日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

誠貫堂活版製造所のピンマーク入り初号明朝活字

過日、名古屋の誠貫堂活版製造所が鋳造した初号明朝活字を入手していました。

誠貫堂活版製造所が鋳造した初号明朝活字(ピンマーク斜め方向)
誠貫堂活版製造所が鋳造した初号明朝活字(ピンマーク正面)

以前から「印刷業者名鑑」類や業界紙の広告から商標等のマーク類を拾い集めていたことについて「★印ピンマーク入り初号活字は東洋活版製造所が鋳造したものであろうと判断するに至った話」(2025-05-06)で触れましたが、その拾い集めた中のひとつである昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』に、この図案文字「太」マークがありました(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/202)。

「合名会社誠貫堂活版製造所」が設立されたのは大正21913年9月10日付ですが(同年9月16日付『官報』341号317頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2952441/1/7明治42年版『名古屋商業会議所統計年報 』によると明治25年6月の創立ということですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/803483/1/70

『名古屋印刷史』(名古屋印刷同業組合、1940年)の第15節「活字製造のはじめ」には、次のように書かれています(151頁-153頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/97

盛功合資會社が活字の取次を始めたのは、明治二十二年で、丁度新愛知創刊の同じ年である。ところが是より三年後れて誠貫堂活ママ製造所(所主太田健次郎)が本町二丁目に創設された(現在の店舗の向へ側)のは、たしかに當時の新聞社及活版印刷業者にとつて待望の的だつたに違ひない。

名古屋で罫輪郭の製造に先鞭をつけたのは、現太田誠貫堂主太田春雄氏の祖父に當る太田伊助である。

氏に二男あり長子は夭折し、前記次男健次郎(明治元年十二月二十六日生)が、父の遺業を繼いだがこの人棟梁の材を持ち、印刷業の前途益々有望なることを觀取して、新たに活字の製造を開始し、店舗を名古屋目拔の場所たる本町二丁目に構へ、店名を「誠を貫く」意味から誠貫堂と名付けたのである。これが抑も名古屋として活字製造の濫觴となつたのである。

紅の家おいろ『名所案内名古屋節用』(東雲堂、明治26年)に掲出されている広告では「太田誠貫堂」となっていますからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/765232/1/32*1、創業時点では単に「誠貫堂」という屋号ではなく「太田誠貫堂」と名乗っていたのかもしれません。

昭和16年版『全国工場通覧』https://dl.ndl.go.jp/pid/8312074/1/433以降「誠貫堂活版」あるいは「誠貫堂活字」の名が見えなくなりますから、企業統合の過程で消えていったのではないかと想像します。

*1:NDL全文検索「誠貫堂」では見つからない資料ですが、『名古屋印刷史』153頁( https://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/98)に、この『名古屋節用』掲載広告が図示されています。