日本活字工業株式会社の前史となる「大阪活字鋳造の陣容を #NDL全文検索 で更に掘り下げてみたら」見えてきた「大阪活版印刷所」のことについて、20世紀はじめの日本の商業印刷の一端が知れる1つの広告を少し掘り下げて見ておくことにしたいと思います。
1911明治44年『日本工業要鑑 第5版』に大阪活版印刷所が出稿した、邦文活字は東京築地活版製造所製であり欧文活字はJohn Haddon製であると謳う、下図の広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/902304/1/633)です。
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『日本工業要鑑 第5版』掲出「大阪活版印刷所」広告を読む
東京築地活版製造所
- 広告本文が「本書を印刷するに就て邦文活字は東京築地活版製造所の鋳造に係り」という具合に始まるわけですが、「本書の印刷及製本」という大見出しに使われている「の」が何だか秀英体に見えてしまう理由は判りません。使われている活字が全部ポイント活字であるらしい点について、この記事の末尾に項目を立てて記しておきたいと思います(記事のタイトルに記した「日本とイギリスの印刷史が交錯」という観点の話です)。
横浜エフ、エ、オルデス商会
「欧文活字及機械器具は横浜エフ、エ、オルデス氏を通じて」
- 1909明治42年工業之日本社『日本工業要鑑 第4版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/902303/1/503)によると、「エフ、エ、オルデス商会 F. A. Oldis.」は「横浜市山下町九〇」にあり「営業主 エフ、エ、オルデス F. A. Oldis.」氏が「印刷機械及附属品一切」を扱っていたようです。
英国John Haddon & Co.
「英国John Haddon & Co.より輸入したるもの」
- 1908明治41年『工業之大日本』10月号に「英国ジヨン、ハドン会社横浜支店(横浜市山下町シー九十番)エフ、エー、ヲルデス」名義での活字広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1894380/1/48)が出ていて、アメリカン・ポイント式寸法に基づく「Interchangeable. Self-Spacing. Standard Line Type」の特徴がじっくり解説されています。
- 1908明治41年『工業之大日本』11月号では、John Haddon社の「ハードン、セフテー、プレーテン」印刷機の写真入り広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1894385/1/58)が掲載され、「大日本一手特約販売人」の「横浜市山下町九十番シー」「エフ、エー、オルデス商会」と記されています。
- 『日本印刷界』では、1916大正5年6月の通巻80号1面広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517499/1/13)以降「ジヨン・ハツドン会社」名義で継続して広告が出されていました。翌月81号(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517500/1/73)からは見開き広告となり、1918大正7年の通巻99号(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517518/1/100)まで同じ体裁のもので、初回広告から「当社は有力なる商社にして日本代理店ならんと希望せらるる向と御相談致し度候」と記されていました。大正5年時点で「エフ、エー、オルデス商会」との関係がどういうものになっていたか、そのあたり興味はありますが、判りません。
- 1918大正7年2月の通巻100号(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517519/1/73)からは見開きの片方が印刷機の売り込みに力がこもった内容に切り替わっているのですが、「戦後の貿易大発展に対する準備として印刷工場の植字部とともに機械部の完成を期せらるるは最も重要」「市場には多数此の種英国製機会を模倣せる独国製偽物あり特に御注意願上候」などの文が時代を感じさせます。実際に第一次世界大戦が終結するのは1918年11月のことですが、2月の段階から同盟国(日英同盟)の工場主に対して「戦後の貿易大発展」を見据えた設備投資を促していたあたり、タイミング的にすごい広告だと思います。
神戸ベッカ商会
「若それ印刷用インキに至りては神戸ベッカ商会の輸入に係る」
- 当時の雑誌に機械関係の広告や染料関係の広告を多数出していたようですが、印刷関連資機材の取り扱いがあることを明示している広告は少なく、今見つけているのは(https://dl.ndl.go.jp/pid/1894362/1/27)「神戸三十一番/横浜百区九十五番」「英米独諸会社製造所機械及工具附属品直輸入商」「ベツカ商会」くらいです。
Berger & Wirth
「Berger & Wirthの製品を用ゐたり」
- ドイツのライプチヒに本社があった印刷インクの会社である模様(http://www.albert-gieseler.de/dampf_de/firmen0/firmadet9477.shtml)。
豊田製版所
「写真銅版は大阪豊田製版所」
- 東区徳井町二丁目にあったようで(https://dl.ndl.go.jp/pid/919313/1/96)、所主は豊田孫一郎という人物だった模様(https://dl.ndl.go.jp/pid/1704493/1/515)。「(大阪)朝日新聞の製版を引き受けていた」という話が見えました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2512793/1/45)。
日能写真製版所
「東京日能写真製版所に嘱し」
- 江森泰吉編『唐沢山写真帖』の奥付(https://dl.ndl.go.jp/pid/763763/1/23)には「印刷者:東京市芝区南佐久間町一丁目三番地 坂井昇」「印刷所:東京市芝区南佐久間町一丁目三番地 日能写真製版所」と出ています。
倉橋製本所
「製本は大阪鹽町倉橋製本所の手に成り」
- 大日本商工会『大日本商工録』大正14年版(https://dl.ndl.go.jp/pid/956901/1/982)によると、「南区鹽町四丁目」「店主 倉橋重男」。『全国工場通覧』昭和7年版(https://dl.ndl.go.jp/pid/1212137/1/376)によると「創業明治45年3月」で「代表者倉橋サト」。昭和13年『製本業者名鑑』によると「齋藤二壽」という人物が倉橋製本所で修業し後に独立した由(https://dl.ndl.go.jp/pid/1034866/1/90)。
大阪活版印刷所事工業之日本社印刷部
「之を統て完成の功を了へたるは吾が大阪活版印刷所事工業之日本社印刷部也」
- 前回の調査(「大阪活字鋳造の陣容を #NDL全文検索 で更に掘り下げてみたら」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/01/01/185045)で、大阪活版印刷所が中村盛文堂グループの一員であったこと、またグループ各社に担当の雑誌が割り当てられていたらしいことが判りました(例えば1914大正3年『交通及産業大鑑』掲出の中村盛文堂本店、大阪活版印刷所(工業日本社印刷部)、盛文堂東京分店(英文通信社印刷部)、日英活版所(交通社印刷部)、中央堂印刷所(電気界印刷部)、日英活版技工要請養成所の連名で写真入りで出された豪華広告〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1016005/1/48〉)。「吾が大阪活版印刷所こと工業之日本社印刷部」と書かれていますが、登記上はあくまで「大阪活版印刷所」です。
『日本工業要鑑 第5版』掲出「大阪活版印刷所」「乾鉄工所」広告の活字サイズを推定する
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『日本工業要鑑 第5版』では大阪活版印刷所と乾鉄工所の広告が見開きで並んでいます(https://dl.ndl.go.jp/pid/902304/1/633)。残念ながらスケールが入っていない時期のデジタル資料なので、書誌情報に記載された概寸から追った数字になるのですが。社名を含む大見出しの活字が31ポイント、乾鉄工所の営業品目内訳が18ポイント、「営業要目」「水管式陸用汽関」「神戸市東尻池町五(電話長二五七二)」が15.5ポイント、写真のキャプションとノンブルが9ポイント、大阪活版の広告部本文を含め残りの活字が12ポイントであれば、サイズ感は合うようです。
サイズ感は合うんですが、3の倍数系統(ノンブル系9ポイント/本文12ポイント/営業品目内訳18ポイント)と、3の倍数でない系統(15.5ポイントと31ポイント)が共存する組版をお前がやってみせろと言われても、どう技術的に辻褄を合わせているのか見当がつきません。
また、9ポイント・18ポイントは築地活版が明治38年に発売広告を出しており、12ポイントも少しあとに出ているのでこれは明治44年の広告に使われていても何の不思議もないのですが、15.5ポイントと31ポイントというのは「7.75ポイント」の2倍角と4倍角に相当するものなので大正8年以降でなければ生まれていないものと思われる(「新聞活字サイズの変遷史大正中期編暫定版」〈https://uakira.hateblo.jp/entry/2020/12/27/161118〉)、オーパーツ感あふれる使用例。
東京のアメリカン・ポイント活字と倫敦のアメリカン・ポイント活字
1891明治24年『印刷雑誌』1巻3号の誌上にアメリカン・ポイントを紹介する記事「亜米利加ノ活字定点法」(https://dl.ndl.go.jp/pid/1498914/1/5)と、アメリカン・ポイントを直ちに採用することが困難であることを論じた鷲尾三吉「亜米利加定点法ニ就テ」(https://dl.ndl.go.jp/pid/1498914/1/6)が掲載されています。
日本の号数活字は美華書館の五号(Small Pica)を基本として成立し、明治24年頃の状況としては、1フィートあたり82行(1文字あたり約3.71mm≒10.56アメリカン・ポイント)の米国Mackellar社旧サイズ=美華書館=築地活版系統の五号活字と、1フィートあたり83行(1文字あたり約3.67mm≒10.44アメリカン・ポイント)の英国Caslon社サイズ=秀英舎系統の五号活字が主流となっていました。今日からSmall Picaは11アメリカン・ポイント≒3.865mmにしろと言われても手持ちの活版資材全てを入れ替えなければ対応できません。
日本でアメリカン・ポイント制活字が使われるようになっていくのは、明治38-39年(1905-06)、幾つかの新聞社が築地活版の9ポイント活字を本文に採用してからのことになります(ちなみに、私は築地9ポイントに先立って普及した「都式活字」の実態が日本で最初に普及したポイント活字で実寸が9.5ポイントだったと考えています。詳しくは「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」〈https://uakira.hateblo.jp/entry/20170520〉)。
さて、大阪活版印刷所が用いていた欧文活字は、先ほどの広告に「英国John Haddon & Co.から輸入した」ものと書かれていました。このHaddon社について検索していたところ、Anthony R. King「Haddon and the Introduction of the American Point System」(https://britishletterpress.co.uk/presses/platen-presses/haddon-and-the-introduction-of-the-american-point-system-to-england/)という記事が目に留まりました。同記事によると、Haddon社は、19世紀末頃にイギリスの活字業界へのアメリカン・ポイント制導入を主導した会社だったようです(Circuitoursrootによると、この話は『Inland Printer』24巻1号(1899年10月)の記事を辿るとよい模様〈http://www.circuitousroot.com/artifice/letters/press/noncomptype/typography/haddon/index.html〉)。
19世紀末から20世紀初めに東京と倫敦で少しずつ広がり始めようとしていたアメリカン・ポイント制活字が大阪で出会っていたのだと思うと胸アツです。
なお、先ほどオルデス商会のところで見た『工業之大日本』掲載広告で解説されている「Interchangeable. Self-Spacing. Standard Line Type」の特徴というものを、米国セントルイスInland Type Foundry社の1902年『Specimen Book and Catalog』(https://archive.org/details/InlandTypeFoundrySpecimenBookAndCatalog1902/page/n13/mode/2up)で見たことがあるような気はするのですが、同社とJohn Haddon社が提携関係にあるか無いか等、そのあたりの話は判りません。