日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

田村活版製造所のカネヨ印ピンマーク入り初号明朝活字と一号明朝活字

「カネヨ」印ピンマーク入り初号フェイス活字と一号フェイス活字(斜め方向)
「カネヨ」印ピンマーク入り初号フェイス活字と一号フェイス活字(ピンマーク正面方向)

先日の「★印ピンマーク入り初号活字は東洋活版製造所が鋳造したものであろうと判断するに至った話」で触れた、「印刷業者名鑑」類や業界紙の広告の断片を集めて製作している活字商の商標一覧に拾い出していた中に、「カネヨ印」を掲げる田村活版製造所があります。

今般、はじめて活字の現物を目にすることができました。

NDL本では『日本印刷界』67号(大正41915年)の広告で、はじめて「カネヨ印」が掲げられるようになっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1517486/1/18。まだ「田村活版製造所」名ではなく、「田村芳松」名義での出稿です。

『日本印刷界』では80号(大正51916年6月)に初めて「田村活版製造所」の田村芳松として掲載された広告があり、その記述を見る限り、この時に初めて自社鋳造の活字を販売するようになったようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1517499/1/71

『近畿の精華』(昭和6年)に田村芳松の短い評伝がありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1209412/1/160、『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年)でも少しだけ触れられています(①https://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/65・②https://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/113

「精華」の評伝に見える通り明治20年代前半には活字に関わる商売を始めていたようで、『大阪商工亀鑑 増補2版』(明治26年)118頁に、「活版附属品調進所幷に活字類販売」を営む「田村芳松」の名が見えていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1086812/1/111。『大阪人士商工銘鑑』(明治35年)でも「活版附属品調進所」の田村芳松とありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/779118/1/21、やはり自社鋳造活字の販売を手掛けるようになるのは大正からと見て良いのでしょう。

大阪府市名誉職大鑑』第2編https://dl.ndl.go.jp/pid/1464716/1/35や『帝国信用録』各版https://dl.ndl.go.jp/pid/956862/1/288ではヨシマツが「田村由松」となっており、どの名乗りを採用するのがよいか迷うところではあるのですが、『日本印刷界』の広告に従って「芳松」を採っておきます。

昭和161941年版『全国工場通覧』までは主力製品が「活字」でしたが(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312074/1/280)、昭和241949年版『全国工場通覧』では「タイプ活字」になっていますから(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312438/1/131)、今回取り上げた初号明朝活字と一号明朝活字は大正51916年以降昭和201945年頃までの30年ほどの間に鋳造されたものであろうと思われます。

田村活版製造所の名は、昭和24年版『全国工場通覧』より後の資料には見かけません。廃業したということになるのか、名前を変えて生き延びたのか。そのあたりは未詳です。