日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)

シンプルなⒶマークの商標

青山進行堂は、大正7年京阪神商工録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/956917/1/213)や大正11年『全国印刷業者名鑑 1922』(https://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/3)に見られるように「子持ち罫の二重輪にA」となるⒶマークを商標としていました。

青山進行堂の概要については、島屋政一『印刷文明史』第4巻「青山進行堂の創業 活版製造業者として一大飛躍」が初代青山安吉による創業前夜の状況から二代督太郎による業容進展までを丁寧に描いています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1821992/1/210)。ただし1932年刊行なので当然その後の状況は掲載されていませんし、各支店の開設時期についても明示されておりません。また『印刷文明史』とは違った意味で詳細な情報となる就業規則に類する内容を『全国工場鉱業総纜 昭和6年版』が掲載しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234522/1/402)。

さて。少し前に青山進行堂の多様なピンマーク入り活字を入手していたので、横浜市歴史博物館2022年度企画展「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/)の展示用に貸し出しさせていただきました。名刺用紙への印刷は、せんだいメディアテーク活版印刷研究会によるものです。

Ⓐのピンマーク入り二号古典体活字

青山進行堂のピンマーク入り二号古典体活字(斜め方向)
青山進行堂のピンマーク入り二号古典体活字(ピンマーク正面)

おそらく青山進行堂が開発した活字書体です。『富多無可思』の二号年賀用活字の中に、「南海堂古典」「南海堂篆書」と並んで「古典」という名で掲載されています(145頁)。

「OSAKA Ⓐ AOYAMA」「○青」「AOYAMA 青 OSAKA」ピンマーク入り一号ラウンドゴチック形または篆書ゴチック形あるいは丸型活字

青山進行堂のピンマーク入り一号ラウンドゴチック形または篆書ゴチック形あるいは丸型活字(斜め方向)
青山進行堂のピンマーク入り一号ラウンドゴチック形または篆書ゴチック形あるいは丸型活字(ピンマーク正面)

おそらく青山進行堂が開発した活字書体です。「新」の字は『富多無可思』の一号年賀用活字の中に「ラウンドゴチック色版形」という名で掲載されているもの(141頁)に見えますが、「賀正年」は大正年間に新発売となった「篆書ゴチック」あるいは細野活版製造所『青山進行堂製品常備販売品見本』(印刷図書館蔵本の影印:『聚珍録』第二篇356-357頁)に「丸型活字」という名で掲載されているものと思われます*1

「青Ⓐ活」「大Ⓐ阪 青山進行堂」ピンマーク入り初号雪形活字

青山進行堂のピンマーク入り初号雪形活字(斜め方向)
青山進行堂のピンマーク入り初号雪形活字(ピンマーク正面)

東京築地活版製造所『活版見本』に見られるように(https://dl.ndl.go.jp/pid/854017/1/20)、明治後半に盛んに作られた飾り書体のひとつです。『日本印刷界』61号(1914年11月)掲載の青山進行堂活字見本(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517480/1/11)に倣って初号雪形としておきます。

青山進行堂の各支店について

下関支店・青山新

『日本印刷界』85号(1916年11月)裏表紙に、青山進行堂が下関に「支店開設」という広告が掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517504/1/76)。「山陽九州、朝鮮、台湾方面より続々御注文被仰越尚日々増加の傾向有」のため「今般下関市仲之町に販売部を開設仕り」、「同販売部へは青山新治を主任として差向け一切の業務を処理」と書かれているのですが、この青山新治というのは『人事興信録 5版』「青山安吉」の項で「長女ミツ(明二五、八生)は其夫新治(同二三、九生、兵庫、平、鹽津松太郎三男)と共に分家し」と書かれ(https://dl.ndl.go.jp/pid/1704046/1/1084)、また『全日本業界人物大成 乾巻』「青山容三」の項に「義兄は下関支店を経営す」とある人物に該当します(https://dl.ndl.go.jp/pid/1276653/1/98)。

1923年3月16日付『官報』によると、青山新治(下関市大字中之町一三四番地ノ一)が中之町一三四番地ノ一に営業所を置く「下関活版製造所」と「関門活版製造所」という2つの商号を大正11年12月25日付で同時に新設登記しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2955308/1/12)。

山新治の名は、昭和19年『日本紳士録 第47版』に下関市赤間の活字製造業として掲載されて以降は見かけません(https://dl.ndl.go.jp/pid/3034983/1/624)。

京都支店(元・中安活字製造所)

昭和2年に発行された『工業年鑑 昭和3年(下)』には大阪本社と下関支店しか記載がなく(https://dl.ndl.go.jp/pid/1171965/1/588)、1929年3月7日付『官報』掲載の広告には大阪本社と京都支店、下関支店(および名古屋代理店の盛功合資会社)が記載されていることから(https://dl.ndl.go.jp/pid/2957120/1/17)、昭和3年か4年に京都支店が開設されたものと思われました。この状況を踏まえてNDL遠隔複写を依頼した『印刷雑誌』12巻1号(1929年1月)掲載広告に、「昭和4年1月16日」のこととして次のように記されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341056/1/12)。

今回
京都市西洞院佛光寺南入(西佛光寺停留所前)中安活字製造所主の献身的店舗の提供を相受け京都支店として本日より開業御得意各位様の層一層の御利便相図る事と相成候間何卒御同情を以て御引立陸続御注文仰付被下度願上候

昭和9年『財界二千五百人集』の青山容三の項では「昭和三年一月京都市に支店を開設し義兄の経営する下関支店を相提携呼応して」云々と書かれていますが(https://dl.ndl.go.jp/pid/1447438/1/121)京都支店開設は昭和4年1月が正しいのではないかと思います。

同じ『印刷雑誌』12巻1号の雑報欄「中安ケース専門製造所」は、次のような記事でした(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341056/1/111)。

京都市西洞院佛光寺南入、中安活字製造所は多年、店主中村博一氏が経営し、多忙を極め居たが、今回同店を青山進行堂に譲渡し同堂の京都支店となすに就き、中安氏は同氏の特許なる都式活字ケースを専門製造発売すべく、既に京都市外、下嵯峨に工場準備中であると。

なお、中安活字製造でNDL全文検索を試みると、中村博一ではなく中村文次郎が多年経営に携わっていたらしく見えました。

『日本印刷界』99号(1918年1月)の雑報欄に、大正6年度の京都印刷業組合新規加入者として押小路通堺町東入ルの鉛版業中村文次郎の名が見えます(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517518/1/80)。文次郎は、当初は中安または中安製版所という商号で活動していたようで(中安:『京都商工人名録 大正11年改版』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/950472/1/125〉、中安製版所:『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/920891/1/130〉)、『帝国信用録 19版(大正15年)』によると大正2年創業だったようで(https://dl.ndl.go.jp/pid/1017499/1/433)、大正末頃に「都ケース」という活字棚を考案した頃に商号を中安活字製造所と改めたようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/196)。

名古屋支店(旧・青山進行堂名古屋代理店盛功合資会社

『印刷美術年鑑 昭和11年版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/230)や『印刷雑誌』20巻1号(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341151/1/77)あたりまでは「大阪青山進行堂名古屋代理店」を名乗っていた名古屋市東区西魚町三丁目の盛功合資会社が、住所と電話番号をそのままに『日本印刷大観』(1938)あたりから「青山進行堂名古屋支店」と名乗るようになっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1707316/1/100)。

京城支店

開業・廃業等の詳細は判りません。

青山容三こと青山督太郎について

青山進行堂創業者の青山安吉については、生没年ともに記録されています。二代目社長となった青山督太郎については、愛書趣味者としての著作物を残しているにもかかわらず、2023年5月時点ではコトバンクにもNDL典拠情報にも立項されていません。少し情報を拾い出しておきたいと思います。

『印刷文明史』では創業者安吉の長男の名が容三と記されていますが、天野敬太郎『本邦書誌ノ書誌』には「青山容三(旧名:督太郎 活版製造業;愛書家)」と書かれ(https://dl.ndl.go.jp/pid/1784952/1/170)、また昭和7年『全日本業界人物大成 乾巻』「青山容三」の項に「本名を青山督太郎と称す容三は通称なり大阪府人青山安吉の長男にして明治三十一年三月を以て生れ大正十五年家督を相続す」書かれています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1276653/1/98)。NDL全文検索で見つかる範囲では、『全日本業界人物大成 乾巻』が家族関係も含めて最も情報量が豊富です。

青山容三こと青山督太郎は、斎藤昌三と共に雑誌『愛書趣味』を刊行した自称「書物狂」でした(https://dl.ndl.go.jp/pid/1498129/1/7*2

大正10年『人事興信録 6版』青山安吉の項に、督太郎の妻夏子の名があり(https://dl.ndl.go.jp/pid/1704027/1/963)、大正7年『人事興信録 5版』には夏子の記載がありません(https://dl.ndl.go.jp/pid/1704046/1/1084)。『日本印刷界』111号(1919年1月)の雑報欄「兎の耳」に「青山進行堂の若ボン督さんは近い内に花嫁さんが来るとかでホク〳〵して居る」と書かれているので(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517530/1/49)、督太郎は大正8年早々に結婚したのでしょう。

事業継承後、京都と名古屋の活字業者を青山進行堂グループの支店として傘下に収めるなど家業を発展させた督太郎ですが、第二次『印刷雑誌』25巻10号(1942年10月)雑報欄の「印刷博物館に鋳造機寄贈―青山容三氏の美挙―」冒頭には、「さきに先代以来の暖簾を抛って廃業を声明し、そのと通り実行して業界に惜しまれてゐる大阪青山進行堂主青山容三氏は、残る京都の店舗も廃業して全く業界と縁を断った」と書かれています(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341215/1/44)。

古門正夫「終戦以後現代活字業界」(『大阪印刷百年史』1984)によると、督太郎は1946年2月に「古門正夫の協力を得て種字の調達をし、まず母型の製造を開始する」こととなったようなのですが、他社の動向はその後も描かれるのに、青山の活動が見えません。どうやら再開した事業を軌道に乗せるまでに至らず、再び業界を去ってしまったようです。

片塩二朗「この一冊の書物から 其の九」(『印刷情報』2000年11月号)に、青山進行堂の概要について「二代容三こと青山督太郎(一八九九―一九七七)が屈折した性格だったようで、活字人としてよりもむしろ月刊誌『愛書趣味』の編集発行人としての資料のほうがおおくみられます。ですから同社の資料はあまりにも不足しているとしか報告できないのが実情です」と書かれています。現時点で私が目にした生没年情報は、この記事のみになります。

督太郎が1970年代後半に亡くなったのは間違いないようで、『日本古書通信』423号(昭和54年78月号)の「古本屋一筋に六十五年(下) 高尾書店 高尾彦四郎氏に聞く」で大阪の愛書家への言及を始めた聞き手の八木福次郎が「青山さんとかね」と話を振ったところに「そうです。青山督太郎さんはごく最近なくなられました」と応えています(6頁3段目)。督太郎が蒐集していた「ちょうど車に一台、社会物と軟派ものと両方まぜて収集してあった」という発禁本が太平洋戦争中に全部没収されたことに触れ、八木「青山さんはだいだい活字屋さんでしょう」。高尾「日本一の活字屋だったんです」。八木「青山はんもその本が残っていたら気楽に世の中わたれたんですけどなぁ、晩年はちょっと困って、逝くなりはりましたけど」。という同書7頁1段目から2段目の会話に繋がっています。

督太郎晩年の状況については片塩「この一冊の書物から 其の十三」(『印刷情報』2001年3月号)に1950年代以降の歩みとして「このころから督太郎は活字界から遠ざかり、デザインスタジオや写真の現像所をほそぼそと経営したようです」と書き留められています。

没年の情報を第三者がNDL典拠情報に提供する場合、著作権継承者からのヒアリングであれば「家族回答」を典拠とできるが(https://uakira.hateblo.jp/entry/2021/12/24/195936)、そうでない場合は「(ある程度客観的な形で)書かれた典拠資料」が必要だと承知しているので(https://uakira.hateblo.jp/entry/20141209)、引き続き新聞記事等の資料を探していきたいと思っています。もし青山督太郎の訃報を掲げた印刷・出版物をご存じの方がいらしたら、ご教示ください。

*1:『聚珍録』には「ここに示される「丸型」なるものが青山進行堂が創製したと言われる「篆書ゴシック」と同じものなのか否かはよく分からない」とあります〔第二篇521頁〕。

*2:『『国貞』裁判・始末』(1979)「『相対』『千摺考』『腕くらべ』」の斎藤昌三に言及した箇所で、坂本篤が「大正時代に青山督太郎という大阪の活字屋さんがいて、唯一の道楽が本道楽でね。この人が、斎藤さんを大きくするのにずいぶん役立ってますよ。雑誌『愛書趣味』の無代頒布など青山さんなくてはできないことだった。」と語っています〔66頁〕。八木福次郎『古本便利帖』(1991)「発禁本・児玉花外の『社会主義詩集』」中にある「高尾彦四郎氏から聞いた話」でも「大阪の愛書家で、大きな活字屋をやっていた青山督太郎という人がよく店へみえていて」という表現〔86頁〕。これに対して現在ウェブで「青山督太郎」を検索した時に多数リターンされてくる『小雨荘書物随筆』の「刊行当時の著者データ」とされる同書巻末の斎藤昌三略歴に「大正十四年、活字問屋の青山督太郎と雑誌「愛書趣味」を刊行」とあるのですが、「活字問屋」という表現の由来は督太郎がどこかに書いたものかどうか。ご存じの方がいらしたらお教えください。