日本語練習虫

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江川次之進による行書活字の意匠登録

三谷幸吉が調査に当ったという『本邦活版開拓者の苦心』、江川次之進の項に、「江川行書」デビュー時のことが、こう書かれている。

(明治)十九年、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏に改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝っている様な行書々体が出現することゝなったのである。
斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年頃から「江川の行書」として市販したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。
然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ前途益々有望であることを観取した一派は、窃かにこれが復刻を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となし遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

先日記した「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」に掲げた通り、江川行書の初出は明治二十二年九月の自社広告ではないかと思われ、また、当該広告中で予告されている通り、明治二十三年十月になって、ようやく実際に発売されはじめているようだ。
時事新報や朝野新聞を見る限り、他社の広告に江川行書が使われ始めるのも、明治二十三年十月のことである。
……
ところで、“開拓者の苦心”が記す意匠登録は、実際に為されていたのだろうか。
実は意匠広報データベースで、江川次之進による意匠登録の記録を見ることができる。
明治二十四年、意匠登録111号が、それである。

一一一 行書活字ノ意匠 明治廿四年一月十二日ヨリ十年間 一四條ノ子母線ヲ一條毎ニ交互シ以テ各字體ヲいろはにほへノ各装飾筆法トノ結合ヨリ成ル所ノ行書活字ノ意匠 子母線ヲ以テ装飾ト爲シタル行書活字ノ意匠 第廿二類ノ活版 東京府東京市日本橋區長谷川町廿一番地 江川次之進

さて、この頃の意匠条例は、どのような罰則を定めていただろうか。