日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

江川活版所/江川活版製造所の所在地

三谷幸吉が調査にあたった『本邦活版 開拓者の苦心』(原著:昭和九年、津田三省堂/再版:平成九年、ナプス)に収められた江川次之進の項を見ると、「明治十六年、総ての準備が整ったので、愈々活字の自家製造を開始すべく、日本橋区境町四番地に江川活版製造所を創設した」とある。
あるいは巻末に掲げる参考書一覧で同書に触れ、「故人の伝記を執筆するに際し本書を多く参酌した」と記す『日本印刷大観』(原著:昭和十三年、東京印刷同業組合/縮小影印復刻版:平成二二年、ゆまに書房)の江川次之進の項を見ると、「氏はここに活字の自家鋳造に乗り出した。明治十六年のことである。即ち日本橋区境町に江川活版製造所を設け有名な字母吉の弟である母型師字母駒を聘して工場主任とした」という。
……
実は明治の東京日本橋区に「境町」という住所は無い。
あるのは「堺町」というところで、下図「日本橋区」の「本」の字のすぐ上辺りになる(地図は柏書房『江戸-東京市街地図集成』中の明治十九〜二一年「日本橋」の頁と同「神田・御茶ノ水」の頁を合成したもの)。

先日拾い出した江川次之進の新聞広告を再確認すると、明治十七年十一月二十日付『時事新報』では「新発明活版ズリ器械」の売捌所が京橋区加賀町五番地の江川次之進名義で、明治十八年十一月四日付『時事新報』で初めて日本橋区堺町九番地の文昌堂出張江川次之進名義。続く明治十九年六月十九日付『時事新報』は「新発明印刷器械」の大販売所が日本橋区堺町九番地の江川活版所になっている。
明治十六年の創設という年代と、「境町四番地」という住所は、両方とも疑っておく必要があるだろう。
ちなみに、新聞広告にある「堺町九番地」をGoo地図によって明治版から現代へと見比べてみると、地下鉄人形町駅から地上に出てすぐ北、人形町三丁目バス停前のあたりに該当すると判る。
……
先ほどの『本邦活版 開拓者の苦心』は「翌十九年、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った」と記しているのだが、これも先ほどの新聞広告から勘案すると、少なくとも同年六月よりも後のことであろう。
明治二十年五月三一日付『時事新報』には、「元祖活版卸小売大販売所」日本橋区長谷川町廿一番地江川活版所として広告が出されている。
これを先ほどの地図で訪ねると、実は「堺町九番地」と同じく現在の人形町通りに面した四つ角で、堺町九番地の一本北の交差点であることが判る。江川次之進にとって、この界隈が商売に都合の良い場所であったのだろう。
……
江川次之進が印刷者として奥付に名を残した『帝国作文大全』(明治二六年)の発行者である東生鉄五郎は、ちょうどその頃、日本橋区堺町八番地所在となっている
この東生鉄五郎の所在は、明治十一年『下等小学作文階梯』では日本橋区通旅籠町一番地、明治十六年『小学全科珠算校本』では神田区小川町十二番地、明治二十三年『新体日本地誌』では日本橋区濱町二丁目十一番地となっている。
明治二十四年の『遊芸自慢』『古人五百題発句集』日本橋区堺町九番地(!)で、明治二十五年の『帝国作文大全』・『影芝居鸚鵡人真似』が堺町八番地。
江川次之進にとって、「江川行書」の活字見本帳とも言うべき重要な印刷物の最初の発行者である東生鉄五郎との間には、単に作文書発行経験者というものを越えた因縁のようなものがあったかもしれない。
……
なお、江川行書の版下を書いた久永多三郎は『楷書千字文』の奥付によると日本橋区本材木町二丁目七番地で、同書や多くの「江川行書」企画書を手がけた版元である求光社の服部喜太郎は京橋区本材木町三丁目二十番地が所在。
上記地図「日本橋区」の「区」の字のあたりが日本橋区本材木町一丁目で、川沿いを南に下って日本橋区本材木町二丁目、更に南下して「京橋区本材木町三丁目となる。