日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

このピンマークは「齧られ丸にK」の開正舎活版製造所なのか「凹み丸にK」の啓文社なのか

問題の活字とピンマーク

過日、〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き一号花形活字を入手していました。

〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き一号花形活字(斜め方向)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き一号花形活字(ピンマーク正面)

先日、〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字を入手しました。

〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その1(斜め方向)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その1(ピンマーク正面)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その2(斜め方向)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その2(ピンマーク正面)

例によって『全国印刷業者名鑑』の大正11年版や15年版などを眺めて、活字の製造販売を行っていたらしい事業者の商標から〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉マークに該当しそうなところを2つ拾い出しています。ひとつは東京・横浜の開正舎活版で、もうひとつは大阪・岐阜の啓文社活版です。このⓀは、どちらなのでしょう。

開正舎活版製造所の商標(暫定呼称「齧られ丸にK」)

『全国印刷業者名鑑』大正11年版55コマ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970397/55
『全国印刷業大観 大正16年度』14コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/14

冒頭の欧文花形活字は横浜からの出物として入手したものです。『全国印刷業者名鑑』大正11年版掲載広告で取り扱い品目として「欧文花形」があり、また「横浜市梅ケ枝町三七」に出張所があると書かれているので、これは開正舎活版製造所で決まりでしょうか。

東京・横浜の開正舎活版製造所が『全国印刷業者名鑑』大正11年版に掲載した広告に取り扱い品目として「欧文花形」がありますから、冒頭の欧文花形活字は開正舎活版製と言いたいところですが、関西・中京圏からの出物として入手したものです。

啓文社の商標(暫定呼称「凹み丸にK」(上段)・「分銅型にK」(下段))

『印刷時報』172号(1940)79コマ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1499108/79 掲出のものを模写
大日本帝国商工信用録 37版 大阪府之巻』(大正12)185コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/945934/1/185

初号和文活字関西・中京圏からの出物として入手したものです。こちらは欧文花形活字も、初号和文活字も、どちらも啓文社ということになるでしょうか。

開正舎活版の略歴

石版印刷から出発した木村時代の開正舎

NDL全文検索にて大元をたどると、大正元年11月28日付で京橋区南鍛冶町の木村理郎を代表(無限責任社員)とする合資会社開正舎として設立されていたようです(1912年12月4日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2952202/1/14〉)。この時の有限責任社員木村健吉、木村アヤ、木村サメの3名でした。合資会社開正舎の創業社長である木村理郎は、元々は石版印刷の資器材を扱う杜陵堂を営んでおり(https://dl.ndl.go.jp/pid/1081956/1/34)、第4回内国博覧会への出品履歴もあるなど(https://dl.ndl.go.jp/pid/801934/1/18)、創業社員の木村健吉ともども(https://dl.ndl.go.jp/pid/854011/1/10)、明治20年代から印刷業界で活躍した人物だったようです。

『日本印刷界』60号(1914年10月)掲載広告などを見ると、活字を含め印刷機や活字ケース、「活字鋳型」、インク等の活版印刷資器材と、石版印刷資器材も一通り商っていたことが判ります(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517479/1/8)。また『日本印刷界』83号(1916年9月)掲載広告中の「中古活字及整版諸器具」という項に「昨年十一月来ヨリ新活字製造販売致シ居候」「但古活字現場売ルコトアリ」と記されていて(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517502/1/73)、大正4-5年頃まではまだまだ中古活字の売買に需要があったらしいことが伺えます。この合資会社開正舎については、1919年4月30日付『官報』に、創設社員の木村アヤの死亡(大正7年6月23日付)と総社員の同意による解散(大正8年2月7日付)が公告されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2954134/1/14)。

鈴木省二郎が引き継いだ二代目開正舎

株式会社開正舎活版製造所は大正8年12月27日に設立されています(東京市京橋区桶町二十七番地、1920年5月3日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2954436/1/19〉)。取締役は京橋区桶町の鈴木省二郎、京橋区南鍛冶町の木村理郎、麻布区新堀町の船越洵、監査役京橋区南水谷町の木村健吉、京橋区越前堀一丁目の小橋三之助。

『全国工場通覧 昭和7年7月版』では開正舎鈴木商店という表記で(https://dl.ndl.go.jp/pid/1212137/1/240)、昭和16年『大日本商工録 全国版 第23版』にも開正舎鈴木省二郎として商標掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1034023/1/118)。

『職業別信用調査録』(大正14年)によると鈴木省二郎は明治27年岩手県岩手郡本宮村生で(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020824/1/354)、また『大衆人事録』第10版(昭和9年)には「大正九年独立開業ス」とあります(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312057/1/839)。『日本印刷界』117号(大正8年7月)の雑報欄に「鈴木省二郎氏の開業」という記事があり「久しく印刷用インキの販売に従事しつゝありし同氏は東京市神田区錦町一丁目十二番地に店舗を設け独立開業せり諸印刷インキの外材料の販売をもなす由」と書かれているので(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517536/1/62)、おそらく鈴木商店としての独立開業は大正8年(1919)夏で、木村家が解散した旧開正舎の商号等を引き継ぎつつ鈴木を代表とする株式会社開正舎活版製造所として再編創業するのが大正8年末ということなのでしょう。

啓文社の略歴

出版と印刷・活字製造の啓文社

『会社信用録 第5回(昭和18年度版)』によると代表者は村田憲治で出版と活字製造を行う事業者とされています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1069894/1/38)。元々は岐阜に出版を行う本社を持ち、大阪に印刷等を手がける工場を出していたということになるのでしょうか(大正11年鳥取県教育法規』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/912830/1/461/大正15年『三重県令規類纂』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/923981/1/566)。

岐阜県本巣郡北方町にて「各種出版物ノ発行及調度品製造販売」を目的とする株式会社啓文社は、飯尾富治郎を代表取締役として大正2年12月5日付で設立(同17日登記)され(1913年12月23日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2952522/1/20)、後に「各種出版物ノ発行及活版製造売買其ノ他之ニ付随する営業ヲ為ス」を目的とするように登記事項変更(大正8年9月10日登記)が行われています(1919年11月7日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2954291/1/19)。

印刷と活字製造の啓文社(啓文社工場・啓文社活版製造所)

梶原謙吉を印刷工場主とする大阪の啓文社は(明治33年『青年文学時文断片』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/904047/1/107)、『工場通覧 2冊 明治42年12月末日現在』では明治29年創業とされています(https://dl.ndl.go.jp/pid/802718/1/490)。『帝国信用録 10版(大正6年)』は明治16年創業説で(https://dl.ndl.go.jp/pid/956862/1/274)、活字製造業として梶原謙吉の「梶原工場」を掲げる『大阪府下組合会社銀行市場工場実業団体一覧』は明治10年創業説となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/958689/1/214)。

大阪の「啓文社活版製造所」として大正ヒトケタの頃の『日本印刷界』へ盛んに出していた広告には商標が見当たらず(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517481/1/2)、「啓文社工場」として昭和10年代の『印刷時報』へ出していた広告に「凹み丸にK」型の商標が使われています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1499109/1/38)。

先ほどの『大阪府下組合会社銀行市場工場実業団体一覧』と同じく梶原謙吉を取締役社長とする「出版業・活字製造販売・印刷機械材料販売」の株式会社啓文社(大阪市南区)を明治10年設立とする『大日本帝国商工信用録 37版 大阪府之巻』(大正12)では、商標が「両側から齧られた丸」つまり分銅型で囲われたKの字になっています( https://dl.ndl.go.jp/pid/945934/1/185)。時期的な違いということでしょうか、作図の誤りなのでしょうか。はてさて。

なお、当初岐阜の株式会社啓文社の登記に見えていなかった大阪の梶原謙吉は、1920年1月7日付『官報』の公告から岐阜啓文社取締役の一員として掲載されているのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/2954338/1/17)、『帝国銀行会社要録 : 附・職員録 大正4年(第4版)』の段階で既に社員(取締役)ではなく「大株主」として名を連ねているので(https://dl.ndl.go.jp/pid/974396/1/586)、比較的早い時期から出資はしていたものかと思われます。

初代と思われる梶原猪之松のこと

この大阪の啓文社と岐阜の啓文社をつないだのは、初代ということになるのであろう梶原猪之松でした。愛媛出身で明治10年代から印刷・出版に携わっていた猪之松は(『官令全書 明治一五年之部』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/787231/1/327)、明治18年『国民必携法律規則全書 下巻』刊行時には岐阜県下美濃に寄留する出版人として名古屋と東京の啓文社支局から同書を発兌しており(https://dl.ndl.go.jp/pid/787927/1/392)、それから明治20年三重県令達全書 続編』(https://dl.ndl.go.jp/pid/788792/1/416)や明治21年岐阜県令達類聚目録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/788381/1/294)発行に至るまでの間に大阪で根を張ることとなったようです。

大阪で活版製造業兼印刷業を営む啓文社は明治20年代から30年代のどこかのタイミングで梶原猪之松・梶原ハルから梶原小六郎へと引き継がれたようです(明治32年『大日本商工名鑑』https://dl.ndl.go.jp/pid/779844/1/379:/明治35年『日本紳士録 第8版』:https://dl.ndl.go.jp/pid/780097/1/440)。

情報求む

残念ながら、現在の国会図書館デジタルコレクションでは明確な答えを得るまでには至りませんでした。暫定的に、欧文花形活字の方を東京・横浜の開正舎活版製、和文初号活字の方を大阪・岐阜の啓文社活版製とみておこうと思います。何か手がかりをご存じの方がいらしたら、ぜひご教示ください。



2023/07/09追記:
記事の投稿後に活字収納箱のメモを見直したところ、欧文花形活字の入手先が和文初号活字と同じ関西・中京圏だったことに気がついたため、一部を訂正しました。