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旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

南海堂行書活字の開発者と言われる「岡島活版の岡島氏」の手がかりを #NDL全文検索 で拾い集める

江川活版製造所の行書活字(江川行書)の他に、明治時代に作られた行書活字として「南海堂行書」というものがありました。青山進行堂の活字見本帳『富多無可思』に掲載されているものを図示しておきましょう。

青山進行堂『富多無可思』より南海堂二号行書活字(仮名)同三号行書活字(漢字)見本

『本邦活版開拓者の苦心』の「南海堂書体の継承篆書ゴチックの創始者 青山進行堂 青山安吉氏」の項https://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/114に「明治三十年三月から、一躍して明朝、隷書、楷書の三書体活字の製造販売に従事することゝなり、明治三十六年には、岡島活版製造所が豫ねてから着手してゐた湯川南海堂梧窓氏の行書活字が、岡島氏の長逝により中止の姿となつてゐるのを継承し、製品科目は益々増大複雑化するにいたつた。」と書かれているのが南海堂行書の始まりに関する手がかりになります。

府川充男撰輯『聚珍録』(2005、三省堂)第2篇287頁の図3-134に示されている通り、1895明治28年印刷雑誌』5巻8号に岡島活版製造所による「南海堂湯川先生行書 第参号及第五号活字 発売広告」が掲載されておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1498967/1/18、「岡島活版製造所が豫ねてから着手してゐた湯川南海堂梧窓氏の行書活字が、岡島氏の長逝により中止の姿となつてゐるのを継承し」は「岡島活版製造所が豫ねてから製造販売してゐた湯川南海堂梧窓氏の行書活字が、岡島氏の長逝により販売中止となつてゐるのを継承し」の意味に取るのが良いでしょう。

印刷雑誌』5巻8号岡島活版製造所「南海堂湯川先生行書 第参号及第五号活字 発売広告」(府川充男撰輯『聚珍録』より)

広告文の冒頭、時候挨拶に続けて「弊所先般依頼苦辛惨〓の中に計画致居候行書第参号第五号活字の儀は愈来る十月十五日より発売の手筈相整ひ申候」とありますから、明治28年10月に発売されたと見受けられます。「当代の群書家中に於ける泰山北斗」の「南海堂湯川梧窓先生の揮毫」を生かすため「特に敏活老練なる職工を雇入れ一々先生の調査を遂げしを以て先生の能筆は弊所の用意を待て完成」という力の入れようだったのですね。

ちなみに南海堂の梧窓こと湯川享が書いた行書の手本は、『聚珍録』が示す『四体蘭亭帖』(1892明治25年、青木嵩山堂https://dl.ndl.go.jp/pid/852406/1/28)の他、『勅諭文行草習字』「天」巻〈https://dl.ndl.go.jp/pid/853018〉・「地」巻https://dl.ndl.go.jp/pid/853019)(1882明治15年吉岡平助〔吉岡宝文軒〕)等で見ることができます。特に湯川本人が著者となった『運筆自在書法要訣』の緒言https://dl.ndl.go.jp/pid/852651/1/2などは、確かに湯川が南海堂書体の書家であると一目で分かるものになっています。

湯川梧窓『運筆自在書法要訣』自筆緒言 首1(国会図書館デジタルコレクションより引用者見開き加工)
湯川梧窓『運筆自在書法要訣』自筆緒言 首2(国会図書館デジタルコレクションより引用者見開き加工)

「岡島活版の岡島氏」を探す

さて、岡島活版の岡島氏とは、どういう人物だったのでしょうか。まずは素直に「岡島活版製造所」で検索してみます。検索して出てきた次の2点をチェックしてみましょう。

1点目、1903明治36年助産之栞』89号(緒方助産婦学会https://dl.ndl.go.jp/pid/1509548/1/17)では、「印刷人:大阪市南区鰻谷仲之町五十三番邸 岡島幸治郎」「印刷所:大阪市南区中橋南詰東へ入(電話東八百十二番)岡島活版製造所」となっています。

2点目、1904明治37年大阪府会社銀行組合及工場表 明治36年12月末現在』(大阪府内務部〈https://dl.ndl.go.jp/pid/803618/1/57〉)では、「大阪市南区鰻谷中ノ町 岡島活版製造所」の「持主氏名」が「岡島クニ」になっています。またこの時点で嵩山堂印刷部とほぼ同じ規模(職工・動力)の中堅印刷所だったことが判ります。

「岡島活版製造所」で検索して出てくる一番古い資料は1898明治31年の書籍(中村巷編『海員必携海上規則大全』矢島誠進堂https://dl.ndl.go.jp/pid/796690/1/207)で、「印刷者:大阪市南区鰻谷中之丁五十三番屋敷 岡島幸次郎」「印刷所:大阪市南区鰻谷中之丁五十三番屋敷 岡島活版製造所」となっていました。

念のため「岡島幸次郎」で検索して出てきた一番古い資料を眺めてみてちょっと驚きました。1878明治11年、ベイネ著・渋川忠二郎訳『仏国民法契約編講義 1』(岡島宝玉堂https://dl.ndl.go.jp/pid/792250/1/266)の奥付に、次のような記載があります。「(発行者)大坂上等裁判所御蔵版発兌所 大阪府平民 岡島眞七 東区本町四丁目十二番地」「(印刷者)同支店 活版印刷所 岡島幸治郎 東区本町四丁目十一番地」

『海員必携海上規則大全』も『仏国民法契約編講義 1』もインターネット公開資料ですから、日本でも印刷者名まで書誌データとして収録する習慣があればとっくに出会えていた資料なんですが、2022年12月の国会図書館デジタルコレクション大型アップデートで全文検索機能が強化されたおかげで今回こうして出会うことができました。

「やっとみんな会えたね」

NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、とDigger's Highになって躍りながら更に掘り進めてみましょう。

キーワードを「岡島活版」まで縮めて検索すると、新しい方の資料で宮本又次編『上方の研究 第4巻』(1976、清文堂出版)がヒットします。この中の宮本又次「大阪の出版業と出版文化の変遷」(https://dl.ndl.go.jp/pid/9574102/1/87)に、「日本における活版術の開祖本木昌造は、明治四年春(中略)大手通二丁目骨屋町西北角に活版所を設けた。(中略)東京築地活版所と併称される位に発展したが、別に本町四丁目の書林岡島真七(河内屋真七)が岡島活版所を設立し、英米のリーダー類を印刷した。」と書かれています。先ほどの「(発行者)大坂上等裁判所御蔵版発兌所 大阪府平民 岡島眞七 東区本町四丁目十二番地」「(印刷者)同支店 活版印刷所 岡島幸治郎 東区本町四丁目十一番地」ですね。

『新聞経営』33号(1970、日本新聞協会)には、「岡島新聞舗の一面」というコラムがあり、それによると「戦前から、大阪毎日新聞の有力専売店として有名な岡島新聞舗は、明治の初めは、先々代岡島真七氏が河内屋真七の名で経営していた書籍商であった。」「明治8年には、岡島活版所を創設するが、当時大阪の書店で活版所を所有していたのは、岡島と柳原喜兵衛の二軒だけだったという。」とのことhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3441408/1/11

年代を遡って検索を続けてみると、この岡島活版所創設時の状況については、当の岡島新聞舗が発行した福良虎雄編『大阪の新聞』(1936)の「大阪活版所と新聞」という項https://dl.ndl.go.jp/pid/1228125/1/26に記載されていたようです。同書巻末の「株式會社岡島新聞舖年譜」https://dl.ndl.go.jp/pid/1228125/1/189)を見ていくと、ほとんど答えと言っていいものが載っていました。

株式會社岡島新聞舖年譜(引用者抄録)
年次 岡島新聞舗 岡島家
弘化4年 真七書肆河内屋佐助の店員となる、真七は入店後の通名にして後本名とす
明治元年 真七船場本町四丁目心斎橋東入ルに書肆宝玉堂を開き河内屋真七と称して慶應義塾出版物の売り弘めに従う
明治5年 真七次男幸治郎生る
明治8年 4月真七自家用活版印刷の経営を始め宝文館と称す
明治12年 10月10日真七三男真蔵生る
明治20年 4月真七東区南久宝寺町四丁目心斎橋筋に煉瓦三階造の洋館を建設して宝文館岡島活版所を移し幸治郎をして経営住所せしむ
明治25年 8月頃より三男真蔵新聞課の業務見習を初む
明治27年 7月10日岡島真七死去に付三男真蔵新聞事業を継承し岡島新聞舗と改称す 7月10日真七歿、年55
明治29年 9月支配人北村宗助歿
明治31年 岡島宝文館(活版所)南区中橋南詰東入に移る
明治36年 10月6日真蔵兄幸治郎歿、行年32◎11月幸治郎長男文太郎夭死(11歳)
明治37年 岡島活版所宝文館廃業

さて、「自家用活版印刷の経営を始め」た3年後の1878明治11年に自社で印刷出版したベイネ著・渋川忠二郎訳『仏国民法契約編講義 1』(https://dl.ndl.go.jp/pid/792250/1/266)の「(印刷者)岡島幸治郎」というのは当時まだ数えで7つだった次男幸治郎の名義だけを使ったものと思いますが、数え16歳で「宝文館岡島活版所」を経営させているのはよほど英才教育を施したということか、当時の職工はそういうものだったのでしょうか。

ともあれ「明治三十六年には、岡島活版製造所が豫ねてから着手してゐた湯川南海堂梧窓氏の行書活字が、岡島氏の長逝により中止の姿となつてゐるのを継承」というタイミングは、「明治36年10月6日、幸治郎歿、行年32」という記述と合致するので、「継承」の説明としては納得です。

1894明治27年大阪経済社『商業資料』4号(https://dl.ndl.go.jp/pid/1542695/1/26)や11号https://dl.ndl.go.jp/pid/1542702/1/28に岡島宝文館名義で「今般新ニ印刷請負部を設置仕リ広ク各位ノ御好需ニ応シ」という「活版印刷」広告を出していますから、いったん自社印刷に専念していた活版部が外注を受け始めるのがこの頃ということになるのでしょうか。

ともあれ、近代書誌とか新聞史をなさってる方々には、「岡島活版の岡島氏」というのがどういう人物のことなのか、先刻承知のことだったんでしょうね……。

付1

今回の検索で島屋政一(!)『聖山中田先生伝』(1953、聖山会)という中田印刷所の中田熊次を偲ぶ本に行きあたりました。その中に「中田先生森川氏伊勢本氏の業界懐旧談」という節がありましてhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3449498/1/141

明治初年に於ける印刷界の情勢については具体的記録に乏しく、唯古人につきて談話を聞き、或は散逸せる関係書類を蒐集閲覧して、その歴史を知るより外なかった、依て昭和七年十月四日著者は業界の重鎮にして且つ明治初期の印刷界の事情に通暁せる中田先生、森川桑三郎、伊勢本嘉三郎の三氏を心斎橋播半に招請して幸に諸先輩各位の業界懐古談を聴くことを得た。
当時中田熊次先生は大阪印刷同業組合及び大阪印刷同盟会の各組長であり、南区安堂寺橋通四丁目に中田印刷所を経営せられ。また精版印刷株式会社の社長で日本印刷材料株式会社の相談役であった。森川氏は北区梅田町に森川印刷所を経営せられ、精版印刷株式会社及び日本印刷材料株式会社の取締役であった、伊勢本氏は東区博労町一丁目の久栄館印刷所々主にして日本印刷材料株式会社の取締役であり、また大阪印刷同業者組合代議員議長であった。

この懐旧談の速記は三次の校閲を経て、当時著者の主催せる印刷時報誌上に四回に亘りて連載したものである。

という具合に導入される懐旧談でも、「岡島活版所」の名が大阪活版製造所、一世舎、大庭活版所、赤川竜文舎、前田周拡舎、啓文社と並ぶ大阪の「古い活版業者」として言及されているのでした。既に広く知られているかもしれませんが、この本、中田印刷所の社史になりそうである他、「大阪印刷50年史」くらいの内容にはなっていそうな感触。

付2

以上の流れを経て改めて島屋政一『印刷文明史』第4巻「靑山進行堂の創業 活版製造業者として一大飛躍」https://dl.ndl.go.jp/pid/1821992/1/214を確認してみたところ、南海堂行書のことが次のように書かれています。

明治三十六年、岡島活版所主逝去するに際し、青山氏は同所の有せし、湯川梧窓氏の行書活字、即ち南海堂書体を継承した、この頃工場大に狭隘を告げ、不便尠からず、且つ印刷事業と、活字の製造は結局二兎を追ふの弊に陥るべきを悟り、遂に意を決して印刷事業を廃し、活版製造に専念すべく、明治三十八年八月、南区長堀橋筋一丁目に営業所を移転して大拡張を断行し、更に湯川氏の隷書及び草書の二書体を加へ、同時に印刷機械器具、附属材料品の製造発売をも兼ね、茲に完全に活字の外有ゆる諸材料一式の供給者として立つことゝなつた。

確認してきた経緯を踏まえると、これが適切簡潔な文章でしたね。

付3

ついでに「南海堂書体」で検索してみたところ、小林達人『覚え易い文撰術』(1928、職業印刷学院出版部)に掲載されている「活字書体見本」https://dl.ndl.go.jp/pid/1187811/1/19に行き当たりました。篆書活字で刷られている書体名をきちんとOCR認識出来ているところがNDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)最高です。

付4

江川行書の久永其頴が広告版下などで新聞雑誌や書店の風景を変えてしまった書家であったように、湯川梧窓もまた大阪の風景を彩った書家だったようです。高畠亀太郎『七十七年の回顧』(1960、渋柿図書刊行会)190頁https://dl.ndl.go.jp/pid/3008610/1/113に、こんな思い出話が書かれていました。父親が宇和島で「よろずや」式小間物商から生糸商専業に転換した際のこと――

奥の間との境の柱に大阪へ注文して作らせた漆塗り金文字の大きな柱隠し兼用の看板を取付け、「生糸買入所高畠商店」と麗々しく隷書で書かれていた。この標記の文字がその頃から久しく大阪で流行した南海堂湯川梧窓先生の揮毫になり

瘠形の勁健な書風で三十六年大阪天王寺公園で開催の第五回内国勧業博覧会の際など大阪中の看板は殆ど梧窓風の字で占められていた観があった。

岡島活版による行書活字を継承した青山進行堂青山安吉が、「南海堂書体」シリーズとして隷書と草書の活字を続々発売していく所以と言えそうです。

付5

キーワード「大坂上等裁判所御蔵版発兌所」で検索してみると、先ほどの『仏国民法契約編講義』1と2の他に、大阪上等裁判所『官令摘要』(明治12、https://dl.ndl.go.jp/pid/787304/1/491)というのが見つかります。奥付を見ると、発兌所としては「大坂心斎橋筋南久宝寺町 前川喜兵衛」「大坂心斎橋筋北久太郎町 柳原喜兵衛」「大坂心斎橋筋本町東へ入 岡島真七」の3者が名を連ね、印刷が「柳原活版所/岡島活版所」となっています。

なるほど「明治8年には、岡島活版所を創設するが、当時大阪の書店で活版所を所有していたのは、岡島と柳原喜兵衛の二軒だけだったという。」(『新聞経営』33号〔1970、日本新聞協会https://dl.ndl.go.jp/pid/3441408/1/11〉〕)話ですね。