日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

横浜市歴史博物館2022 #活字展 図録と明治期に「古印風」活字を生み出した活版製造周拡合資会社の周辺情報

横浜市歴史博物館「活字」展の図録

横浜市歴史博物館の2022年度企画展「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」が2022年12月10日から2023年2月26日までの会期で開催されています(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/see/kikakuten/2022/katsuzi/)。様々な活字グッズが用意される模様https://twitter.com/yokorekihaku/status/1599325033142550528であるほか、展示図録が作成されました。図録は、横浜市歴史博物館ミュージアムショップまたはオンラインショップhttps://yokohamahistory.shop-pro.jp/?pid=171817733にて購求できるとのこと。

図録は全94ページで、そのうち70ページほどが今回の展示を紹介する内容になっており、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫に収蔵されることとなった、主に19世紀の欧州が先導し上海のアメリカ人技師が技術革新を加えた東アジア諸語の活字(多くは漢字活字)資料を中心に、今回の展示構成が示されています。

図録末尾に3本の「論考」が掲載されています。1本目は小宮山博史小宮山博史文庫活字見本帳群―蒐集の目的と思い出」。小宮山博史文庫の大きな柱である、300冊に及ぶ活字見本帳の蒐集歴が綴られています。その見本帳の内訳は、「横浜市歴史博物館調査研究報告 第18号」として2022年3月に公開された「小宮山博史文庫目録」(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/index.php?cID=5256)で確認することができます。

2本目が蘇精「S. W. ウイリアムズと日本語活字」。19世紀のアメリカ系伝道印刷者の流れの中で最初に作られた日本語(仮名)活字の話です。そして3本目、――

活版製造周拡合資会社『大和古印貮號字數鑑』のこと

――という話を横浜市歴史博物館2022年「活字」展『図録』に書かせていただきました。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫に、「古印風」と称する最も古い時期の活字と目される活字の総数見本である『大和古印貮號字數鑑』という資料があります*1。この活版製造周拡合資会社『大和古印貮號字數鑑』は刊記が無く正確な発行年は未詳なのですが、「明治27年(1894)から同40年(1907)の間」に発行されたものと考えて良いのではないか――という推定の根拠となるような話です。

津田伊三郎『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂昭和9年)に収められた「大阪初期活版製造業者 周擴社 久保松照映氏」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908269/69 101-105頁)に記されている周拡社の発足と終焉に関する記述を様々な資料によって検討していったものです。

参照した資料の多くは都道府県レベルや市区町村レベルで取られていた商工業統計の類や、民間で発行された商工業名鑑類なのですが、1点だけ、国立国会図書館次世代システム開発研究室「次世代ライブラリー」(https://lab.ndl.go.jp/dl/fulltext)の力を借りることで初めて参照できた人名録がありました。それがどういうものであったかは、『図録』にてご確認ください。

ご高覧と御批正のほど、よろしくお願いいたします。


研究余滴――印刷者・前田菊松のこと

図録に記したように、明治24年から明治35年の間に周拡舎が手掛けた印刷物の奥付では周拡社あるいは周拡社支店の印刷責任者として前田菊松の名が掲げられています。明治24年より前の状況はどうだったでしょうか。

私はかつて、「最初期和文アンチック体のこと」を追っていた際に明治20年代前半に発行され国会図書館に現存する資料をそこそこの数量で観察したことがありhttps://uakira.hateblo.jp/entry/20060217、当時のノートを読み返すと前田菊松の名を何度も目にしていたと判ります。

いま改めて国会図書館デジタルコレクションで再確認しておくと、明治21年の征木正太郎(天保面ノ半)『曽呂利新左衛門伝』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881486/29や22年3月の大阪府天王寺警察署『現行明治類典付録 累年目録及追纂』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787433/358では印刷者が「東区備後町五丁目十三番地」の前田菊松となっており、22年6月の勝彦兵衛(竹柴諺蔵)『塩原多助経済鑑』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877019/14や勝彦兵衛(勝諺蔵)『小笠原諸礼聞書』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876881/14などでは「東区備後町五丁目二十四番屋敷」の前田菊松が印刷者として表示されています。

実は今回Googleブックス検索経由で、思いがけない資料に前田の名を発見しました。大阪府中之島図書館『大阪本屋仲間記録』第七巻(1985)です。検索では掲出箇所が示されなかったので虱潰しに見ていったところ、明治21年3月から23年4月までの「出勤帳第88号」に明治21年10月26日付で「開業、活判業」として「東区備後町五丁目十三番地」の「前田菊松」と記録されていました(25丁、翻刻版398頁)。事業者の開業や止業あるいは転宅などの動向について、書籍商、新聞雑誌商、古本屋等いかにも「本屋仲間」らしい業種だけでなく、この前田菊松の他にも瀬戸活版所の瀬戸清次郎や大阪国文社の名が見えるなど、一部の活版印刷業(活判業)の者の動向も本屋仲間に届けられ記録されていたのです。

改めて『大阪印刷百年史』に掲出されている同業組合員名簿を確認してみると、明治21年9月現在の「活版印刷業仲間」に、周拡舎(従業員数30)とは別に東区備後町五ノ一三「前田菊松」(従業員数23)の名が見えていて、しかも前田は久保松照映と共に初代役員も務めていたと判ります。

明治25の『大阪商工亀鑑』に周拡社が「印刷部」発足の広告を出しており(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803616/73)、その中で「機械ヲ増置シ職工ヲ聘シ」「廉價美麗速成ヲ旨トシ前書ノ科目御委囑ニ應セントス」と記しているように、この時期に責任者として前田を招いて印刷部を立ち上げたのでしょう。

参考に、関係する大阪市内の地名を『大阪市図』(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089179/8)への書き込みで示しておきます。

東区備後町・瓦町・内本町橋詰町・南区鰻谷東之町の位置関係(国会図書館デジタルコレクション『大阪市図』に筆者書き込み)



2022年12月21日追記:

活版製造周拡合資会社の終焉に関する商業登記

12月21日付で実施された国立国会図書館デジタルコレクションのリニューアルによって、インターネット公開の官報が全文検索の対象となりました。そこで「周拡合資会社」を検索してみたところ、終焉期の商業登記が見つかりました。

明治40年2月25日付の大阪区裁判所による登記:「活版製造周拡合資会社 総社員ノ同意ニ依リ 明治四十年二月二十五日解散 大阪市東区〓人橋一丁目戸塚成音同市北区東梅田町野村成彦清算人ニ各選任」*2

明治42年10月12日付の大阪区裁判所による登記:「活版製造周拡合資会社 清算人戸塚成音死亡ニ付抹消」*3

従来『本邦活版 開拓者の苦心』において「(戸塚成音)氏亡き後の周拡社は、一時尼崎の株主によって経営されていたが、惜しいことには其後整理解散してしまった」と書かれていた終焉期について、 #活字展 図録で、ある資料状況から〈実際には戸塚がまだ存命である明治39年から40年のうちに「整理解散してしまった」のではないか〉と推定し、その解明には草野真樹「旧商法期における合資会社の統計的分析:福岡県を事例として」(http://hdl.handle.net/11178/8149)のような商業登記公告の大規模調査が必要だろうと考え後学を俟つつもりでいたのですが、次世代ライブラリーによって培われた新しい全文検索の力によって2022年のうちに自力で解決してしまいました。


*1:ちなみに小宮山博史文庫目録では『大和古印貮號字數鑑』の発行者が「活版製造周彍合資會社」となっていますが、「活版製造周擴合資會社」が正しい名称です。

*2:1907年3月2日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2950444/1/10

*3:1909年11月4日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2951261/1/19