日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども

この記事のタイトルは「国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによって全文検索機能が大幅に強化されたおかげで『官報』に公告された商業登記が探しやすくなったので日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども中途半端なところまでしかたどり着けなかった」という具合になる予定だったのですが、SNS的に130字を超える長さはどうなのかと考え直して切り詰めました。

さて、かつて存在したホームページの会社案内から、〈1894年(明治27年)大阪堂島に「奥田精文堂」として創業〉したとされ、残念ながら2004年に会社更生法を申請し、2014年にはホームページも消滅してしまった日本活字工業株式会社。

要出典のWikipediaには記載がありませんが、ニコニコ大百科に「日本活字工業とは」という解説記事が書かれています。「他のタイプファウンドリーとともに日本におけるタイポグラフィの黎明に寄与した。」という文の「タイポグラフィの黎明に寄与」って具体的にはどういう話をイメージしておいででしょうかと記事執筆者に確認したい気持ちになるものの、他はまぁまぁ良く書けているような気はします。一応、『大阪印刷百年史』(1984大阪府印刷工業組合)の各社沿革史によると、1894年に初代奥田捨松が興した奥田精文堂活版製造所に端を発する日本活字工業は、1945年に戦災で全焼したものの1946年に日本活字鋳造株式会社として再興、1956年に日本活字工業株式会社へと名を改めたもの――という情報を、ここに付け加えておきましょう。

参考に、『モリサワ写真植字書体総合見本長 MORISAWA 80』(1979)から「日本活字細明朝体NA1」の書体見本を掲げ、また併せて日本活字工業『NTF活字書体』(1963年発行のバインダー式見本帳)から二号明朝と四号明朝の見本も載せておきます。

モリサワ写真植字書体総合見本長 MORISAWA 80』より日本活字細明朝体NA1見本(部分)
日本活字工業『NTF書体見本』より二号明朝見本(部分)
日本活字工業『NTF書体見本』より四号明朝見本(部分)

ニコニコ大百科の記事で「日活明朝体(NTF-MM / MB)」の解説に「JRAのCM「20th Century Boy」などの用例が知られている」と書いてありますが、これは1990年代の名競争馬をモチーフに作成された「JRAの本気」などと称される2011年放送のG1レースCMでキメのコピーを映像化するのにデジタルフォントの日活明朝体が使われたという話です。

「群れに答えなどない。」

「僕らは、ひとりでは強くなれない。」

CMを手掛けた小林大祐氏のお仕事(works)(https://dadada.works/jra-g1-2011/)で、超カッコいい2011年G1レースCM映像を見ることができるようです。

2011年JRAジャパンカップ」30秒CMの18秒あたり(小林大祐氏のdadada.worksより)

本文サイズの「日活明朝体」が作られたのは1950年代のいつ頃なのか

さて、この本文サイズの日活明朝体というのは、1950年代にベントン彫刻機を前提に設計製作された金属活字として誕生しています。『NTF書体見本』の奥付にも「使用母型:NTFベントン彫刻母型」と書かれています。

佐藤敬之輔『ひらがな 上』(1964、丸善)巻末の「設計者の略伝」に記された太佐源三(たいさ・げんぞう)の作品年譜では、昭和26年(1951)の仕事として日本活字の五号と六号の「みんちょう体漢、平、片仮名」の「ベントン彫刻機用原字設計」を手がけたとされているのですが、ちょっと腑に落ちないところがあります。太佐源三は朝日新聞社活版部で活字彫刻に従事した後モトヤの嘱託となり、さらにモトヤの常勤顧問となっているのですが、隔月刊誌『デザイン』5号(1978年7月、美術出版社)の「中垣信夫連載対談 第4回―モトヤ活字の設計思想 印刷と印刷の彼岸」に掲載されている太佐の略歴(1953〔昭28〕朝日新聞社を定年退社。同年、㈱モトヤにタイプデザインとデザイナー養成指導のため嘱託となり、後、デザイン部長として入社、役員となる。1958〔昭33〕モトヤを定年退職、非常勤顧問となる。1969〔昭44〕モトヤ常勤顧問となり、タイプデザインの仕事に従事現在に至る。)と、どうも辻褄が合わないように思われるのです。

1935年刊『全国印刷材料業者総攬』に掲載された奥田精文堂の「各種活字書体一覧」https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/296と、1952年刊『印刷百科辞典』に掲載された日本活字鋳造の「和文活字書体略見本」https://dl.ndl.go.jp/pid/2461701/1/95に掲載されている活字書体を見ると、『印刷百科辞典』に掲載された二号明朝のひらがなは確かに1954年の日本活字鋳造『新用字法準拠 標準活字目録』https://twitter.com/uakira2/status/495561820325675008や1963年の日本活字工業『NTF活字見本』https://twitter.com/uakira2/status/646651833381851136などに見られる新しい書風のものに切り替わっているように見えるものの、五号のひらがなも六号のひらがなも古い時代の書体のままで、日本活字オリジナルではないように見受けられます。

1957年『月刊印刷時報』10月号掲載の「日活型正楷書・教楷書見本」の広告文https://dl.ndl.go.jp/pid/11434624/1/72は9ポイントの日活明朝体と角ゴシックで組まれており、1950年代に本文サイズの日活明朝体が出来上がっていたことは間違いないようなのですが、太佐の関与がどの程度だったか、また正確な販売開始年がいつ頃だったか等は未詳という他ありません。

本文サイズの「日活明朝体」が作られたのは、日本活字鋳造時代なのか、日本活字工業時代なのか。

1951年から56年までの『月刊印刷時報』に掲載されたであろう広告や雑報を追っていくことで太佐の関与はともかく販売開始年は「新発売」などの表現である程度確定させられる可能性があるわけですが、残念ながら「1950年代の『月刊印刷時報』所蔵先リスト」https://uakira.hateblo.jp/entry/2022/12/30/203953に見られるように国会図書館には所蔵がありません。



さて、ここからが本題です。何といっても、この記事は

国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによって全文検索機能が大幅に強化されたおかげで『官報』に公告された商業登記が探しやすくなったので日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども中途半端なところまでしかたどり着けなかった

というタイトルになる予定だったのでした。

まずは国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービス提供開始によって閲覧可能となった1955『日本印刷人名鑑』https://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/248と1964『沖縄商工名鑑』https://dl.ndl.go.jp/pid/2528983/1/288によって、『大阪印刷百年史』の沿革を補ってみたいと思います。

『大阪印刷百年史』1984『日本印刷人名鑑』1955『沖縄商工名鑑』1964
奥田福太郎(470頁)朝日多光(465頁)日本活字工業株式会社(532-533頁)
1894明27奥田捨松(1864-1931)が、大阪堂島に奥田精文堂活版製造所を創業 明41年1月21日生、「光子夫人と一男(策春氏)あり」「令弟喜一郎氏また活字界有数の学識者として補佐している」 明41年4月25日生、「昭和20年9月、日本活字鋳造株式会社創設と同時に取締役社長」「昭和22年10月、企業独占禁止法により村井、日本活字鋳造、大阪写真製版、朝日輪業の各代表取締役を辞任」 当社は昭和3年12月、大阪活字鋳造㈱として創業、昭和20年3月、戦災のため休業、同21年2月、日本活字鋳造㈱と改称して再出発、同31年4月、現称号に改称す。
1931昭63奥田捨松翁逝去(67)、奥田福太郎(32)事業を継承
1945昭206戦災で全焼
1946昭211川口町の焼けビルに手廻鋳造機7台で日本活字鋳造㈱を発足
1947昭223現在地に営業所ついで工場を移転
1948昭234技術部研究室を設け原字と母型制作を開始、日活書体製作の母胎となる。
1951昭265ベントン彫刻機による母型制作を開始。日活書体を逐次発表し我国の活版印刷近代化を促進す。
1952昭2711東京営業所を日本橋浜町に開設
1954昭299東京支店と工場を新宿区箪笥町に開設
1955昭303業界初の常設展示場とベントン彫刻工場完成
1956昭31この年、日本活字工業株式会社と改称
1957昭325全日本活字工業会結成され、奥田福太郎西部支部長に就任。
1965昭406奥田福太郎社長逝去(58)、代表取締役に奥田繁晴(37)就任。
1980昭553奥田繁晴逝去(52)、代表取締役社長に奥田真史(26)就任。

いちいち書き出しませんでしたが、1955『日本印刷人名鑑』による奥田福太郎略歴に示された事業の足跡は、『大阪印刷百年史』と瓜二つ、たぶん『大阪印刷百年史』では1955年あたりまでの沿革について『日本印刷人名鑑』を参照して書かれたのでしょう。

他の資料を見ると、大阪活字鋳造という新しい組織が出現してきたり、日本活字鋳造の創業社長が別人(朝日多光)という記載があったりと、小さな謎が増えてきました。

大阪活字鋳造と中原繁之助の周辺をNDL全文検索で拾い出す

まずは『官報』で大阪活字鋳造の登記情報を追ってみましょう。

  • 1928昭和3年12月23日、大阪活字鋳造株式会社設立(「本店 大阪市南区鰻谷仲之町三十九番地」「目的 印刷機及活版附属品ノ販売」「取締役 岡本省三 渡部醇 青木義則 中原繁之助」「会社ヲ代表スヘキ取締役 中原繁之助」「監査役 木村千幹」1929年3月6日付『官報』145頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957119/1/9
  • 1932昭和7年10月、取締役等重任(「会社ヲ代表スヘキ取締役タル取締役 中原繁之助取締役岡本省三青木義則渡部醇ハ 昭和七年十月二十日重任ス」「監査役木村千幹ハ同日重任ス」1932年12月16日付『官報』23頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958261/1/29
  • 1933昭和8年12月、取締役等変更(「取締役青木義則ヲ昭和八年十二月三十日解任シ左記ノ者同日取締役ニ就任ス/竹森盛一」「監査役木村千幹ハ同日退任シ左記ノ者同日監査役ニ就任ス/笹部友三郎」1934年2月14日付『官報』400頁2段目・3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958608/1/11
  • 1937昭和12年10月、取締役等変更(「取締役岡本省三ハ昭和十二年十月二十一日辞任シ左記ノ者取締役ニ就任ス/竹森盛一」「監査役竹森盛一ハ同日辞任シ左記ノ者監査役ニ就任ス/中江喬三」1937年1月13日付『官報』281頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959794/1/13
  • 1939昭和14年2月、取締役等重任(「取締役中原繁之助同笹部友三郎会社ヲ代表スヘキ取締役中原繁之助ハ昭和十四年二月十五日重任ス」1939年5月3日付『官報』24頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2960188/1/30
  • 1939昭和14年4月、中原繁之助転居(「四月十八日 取締役中原繁之助ハ住所ヲ西宮市××ニ移転ス(××は引用者伏字)」1939年7月29日付『官報』21頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2960263/1/44
  • 1939昭和14年10月、監査役重任(「監査役中江喬三ハ昭和十四年十月二十一日重任ス」1939年12月14日付『官報』24頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2960377/1/30

さしあたり、『官報』全文検索で拾える「大阪活字鋳造」関係の登記情報は、以上のようなものでした。昭和8年3月に大阪活字鋳造の監査役に就任した笹部友三郎が昭和14年2月の登記で「取締役ヲ重任」していますから、この間のどこかのタイミングで監査役を辞して取締役に就任しているのでしょうが、全文検索では該当する『官報』に行き当たっておりません。また、1964『沖縄商工名鑑』が記す「昭和20年3月、戦災のため休業」というところまで、どのような体制で存続していたのか――あるいは本当は存続していなかったのか――、そのあたりも不明です。

なお、創業以来、少なくとも昭和14年までは代表取締役を務めていたらしい中原繁之助の略歴について、『帝国大学出身名鑑』は次のように記しています昭和7年初版に記された家柄の記述は興味深いものであるものの、ここでは我々にとって重要な情報を明記している昭和9年「再版」の記述を拾います)

中原繁之助(大阪活字鋳造株式会社専務取締役)君は大阪府人中原庄兵衛の長男にして明治25年6月11日を以て生る、夙に府立北野中学、第三高等学校を経て大正8年京都帝国大学工学部機械科を卒業し直ちに川崎造船所に入所技師となり後辞して安田商事株式会社鉄工所に勤務せしが同所閉鎖に依り退職す、昭和3年12月大阪活字鋳造株式会社を創立し同社専務取締役に就任現在に至る

また、昭和28年の『人事興信録』17版下https://dl.ndl.go.jp/pid/3025812/1/177では次のようになっており、大阪活字鋳造が日本活字鋳造に繋がっているらしく記されています。

中原繁之助(日本活字鋳造㈱監査役)/明治25年6月11日中原庄兵衛の長男に生れた大正8年京大機械学科を卒業し川崎造船所安田機工所各勤務の後同14年欧米を一巡昭和3年大阪活字鋳造を創立後日本活字鋳造と改称現時監査役である先に紺綬褒章を授与された

日本活字鋳造と奥田福太郎をNDL全文検索

国会図書館デジタルコレクションの全文検索では、戦後の資料しかヒットしないようです。最初にヒットするのが1948年『人事興信録』15版に掲載されている、朝日多光(15版上〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2997934/1/44〉)と土肥芳夫(15版下〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2997935/1/75〉)。1948年『人事興信録』15版編纂の段階では朝日多光が戦後設立された日本活字鋳造の社長であると認識されています。

ともあれ、「古い順」で『人事興信録』15版の次にヒットする1949年『日本職員録 昭和24年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/8797888/1/272の記述から、1949年当時の日本活字鋳造の概要をつかんでおきましょう。

  • 日本活字鋳造株式会社:大阪市北区真砂町39/川口工場:西区川口町36/森之宮工場:東区森之宮東之町543/加島工場:東淀川区加島町1071
  • 設立:昭和3年12月
  • 事業:活字母型並活字及印刷機械及材料の製造販売
  • 社長:奥田福太郎
  • 取締役兼総務部長:土肥芳夫
  • 取締役兼業務部長:森 昇
  • 取締役兼業務第二部長:前田小一郎
  • 取締役兼技術部長:奥田喜一郎
  • 取締役兼工務部長:中原繁之助
  • 取締役:岡田鐵治郎
  • 監査役:金原忠雄
  • 監査役:河畑松次郎

「奥田福太郎」での検索で出てくる1948年『全国商工名鑑 上巻』に掲載されている日本活字鋳造株式会社の広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1124889/1/362では、「代表取締役 奥田福太郎」である他、各拠点が次のように記されています。

さて、奥田福太郎と大阪活字鋳造、日本活字鋳造の略歴についてかなり重要なことが書かれているように思われるのが『関西化学雑貨経営者名鑑 1950年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/2455070/1/36です。「奥田福太郎(明治41年1月21日生)奈良県出身/日本活字鋳造株式会社専務取締役・不二機械株式会社社長」とした上で、略歴が次のように記されています。

明治23年先代奥田捨松、大阪市北区に於て奥田精文堂の名称にて活字鋳造を開始、昭和3年先代より事業継承、20ヶ年経営、同19年大阪活字鋳造株式会社合併取締役に就任、同20年6月1日罹災、同20年12月同社ノ事業再建、同21年2月商号日本活字鋳造株式会社と改称、代表取締役に重任、同24年日本活字姉妹会社、不二機械株式会社を発起設立取締役社長に就任、同昭和22年近畿活字製造工業協同組合を設立発起理事長に就任、活字研究20余年

同じく、1952年『大衆人事録 第15版』https://dl.ndl.go.jp/pid/3044846/1/164は、他に見えない学歴情報を記しています(これ以降の版も同様の記載である他、1958年『産経日本紳士年鑑』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/3044973/1/585〉なども概ね同じ内容です)

奥田福太郎(日本活字鋳造㈱社長)明治41年1月21日大阪市に生る関西大中退大正13年家業奥田精文堂を継ぎ終戦と共に大阪活字鋳造取締役となり昭和21年改組改称し現職に就任先に不二機械社長関西活字製造工業協組理事長等を歴任した

戦時経済体制下で印刷事業者の整理再編が進む中、奥田精文堂をたたむ決断をして大阪活字鋳造株式会社を存続会社とする合併を実施し福太郎は大阪活字鋳造の取締役に入った――と見るのが妥当かと思うのですが、現時点でこれは1つの仮説に過ぎません。

ちなみに、昭和24年(1949)に奥田福太郎が発起設立したという不二機械株式会社の設立時の登記は見つからず、昭和25年4月(1950)に日本活字鋳造が不二機械を吸収合併するという公告(「昭和二十五年四月三十日開催の株主総会に於て日本活字鋳造株式会社は不二機械株式会社を合併して存続し不二機械株式会社は合併により解散する決議をいたしましたから異議のある債権者は本公告掲載の翌日より二箇月以内に御申出下さい。」1950年5月17日付『官報』第7001号230頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2963547/1/8)だけがNDL全文検索でヒットしました。

初代奥田捨松による奥田精文堂創業期のことと二代目への継承期のこと

昭和10年代から20年代の状況をいったん離れて、まずは初代奥田捨松による創業期の状況を調べておきましょう。1914年の『日本全国商工人名録 第5版』広告https://dl.ndl.go.jp/pid/932534/1/219では「創業明治二十五年」と謳われており、創業年が後の公式設定より2年ほど遡ってしまっています。何ということでしょう。1926年『帝国信用録 19版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1017499/1/299の記載では創業年が明治24年となっていて、このあたり、何か決め手が欲しいところです。

1901年『帝国組合電信符号組合員名簿』https://dl.ndl.go.jp/pid/805304/1/150では「活字諸器械製造販売」「精文堂」「奥田捨松」となっていますが、1955『日本印刷人名鑑』の奥田福太郎略伝や、「奥田福太郎氏急逝」を報じた1965年『月刊印刷時報』6月号の訃報https://dl.ndl.go.jp/pid/11434716/1/81には、「厳父直道氏の創業した奥田精文堂」という表現が見られます。

活字商を営んだ「奥田直道」のことをNDL全文検索で探し出してみましょう。

まず1893年『大阪商工亀鑑 増補2版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1086812/1/28に「大阪市北区堂島櫻橋南詰西ヘ入」の「活字販売所 奥田直道」による「軽便活版印刷機械」の広告が見つかります。1909年『郵便振替貯金加入者氏名及番号』(https://dl.ndl.go.jp/pid/805619/1/151)には「大阪市北区堂島裏通三丁目4、2」「活版製造業」「精文堂」の「奥田直道」名義で掲出されています。

創業者は、本名を「奥田直道」といい、商人名跡として「奥田捨松」を名乗ったのではないかと、ここでは考えておきましょう。1893年(明治26)の『大阪商工亀鑑 増補2版』に広告が出されているので、初代奥田捨松こと奥田直道が活字商売を始めたのはそれ以前ということになりそうです。『関西化学雑貨経営者名鑑 1950年版』で明治23年創業とされている記述と『大阪印刷百年史』等の設定を折衷し、奥田直道が活字商売を始めたのが1890年(明治23)で、「精文堂」あるいは「奥田精文堂」の屋号・商号を掲げるようになるのが1894年(明治27)なのだろうと受け止めておくことにしましょうか。

1924年『日本実業大鑑 大正13年度 関西版 第2版』https://dl.ndl.go.jp/pid/924579/1/191では「奥田精文堂」「店主 奥田捨松」という表記になっていますから、少なくともこの段階までは会社組織化しておらず個人商店形態で営業していたのでしょう。

この初代奥田捨松は、昭和6年3月25日に亡くなっています。国会図書館デジタルコレクションの「送信資料」ではなく「館内限定」になっている第2次『印刷雑誌』14巻4月号に「奥田精文堂主逝く」という訃報が掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3341082/1/69

大阪市北区堂島上三丁目、活版製造販売精文堂主奥田捨松氏は、三月二十五日午后十一字三十分宿痾の腎臓並に中風症の為め長逝された。享年六十八。

氏は元治元年一月十八日、大阪市阿波堀町、錺屋嘉兵衛氏の長男として生れ、幼少より和漢英数の学を好み、二十一歳にして上京勝海舟門下たること二年、帰阪して陸軍教導団の英語教師たりしこともあったが、のち村山龍平翁と知り、大阪朝日新聞に入社、記者兼庶務に従事したることより印刷に趣味を有し、遂に現業を開始して四十有三年の長年月に及んだ。

二代目奥田捨松を名乗ったものと思われるのが、1955『日本印刷人名鑑』の奥田福太郎略伝で「令弟」と記されている奥田喜一郎です。NDL全文検索の結果を見る限り、初代奥田捨松の訃報を伝えた第2次『印刷雑誌』に、引き続き1934年まで「奧田精文堂 堂主奧田捨松」の名が記されているようです。おそらく広告の出稿でしょう。

1934年『全国工場通覧 昭和9年9月版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1212170/1/313には「奥田精文堂」「㈹奥田喜一郎」とあり、また1935年『全国工場通覧 昭和10年版 機械・瓦斯電気篇』では「奥田精文堂活版製造所」「㈹奥田喜一郎」となっています。

『官報』のNDL全文検索によると、喜一郎は1934年に家業の組織変更を行い無限責任社員として「合資会社奥田精文堂活版製造所」を立ち上げ、3年弱で会社組織を解散していまいた。

おそらくこの「解散」は、合資会社組織を取りやめ、再び個人商店として営業を継続したということになるのでしょう。屋号・商号は書かれていませんが、合資会社奥田精文堂活版製造所設立の所在地と同じ「大阪市北区堂島上三丁目四番地」の事業において、奥田喜一郎を「主人」とする次の登記が見られます。

奥田喜一郎の履歴について、1959年の『大阪紳士録 第1版』が次のように記していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2996525/1/122

東北大学法文学部卒、昭和17年東北帝国大学文学研究室助手、昭和18年三重海軍航空隊・海軍教授、昭和20年日本活字鋳造㈱取締役

この略歴を踏まえて1939年『東北帝国大学一覧 昭和14年度』を見ると、「大阪出身の奥田喜一郎」が同年に入学していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1446334/1/228。どうやら、個人商店として奥田精文堂の営業を継続していた奥田喜一郎は何らかの事情で大学進学を選び、そのために店の経営を「梶福太郎」へ任せることとしたようです。1941年『日本工業要鑑 昭和16年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1071135/1/1586では、「奥田精文堂」「店主 奥田喜一郎」、「技術主任 梶佳司」とあり、合資会社時代の1936年に加わった梶佳司の名が見えています。福太郎は、あるいは佳司の親族であったかもしれません。

「印刷業」という大きなくくりになりますが『大阪印刷百年史』によると「昭和18年から20年3月にかけて実施された企業整備により、2243あった大阪の印刷業者のうち1733業者が廃業、しかも、印刷設備は53%も被害を受けたのである」(同書330頁)という(強制的な統廃合を含む)戦時体制を奥田精文堂はどのように生き延びたのか。ここまでの調査で、日本活字工業の社史を「奥田家100年史」ともなる一種のヒューマンドラマとして知りたい気持ちが少し湧いてきました。ひょっとすると、喜一郎も梶家から奥田直道の養子として先に奥田家へ入っていて、直道の死後に佳司や福太郎を招き入れたのか等とも想像するのですが、現時点ではそのあたりを確定させ得るような資料は見えておりません。明治期に創業した商家なら、優秀な人材を養子に迎えて跡を継がせるといったことはごく普通のことですから「余計な詮索」といった遠慮は不要かと思いますが、そろそろNDL全文検索の壁につきあたりつつある状態に陥っています。

情報求ム

そもそも日本活字工業株式会社の正確な社史を知っておきたいのは、森川龍文堂や青山進行堂といった活字ベンダーの活字資産の行方の手がかりのひとつになるのではないかという観点が最大の理由です。

片塩二朗「この一冊の書物から」最終回(2001年『印刷情報』3月号)の146-145頁(基本横書きの同誌に縦書きで綴られた連載記事のため、ノンブルが逆順になっています)に、次のような記載が見られます。

じつは一九四四年の末ごろに、森川龍文堂の母型や鋳造設備のすべてが、軍の南方政策のためとして海軍省に「ほとんど無償にちかい価格、それも戦時国債払い」で売却されました。そしてその母型は「浜松あたりの海軍の施設」でそのまま敗戦をむかえたとされます。

栄養失調とはげしい痔疾患が森川をおそって病床に伏すことがおおい毎日だったようです。海軍への母型の提供は「供出、没収、献納」とさまざまにしるされています。いずれにしても一度国家の所有物になったものですから、戦後しばらくして森川の入院中に旧海軍物資として払い下げがあり、奥田精文堂活版製造所(創業一八九四年、現日本活字工業)に払い下げられてしまいました。

このあたりの情報を別の公開情報等で跡付けること、またベントン彫刻母型による「日活明朝体」の開発時期を明らかにすること。この2点については、引き続き折を見て調査を継続していきたいと思います。諸々ご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えください。

「ゆるぎない覚悟決して」

「1つ2つ共に綴る記録」

写植書体やデジタルフォントの日活書体についても、ご提供くださる情報がありましたら、お寄せください。

「キミと知りたい」