずにいた、というような事情なのでしょう。
ちなみに、私が読めていない部分を「?」として証書全文を翻刻してみると、次のようになります。
證書
一 金六百両也 午五月晦日請取
一 同弐百両也 同八月七日請取右
𛂥 活字判𛂛 入用拝借仕候処
相違無御座候??????本
証書差出可申候為後証??????明治三年午八月
「古典籍OCR-Lite」の読みを、読み取り重複行を整理して記すと、次のようになっていました。
謹書
一金六百両也 午五月晦日請取
一同弐百両也 同八月七日御門殿右は右宗判然入用拝借仕候処
相違無御座候追而限に相定本
証書差出可申候為後証仍て一札如件明治三年午八月
本木昌返代
小幡正蔵
酒井三造
「みを(miwo)」は次のように見ています。
証書
一 金六百雨 爾五月晦詣殿
一 同弐可日両也 同は月七日津殿右者活字剃然入用取漬佐処
胡違も御重候追西理月相定本
証書差書可申為後証伝一礼浪三年に八月
本大昌返代
小晴正蔵
海井三造
本木昌造が小幡・酒井に命じて大阪での活版所開設準備を始めさせたのは明治3年3月のうちだったかもしれませんが、実際に具体的な規模や場所が内定したのが5月下旬、賃料等を支払って「開業」できたのは早くて6月1日付だったりするのではないかと思われますが、現時点では今回判明した「双子の根拠資料」以上のことは判りません。私も「5月開業」説に与することとしておきます。
2025年12月1日追記:
先日来繰り返し記している通り、明治3年3月19日付大村屋あて書簡で五代友厚が「重野安繹と申すもの、二十一史を活字ニて、上木いたし候筈取究置候間、本木へ御示談」云々と要請したことによって大阪での活版所開設の話が動き出したわけですが(『五代友厚伝記資料』第4巻解説「雑纂」(251頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/131)の翻刻「一一〇」)。
『五代友厚伝記資料』第4巻解説「雑纂」が「
「昨日、小松家より活版一条承知仕」を伝える明治3年3月11日付重野書簡(同130頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12257038/1/79)の少し前に「二十一史」翻刻出版の話が降って湧いたわけではなく、明治2年9月頃から3年3月までの期間に、「サツマ辞書」同様上海美華書館での印刷になるか国内で賄えるかは別として、重野らと病床の小松との間で「二十一史」の活版での翻刻出版に向けた調整が進められていたという話ではないでしょうか。
*1:前回ご紹介した古谷昌二氏のブログ『平野富二とその周辺』の2018年8月27日付記事「五代友厚と大阪活版所」でも、『五代友厚伝記資料』第4巻解説に出てくる内容以上の原資料には触れられていません。
*2:引用者注:Wikipediaが小松帯刀逝去の日時に関する典拠としている高村直助『小松帯刀』(吉川弘文館、2012年)は、明治3年7月22日付の木場伝内書簡(『大久保利通関係文書 第3』145頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2982101/1/87 )に基づき、「帯刀の死は公的には七月二十日とされたが、実際には十八日夜一時頃であったと、二十二日付大久保宛の木場の書状は記して」いると書いています(『小松帯刀』273頁)。