日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

大阪活版所(大坂活判所)が明治3年「5月に開業」したという説の根拠かもしれない五代友厚関係文書MFの複写が「破損・劣化」のため謝絶されてがっかりしている話

大坂の「活判所」が開設されたのは明治3年のいつ頃か

本木昌造が長崎で起こした活版印刷事業は、明治3年から5年にかけて、大阪、京都、横浜、東京と東漸し事業拠点を増やしていきます。最初期の伝記資料である「本木昌造君の行状」には、次のように書かれています(明治24年4月『印刷雑誌』第1巻3号 https://dl.ndl.go.jp/pid/1498914/1/8)。

時ニ維新ノ偉業全ク成リテ諸藩封土ヲ奉還シ世禄ヲ廢セントノ論漸ク世ニ起リケレハ先生ヲモラク今ヨリ早ク其備ヲナサズハ我ガ長崎數百戸ノ扶持人等ノ如キモ遂ニ衣食ニ窮スルニ至ラント是ニ於テ心ヲ決シテ製銕所主任ノ職ヲ辭シ(明治三年)專ラ活字製造ニ從事シ大ニ其業ヲ興シテ彼ノ𦾔扶持人等ニ産業ヲ授ケントセリ是歳春社員小幡正藏酒井三造ノ兩氏ヲ大坂ヘ送リ五代才助氏後ニ友厚ト謀リテ同地ノ大手町ニ始テ活版所ヲ開カシム後ニ北久太郎町三町目ニ移レリ

このように明治24年の「本木昌造君の行状」では「明治3年の春、小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣し、五代友厚と相談して大手町に活版所を開設した」と書かれていたわけなのですが。

本木昌造側から見た大阪活版所の開設(明治3年[3月])

明治27年、その時点の築地活版の代表者だった曲田成によって上梓された『日本活版製造始祖故本木先生小伝』の記述は、次のようになっていました(27頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/782080/1/18)。

時ニ維新ノ偉業全ク成リテ諸藩封土ヲ奉還シ世禄ヲ廢セントノ論漸ク世ニ起リケレハ先生謂ラク今ヨリ早ク之カ備ヲナササレハ我長崎數百戸ノ扶持人等ノ如キモ遂ニ衣食ニ窮スルニ至ラント三年三月意ヲ決シテ製鐵所主任ノ職ヲ辭シ專ラ活字製造ニ從事シ大ニ其業ヲ興シ場ヲ先生ノ自宅ニ設ケ彼ノ𦾔扶持人等ニ産業ヲ授ケントセリ是ニ於テ社員小幡正藏酒井三造ノ兩氏ヲ大坂ヘ遣リ五代才助氏後ニ友厚ト謀リテ同地ノ大手町ニ始メテ活版所ヲ開カシム後ニ北久太郎町二丁目四十番地ニ移レリ

明治3年3月に、長崎の自宅に活版所を設け、小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣して大手町に活版所を開設した」と読める内容になっています。そのためでしょう、本木昌造側から見た大阪活版の開設時期は、単に明治3年とするものと、明治3年3月とするものが並びます。

明治2年とするものや明治4年とするものもあるのですが、明かな誤りと思われ、リストには掲げません。

五代友厚側から見た大阪活版所の開設(明治3年[5月])

五代友厚側から見た大阪活版所の開設時期は、明治3年または明治3年3月とされるものの中に、明治3年5月とするものが並びます。

「大阪活版所跡」碑

跡地の推定と碑の建立に尽力された方の記事が2本、1974年の『月刊印刷時報』359号に並んで掲載されており、それぞれ「3月」と「5月」になっています。

こうした両論併記的な扱いをせざるを得ないためでしょうか、大阪市文化財協会編『大阪市文化財』では碑文と解説が異なる日付を記しています(改訂第5版26頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12712941/1/18〔1982年、大阪市文化財協会〕・改訂第6版36頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/13323556/1/22〔1989年、大阪市文化財協会〕)。

《碑文》明治3年3月、五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により、この地に活版所が創設された。大阪の近代印刷は、ここに始まり文化の向上に大きな役割を果した。

長崎にはじまった活版術は、やがて大阪、京都、東京と東漸し、文明開化の一端をになうことになるが、その中心となった大阪活版所は、明治3年5月、五代友厚の要請により、本木昌造が門下生小幡正藏、酒井三造らと共に設立し、活版印刷と活字類の製造販売をはじめた。

五代友厚関係文書

古谷昌二氏のブログ『平野富二とその周辺』に「五代友厚と大阪活版所」という2018年8月27日付の記事がありますhttps://hirano-tomiji.jp/archives/date/2018/08?fbclid=IwAR2R3J769wWqSHpC-Kb8V1jNuOK3KoAqSidxA1nyBc53S4ySqRwI89Q56MM。「大阪活版所の開設に関する経緯、場所、時期」について本木昌造側からの視点が必ずしも定まっていないので、諸事情を解明するため五代友厚関係文書から「大阪における活版所開設に関する各種文書(主として書簡類)を横断的に読み解いた」として以下の①②の内容が紹介されています。

五代友厚側から見た大阪活版所の開設(明治3年[5月])」の項で示した『五代友厚伝記資料』第4巻解説には、これら①②に触れたのち「本木は高弟酒井三造と木幡正蔵を大阪に派遣した。友厚はこの両人を後援して五月に「大阪活版所」を開業させた」と記されています(251頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12256546/1/131)。ただし「五月に開業」とする根拠が明示されていません。

ひょっとすると、古谷氏のブログ記事で触れられていなかった、『五代友厚関係文書目録』には件名が記載されているけれども『五代友厚伝記資料』には翻刻文が紹介されていない次の資料が「五月に開業」の典拠資料なのではないか――従来は平野富二が五代友厚に諸々ひっくるめて返済した際の資料(「本木先生の借金利子を支佛ひたる受取書(五代才助)」〔三谷『本木昌造・平野富二詳伝』〕136頁図版 https://dl.ndl.go.jp/pid/1214169/1/123)しか参照されていない――

――そのように考えて、先般、国会図書館憲政資料室の五代友厚関係文書マイクロフィルムhttps://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/godaitomoatsu)から②③の遠隔複写を請求してみたわけなのですが。

今般、「誠に申し訳ありませんが、今回のお申込みは以下の理由により、お受けできませんでした。理由: 資料が破損・劣化しており、複写できません。」という複写申し込み謝絶の返信を頂戴してしまいました。残念。