日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

明治大正期北越の活版印刷事情について小泉發治(福井・金沢)にかかわることを調べ直してみたら金澤寶文堂の㋩ピンマークの思いがけない由来が見えてきた話

金沢「寶文堂活版製造所」製活字のピンマーク㋩は「ハ・ツ」の意匠だった模様

先週、2023年5月13日付の記事「金沢でピンマーク入り活字を鋳造販売していた宝文堂のことを #NDL全文検索 で調べてみて創業期には辿りつけないでいる話」へ、立野竜一氏からコメントを頂戴しました。筆者が「〈頭が9時の位置にあるウロボロス〉風の○にハの字のマーク」と記していた宝文堂のピンマークについて、これは往時の代表者「小泉發治」の「ハツ」ではないか、というご指摘です。

金沢宝文堂の㋩ピンマーク入り初号明朝活字(ピンマーク正面方向)
金沢宝文堂の㋩ピンマーク入り初号明朝活字(ピンマーク斜め方向)

なるほど、「9時の位置」で強く筆を打ち込み時計回りにぐるりと描いた円は意匠化された「ツ(つ)」の字であったわけですね。

独力で気がつきたかった!

さて、立野氏のコメントで言及頂いたように「小泉發治」については2010年10月30日付の記事「三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所を推定する」https://uakira.hateblo.jp/entry/20101030で触れていました。当時の「国会図書館近代デジタルライブラリー」の公開資料で書籍の出版・印刷者を虱潰しに見ていくことで、三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所を推定できるのではないかと思い立って調べてみた記録です。近デジローラー作戦の有効性を試してみたいという動機でやってみたものだったのですが、三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所についての結論は得られませんでした*1

小泉發治の名は、近デジローラー作戦を通じて、明治30年代半ばに福井で活動していた「小品岡印刷」の関係者として拾い出したものです。

なお、2019年に公開された「デジタルアーカイブ福井」https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/経由で、福井の出版業者・書店を網羅という観点については柳沢芙美子「福井県域の出版業者・書店について ―江戸時代後半から明治前期の概況―」(『福井県文書館研究紀要5』2008年3月 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2007bulletin/images/P051-066yanagisawa.pdfという先行研究があったことを知りました。

小泉發治と活版印刷のかかわり(1)福井「昇文堂」~「小品岡印刷」時代

先ほど記したように、小泉發治の名は「小品岡印刷」関係の奥付情報に出現していました。小品岡印刷合名会社は、元々は品川太右衛門と岡崎左喜介による「品岡印刷合名会社」として活動していたものです。この状況は、2010年の時点では近デジローラーによる奥付情報から推定していたものですが、今回、『福井市商工人物史』(1939年)の「岡崎左喜介氏」の項に次のような記述があったと判りました。一部は柳沢芙美子「福井県域の出版業者・書店について」にも引用されていますが、全4段落のうち中間2段落を引いておきますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1034423/1/67

同家の先々代左喜介氏は、小學校施設の制度實施に伴ひ、明治二年五月市内京町に書籍筆墨商を開業し、爾來盛業を續けて來たが、文化の發展に伴れて將來印刷事業の有望なるのを見越して明治十一年家業を愛婿に任せ、單身上京して印刷局の前身たる紙幣局に奉職し、年餘にして刷版部主補を命ぜられ只管印刷技術を研究鍊磨し皈郷、書籍商を營む傍ら印刷業創始に全力を注いだが、企圖中ばにして永眠した。
先代左喜介氏は嚴父の遺業完成の爲め印刷界に身を投じ、當時福井市印刷業の草分とも云ふべき有隣館活版所を買収して、同業先代品川太右衛門氏と共同經營にて印刷業に從事した。その熱意と努力に依つて業務は多忙を來すに至り、後小泉昇文堂を合併して小品岡印刷合名會社と改稱し、相當大規模に經營してゐたが明治四十年同社を解散、新たに現在の岡崎印刷所を創業して健實な營業方針と、優秀な技術とを以て江湖の信用を厚くし、今日の盛運の基礎を築いた。

引用部分の第2段落について再確認しておきたいことがあります。「振藻堂」という書林であった岡崎左喜介がhttps://dl.ndl.go.jp/pid/867272/1/102、同じく「益志堂」という書林であった品川為吉(品川太右衛門)とhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826953/1/91https://dl.ndl.go.jp/pid/792668/1/158、共同で「有隣館活版所を買収」しhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780108/1/126、明治27-28年頃に品岡印刷合名会社へと名を改めた。――そういう状況であったことは間違いないところなのだと思われます。

少なくともNDL全文検索で見つかる資料としては明治22年福井県管内新旧市町村名録』(発行者兼印刷者品川太右衛門・印刷所有隣館 https://dl.ndl.go.jp/pid/764740/1/19明治23年『商法施行条例』(発行者兼印刷者品川太右衛門・印刷所有隣館 https://dl.ndl.go.jp/pid/793121/1/7明治23年福井県現行衛生法規』(発行者兼印刷者岡崎左喜介・印刷所有隣館 https://dl.ndl.go.jp/pid/797151/1/173https://dl.ndl.go.jp/pid/797151/1/174などより古い有隣館の資料が見当たらないことから、差し当たり、岡崎・品川による共同買収は明治21-22年頃のことと見ておきます。佐佳枝中町で出版事業を行っている品川は、明治17年頃まで為吉だった名をhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826953/1/91明治22年までの間に太右衛門へと変更したようですからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/792668/1/158、「初代品川太右衛門」は、活版印刷も自ら行う印刷出版書林となったことを契機に品川為吉から太右衛門へと商売上の名を改めたものと思われます。

また、昭和10年『現代出版業大鑑』に書かれている福井「品川書店」品川太右衛門の略歴によると「明治15年10月17日生 福井市佐佳枝仲町」「小学校卒業。明治40年現在の品川書店を創立し以来一般新刊書籍雑誌の販売を営み今日に至る」「現に福井県書籍雑誌商組合組長の要職にあり」ということですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1052718/1/432。柳沢芙美子「福井県域の出版業者・書店について」で示されているように、佐佳枝仲町において品川為吉の名で出版を始めたのが明治10年代半ばらしいことから明治16年『小学試業法心得』https://dl.ndl.go.jp/pid/810296/1/65明治15年生の品川太右衛門は2代目ということになるのでしょう。

小品岡印刷合名會社を解散して明治40年頃に「先代左喜介」が興したという印刷事業者ですが、『福井繁盛記』(明治42年)掲載広告https://dl.ndl.go.jp/pid/764750/1/83や、二水庵萍洲『地方新聞外交記者』奥付https://dl.ndl.go.jp/pid/897425/1/51などの表記から、少なくとも当初の名称としては「岡崎活版所」が正しいものと思われます。また、NDL全文検索で確認したところ、明治38年1月4日付『官報』により「小品岡印刷合名会社ハ明治三十七年十二月二十七日総社員ノ同意ニ依リ解散セリ」と公告されていることが判りましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2949781/1/19

明治30年代末に品川太右衛門の代替わり問題が生じ、品川が書店専業、岡崎が印刷専業、小泉が活版材料商を志すという形で小品岡印刷を解散したのではないかと想像するのですが、実際のところはよく判りません。

ともあれ、小泉發治視点でまとめると、小泉は昇文堂の屋号で(おそらく活版印刷関連事業を)独立営業していたところから明治33年頃に品岡印刷との合併を選び(明治33年『九頭竜川筋出水予報調査』印刷者:小泉發治・印刷所:小品岡印刷合名会社 https://dl.ndl.go.jp/pid/831635/1/26、5年ほど後に解散したらしいと判りました。

残念ながら、小泉昇文堂の手がかりは掴めていません。

国会図書館の資料では、明治40年福井県政界今昔談』の奥付に印刷者として名を記したのを最後にhttps://dl.ndl.go.jp/pid/783661/1/83、福井の印刷業界から小泉發治の姿が見えなくなります。

小泉發治と活版印刷のかかわり(2)金沢「寶文堂」時代

『石川県印刷史』「活字の鋳造販売」の項には、明治前半から活字販売を行っていた事業者として、小島致将(経業堂活版製造所)、沓木広文堂、そして経業堂から独立した宇野孝太郎(活文堂)の名が記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3444797/1/75。更に「活字販売が、業界における欠くことのできない分担をもつようになったのは、大正中期ごろとみられる。それは、活字販売を主とする活版材料屋として小泉宝文堂がこのころ金沢市長町七番丁に開業しているからである。」と書かれていました。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵 寶文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六號明朝活字書體見本』表紙より

さて、2010年の記事にも記した通り、『全国工場通覧 昭和7年7月版』では「小泉寶文堂」として、金沢市長町、創業明治43年、活字販売業、代表者:小泉宗治となっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1212137/1/369。また、『紳士興信録 昭和8年版』小泉發治の項には寶文堂、活字製造業、金沢市長町四番丁七二とある一方でhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1174557/1/1052、『日本商工信用録 昭和7年度』には金沢市の「活版・石版」業者として長町四番丁の寶文堂の堂主が岡島政次であるらしく書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1145535/1/688

まずは小泉寶文堂の創業期と見られる明治末から大正半ば頃までの金沢の状況を、もう少し探ってみたいと思います。

明治35年の『金沢新繁昌記 : 一名金沢営業案内』によると、小島致將(經業堂)、沓木政勝(廣文堂)、宇野孝太郎(活文堂)の3者とも、金沢における活版印刷業者として名を連ねていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/995197/1/94大正4年の『大家叢覧』にも3社の名が見えていますが、經業堂は「印刷業」、活文堂は「活版石板印刷」で、廣文堂沓木政勝だけが「活版製造所」を名乗っていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/954627/1/293

明治10年『対数表』奥付で「活版製造所經業堂」という屋号を名乗りhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826548/1/67、その後も多くの書籍印刷等を手がけていた小島致將の經業堂ですが、明治42年までのどこかの段階で代替わりして下村二平の「下村印刷工場經業堂」となりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/802718/1/792、また活字は販売しなくなっていたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/975065/1/112

沓木政勝の廣文堂は、先ほどの2冊の他、明治末の『商工重宝 第6版』でも営業品目として「活版製造・器械及附属品販売」と掲げているほかhttps://dl.ndl.go.jp/pid/803693/1/421大正3年『かなさは』にも「印刷活版業」と「活字鋳造」を手がける事業者として掲載されておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/948003/1/32昭和4年『商工信用録』でも「活字鋳造」業とされているなどhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1688408/1/557、この期間も活字の鋳造販売を盛んに手掛けていたようです。

宇野孝太郎の活文堂は明治20年代半ばに活動を始めたようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/894423/1/27、明治末から大正初めにも宇野の活文堂として書籍や雑誌の印刷を多く手がけていたようですが、大正3年『かなさは』の記載によるとこの頃までには「印刷活版業」専業となっていたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/948003/1/32

明治40年代から大正9年までに発行された『金沢市統計書』では工業統計の項目として「活字」が独立に集計されていますから、各年版から「活字」の生産量・売上等の推移を一覧にしてみました。残念ながら大正7年金沢市統計は国会図書館に見当たりません。

年度数量価額戸数職工依拠資料
明治38(1905)1,600,0002,04026明治41年https://dl.ndl.go.jp/pid/806755/1/80
明治39(1906)1,605,0002,24726
明治40(1907)1,600,0002,08026
明治41(1908)1,602,0002,08326
明治42(1909)1,627,0002,11537明治43年https://dl.ndl.go.jp/pid/806757/1/79
明治43(1910)1,213,0001,57723
明治44(1911)「?」1,60022明治45・大正元年https://dl.ndl.go.jp/pid/975063/1/76
明治45(1912)1,225,0001,71522
大正2(1913)1,225,0001,71522大正3年https://dl.ndl.go.jp/pid/975065/1/98
大正3(1914)3,830,0005,36225
大正4(1915)3,100,0004,34025大正6年https://dl.ndl.go.jp/pid/975068/1/103
大正5(1916)2,600,0004,16025
大正6(1917)2,600,0004,42025
大正8(1918)2,300,0005,75025大正8年https://dl.ndl.go.jp/pid/975069/1/111
大正9(1919)2,250,0006,75025大正9年https://dl.ndl.go.jp/pid/975070/1/65

『石川県印刷史』「活字の鋳造販売」が記す小泉寶文堂以前の3社の概況と『金沢市統計書』の記録に基づく推測として、①明治41年までの期間に沓木廣文堂と他1社が活字鋳造販売を手掛けており、②明治42年に新規事業者が参入、③明治43年には「他1社」が金沢の活字鋳造販売市場から退出し、沓木廣文堂と新規参入事業者が金沢の活字需要を支えていた。――そのように言えそうだと思われます。

『大日本商工録 昭和5年版』では、石川県の「活字」製造業者として、沓木廣文堂と小泉發治の名が並べられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1136923/1/1626

商工省編『全国工場通覧』 「昭和9年9月版」https://dl.ndl.go.jp/pid/1212170/1/313や「昭和10年版 機械・瓦斯電気篇」https://dl.ndl.go.jp/pid/1036810/1/44、「昭和11年版」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312075/1/387、「昭和12年版」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312076/1/418、「昭和13年版」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312077/1/441では、沓木廣文堂(代表・沓木晋)と小泉活版製造所(創業明治45年11月、代表・小泉發治)の2社が石川県の活字製造業者として掲げられています。

小泉發治の活版製造所は、いつ頃から金沢で活動を始めていたのでしょうか。

2023年5月13日付の記事「金沢でピンマーク入り活字を鋳造販売していた宝文堂のことを #NDL全文検索 で調べてみて創業期には辿りつけないでいる話」に記した通り、横浜市歴史博物館所蔵小宮山博史文庫の宝文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六号明朝活字書体見本』の表紙見返裏に「新製連続数字発売」という、「金沢市長町四番丁七二番地 岡島活版製造所」名義の広告があり、そこに小泉寶文堂のものと同じ商標㋩マークが示されていることや、他の資料状況から、5月の時点では次のように考えていました。

  • 明治43年、岡島政次が金沢市長町四番丁72に岡島活版製造所を創業
  • 大正5年、岡島政次、屋号を寶文堂活版製造所(寶文堂活版製造販売所)に変更
  • 昭和ヒトケタ、寶文堂活版製造所の代表者が小泉發治に
  • 昭和14年、小泉の逝去に伴い組合が資産(と屋号)を買収し株式会社寶文堂発足
横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵 寶文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六號明朝活字書體見本』表紙見返裏「新製連続数字発売」広告より「㋩岡島活版製造所㋩」」

立野竜一氏から頂戴したコメントの通り、大正5年「岡島活版製造所」名義の活字見本に見える「㋩マーク」は「ハツ」図案である可能性が高い。とすると、明治42年あるいは43年に金沢の活字市場に新規参入した時点で小泉發治が主体となっており、そこから暖簾分けあるいは軒貸しのような形で大正5年に岡島活版が創業されようとしていた、――そのような状況であった可能性もあり得ることでしょう。

岡島初次郎政次の寶文堂と小泉發治の寶文堂

大正15年版の『全国印刷業者名鑑』を見ると、石川県の「活字」商として沓木と小泉の名が掲載されており、金沢市長町四番丁72、小泉發治の寶文堂は創立明治42年https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/285金沢市高岡町薮内423、沓木晋の廣文堂が創立明治10年とありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/284

大正11年版『全国印刷業者名鑑』には両者の名が見えないのですが、代わりに15年版に掲載されていない名が見えています。長町四番丁で活版・石版印刷を手掛ける岡島初次郎の寶文堂ですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/231

少し回り道をします。

明治40年10月28日付『官報』に「北陸印刷株式会社」の設立登記が公告されましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2950646/1/14。曰く「本店金沢市袋町三十番地 支店富山県富山市東四十物町二番地 目的石版活版印刷製本及活字鋳造業 設立明治四十年十月五日」「取締役ノ氏名住所 金沢市袋町三十番地 前田式部、同市味噌蔵町下中丁八番地 藤本純吉、同市青草町二十三番地 松本又吉」「監査役ノ氏名住所 金沢市彦三二番丁三十七番地 宮崎次三郎」。

取締役の前田式部は金沢石版合資会社の主任を務めた人物のようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/995198/1/62、『石川県印刷史』によれば明治25年の段階で前田玉桐堂という印刷所を開設していたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3444797/1/60。銅石版の玉桐堂前田榮次郎https://dl.ndl.go.jp/pid/995197/1/94明治32年に金沢石版合資会社を設立した前田榮次郎https://dl.ndl.go.jp/pid/2948167/1/14と、この前田式部が同一人物なのかどうかを確認できるような資料にはまだ行き当たっていません。

藤本純吉は金沢医学界の重鎮だった人物ですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/735

松本又吉は明治40年7月1日付で設立された金沢自転車株式会社の取締役も務めるなど実業家を志していたようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2950554/1/14明治41年11月14日付『官報』で北陸印刷取締役辞任が公告されhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2950965/1/17明治42年4月9日付で設立された合名会社丸二元市社に出資しhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951099/1/20大正4年には合資会社大二松本運送部を設立して代表社員となっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2952912/1/15

さて、明治42年4月17日付『官報』で富山支店廃止が公告されるなどhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951090/1/17、北陸印刷株式会社の先行きが怪しくなっていく中、明治42年11月30日付『官報』に見られる通り、臨時株主総会による監査役の入れ替えで「金沢市茨木町七番地 岡島初次郎」らが就任していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951282/1/20。テコ入れということだったのでしょうが、明治44年1月24日付『官報』にて「北陸印刷株式会社ハ明治43年9月25日解散セリ」と公告され、清算人の一人として岡島初次郎の名が記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951629/1/20

大正11年『帝国信用録 15版』には、「岡島初次郎」の名が金沢市長町四番丁の活字製造業者として掲載されておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956863/1/881、小泉發治の名は見えませんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956863/1/885大正13年版『帝国信用録 17版』でも「岡島初次郎」の名はありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956865/1/822、小泉發治の名は無しhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956865/1/826

こうして更に新しく見えてきた状況と、立野氏から先日の記事に頂戴したコメントによる、昭和3年『金沢商工人名録』には小泉發治の名が記されているということを総合すると、「ハツ印の寶文堂」は次のような履歴を辿っていたのではないでしょうか。

  • 明治43年、北陸印刷株式会社の清算を終えた岡島初次郎政次が金沢市長町四番丁72に岡島活版製造所を創業(岡島初次郎のハツ印)
  • 大正5年(?)、岡島初次郎政次、屋号を寶文堂活版製造所(寶文堂活版製造販売所)に変更(ハツ印)
  • 大正12年以降昭和3年までの間、寶文堂活版製造所の代表者が小泉發治に(ハツ印)
  • 昭和14年、小泉の逝去に伴い組合が資産(と屋号)を買収し株式会社寶文堂発足(ハツ印)

残念ながら、福井で小品岡印刷に参画していた小泉發治と金沢の寶文堂を引き継いだ小泉發治が同一人物なのか同姓同名の別人なのか、そのあたりを判断する手掛かりは、まだ見つけることが出来ていません。

*1:三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所については、「共同印刷での三谷幸吉「さんづけ」の理由」https://uakira.hateblo.jp/entry/20101230 を経て「三谷幸吉は「おうちょく」バカだったんだろうか」https://uakira.hateblo.jp/entry/20110218 によって判明しています。