日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

旋盤の歴史を調べる間宮茂輔と徳永直

さて、前回(12月23日)に引き続き『文化評論』の間宮茂輔連載についてのメモ。今回は1970年8月号「声なき時代の文学(七)」より。

徳永はまた追求心のさかんな点でも舌を巻くほどであった。活字の歴史を調べて書いた長篇「光をかかぐる人々」にはもはや触れないとしても、先にわたしが「当時の徳永はわたしと共同で旋盤の歴史を調べていた、云々」とだけ書いておいたことの始終を語って、徳永のすぐれた資質を記録しておこう。それは昭和十三、四年ごろのはなしで、最初はルポルタージュを基礎にした共同制作をやろうということから、その第一着手として旋盤の歴史を調べようではないかということになった。旋盤の歴史をつうじて近代的労働者の成長と発展を描こうとしたのである。しかしこの時は、一、二回ほど話合った程度で終ったが、戦ごになって再びこのテーマを徳永と一緒に取上げた。そのきっかけになったのが平野義太郎の文章だったことは、いま考えても文学上のテーマはどこにでも発見できるという意味で面白かった。平野義太郎がたしか『東京新聞』にかいた論文の中に……「勤労者たちの文化活動は、ガチャガチャ鳴る旋盤の騒音にもうち勝って発展している」といった一節があって、先ずわたしが徳永に疑問を出した。
「旋盤がいったいそんな音を立てるかな」
「さあ」
と、徳永も考えこんで、
「たしかにガチャガチャと書いてあったのかね、たしかに?」
これがきっかけでふたりは再び戦時中のテーマに取組んだ、とはいっても、わたしは半歳すぎると旋盤のことはすっかり忘れてしまっていた。ところが或る日のこと徳永が来て、ニコニコ笑いながら、
「わかったよ、例の旋盤だがね」
と、玄関先で彼が語ったところによると、日本で初めて旋盤を製作したのは池貝鉄工所だったが、当時のそれは電気ではなくミシン式の足踏み動力でうごかしたというのである。そして能登半島の村にでもいけば、そんな旋盤を使っている小っぽけな村工場が在るかもしれんと彼はつけ足した。彼が執拗に「旋盤の歴史」を追求していたことは明らかであった。
「なるほど、それならたしかにカチャカチャ鳴るね」
わたしにつられて徳永も笑いだしながら、
「きっと平野さんも旋盤の研究をやってるんだろうよ」
徳永はそのとき「よし一つ、旋盤をもの[♯「もの」に傍点]にしてやる」と言ったが、ついにその作品は書けないで永眠した。

本木昌造の懇請により「活版所」の活動を軌道に乗せるべく奮闘した後石川島造船所を興した平野富二。その養子となった建築家平野勇造の子が平野義太郎である。
http://gd.shwalker.com/shanghai/contents/serialize/200410/index.html
或は、ガチャガチャ鳴る旋盤の音を、幼少時に耳にしてゐたかもしれないなどと想像してみる己。
まぁそりゃ無いだらうけど、立花雄一『労働運動の夜明に――労働者状態論争と横山源之助』が《明治三十四(一九〇一)年に,わが国の労働運動史の古典とされる片山潜・西川光二郎の『日本の労働運動』が上梓されて以後,凡百の労働運動史が書かれてきた。けれども,『日本の下層社会』の著者横山源之助と労働運動との直接的関係を述べたものは皆無である。――横山源之助ほど,労働者階級に執着したものはなかったのに。いや,待て,しばしである。ここに一篇,平野義太郎「労働運動の序幕―横山源之助片山潜を通じて見たる―」(『経済評論』一九三六年一月,『日本資本主義の構造』一九四八年)を除いては,といい替えるべきか。》と評したところの平野義太郎は、横山の膨大なルポの中に、或は労働新聞社『労働世界』などに書かれた見出しの表現に、「ガチャガチャ鳴る旋盤」といふフレーズを見つけてゐたりするんぢゃないかといふ想像が消えない己。
横山源之助『日本の下層社会』第五章「鉄工場」の取材対象は、東京砲兵工廠、石川島造船場、大阪鉄工所である。
ちなみに岩波文庫版の『日本の下層社会』(asin:4003310918)では「故佐久間貞一先生ノ紀念トシテ斯ノ書ヲ捧グ」と著者の献辞が記されてゐるだけなんだども、明治32年教文館が発行した『日本之下層社会』初版では、著者献辞の次葉に佐久間貞一の肖像画が掲げてある。さらに昭和24年に中央労働学園から再発行された『日本之下層社会』では、肖像画が先にあり、その裏面に著者献辞が印刷されてゐる。教文館版の印刷は、捧げられたところの秀英舎が行ってをり、島田三郎の序文と豊原又男・植松考昭・中村秀一らの跋とが「秀英四号」で、また本文が築地・印刷局混淆時代の五号で刷ってある。
以前「徳永直『「印刷文化」について』について」で触れた、徳永の文――

私らはかつて、日本近代印刷術の先輩たち、本木昌造が、大鳥圭介が、どういふ動機から日本活字を創造しやうと努力したかまたは明治初期の佐久間貞一が、大橋佐平がどんな精神と動機から印刷工場を經營しはじめたか、それを思ひ出してみるだけでも、おのづから、「印協」出來以前までの、日本の印刷業界が陷つてゐた偏向におのづから氣づきうることと私は考へる。

――といふところ、佐久間貞一については、最初期の労働運動支援者といふ側面を抜きにして考へることはできねぇべなと思ってゐる己。
閑話休題前回の記事豪徳寺近傍在住者として挙がってゐなかった名前が、間宮茂輔「声なき時代の文学(七)」に記されてゐる。
昭和十六年末に海軍報道班へ「徴用」された間宮茂輔が、帰国した際の話である。
その前に、「三百円近い手当」で徴用された間宮に語る徳永の言葉を「声なき時代の文学(五)」(1970年6月号)からメモ。

「君が羨ましいよ」
と、或る日の徳永直がわたしに言った。玄関での短いやりとりだったが、徳永は例の(半分ポーズ、半分真実の)いやにしょんぼりしたかっこうで、声にまで力がこもらなかった。
「馬鹿なこというもんじゃない」
と、わたしは反射的に一蹴したが、徳永の気持ちは透けてみえるようにもわかっていた。

時節柄多くの作家にとって文筆活動で喰っていくことが困難となってゐたわけだが、徳永は病気の妻と幼い四人の子供を抱え、生き延びることに心を砕いてゐた。
さて、海軍報道班に徴用され海外で鉱山経験者として作家としてのすぐれた観察を行ひ「どう考えても、日本は勝てない」といふ思ひを抱いて帰国した間宮。

しかしともかくわたしは無事に帰って来ていた。過ぎてみれば、怖ろしい爆撃も、魚雷攻撃も、四十度をこえる連日の苦熱も、心身ともに腐りはてるような雨期の憂うつも、いちおう忘れ去って、「何をなすべきか」のおもいが新しくわいてくる。
わたしは近所の広津和郎からはじめて中野重治、手塚英孝をたずね、その翌日には高田馬場にちかい窪川鶴次郎の家へ行く途中で、小滝橋の方角から来る壺井栄にぐうぜん出会った。

さう、広津和郎も近所にゐたのだった。
後に広津は『続年月のあしおと』に、書いてゐる。

子供の時分から借家から借家へと転々して育った私には、「故郷」の観念がないと、前篇の最初に書いたが、併し長い年月の間には、住んできたいろいろな場所で、幾つか心に残るところもないことはなかった。

そして世田谷豪徳寺にいた頃のことも、やはり「世田谷時代」と呼びたいようなものを私の心に残している。

間宮が広津のことを先に数え上げてゐなかったのは、広津が「左翼作家ではない」ため、「プロレタリア文化、文学、芸術運動の関係者が、いつとはなく大勢あつまり住んでいた」といふ叙述にそぐはないからだらう。
講談社学芸文庫版『続年月のあしおと(下)』(asin:4061976575)に見える、徳永直に関する記述は、また後日。