日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

ピンマーク入り初号活字を鋳造していた岩橋栄進堂のことを #NDL全文検索 で調べてみた話

先日、〈⿴〇岩〉のピンマークがある初号活字を入手しました。入手できたのは機械彫刻味のあるリニアな書風のものが大半ですが、楷書味のものが数本と、1本だけ極細の隷書風のものが含まれています。

岩橋栄進堂のピンマーク入り初号明朝活字3種(ナナメ方向)
岩橋栄進堂のピンマーク入り初号明朝活字3種(ピンマーク正面方向)

これは京都に本拠地があった岩橋栄進堂の商標で、昭和5年の『印刷材料品仕入案内 1930 関西版』に、マークとイラスト入りの広告が出されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1055936/1/47)。

2人の人物が「君!! 近頃ノ⿴〇岩印ノ活字ハ馬鹿ニ硬ク強イジヤアナイカ?」「アレワ君!! 今迄ノ地金ノ上ヘ自家デ錫ヲ多量ニ入レルナド多年ノ経験ニ研究ヲ加エタ結果活字ニ尤モ適当ナ或地金ヲ配合スルカラアレ丈硬クナルノサ」と会話しているもので、この新旧と思われる〈⿴〇岩〉活字も、いつか成分検査をしてみたいところです。

府川充男『聚珍録』第2篇(三省堂、2005、asin:4385362327)で紹介されているように、岩橋栄進堂はベントン活字時代に「新楷書体」という独自の楷書活字を製造販売していたようですが、残念ながら入手できたのは明朝活字です。岩橋栄進堂の新楷書体がピンマーク入り活字として鋳造されたことがあったのかどうか、そのあたりは判りません。

岩橋栄進堂は、2010年7月16日付の印刷業界ニュース(Pj web news)で、広島「株式会社いわはし」が松江「株式会社栄進堂」の全事業を引き継ぎ「いわはし山陰営業所」とすることを伝えるニュースの解説で「栄進堂は昭和7年、岩橋栄進堂活版製造所の松江営業所として設立され、地元印刷業者に機材等を提供してきた。」http://www.pjl.co.jp/news/enterprise/2010/07/339.htmlと記された10年後、2020年2月6日付の印刷業界ニュース(NEWPRINET)で「広島・いわはし 事業停止、自己破産申請へ」と報じられる状況になっていましたhttps://www.newprinet.co.jp/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%83%BB%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%AF%E3%81%97%E3%80%80%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%81%9C%E6%AD%A2%E3%80%81%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7%A0%B4%E7%94%A3%E7%94%B3%E8%AB%8B%E3%81%B8

以下では、創業期以来の概要をNDL全文検索で追ってみたいと思います。

合資会社岩橋栄進堂設立と松江支店開設

NDL全文検索によると、会社組織としては「合資会社岩橋栄進堂」(無限責任社員:岩橋宗次郎 京都市下京区四條通新街西洞院間上ル炭之座町四百十一番地)として昭和4年1月23日に設立されたようです(1929年5月7日付『官報』15頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957169/1/25〉)。この設立に有限責任社員として加わっていた泉義雄・泉義國は、昭和4年6月5日付で岩橋ゑいに持ち分を譲渡して退社しています(1929年8月27日付『官報』732頁3-4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957265/1/13〉)

『全国印刷業者名鑑 1922』などの広告文によると、元々は青山進行堂の「各種活字其他印刷材料印刷機械」類の販売店だったようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/158。また『京都商工人名録 大正11年改版』には京都の活字商として岩橋宗次郎ただ一人の名前がありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/950472/1/113。個人商店としての活動は少なくとも大正期まで遡るのでしょう。

昭和10年の『全国印刷材料業者総攬』には、岩橋栄進堂松江支店(岩橋宗次郎)の名が見えるのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/246、支店開設時期は明示されていません。

岩橋栄進堂がオリジナル開発者かどうかは分かりませんが、『印刷美術年鑑 昭和8年版』の広告に、10.5ptの6倍角である「63ポイントボックス式」角ゴシック活字と明朝活字の見本が掲げられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1208644/1/65。この広告には松江支店の名はありません。昭和9年か10年に支店開設となったのでしょう。

合資会社としては、昭和11年3月26日付で解散し(1936年6月11日付『官報』18頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959312/1/27〉)、同7月6日付で清算完了となったようです(1936年9月8日付『官報』200頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959389/1/13〉)。ただしこの時点で廃業してしまったわけではなく、昭和15年皇紀二千六百年記念印刷美術大観』には『印刷美術年鑑 昭和8年版』とほぼ同じ体裁の広告が掲げられていて、本店(京都市四條新町西入上ル)と松江支店が両方出ていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1685228/1/321

有限会社岩橋栄進堂活版製造所(京都)と株式会社岩橋栄進堂(広島)

昭和37年の『日本会社録 第2版』では有限会社岩橋栄進堂としての設立が昭和23年3月とされておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/8312604/1/276、設立年である昭和23年の『全国商工名鑑 上巻』掲載広告では有限会社岩橋栄進堂活版製造所として、本拠地である京都の他、大阪支店(天王寺区)、松江支店(松江市)、四国販売所(高知市)の名が出ていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1124889/1/419

昭和30年『日本印刷人名鑑』に「岩橋岩次郎」が掲載されていて、有限会社岩橋栄進堂活版製造所の代表と、広島の株式会社岩橋栄進堂の代表を兼務しているとありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/237

『月刊印刷時報』152号(昭和32年1月号)の雑報欄で「岩橋栄進堂活版製造所では昨秋ベントン彫刻による新楷書体を発表して好評を得ているが、その発売一周年記念としてこの新楷書活字をセットで特価奉仕することになった」と報じられhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434615/1/84、161号(昭和32年10月号)に「優美で近代的な岩橋栄進堂のベントン活字」という書体見本広告が掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434624/1/70。この頃は大阪店・京都店・広島店という体制だったようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434622/1/69

『月刊印刷時報』203号(昭和36年4月号)雑報欄の「岩橋栄進堂福山営業所開設」という記事には広島店こと「株式会社岩橋栄進堂」は代表取締役が星野寛と書かれているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434666/1/75、『月刊印刷時報』210号(昭和36年11月号)には、その星野の訃報が記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434673/1/67

『日本印刷年鑑 1958・59年版』に記された株式会社岩橋栄進堂の沿革には「京都市岩橋栄進堂活版製造所社長岩橋岩次郎は、昭和25年11月、広島県印刷工業協同組合の要望により同組合跡を譲り受けて岩橋栄進堂広島店を開いた。昭和30年2月、資本金50万円の株式会社に改組。」とあり、岩橋岩次郎と星野寛が2人とも代表取締役と記されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2458803/1/319)。共同代表の形で立ち上げたものが、星野の逝去によって岩次郎の単独代表に切り替わった状態だったのでしょう。

『月刊印刷時報』221号(昭和37年10月号)に掲載された「スーパーフート自動印刷機」PR記事の時点でも、岩橋栄進堂グループは有限会社岩橋栄進堂(京都、大阪、舞鶴)と株式会社岩橋栄進堂(広島、福山)という体制だったようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/11434684/1/86)。

『月刊印刷時報』405号(1978年2月号)のニュースダイジェストには株式会社岩橋栄進堂(本社・大阪市)の役員について、代表取締役が岩橋岩次郎、常務取締役が川嶋正夫と岩橋温晋(三男)、取締役が岩橋源太郎(長男)と岩橋あさ(妻)、福山営業所長が新任で宇野恵俊と書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434868/1/47。また『京都年鑑 1984年版』には、有限会社岩橋栄進堂の役員について、代表が岩橋岩次郎、専務取締役が岩橋源太郎(長男)、常務取締役が岩橋弘和(次男)と記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/9571175/1/267

岩橋岩次郎の略歴

先ほど記した昭和30年『日本印刷人名鑑』には、岩橋岩次郎の略歴が次のように記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/237)。

明治四十三年九月十一日、和歌山県和歌山市に生る。
昭和五年市立和歌山商工卒業。数多の経験と苦労を経て、有限会社岩橋栄進堂を興し、代表取締役に就任。
その後広島市にある株式会社岩橋栄進堂代表取締役を兼務、日夜優良活字、母型の責任製造を第一信条として、改良、研究に務めている。

岩橋岩次郎について、『印刷美術年鑑 昭和11年版』は「京都市四條通新町西入上ル岩橋栄進堂主岩橋宗次郎長女くに子嬢は小島菊三郎氏負債の媒酌にて和歌山の寺島嘉三郎氏令弟岩次郎氏と養子縁組をなし華燭の典を挙ぐ」と伝えています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/264)。

寺島嘉三郎の名は『全国印刷業大観 大正16年度』などに和歌山の活版業者として掲載されているのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/116)、嘉三郎を代表者(無限責任社員)として昭和6年10月6日に設立された合資会社寺島成南堂(和歌山市五番丁三番地)という活字商の登記公告には、出資者(有限責任社員)として寺島岩次郎(京都市四條新町炭之座町)の名が見えます(1931年12月15日付『官報』13頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957958/1/18〉)。

岩次郎の住所はだいぶ省略されていますが、昭和4年合資会社化された際の岩橋栄進堂の所在地(京都市下京区四條通新街西洞院間上ル炭之座町四百十一番地)に該当するようです。昭和5年に20歳で和歌山商工学校を卒業し、卒業後すぐ京都の岩橋栄進堂に就職、昭和11年に婿養子として迎えられたものと推察されます。

岩橋栄進堂松江支店から株式会社栄進堂へ

株式会社栄進堂でNDL全文検索をすると、『全国印刷業者及び関連業者名簿 1957』に奥村清之助という代表者名が見つかりました。奥村で検索したところ、昭和35年の『日本人事録 西日本編4版』に略歴が示されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3015873/1/165。曰く:

明治40年8月27日生 昭和二年大津中学校卒後岩橋栄進堂勤務 同八年同社松江支店設立に伴い同支店長就任 同二八年同支店独立現社に改組改称現職就任現在に至る