日本語練習虫

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墜落したB29の行方と吉川英治

東京の空爆(空襲)について、以前「中野重治『敗戦前日記』前川正男『中島飛行機物語』」「海野十三が見た世田谷の空襲」などとメモをとってきたわけなんだども。
上記に関係する、中島飛行機武蔵製作所を標的に据えて出撃し、青梅市の山中で墜落した第20空軍第73爆撃団第498爆撃群第874爆撃隊所属「Filthy Fay II」の状況を含め、墜落したB29の行方について詳細に記した「本土空襲墜落機調査」という資料を公開している、「青森空襲を記録する会」というサイトの存在を知った。
記録するということには大きな力があるのだなということを改めて教えられる。
ところで、機体番号42-93999、ニックネーム「Filthy Fay II」の墜落に伴う一部乗員の墜落死については、当時青梅に疎開していた吉川英治が「敵国人でも死んだら丁重に葬るべきだ」と語り、「村の警防団が山に入り手足などを拾い集めてコモにいれ」て「遺体は火葬されて近くの即清寺に埋葬された」のだという
なるほど、墜落地点とされる山の北側、当時の西多摩郡吉野村にあたる二俣尾駅近くには、吉川英治記念館がある。
吉川のエピソードは、当時の新聞などに記録されていたりするのだろうか。
……
ちなみに、同地から5kmほど東へ戻り、東青梅駅から北へ約1kmのところには、精興社がある。昭和七年に同社の分工場である精華堂工場として同地に拠点が作られたものだ。『活版印刷技術調査報告書』によると精興社は昭和九年に神田本社の隣接地に第二工場を新設しているが、昭和十九年の項に「精華堂工場に疎開してあった活字とともに製版部門を整備」とある。
昭和十八年十一月に初版が刷られた徳永直『光をかかぐる人々』は、さて、神田で組まれ刷られたものだろうか、それとも青梅だろうか。

なお、敗戦直後くらいの頃は西多摩郡霞村根ヶ布385の大化堂として活動しており、例えば白水社『アナトオル・フランス長篇小説全集』などで、山田一雄時代の印刷物を見ることができる