「梅にS」のピンマーク入り活字
株式会社浪花活版製造所が『日本印刷界』60号(1914)に掲出している広告に、「梅にS」のマークが登録商標として掲げられています( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1517479/61 )。このおかげで私は、以前入手していた活字が浪花活版のものだと認識していました。
「NANIWA Ⓢ OSAKA」のピンマーク入り活字
先日「NANIWA Ⓢ OSAKA」のピンマーク入り初号活字を入手したので、これを機に改めて浪花活版(浪速活版)の周囲を調べ直してみなければなるまいと思った次第です。
浪花活版あるいは浪速活版のこと
明治28年の『商業登記会社全集』には株式会社浪花活版製造所のことが明治26年12月20日登記済として、次のように記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/803675/1/124)。
営業所:大阪市西区京町堀通四丁目二十七番屋敷本店
会社目的:活版及印刷機械製造販売
設立年月:明治二十年四月十一日
開業年月:明治二十年四月十二日
存立時期:明治三十四年三月三十一日迄
取締役ノ住所氏名:大坂市南区安堂寺橋通二丁目(専務取締役)中川多助/同市東区内平野町二丁目(取締役)増岡重太郎/同市同区内淡路町二丁目(取締役)溝畑正吉
『大阪実業名鑑』(明治27)は浪花活版を「明治22年4月開業」とし(https://dl.ndl.go.jp/pid/779111/1/323)、『大阪印刷百年史』()は浪速活版製造所(ママ)が「西区京町堀通四に創業」したのを明治24年4月のこととしているのですが(284ページ上段)、どういう典拠に基づくのか知りたいところです。
『大阪商工名録 大正2年度』では浪花活版の商号(商標)欄に「梅にS」マークが掲げられています(https://dl.ndl.go.jp/pid/910680/1/197)。今のところ浪花活版(浪速活版)関係で「梅にS」マークが見えるこれより古い資料を見つけることはできていません。『日本印刷界』の前身で、コロンビア大学図書館が所蔵している『大阪印刷界』を確認出来たら、より古い時期の広告が見つかるかもしれません(「大阪印刷界(含日本印刷界)所蔵館リスト」https://uakira.hateblo.jp/entry/20170519/p2)。
活字製造印刷業の盛功社と中川多助・増岡重太郎のこと
浪花活版創業時の取締役として名を連ねている中川多助と増岡重太郎は、遅くとも明治20年代初頭から活版印刷の仕事に携わっていました。
例えば明治21年『淀屋辰五郎実記』の奥付には、印刷者として「大阪市西区京町堀通四丁目廿七番屋敷 盛功社々長 中川多助」と記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/882271/1/43)。少なくとも明治23年『現行日本法律書 : 以呂波索引 続編下巻』の頃まで、活版印刷業としての盛功社の責任者として書籍類の奥付に名前が出るのは中川多助でした(https://dl.ndl.go.jp/pid/787347/1/540)。
1891年6月22日付『官報』に「盛功社」が大阪市西区京町堀通の「活版製造」業を営む株式会社(創業明治20年4月)と記載されていますが(https://dl.ndl.go.jp/pid/2945654/1/4)、代表者名はわかりません。明治24年12月調という『大阪府治一斑 第3回』の工業会社及製造所ノ上(資本株式ニ分割シタルモノ)一覧では盛功社の社長又ハ頭取等の名が岩田與兵衛となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/807130/1/46)。
明治25年『明治宝鑑』によると、大阪市西区京町堀通四丁目の活版製造業盛功社の社長は増岡重太郎で(https://dl.ndl.go.jp/pid/773581/1/770)、『日本全国商工人名録 [明治25年版]』でも盛功社(西区京町堀通四丁目)の資本は金一萬園、業務が活字製造印刷、社長が増岡重太郎と記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/994140/1/288)。
浪花活版(浪速活版)のピンマーク「梅にS」は盛功社の「S」由来と思って良いのでしょう。
浪花活版のもう一人の創業取締役溝畑正吉のこと
浪花活版の登記情報を追ってみます。
- 1899年8月9日付『官報』7頁下段(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948122/1/18)および同17日付『官報』11頁下段(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948129/1/13):株式会社浪花活版製造所名古屋支店登記事項変更
- 1900年1月6日付『官報』7頁上段(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948242/1/13)および同9日付『官報』6頁下段(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948244/1/11):株式会社浪花活版製造所名古屋支店閉鎖
- 1901年2月23日付『官報』341頁上段:監査役:赤松美矩・武岡勘助、任期満了から再任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948586/1/7)
- 1903年2月14日付『官報』297頁上段:監査役:赤松美矩・武岡勘助、任期満了から再任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2949187/1/11)
- 1903年9月15日付『官報』251頁下段:監査役:赤松美矩死亡ニ付抹消、服部源兵衛補欠就任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2949371/1/10)
- 1904年2月8日付『官報』上段:監査役:武岡勘助・服部源兵衛、任期満了から再任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2949489/1/9)
- 1904年11月8日付『官報』27頁下段:払込金更正
- 1905年2月20日付『官報』上段:取締役:岸井六左衛門・俵弥右衛門・溝畑正吉、監査役:武岡勘助・服部源兵衛、任期満了から再任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2949819/1/18)
- 1905年4月6日付『官報』下段:監査役:服部源兵衛ハ死亡ニ付抹消(https://dl.ndl.go.jp/pid/2949858/1/26)
- 1905年4月21日付『官報』上段:清水芳次郎監査役就任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2949871/1/19)
- 1906年2月19日付『官報』下段:取締役俵弥右衛門辞任、監査役:武岡勘助・清水良次郎任期満了、武岡勘助再任、俵弥右衛門監査役就任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2950128/1/17)
- 1906年6月21日付『官報』下段:監査役俵弥右衛門辞任、伊藤庄三郎取締役就任、服部源兵衛監査役就任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2950233/1/16)
- 1906年7月30日付官報781頁下段:支店ヲ清国天津日本租界第九区五十三号旭街ニ設置(https://dl.ndl.go.jp/pid/2950266/1/10)
- 1906年8月29日付『官報』:取締役:溝畑正吉・岸井六左衛門・伊藤庄三郎、監査役:武岡勘助・服部源兵衛、在清国天津帝国総領事館登記(https://dl.ndl.go.jp/pid/2950292/1/8)
- 1907年2月13日付『官報』:監査役:武岡勘助・服部源兵衛、任期満了から再任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2950429/1/13)
- 1908年2月21日付『官報』:取締役:溝畑正吉・岸井六左衛門・伊藤庄三郎、監査役:武岡勘助・服部源兵衛、任期満了から再任〈大阪〉(https://dl.ndl.go.jp/pid/2950740/1/20)
- 1908年2月29日付『官報』:取締役・監査役、任期満了から再任〈天津〉(https://dl.ndl.go.jp/pid/2950747/1/13)
- 1909年3月4日付『官報』:監査役武岡勘助満期退任、服部源兵衛任期満了から再任、益田光之助監査役就任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2951053/1/20)
「浪速活字」と「浪花活字」
NDL全文検索で「浪速活字」が検索ヒットするのは、大正10年代の『大日本帝国商工信用録』に掲げられた大阪市西区京町堀四の「浪速活字版製造所」(37版:https://dl.ndl.go.jp/pid/945934/1/50、38版:https://dl.ndl.go.jp/pid/945914/1/184、40版:https://dl.ndl.go.jp/pid/945915/1/212、42版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1017541/1/327、およびその派生版)だけとなっています。誤植した版を使いまわしした結果と考えて良いでしょう。
また「浪花活字」で検索ヒットする戦前の資料は大正5年の『植民地大鑑』だけで、これは表形式の組版が「株式会社浪花/活版製造所」「活字製造/印刷機」という具合になっているものの各々1行目を「株式会社浪花活字製造」であるものとOCR認識してしまった結果です(https://dl.ndl.go.jp/pid/950496/1/981)。
「NANIWA」を名乗る大阪の活字ベンダーは、浪花活版(浪速活版)だけだと思って良いように思われます。