前回「日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども」という記事で追いかけてみた、大阪活字鋳造株式会社と中原繁之助の周辺をNDL全文検索で拾い出してみて解ったことから、今回追加したい情報の起点となる2つを抜き出しておきます。
まずは『官報』で追ってみた大阪活字鋳造の登記情報から、設立登記。
- 1928昭和3年12月23日、大阪活字鋳造株式会社設立(「本店 大阪市南区鰻谷仲之町三十九番地」「目的 印刷機及活版附属品ノ販売」「取締役 岡本省三 渡部醇 青木義則 中原繁之助」「会社ヲ代表スヘキ取締役 中原繁之助」「監査役 木村千幹」1929年3月6日付『官報』145頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957119/1/9〉)
そして、創業以来少なくとも昭和14年までは代表取締役を務めていたらしい中原繁之助の略歴について、昭和28年の『人事興信録』17版下(https://dl.ndl.go.jp/pid/3025812/1/177)では次のようになっているのでした。
中原繁之助(日本活字鋳造㈱監査役)/明治25年6月11日中原庄兵衛の長男に生れた大正8年京大機械学科を卒業し川崎造船所安田機工所各勤務の後同14年欧米を一巡昭和3年大阪活字鋳造を創立後日本活字鋳造と改称現時監査役である先に紺綬褒章を授与された
さて、ここから新しい情報を追加していきます。まず中原繁之助について1点。昭和16年『人事興信録 第13版下』(https://dl.ndl.go.jp/pid/3430444/1/302)の記述により「昭和15年4月紺綬褒章を下賜せられ」たのだと、受勲の時期が判りました。中原の家系についてはこの資料がだいぶ助けになりそうです。
というわけで、以下、新情報の本番。
大阪活字鋳造創業メンバー岡本省三および渡部醇について
従来の記事では各取締役の住所を省いていたのですが、大阪活字鋳造株式会社設立の登記情報を掲げる1929大正4年3月6日付『官報』145頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957119/1/9〉には、岡本省三の住所が「大阪市東区内淡路町一丁目三十一番地」と掲載されています。この住所の岡本省三は、大阪活版印刷所の代表者または印刷部門の責任者だった人物と考えていいでしょう。明石喜一『本邦の諾威式捕鯨誌』(1910明治43年、東洋捕鯨〈https://dl.ndl.go.jp/pid/842783/1/228〉)の印刷者が、「大阪市東区内淡路町一丁目三十一番地」大阪活版印刷所の岡本省三ですね。
岡本省三の大阪活版印刷所は、1908明治41年頃の『工業之大日本』に中村盛文堂(大阪市西区北堀御池橋西詰)と連名で「各種印刷」引き受け広告を出しているのですが(例えば同年4月号〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1894378/1/81〉)。1911年『日本実業 第5年』2月号にこんな記事が書かれていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/1551312/1/34)。
◎盛大なる新年宴会 定期刊行物の印刷にて関西中に好評を広めつつある当市西区堀江通一丁目の中村盛文堂及其分身たる内淡路町善庵筋角の大阪活版印刷所は新春十日戎の吉祥日を卜し箕面電鉄沿線の清遊地として名高き宝塚の寿楼に於て盛大なる新年宴会を開きたる景況を概記せんに、出席者は来賓及両活版所の職員職工等にて無慮百五十有余名、最初茶菓の供応間に渡邊松菊齋氏(氏は中村活版所の職員渡邊醇氏の厳父にして夙に社会改良の志を立て社会教育に密接且甚大の関係を有せる浄瑠璃を改良して国民一般に社会的自覚の動機を付与するは一種有力の改良手段なりと云うが如き新年の下に郡長の栄職を抛うち、爾来説意専心の余りに成れる自作の浄瑠璃を演奏して社会改良の理想を実現せしめんと企図しつつある尊敬すべき篤志家なり)の新浄瑠璃児島備後三郎の一団は余興として演ぜらる、右了りて賓主一同楼前に出て撮影し設けの席に着するや、主人公中村宗作氏其の他氏の一族にして職員たる加藤九十郎、渡邊醇、岡本省三竹森次新及び氏の故旧にして亦た職員たる山上貞二郎諸氏挨拶の辞を述べ、而後献酬交錯、紅裾の斡旋によりて種々の余興は催ふされ賓主共に散会せしは盛大にして且芽出度き宴会なりき、因に記す中村活版所はニ三年来一層発展したる後期に乗じ昨年東京京橋区南金六町に支店を設け且つ浅草蔵前に職工養成所を創立し尚ほ当市にも職工養成所を設立の都合にて駸々乎として発展の歩武を進めつつあれば当日来賓中なる新聞雑誌社の各主任より記念銀杯一組を中村宗作氏に贈呈して其の盛運を祝したり
ここに「渡邊醇」という名が出てきますが、こちらも大阪活字鋳造の創業メンバーとして名を連ねている「渡部醇」でしょうか。NDL全文検索でもう少し資料を探っていきましょう。
1912大正元年『交通倶楽部』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1015998/1/54)には、「当所は大阪活版印刷所の出店にして日英活版技工養成所関西卒業生の実習場として新設したるもの」という大阪市東区船越町二丁目「中央堂印刷所」の広告と、渡邊松菊齋の「通俗教育新浄瑠璃」が見開きの左右に並んで出ています。
1915大正4年『日本印刷界』72号に「和欧活版諸印刷迅速と廉価を以て貴需に応ず」という公告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517491/1/13)を中村盛文堂、大阪活版印刷所、中央堂印刷所、中村盛文堂分店(東京)、日英活版所(東京)の連名で出しているのは、そういう流れがあってのことなのですね(同じ文言の連名広告は『日本印刷界』の、1914大正3年の60号〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1517479/1/60〉、61号〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1517480/1/34〉以下しばらく続きます)。
1914大正3年『交通及産業大鑑』掲出の中村盛文堂本店、大阪活版印刷所(工業日本社印刷部)、盛文堂東京分店(英文通信社印刷部)、日英活版所(交通社印刷部)、中央堂印刷所(電気界印刷部)、日英活版技工要請養成所の連名で写真入りで出された豪華広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1016005/1/48)では、全体を統括する「営業主 中村宗作」、「総代表者 岡本省三」、「東京代表者 岸山芳太郎」とされ、大阪活版印刷所の「営業主任 渡部醇」となっています。
この渡部醇は大阪活字鋳造の創業メンバーとして名を連ねている「渡部醇」のことと思っていいでしょうか。発行所と印刷所の双方が大阪活版印刷所となっている『摂北温泉誌 : 附 三田、伊丹、池田、名勝』が1915年に出ていて、印刷人が「大阪市東区船越町二丁目30番地 渡部醇」と掲出されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/1905150/1/125)。大阪活字鋳造設立時(1928年12月)の渡部醇の住所は東区内淡路町一丁目3番地でした。同一人物と見ていいのかどうか、更に調査が必要なようです。
1916大正5年『交通及工業大鑑 日露号』(https://dl.ndl.go.jp/pid/966730/1/147)には、大阪活版印刷所(主任 岡本省三)と中央堂印刷所(主任 山上貞次郎)の評判記が同一見開きに出ています。
1922大正11年頃の印刷物から、大阪活版印刷所の所在地が大阪市南区貝柄町321になり(https://dl.ndl.go.jp/pid/970395/1/203)、責任者である印刷人の名も同所の関谷紋次(https://dl.ndl.go.jp/pid/969577/1/286)という人物に変わっています。岡本省三や渡部醇がどういう境遇になったのかは判りません。
気を取り直して「渡部醇」で検索し直してみた結果、「中村宗作」では見つけられなかった「合名会社中村盛文堂」の設立登記公告が見つかりました。
- 1911明治44年3月27日 合名会社中村盛文堂設立(「本店大阪市西区北堀江下通一丁目九番地」「目的活版印刷機械器具製造印刷販売活版印刷簿冊ノ製本」「代表社員 中村宗作」以下「西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「村上修」「竹森次新」「中村要」「東区内淡路町一丁目三十一番地 渡部醇」「三井清次」「石井宗次」「林梅蔵」「高田政」「加藤ヒデノ」「岡本ケイ」「岩森福松」「鈴木のぶ」1911年4月24日付『官報』付録3頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2951705/1/15〉)
登記なので全員住所と出資金額の記載がされているわけですが、差し当たり必要な三名以外の住所は省きました。渡部醇が大阪活版印刷所の所番地と同じ住所になっていますね。大阪活字鋳造設立(1928昭和3年12月)に加わった渡部醇と同一人物だと思っていいでしょう。
さて、1911明治44年『日本実業 第5年』2月号の中村盛文堂グループ新年会報告記事(https://dl.ndl.go.jp/pid/1551312/1/34)で「渡邊醇」と書かれていた人物が大阪活字鋳造設立に加わった「渡部醇」と同じ人物を指すようだと判ったところで、ちょっと脱線になりますが改めて同記事に着目しておきたい箇所があります。
渡邊松菊齋氏(氏は中村活版所の職員渡邊醇氏の厳父にして夙に社会改良の志を立て社会教育に密接且甚大の関係を有せる浄瑠璃を改良
「中村活版所の職員渡邊醇氏の厳父」で「社会教育に密接且甚大の関係を有せる浄瑠璃を改良」し、「通俗教育新浄瑠璃」(1912年『交通倶楽部』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1015998/1/54〉)を発表していた「渡邊松菊齋」は、後に『国民教育新作浄瑠璃』(1913、中村彩文館〈https://dl.ndl.go.jp/pid/945405/1/3〉)では著作者名「渡部松菊齋」と記されています。かつて国会図書館で著作権情報公開調査が行われたものの収穫がなく、現在の典拠情報でも生没年不明のままになっているようです(https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00429535)。「渡邊醇」ルートから何か判ることがあるかもしれないと思い、念のためこの情報を付記しておきました。
「渡部醇」の名は、中村盛文堂グループ参画以前の1898明治31年、西村鉄次郎編『日本商業事情』に「印刷者:大阪市西区新町北通一丁目二百卅八番邸 渡部醇〈https://dl.ndl.go.jp/pid/803496/1/53〉」という奥付は見つかるものの、これが同一人物なのかどうか、現時点では判りません。
ついでに記しておくと、1901明治34年、滝村竹男『紡績の栞』に「印刷者:大阪市南区鰻谷西之町百七十二番屋敷 岡本省三」「印刷所:大阪市南区鰻谷西之町 盛文堂活版所」という奥付(https://dl.ndl.go.jp/pid/847944/1/62)が見つかりますが、いま追いかけている岡本省三のことかどうか、これも判断がつきません。「盛文堂活版所」という屋号がものすごく気になりますよね。
さて、引き続き「渡部醇」の検索を続けると、1925大正14年、中村盛文堂の変更登記(増資・増員)の公告に「岡本省三」と「渡部醇」の名があります。
- 1925大正14年4月26日、合資会社中村盛文堂変更(「無限 岡本省三」「有限 竹森盛一/岡本要/渡部醇/石井宗次/加藤ヒデノ/岡本ケイ/岩本貞作/青木義則」「入社 有限 村上多佳子」1925年7月29日付『官報』2頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2956028/1/19〉)
大正15年、葛野壮一郎『伝説の仏陀』(https://dl.ndl.go.jp/pid/921188/1/65)あたりが大阪活版所・渡部醇としての最後の仕事になるようで、NDL全文検索の「古い順」で次に見つかるのは同姓同名の人物を除き、大阪活字鋳造の設立登記を公告する『官報』になっています。
さて、大正14年4月26日付で行われた中村盛文堂の変更登記には中村宗作の名が見えず、岡本省三が無限責任社員となっていました。グループを束ねていた宗作がこれ以前のどこかの段階で亡くなったということでしょうか。また、明治44年に合名会社として発足した中村盛文堂が、ここでは合資会社になっています。
キーワード「中村盛文堂」で『官報』を検索していくと、合資会社中村盛文堂として発足した際の登記公告がありました。
- 1919大正8年10月5日、合資会社中村盛文堂設立(「本店、大阪市西区北堀江池通一丁目九番地」「目的、活版印刷機械器具製造販売及印刷製本」「無限 大阪市西区西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「有限 同所 岡本ケイ」「有限 竹森次新」「有限 岡本要」「有限 東区内淡路町一丁目三番地 渡部醇」「有限 三井清次」「有限 石井宗次」「有限 林梅蔵」「有限 岩森福松」「有限 加藤ヒデノ」1919年12月11日付『官報』6頁中段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2954320/1/21〉)
大正8年の合資会社中村盛文堂設立登記で既に中村宗作の名が見えず、岡本省三が無限責任社員となっていたことが判ります。
国会図書館デジタルコレクションで大正期の『日本印刷界』を見ていくと、毎号、中村盛文堂グループ連名での1頁全面広告が中村宗作名で掲出されているのですが、1918大正7年10月の108号まで出ていた広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517527/1/18)が、翌月の109号以降掲出されていないことが判ります。このあたりのタイミングが怪しそうです。
キーワード「中村宗作」で『官報』を検索したところ、死亡を伝える合名会社中村盛文堂の変更登記が見つかりました。
- 1919大正8年まで、代表社員等の死亡(「明治45年村上修一」「大正3年鈴木のぶ」「大正6年高田政吉」「大正8年8月25日代表社員タル中村宗作」「各死亡ス」1919年12月8日付『官報』付録3頁下段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2954320/1/21〉)
中村宗作が大病を患ったか何かのために大正7年秋ごろに経営の第一線から退いて静養に努めていたものの、大正8年8月に亡くなった、ということでしょうか。宗作の逝去に伴い「合資会社大阪活版所」の代表者(無限責任社員)を岡本省三とする等の変更登記が、1921大正10年の官報にありました。
- 1921大正10年4月28日、合資会社大阪活版所代表社員変更等(「大正8年8月25日代表社員タル無限責任社員中村宗作死亡シ家督相続人中村フルヱ之ニ代リ入社ス」「大正10年4月28日無限責任社員岡本省三代表社員ニ就任」等)1921年7月21日付『官報』付録26頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2954807/1/43〉)
存続できた会社があった一方で、整理されたものもあったようです。
- 1921大正10年、合資会社関西印刷所解散(「大正8年8月25日無限責任社員中村宗作死亡シ有限責任社員ノミト為リタルニヨリ解散ス 清算人大阪市西区西長堀南通一丁目七番地岡本省三」1921年8月22日付『官報』付録12頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2954833/1/65〉)
さて、改めてキーワード「中村盛文堂」での『官報』検索をもう少し続けてみましょう。
- 1924大正12年12月22日、譲渡による入退社(「林梅蔵・三井清次」退社、「有限 大阪府西成郡玉出町五百十九番地 青木義則」入社1924年6月23日付『官報』号外32頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2955697/1/37〉)
- 1925大正14年1月20日、社員住所変更(「岩森福松」住所移転1925年6月23日付『官報』597頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2955997/1/9〉)
- 1925大正14年、一部社員相続(「竹森次新」死亡により家督相続人「竹森盛一」入社、「岩森福松」死亡により家督相続人「岩森貞作」入社1925年7月9日付『官報』243頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2956011/1/14〉)
- 1925大正14年1月20日、中村盛文堂本店移転(「大阪市南区鰻谷仲ノ町三十九番地」に本店を移転1925年7月13日付『官報』321頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2956014/1/11〉)
- 1925大正14年7月28日、支配人選任(「青木義則」1925年7月28日付『官報』付録15頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2956027/1/25〉)
- 1925大正14年4月26日、合資会社中村盛文堂変更(前述の内容再掲「無限 岡本省三」「有限 竹森盛一/岡本要/渡部醇/石井宗次/加藤ヒデノ/岡本ケイ/岩本貞作/青木義則」「入社 有限 村上多佳子」1925年7月29日付『官報』2頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2956028/1/19〉)
大阪活字鋳造株式会社設立メンバーだった青木義則の名が現れていることに注意しつつ、更に「中村盛文堂」での『官報』検索を続けると、非常に重要な登記の公告に出会いました。中村宗作亡き後の中村盛文堂を合資会社として存続させ、後に大阪活字鋳造株式会社の創設にも関わった主要人物が、昭和7年12月に「株式会社大阪活版所」と「株式会社中村盛文堂」を相次いで設立登記していたのです。
- 1932昭和7年12月1日、株式会社大阪活版所設立(「本店:大阪市東区内淡路町一丁目七番地」「目的:印刷製本活字鋳造機械及材料品ノ売買/右ニ関スル付帯業務」「取締役:岡本省三/笹部友三郎/渡部醇/中原雄之助」「会社ヲ代表スヘキ取締役:岡本省三」「監査役:久世有三/青木義則」1933年2月3日付『官報』10頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958298/1/23〉)
- 1932昭和7年12月5日、株式会社中村盛文堂設立(「本店:大阪市南区鰻谷仲ノ町三十九番地」「目的:諸印刷製本及印刷附属品洋紙ノ販売」「取締役:岡本省三/中原繁之助/大阪市天王寺区松ヶ鼻町八十一番地 山上貞一/竹森盛一/青木義則」「会社ヲ代表スヘキ取締役:岡本省三」「監査役:久世有三/渡部醇」1933年2月3日付『官報』10頁3-4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958298/1/23〉)
これを受けて、合資会社中村盛文堂は解散となりました。
- 1932昭和7年12月10日、合資会社中村盛文堂解散(「総社員ノ同意ニヨリ昭和七年十二月十日解散ス」1933年2月17日付『官報』14頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958309/1/25〉)
2023年1月現在のNDL全文検索で追える『官報』掲載の中村盛文堂の情報はまだあと少し残っているのですが、大阪活字鋳造株式会社創設メンバーの情報を知るには以上で概ね十分でしょう。やはり、「日本活字工業株式会社の社史」を私製することを考えた場合、「奥田家の100年」的なストーリーの一方で、これまで全く念頭に無かった「中村盛文堂グループを継いだ者たち」を照らし出すことが必要であることが、少なくとも自分にとっては明確になったように思います。
ちなみに、1925大正14年の日本秘密探偵社『職業別信用調査録』では(他の人物と違って)この時点で奥田捨松に子弟の記載が見えませんから(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020824/1/348)、やはり養子として兄弟を迎えたものと思われます。
明治大阪の印刷出版人「自由堂」山上貞二郎(貞次郎)は「本名山上貞一」なのか
先ほど記したように、1916大正5年『交通及工業大鑑 日露号』(https://dl.ndl.go.jp/pid/966730/1/147)に中央堂印刷所の主任として山上貞次郎という名が掲げられていました。合名会社中村盛文堂の設立時の登記には見かけなかった人物です。
大阪の印刷人で山上貞次郎という名に見覚えがあるなぁ、それも明治20年代、「前田菊松」などと同じ頃に。――と思って当時のノートを振り返ってみると、「貞次郎」ではなく「貞二郎」という表記で、1888明治21年、さひき主人『迷雲』(印刷者:大阪平野町二丁目十一番地「自由堂」山上貞二郎〈https://dl.ndl.go.jp/pid/888282/1/74〉)、1894明治27年、霞城山人『悪奉行』(印刷者:大阪市東区平野町二丁目二十四番邸「自由堂活版部」山上貞二郎〈https://dl.ndl.go.jp/pid/885270/1/120〉)などが見つかりました。
1894明治27年『大阪実業名鑑』(https://dl.ndl.go.jp/pid/779111/1/161)を見ると「東区平野町二丁目二四邸 自由堂 山上貞次郎」となっていたりしますから、「貞二郎」「貞次郎」はどちらでも良かったというパターンかもしれません。検索時に注意が必要ですね。
いま検索し直してみると、1893明治26年『浪華草紙 第1集』(印刷者:大阪市東区平野町二丁目二十四番屋敷「自由堂活版所」山上貞二郎〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1601331/1/35〉)と、「自由堂活版所」を名乗った場合もあったようです。
同じ1893明治26年『競忠貞浪華文庫』の奥付には「発行兼印刷者:大阪市東区平野町二丁目廿四番邸 山上貞二郎」「印刷所:大阪平野町二丁目浪花橋筋角 自由堂活版部」とあります(https://dl.ndl.go.jp/pid/891458/1/142)。これは明治27年1月9日分の「版権登録図書」として同年2月21日付『官報』(付録3頁下段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2946456/1/9〉)に「著作及版権所有者大阪市山上貞二郎」の広告が出されていますね。この節の見出しを「明治大阪の印刷人」ではなく「明治大阪の印刷出版人」とした所以です。
1902明治35年9月刊という『日本商工営業録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/803749/1/255)に掲げられた「大阪市南区心斎橋筋一丁目」の「自由堂」「山上眞次郎」がこれまで見てきた「自由堂 山上貞二郎」と同一人物を指すのかどうか。過去に印刷:山上・発行:駸々堂という形で盛んに仕事をこなしてきた組み合わせで明治34年に発行された『探偵小説集第45集 探偵余譚白露骨』では「印刷者:大阪市南区心斎橋筋一丁目一番地 山上貞次郎」(https://dl.ndl.go.jp/pid/890748/1/45)となっているので、何らかの事情で改名・転居していたのかもしれませんが、おそらく転居は実際に行われていて、「山上眞次郎」は「山上貞次郎」の誤植なのでしょう。
独立独歩で印刷業を営んでいた前田菊松が一時期活版製造周拡社へ印刷部門の責任者として加わり後に再び独立していったように(「横浜市歴史博物館2022 #活字展 図録と明治期に「古印風」活字を生み出した活版製造周拡合資会社の周辺情報」〈https://uakira.hateblo.jp/entry/2022/12/11/223408〉)、山上貞二郎(貞次郎)も独立系印刷業者としてスタートした後に中村盛文堂グループへ参画していったのではないかと想像するのですが、現時点ではこれ以上の手がかりが見つかっていません。
実は、「山上貞次郎/貞二郎」は商人名跡であって本名は異なるのではないかと思われる資料があります。中村盛文堂グループである「合資会社大阪活版所」設立登記と、「渡部醇」の検索で見つけた同グループ「合資会社中央堂印刷所」設立登記です。
- 1915大正4年4月22日、合資会社大阪活版所設立(「本店東区内淡路町一丁目三十一番地」「目的諸印刷製本及活版字ノ製造販売」「無限 中村宗作」「無限 東区船越町二丁目二十七番地 渡邊醇」「有限 和田助一」「無限 西区西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「有限 竹森次郎」「有限 岩森福松」「有限 南区長堀橋筋二丁目二十二番地 山上貞一」「有限 平井勇吾」「有限 三井清次」「代表社員中村宗作」1915年5月12日付『官報』315頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2952938/1/15〉)
- 1922大正11年1月13日、合資会社中央堂印刷所設立(「本店大阪市東区船越町二丁目三十番地」「目的活版石版印刷活字製造及販売紙製品製造及製本業」「代表社員 岡本要」「有限 大阪市西区西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「無限 同所 岡本要」「有限 中村ツルヱ」「有限 山田徳松」「無限 同市東区船越町二丁目三十一番地 山上貞一」「有限 同区内淡路町一丁目三番地 渡部醇」「有限 岩森福松」「有限 岩森清吉」1922年5月4日付『官報』12頁下段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2955041/1/32〉)
設立の登記なので全員住所と出資金額の記載がされているわけですが、差し当たり必要な三名以外の住所は省きました。大正4年に「渡邊醇」だった者が大正11年に「渡部醇」となりまた大阪活字鋳造設立の登記と同じ住所になっています。注目したいのが「山上貞一」という名前と住所。合資会社中央堂印刷所設立時の山上の住所は新設中央堂印刷所のすぐ隣(30番地と31番地)で、無限責任社員として出資。代表社員こそ岡本要であるとはいえ「山上貞次郎」は後に「中央堂印刷所」の主任として名前が出ていることを先ほど見てきたところです。《自由堂以来腕利き印刷人としてその名を売ってきた「山上貞次郎(貞二郎)」こと本名「山上貞一」》なのではないでしょうか。
とはいえ、中央堂印刷所名義で行われた書籍類の印刷は「中央堂印刷所 山上貞一」名義で行われていたようです。実際のところは、現時点では判りません。
- 1934昭和9年9月14日、合資会社中央堂印刷所変更(「有限責任社員渡邊醇ハ持分一部ヲ無限責任社員山上貞一ニ譲渡」1934年11月10日付『官報267頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958835/1/14〉)
という登記が大阪活版所や中村盛文堂が株式会社した昭和7年以降に見えていることから、中央堂印刷所は合資会社のまま存続していたらしいことが判ります。
中村盛文堂による所有権保存登記から見える大正5年の活版印刷工場資器材一式
工場統計などでたまに機械類の数量や動力合計、工員の人数などが個別の事業者ごとに判明するケースがあり、また『開業案内』本の類で印刷業を始めるにあたってどのような資器材が必要かということがカタログ的に示されることもあるのですが、実際に運用されている事業所の資器材が大は鉄製24頁ロールマシンから小はゲラ箱やステッキなどまで細々と判明することはまず無いと言っていいでしょう。
どういう事情で所有権保存登記が必要になったのか判りませんが、1916大正5年7月1日付『官報』11頁(https://dl.ndl.go.jp/pid/2953285/1/6)に公告された合名会社中村盛文堂申請の「工場財団ニ属スヘキモノ」を掲げておきます(漢数字をアラビア数字に改め、一部カギカッコを外しました)。
工場財団目録
種類 構造 製作者 製作年月日 員数 印刷機械 鉄製24ページロールマシン 大阪市大中鉄工所 大正4年11月日不詳 1台 同 鉄製16ページロールマシン 同 明治43年5月日不詳 5台 同 鉄製8ページロールマシン 同 同 2台 動力用車 鉄製シャルト及ベルト車 同 同 9箇 革帯 長さ1丈8尺幅2吋 大阪市革帯製造所 明治43年1月日不詳 9筋 印刷用活字 鉛製込物大小共 不詳 不詳 5千貫 印刷用ケース 木製 同 同 1220枚 印刷用ケース台 同 同 同 35台 印刷用版置台 同 同 同 230台 印刷用ゲラ箱 同 同 同 1000箇 印刷植字用ステッキ金盆 鉄製 同 同 7箇 印刷用植字台 木製十人分 同 同 5台 通話用電話機 金属製西3・063 同 同 1台 右は総て運転状態有姿の儀
〽NDL全文検索 サイコー、NDL全文検索 サイコー、NDL全文検索 サイコー、と小躍りしながらどんどん掘り進めていって……というか何者かに沼の奥へ引きずり込まれていって、深みにはまっているような気がします。
ピンポイントで知りたい事柄が出てくるとは限らないんだけど、色々な断片が繋がって大きな絵がうっすら見えてきたような気がしたら、探していたよりはるかにすごい景色になっていたというか。
「もう ドキドキもトキメキも」
「抑えられない たまんない」
「熱いハラハラが止まらない」
掘っているつもりで引きずり込まれているあいだ、ずっとこんな感じだったわけで。
あの画質でマイクロフィルムからデジタル画像化された『官報』から、しかも普通の明朝活字だけでなく康煕字典体活字の時期も含めてものすごく高精度に文字認識できちゃってる“過去の悪魔”と踊るNDL全文検索 最高!シリーズ、もう少しだけ、短いのが(たぶん複数回)続きます。