2023年12月の関西蚤の市で貴重なピンマーク入り活字を入手された書体賛歌さん(https://twitter.com/typeface_anthem/status/1730789514292101371)から、一部をお譲りいただきました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
今回は、そのうちの「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り活字に関する覚書です。
浪花活版盛功社と名古屋印刷史
名古屋市東区に、印刷資機材の販売やDTP製版・フィルム出力等を行う株式会社盛功社という会社があります。ウェブサイトの〔会社案内〕によると明治22年(1889)「吉田和兵衛が名古屋市伝馬町七丁目にて浪花活版盛功社支店を設け、活字・印刷機械及び付属品販売店を創業」して以来、130余年にわたって印刷関連事業を営んでこられたそうです(http://www.seikosha-net.jp/kaisya-annai.html〈2023年12月23日閲覧〉)。
明治20年と思われる頃に中川多助および増岡重太郎という人物が大阪市西区京町堀通四丁目廿七番屋敷を拠点として「浪花活版」と「盛功社」という2つの屋号を掲げる活版印刷事業を立ち上げていたのですが(「浪花活版(浪速活版)のピンマーク「梅にS」は盛功社の「S」由来と思い至った結果「NANIWA Ⓢ OSAKA」というピンマークも浪速活版(浪花活版)なのだろうと #NDL全文検索 で推定する話」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/06/11/083355)、それからほどなくして名古屋に「浪花活版盛功社支店」が設立されていたのですね。明治22年の段階では大阪の事業所も「浪花活版盛功社」であったのかもしれません。
ちなみにこの「浪花活版盛功社支店」創業前後のことについては名古屋印刷同業組合『名古屋印刷史』(1940)に詳述されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/96)、そこでは「大阪京町堀の盛功社」が「明治20年4月創業の浪花活版製造所の前身」と書かれています。
さて、明治28年刊『商業登記会社全集』(https://dl.ndl.go.jp/pid/803675/1/124)には浪花活版の項に名古屋支店の記載が無く、明治28年刊『日本全国諸会社役員録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/780110/1/101)と明治29年刊『日本全国諸会社役員録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/780111/1/121)には記載があり、支店長が福地喜兵衛、支配人が吉田和兵衛と書かれています。
〔会社案内〕では明治27年(1894)の出来事として「支店を解散して盛功合資会社を設立」と書かれているのですが、例えば明治32年8月の官報に「株式会社浪花活版製造所名古屋支店」の登記事項変更が公告されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948122/1/18)、また明治33年1月の官報に同32年12月での支店閉鎖が公告されていること(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948242/1/13)、同32年12月19日付『官報』が掲げる盛功合資会社の設立登記公告が明治32年12月12日付であることから(https://dl.ndl.go.jp/pid/2948231/1/13)、実際に「支店を解散して盛功合資会社を設立」したのは明治32年12月だったのでしょう。盛功合資会社を設立した際の代表社員は吉田和兵衛で、福地喜三郎は有限責任社員とされています。喜三郎は喜兵衛の縁者でしょうか。
『名古屋印刷史』によると、盛功合資会社は「明治38年大阪青山進行堂の中部発売元とな」ったようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/97)。その後、大正7年(1918)の『日本印刷界』99号掲載広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517518/1/96)から111号掲載広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517530/1/68)までは「浪花活版製造所特約店」という肩書と「青山進行堂特約店」という肩書が併記されています。
大正10年(1921)の島谷政一『活版印刷自由自在』掲載広告には特約店云々の記載はありません(https://dl.ndl.go.jp/pid/961210/1/95)。
その後、三谷幸吉『印刷料金の実際』掲載広告(https://dl.ndl.go.jp/pid/1223351/1/80)から、『印刷美術年鑑 昭和11年版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/230)や『印刷雑誌』20巻1号(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341151/1/77)あたりまでは「大阪青山進行堂特約販売店」や「大阪青山進行堂名古屋代理店」を名乗っています(「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/07/09/001453)。
〔会社案内〕では、大正11年(1922)に「活字鋳造部を設立、自家鋳造を開始」とされており、『名古屋印刷史』にも同年「自家鋳造部を開設」とあります。大正12年の『愛知県商業名鑑』によると登記簿上の名義は「盛功合資会社」でしたが商標として「盛功社」という名称も登録しており(https://dl.ndl.go.jp/pid/950553/1/166)、鋳造した活字に「SEIKOUSHA」と刻印していてもおかしくありません。
『名古屋印刷史』に記された、昭和3年(1928)の名古屋博覧会特設「印刷館出品物の概観」には、盛功合資会社の展示について「「Ⓐ活字は盛功社」の白抜き文字も能く利いて居る」と書かれているのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/175)、これは青山進行堂の商標がⒶでありピンマークにもⒶマークを用いた「Ⓐ」や「OSAKA Ⓐ AOYAMA」「青 Ⓐ 活」「大Ⓐ阪 青山進行堂」と同時に「AOYAMA 青 OSAKA」というピンマークが存在していたことをも想起しておくべきところでしょうか(https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/07/09/001453)。
「大阪青山進行堂名古屋代理店」を名乗っていた名古屋市東区西魚町三丁目の盛功合資会社が、住所と電話番号をそのままに『日本印刷大観』(1938)においては「青山進行堂名古屋支店」と記されている一方で(https://dl.ndl.go.jp/pid/1707316/1/100)、1940年の月刊『印刷時報』では「大阪青山進行堂名古屋代理店」と名乗っており(https://dl.ndl.go.jp/pid/1499109/1/62)、このあたりの年代の正確な状況はよく判りません。
青山督太郎の大躍進からの青山進行堂廃業に伴う販売網の再編
先日「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」を書いた時点では十分に調べることができていなかったこの時期の事柄を、『官報』の全文検索を通じて、もう少し掘り下げてみます。
昭和12年(1937)3月17日付『官報』に、本店を名古屋市東区東魚町13番地におき「活字ノ鋳造及販売」「前項ニ附帯関連スル一切ノ業務」を目的とする「合資会社盛功社活版製造部」が同年1月1日付で設立されたという登記公告があり(https://dl.ndl.go.jp/pid/2959542/1/13)、盛功合資会社を切り盛りする吉田家の他、有限責任社員の筆頭として大阪市南区長堀橋筋一丁目の青山督太郎の名が掲げられています。
その後、昭和14年(1939)4月6日付『官報』には、盛功合資会社に対しても青山督太郎からの出資が行われた旨が公告されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2960167/1/28)。同年4月19日付『官報』には、盛功合資会社浜松支店に対しても青山督太郎らからの出資が新たに為された旨が公告されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2960178/1/52)。
こうして青山進行堂(青山督太郎)との結びつきを深めつつあったように見える盛功社グループですが、合資会社盛功社活版製造部は独立した会社としては短命に終わったようで、昭和14年(1939)5月24日付『官報』に合資会社盛功社活版製造部の解散及清算人選任の公告が出されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2960206/1/26)。
昭和15年5月10日付『官報』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2960498/1/22・https://dl.ndl.go.jp/pid/2960498/1/27)と同11日付『官報』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2960499/1/18)に、盛功合資会社岐阜支店設置の公告が出されています。11日付の方が詳しく書かれているのですが、残念ながら「無限責任八名」に青山が含まれているかどうかは判りません。
さて、「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」には記しませんでしたが、第二次『印刷雑誌』25巻10号(昭和17年〔1942〕10月)雑報欄で大阪青山進行堂の廃業が伝えられる半年前の出来事として、同3号(同年3月)の雑報欄に、次のような記載がありました(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341208/1/51)。
尚ほ存続経営の下関支店、京城支店、名古屋盛功合資会社ではそれ〴〵左記の活字類を販売することゝなつたが、準備のため約一ヶ月を要しその後、一般の需要に応ずる由。
行書活字、草書活字、隷書活字、宋朝活字、丸形ゴシツク活字、南海堂行書活字は
下関町赤間町 青山進行堂下関活版製造所
諺文活字は
朝鮮京城府南米倉町 青山進行堂京城支店
ポイント活字、初号太丸活字、欧文活字(初号以下)
花形活字(初号以下)は
名古屋市東区西魚町三丁目 盛功合資会社
これは、当時青山進行堂が販売していた各種活字書体の全国販売を、3社で分担していく、その割り振りの告知と考えて良いでしょう。盛功合資会社の割り当てである「ポイント活字」というのは、明朝系および角ゴシック系の「基本書体」という意味合いと考えられます。大阪の青山進行堂が全国に向けて販売していた活字のうち、――
――という役割分担が定められたということだったのでしょう。
「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク使用時期の上限と下限を想定
まずは、大正11年(1922)に自家鋳造を開始したとされ、昭和3年(1928)の名古屋博覧会特設印刷館に「Ⓐ活字は盛功社」という看板を掲げていた、おそらく青山督太郎からの資金提供は受けていない時期(昭和12年まで)の盛功合資会社が「NAGOYA Ⓐ SEIKOUSHA」や「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」というピンマークで活字の鋳造・販売を手掛けるようになっていて、自動鋳造機に切り替えるまでの期間にこれらピンマーク入り活字が生産されていたものと考えておきましょう。
そして、昭和戦前期の状況を踏まえると、自動鋳造機への切り替えの時期は、次のどこかの時期ではないかと予想します。
- 昭和12年(1937)~同14年、青山督太郎の出資も受けて設立された「合資会社盛功社活版製造部」の頃
- 昭和14年~同17年、青山督太郎による増資を受け入れた盛功合資会社(青山進行堂名古屋支店扱い)の頃
- 昭和17年以降、青山進行堂製ポイント活字(基本書体)の全国販売店となった「盛功合資会社」の頃
ライセンス的には昭和17年以後に「青山進行堂製活字を名古屋盛功社が鋳造・販売」という意味で「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」と大々的に喧伝するのが自然と思うのですが、時期的なことと販売規模を考えるとピンマークを刻印しない自動鋳造機を導入する格好の頃合いと予想されます。
現時点では、「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り活字は大正11年から昭和14年または17年までの間に鋳造されたものではないかと考えておきたいと思います。
〔会社案内〕には昭和21年(1946)の出来事として「戦災により焼失した会社の復興に取り組み、覚王山通りにて盛功社として開業、東海地区にて戦後最初に活字鋳造を開始」とも書かれています。この頃に使われた活字鋳造機が、ピンマークを刻印するタイプだったか、そうでなかったか、そのあたり明確には判りません。