日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

『デザイン学研究特集号』30巻2号に「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」という小文を書かせていただきました

2023年11月15日付で日本デザイン学会『デザイン学研究特集号』30巻2号(通巻108号)が発行されました。*1

日本デザイン学会『デザイン学研究特集号』30巻2号(通巻108号)表紙(部分)

副題が「タイポグラフィにおける書体 ―歴史・デザイン・使用の視点から」とされているタイポグラフィ研究の特集号で、次の内容となっています。

  • 巻頭言 伊原久裕「特集テーマ「タイポグラフィにおける書体」について」
  • 歴史
    • 劉賢国「朝鮮王朝版 明朝体活字の誕生(1684-1884)」
    • 孫明遠「聚珍仿宋体の開発、伝播およびその歴史的意味」
    • 内田明「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」
    • 山本政幸「産業革命と19世紀サンセリフ体活字の発達:広告印刷のための書体デザイン」
    • 阿部卓也「書体を生み出す構想力と技術―インディーズ書体の始祖としてのタイポス」
  • デザイン
    • 髙城光「蔡国金文書体の様式と再現」
    • 新海宏枝「ひらがな書体「れんぴつ60」のこと:仮説と検証」
    • 野宮謙吾「既存書体の合成を手法とした漢字書体作成の実験」
    • PUNSONGSERM, Rachapoom「Approach to Design Roman Letterforms Effective in Low Visual Acuity: Prototype of Roman UD Typeface」
  • 使用
    • 舟山貴士「バリアブルフォントの活用事例の調査」
    • 朱心茹「大規模データに基づく欧文書体の使用状況の記述:書体の実用論へ向けて」
    • 楊寧「書体の印象評価にかかる方法論の提案」
    • 伊原久裕「ピクトグラムと文字の組み合わせ―タイポグラフィにおける近年の一傾向」

巻頭言にある通り、『デザイン学研究特集号』30巻2号(通巻108号)は、2010年の特集号「タイポグラフィ研究の現在」(17巻2号 https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jssds/17/2/_contents/-char/ja、2011年の「タイポグラフィの史的研究」(19巻3号 https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jssds/19/3/_contents/-char/ja、そして2016年の「タイポグラフィへの視点」(23巻2号 https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jssds/23/2/_contents/-char/jaに続く、日本デザイン学会タイポグラフィ部会としての通算4回目のタイポグラフィ特集号ということになるそうです。

私は「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」という小文を書かせていただきました。全8ページを次のように細かく刻んでいます。

  1. 近代和文活字の仮名書体史
    1. 近代活字の前史イメージ
    2. 和文活字書体史研究上の大きな課題としての仮名書体史研究
  2. 築地活版製仮名書体の歴史的分析と分類への取り組み
    1. 築地五号の歴史的分析
    2. 和文ルビ活字の歴史的分析
    3. 築地活版製号数活字の仮名書体に関する分類の試み
  3. 「和様」ひらがなと楷書漢字を組み合わせることは不思議あるいは不自然なことだったか
    1. 近世の漢字平仮名交り文に見られる「和様」仮名の存在
    2. 楷書の漢字と「和様」ひらがな交じりのケース
  4. ひらがなを四角の中に押し込めることは近代活字創成期の創意工夫だったか
    1. マス目揃えと放ち書き
    2. いろはの手本と枠内に収められる平仮名の姿
  5. 和文号数活字と19世紀前半の英米系活字サイズの実態と関連性
    1. 号数活字サイズの謎
    2. 和文号数活字サイズの観察
    3. 英米独における活字規格の標準化前夜の状況
  6. 日本における「明朝」「活字」という語の使用は近代活字以前に大きく遡る*2
    1. 日本で活字という言葉はいつごろから使われているか
    2. 印刷文字の書風を指す「明朝」という語の早期使用状況
    3. 英語圏で「Movable Type」に類する言葉はいつごろから使われているか
  7. むすび:19世紀印刷文字史・グローバル活字史という枠組みの必要性

今回の小文は、2010年の『デザイン学研究特集号』17巻2号の小宮山博史和文活字書体史研究の現状と問題点」(https://doi.org/10.11247/jssds.17.2_42)と、小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(2020年、グラフィック社 http://www.graphicsha.co.jp/detail.html?p=42704)を強く意識して書いたものです。

日本で近代和文活字の歴史・活字書体の歴史――とりわけ幕末・維新期を起点とする最初の世代のこと――を記録や調査研究の対象とする人々を、三谷幸吉・川田久長時代、佐藤敬之輔・矢作勝美時代、小宮山博史府川充男時代という具合に整理することができると思います。それぞれの時代に、前代の宿題が解決されたり、新しい課題が見出されたりしながら、近代和文活字の歴史や活字書体の歴史について、従来視界に入っていなかったものが見えてきたり、ぼんやり見えていたものがより高い解像度で理解できるようになってくるイメージです。

ここ20年ほど多種多様な資料を漁って府川充男『聚珍録』(2005年、三省堂https://web.archive.org/web/20160911091957/https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/syuchinroku.html)の隙間をチマチマと埋めていく作業を重ね、私の中で育ってきた観点が、「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」というものになります。

「近代和文活字史から19世紀印刷文字史へ」となる部分は、佐藤敬之輔から小宮山博史へと引き継がれた課題のひとつである和文活字書体の分類や成立事情について、特に「近代和文活字書体」草創期のことを考えていくには「19世紀印刷文字史」とでもいう枠組みで維新以前との連続・不連続を改めて見直す必要があるのではないかという問題意識を示すものです。

「近代和文活字史からグローバル活字史へ」となる部分は、川田久長から小宮山博史へと引き継がれた課題のひとつである欧米発の号数制明朝体活字の成立と日本での展開について、鈴木広光*3や、蘇精氏*4、Michela Bussotti・Isabelle Landry-Deron両氏*5などによる、欧米での漢字活字開発そのものの歴史を掘り下げることの他にも、まだまだ掘り拡げて考えるべき点がありそうだという問題意識の発露です。

非常に大きなテーマを8ページで圧縮展開した結果、伝わるものも伝わらなくなっているのではないかという懸念はあるのですが、図書館等でアクセス可能な方、ぜひとも御高覧いただき、御批判と御批正を賜りますようお願い申し上げます*6*7


以前『ユリイカ』2020年2月号に書かせていていただいた「近代日本語活字・書体史研究上の話題」(注釈リンク集:https://uakira.hateblo.jp/entry/2020/01/27/000000)は、特に活字・書体史研究の「方法について」書き残しておきたいと思ったものでした。併せてご覧いただければ幸いです。

*1:通例では次の号が発行されたら https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jssds/_pubinfo/-char/ja でオープンアクセス化されるのですが、2023年12月にオープンアクセス化されました。

*2:「日本における「明朝」「活字」という語の使用は近代活字以前に大きく遡る」の項は、上海美術学院から近刊予定の論文集に寄稿した「日本で活字という言葉はいつごろから使われているか、またそれはMovable Typeの訳語なのかどうか」という小文をダイジェストしたものになっています。昨年Facebookで公開した日本語原稿のURIを参考に掲げてあるのですが、印刷されたURI文字列をたどるのがしんどいので、ここにリンクを貼っておきます:https://www.facebook.com/uakira2/posts/pfbid0KNPk7yAvrGciWKauur8dZZFFhP6ZbQamBqCzgJJ2z4vCRAi4pThKZNLV8VnfQphwl。冒頭に2023年刊行予定と記しましたが、2024年以降の模様です。併せてご高覧いただければ幸いです。

*3:鈴木広光「ヨーロッパ人による漢字活字の開発―その歴史と背景」(印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』所収、2000年、柏書房)、②『日本語活字印刷史』(2015年、名古屋大学出版会 https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0795-5.html)等

*4:①蘇精(Su, Ching)「The printing presses of the London Missionary Society among the Chinese 」(1996年、UCL https://discovery.ucl.ac.uk/id/eprint/1317522/)、②「美華書館二号(ベルリン)活字の起源と発展」(『書物学』15巻所収、2019年、勉誠出版 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101002、③「ウィリアムズと日本語活字」(『活字 近代日本を支えた小さな巨人たち』展覧会図録所収、2022年、横浜市歴史博物館https://yokohamahistory.shop-pro.jp/?pid=171817733)等

*5:Bussotti = Landry-Deron「国立印刷局の漢字木活字(Printing Chinese Characters, Engraving Chinese Types: Wooden Chinese Movable Type at the Imprimerie Nationale (1715-1819)」https://uakira.hateblo.jp/entry/2020/07/12/172904

*6:繰り返しになりますが、掲載誌『デザイン学研究特集号』30巻2号は、次の号が発行されたら https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jssds/_pubinfo/-char/ja でオープンアクセス化されます

*7:12月17日追記:2023年12月にオープンアクセス化されました。

明治10年代に日本で活字になっていた絵文字「👁」(メコマ)のことと「☞」(index/manicule)のこと

さて、1880-90年代に日本で発行された活字見本帳に掲載されている絵文字の類――emojiなのかsymbolなのかpictographなのか厳密な線引きは考えないことにします――に、「👁」(メコマ)と「☞」(index/manicule)がありました。

「☞」は『明治十五年第七月改正 西洋文字各種類見本』(1882年、東京築地貮丁目拾七番地 築地活版製造所、印刷図書館蔵)に掲載されている、海外製活字の複製品または倣製品なのではないかと思われるMINION (Roman)活字セットの見本に含まれています。

築地活版製造所『西洋文字各種類見本』(1882、印刷図書館蔵)よりMINION (Roman)

明治36年に内国博覧会名誉銀杯を記念して発行された『活版見本』(1903年、東京築地活版製造所、国会図書館デジタルコレクション)では、活字としてのINDEX(https://dl.ndl.go.jp/pid/854017/1/146)の他、精細なイラストがelectrotype(電気版)として多数掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/854017/1/186)。

実用例として、広告類に電気版が使われているもの以外、日本語テキストと同時にINDEX活字が使われているものは、今ちょっと思い浮かべることができません。実用例が思い浮かぶ方、ぜひお教えください。

「👁」は、mashabow氏がflickrで公開してくださっている『二號明朝活字書體見本 全』1893年、東京築地活版製造所、https://www.flickr.com/photos/95996414@N02/albums/72157662791750695の「印物」(https://www.flickr.com/photos/95996414@N02/23854153892/in/album-72157662791750695/)や、明治27年6月改正『五號明朝活字書體見本 全』の「印物」(1894年、東京築地活版製造所、現在横浜市歴史博物館小宮山文庫蔵、大日本スクリーン製造のウェブサイト「タイポグラフィの世界」での小宮山博史「書体の復刻/築地体前期五号仮名」〈https://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography/05typo/05_6typo.html〉の図9の3〈https://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography/05typo/05typo_img/093.jpg〉)に見えています。後者の活字見本で「👁」に「メコマ」とフリガナが付されているので、その呼び名を採っておきました。

実用例として印象に残っているものに、後に江川活版製造所を興す江川次之進が明治18年に出していた新聞広告で「新発明」を二号活字で「新発👁」と表現しているものhttps://uakira.hateblo.jp/entries/2012/04/23の他、ブックデザイナの祖父江慎さんが2016年に紹介していらしたhttps://twitter.com/sobsin/status/776780980866592769明治16年『妙竹林話(みょうちくりんわ)七偏人(しちへんじん)』序文(#ndldigital https://dl.ndl.go.jp/pid/882517/1/4における四号活字の例(お目出とう〈旧かなづかいで「お目出たう」〉を「お👁出たう」と記したもの)があります。

明治18年11月4日付『時事新報』掲載広告(時事新報の「報」の直下に「新発👁印刷器械」)

より古い時代の判じ絵(rebus)の頃から生き続けていた「👁」が、いつごろ活字セットから消えていったのか(あるいは生き延びていたのか)は、判りません。

野球活字(⚾ baseball type)誕生の状況を知りたい話

野球の活字(⚾ baseball type)についてお尋ねの件、返信お待たせしてすみません。
いつ、どのtypefounderが日本のbaseball typeの創始者であるかについて、残念ながら私は全く存じません。

お調べになった範囲で最古の用例とお教えいただいた『野球界』(43巻3号、1953年2月、博友社)の前後で、参考になりそうな情報を幾つか。メールに短かく記すのが難しいことと、更なる情報提供を求めたいことから、ブログ記事として公開させていただきます。

Until 1940's

日本では、1945年以前に作られた活字のほとんど全てが、原寸で彫刻された「種字」からelectrotypingによって作成したmatrix(電胎母型)を用いて鋳造されていました。
往時の日本で最大手のtypefounderだった東京築地活版製造所や秀英舎(後の大日本印刷)が発行していた本文サイズ活字の総数見本(Type specimen book : list of all character)を参照してみましたが、baseball typeは作られていなかったようです。

同じく大手typefounderだった森川龍文堂の活字総合見本帳(Type specimen book : sample of typeface (some with order sheets))にも見当たりませんでした。

  • 森川龍文堂『龍文堂活字清鑒 邦文書体の標本』(1935年、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵):「約物類」として掲げられている573種の全角記号類(囲み数字など含む)に野球活字(⚾ baseball type)は含まれていない。

After 1950's

1950年頃から、様々なtypefounderが、Bentonなどを用いて作成したmachine engraving matrix(機械彫刻母型)によって活字を鋳造するようになっていきます。
この時期の主要なtypefounderに、岩田母型製造所、モトヤ、日本活字工業があります。また雑誌や書籍などの印刷を数多く手がけていた大日本印刷凸版印刷などのprinting houseも、自社で用いる活字を独自に開発しつつありました。
各社の活字総合見本帳(Type specimen book : sample of typeface (some with order sheets))を確認してみたところ、次のような状況でした。

  • 岩田母型製造所『活字母型書体標本』(1955年、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵*1:「記号約物の一例」として1488種の全角記号類(囲み数字など含む)が掲げられているが(91-96頁)、その中に野球活字(⚾ baseball type)は含まれていない。
  • モトヤ商店『書体』(推定1957年、筆者蔵):「記号 約物 脚注」リストに1229種の全角記号類(囲み数字など含む)が掲げられていて、その中の15番として野球活字(⚾ baseball type)が掲載されている(103頁、下図参照)。
  • 日本活字工業『NTF活字書体』(1963年、筆者蔵):「各種記号・約物」リストに740種の全角記号類(囲み数字など除く)が掲げられていて、その中の255番として野球活字(⚾ baseball type)が掲載されている(118頁、下図参照)。
モトヤ商店『書体』103頁
モトヤ商店『書体』103頁より記号15番(野球活字⚾)
日本活字工業『NTF書体』118頁
日本活字工業『NTF書体』118頁より記号235番(野球活字⚾)

Phototypesetting

調査対象を1950年代の出来事に限定してよいのであれば、雑誌等の本文活字について、Phototypesetting(写真植字)は使われていないものと考えて良いと思います。

FYI:


*1:小宮山文庫目録(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/index.php?cID=5256)では資料「A-イ1-4」の標題が「活字母型書体標目」となっているが「書体標本」が正しい:株式会社イワタ「100周年記念ページ」(https://iwatafont.co.jp/100th/index.html

大宅壮一文庫の検索語(人名・フリーワード)としては見つからなかった3人

2023年7月18日付の「Web大宅壮一文庫」大規模リニューアルを記念して、ワンコインで検索し放題!という特別サービスが12月25日までの半年間限定で始まっています(検索し放題期間はID・PW発給から2日後の24時まで https://www.oya-bunko.or.jp/tabid/991/Default.aspx)。

"没年調査ソン"(https://current.ndl.go.jp/ca1939)的な観点から、直近の話題では次の3名を調べておきたいところ。

調査前のヤマ勘では、青山督太郎の逝去を伝える雑誌記事の類は見つかりそうで、渡邊松菊齋の情報も何かは引っかかりそう、富永庄太郎は可能性が低い――と見立てています。

さて、そんなわけで入手した「ワンコインお試し索引検索」ID・パスワードを用いて早速3名を検索してみたところ。

何と!

3人とも引っ掛かりませんでした!

残念!


青山督太郎(容三)の没年については、大手紙の地方版が検索可能になるのを待つか、偶然の出会いに期待するか、――実現可能性が高いのは、どういう手段でしょう。さて。

大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)

シンプルなⒶマークの商標

青山進行堂は、大正7年京阪神商工録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/956917/1/213)や大正11年『全国印刷業者名鑑 1922』(https://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/3)に見られるように「子持ち罫の二重輪にA」となるⒶマークを商標としていました。

青山進行堂の概要については、島屋政一『印刷文明史』第4巻「青山進行堂の創業 活版製造業者として一大飛躍」が初代青山安吉による創業前夜の状況から二代督太郎による業容進展までを丁寧に描いています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1821992/1/210)。ただし1932年刊行なので当然その後の状況は掲載されていませんし、各支店の開設時期についても明示されておりません。また『印刷文明史』とは違った意味で詳細な情報となる就業規則に類する内容を『全国工場鉱業総纜 昭和6年版』が掲載しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234522/1/402)。

さて。少し前に青山進行堂の多様なピンマーク入り活字を入手していたので、横浜市歴史博物館2022年度企画展「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/)の展示用に貸し出しさせていただきました。名刺用紙への印刷は、せんだいメディアテーク活版印刷研究会によるものです。

Ⓐのピンマーク入り二号古典体活字

青山進行堂のピンマーク入り二号古典体活字(斜め方向)
青山進行堂のピンマーク入り二号古典体活字(ピンマーク正面)

おそらく青山進行堂が開発した活字書体です。『富多無可思』の二号年賀用活字の中に、「南海堂古典」「南海堂篆書」と並んで「古典」という名で掲載されています(145頁)。

「OSAKA Ⓐ AOYAMA」「○青」「AOYAMA 青 OSAKA」ピンマーク入り一号ラウンドゴチック形または篆書ゴチック形あるいは丸型活字

青山進行堂のピンマーク入り一号ラウンドゴチック形または篆書ゴチック形あるいは丸型活字(斜め方向)
青山進行堂のピンマーク入り一号ラウンドゴチック形または篆書ゴチック形あるいは丸型活字(ピンマーク正面)

おそらく青山進行堂が開発した活字書体です。「新」の字は『富多無可思』の一号年賀用活字の中に「ラウンドゴチック色版形」という名で掲載されているもの(141頁)に見えますが、「賀正年」は大正年間に新発売となった「篆書ゴチック」あるいは細野活版製造所『青山進行堂製品常備販売品見本』(印刷図書館蔵本の影印:『聚珍録』第二篇356-357頁)に「丸型活字」という名で掲載されているものと思われます*1

「青Ⓐ活」「大Ⓐ阪 青山進行堂」ピンマーク入り初号雪形活字

青山進行堂のピンマーク入り初号雪形活字(斜め方向)
青山進行堂のピンマーク入り初号雪形活字(ピンマーク正面)

東京築地活版製造所『活版見本』に見られるように(https://dl.ndl.go.jp/pid/854017/1/20)、明治後半に盛んに作られた飾り書体のひとつです。『日本印刷界』61号(1914年11月)掲載の青山進行堂活字見本(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517480/1/11)に倣って初号雪形としておきます。

青山進行堂の各支店について

下関支店・青山新

『日本印刷界』85号(1916年11月)裏表紙に、青山進行堂が下関に「支店開設」という広告が掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517504/1/76)。「山陽九州、朝鮮、台湾方面より続々御注文被仰越尚日々増加の傾向有」のため「今般下関市仲之町に販売部を開設仕り」、「同販売部へは青山新治を主任として差向け一切の業務を処理」と書かれているのですが、この青山新治というのは『人事興信録 5版』「青山安吉」の項で「長女ミツ(明二五、八生)は其夫新治(同二三、九生、兵庫、平、鹽津松太郎三男)と共に分家し」と書かれ(https://dl.ndl.go.jp/pid/1704046/1/1084)、また『全日本業界人物大成 乾巻』「青山容三」の項に「義兄は下関支店を経営す」とある人物に該当します(https://dl.ndl.go.jp/pid/1276653/1/98)。

1923年3月16日付『官報』によると、青山新治(下関市大字中之町一三四番地ノ一)が中之町一三四番地ノ一に営業所を置く「下関活版製造所」と「関門活版製造所」という2つの商号を大正11年12月25日付で同時に新設登記しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2955308/1/12)。

山新治の名は、昭和19年『日本紳士録 第47版』に下関市赤間の活字製造業として掲載されて以降は見かけません(https://dl.ndl.go.jp/pid/3034983/1/624)。

京都支店(元・中安活字製造所)

昭和2年に発行された『工業年鑑 昭和3年(下)』には大阪本社と下関支店しか記載がなく(https://dl.ndl.go.jp/pid/1171965/1/588)、1929年3月7日付『官報』掲載の広告には大阪本社と京都支店、下関支店(および名古屋代理店の盛功合資会社)が記載されていることから(https://dl.ndl.go.jp/pid/2957120/1/17)、昭和3年か4年に京都支店が開設されたものと思われました。この状況を踏まえてNDL遠隔複写を依頼した『印刷雑誌』12巻1号(1929年1月)掲載広告に、「昭和4年1月16日」のこととして次のように記されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341056/1/12)。

今回
京都市西洞院佛光寺南入(西佛光寺停留所前)中安活字製造所主の献身的店舗の提供を相受け京都支店として本日より開業御得意各位様の層一層の御利便相図る事と相成候間何卒御同情を以て御引立陸続御注文仰付被下度願上候

昭和9年『財界二千五百人集』の青山容三の項では「昭和三年一月京都市に支店を開設し義兄の経営する下関支店を相提携呼応して」云々と書かれていますが(https://dl.ndl.go.jp/pid/1447438/1/121)京都支店開設は昭和4年1月が正しいのではないかと思います。

同じ『印刷雑誌』12巻1号の雑報欄「中安ケース専門製造所」は、次のような記事でした(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341056/1/111)。

京都市西洞院佛光寺南入、中安活字製造所は多年、店主中村博一氏が経営し、多忙を極め居たが、今回同店を青山進行堂に譲渡し同堂の京都支店となすに就き、中安氏は同氏の特許なる都式活字ケースを専門製造発売すべく、既に京都市外、下嵯峨に工場準備中であると。

なお、中安活字製造でNDL全文検索を試みると、中村博一ではなく中村文次郎が多年経営に携わっていたらしく見えました。

『日本印刷界』99号(1918年1月)の雑報欄に、大正6年度の京都印刷業組合新規加入者として押小路通堺町東入ルの鉛版業中村文次郎の名が見えます(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517518/1/80)。文次郎は、当初は中安または中安製版所という商号で活動していたようで(中安:『京都商工人名録 大正11年改版』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/950472/1/125〉、中安製版所:『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/920891/1/130〉)、『帝国信用録 19版(大正15年)』によると大正2年創業だったようで(https://dl.ndl.go.jp/pid/1017499/1/433)、大正末頃に「都ケース」という活字棚を考案した頃に商号を中安活字製造所と改めたようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/196)。

名古屋支店(旧・青山進行堂名古屋代理店盛功合資会社

『印刷美術年鑑 昭和11年版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/230)や『印刷雑誌』20巻1号(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341151/1/77)あたりまでは「大阪青山進行堂名古屋代理店」を名乗っていた名古屋市東区西魚町三丁目の盛功合資会社が、住所と電話番号をそのままに『日本印刷大観』(1938)あたりから「青山進行堂名古屋支店」と名乗るようになっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1707316/1/100)。

京城支店

開業・廃業等の詳細は判りません。

青山容三こと青山督太郎について

青山進行堂創業者の青山安吉については、生没年ともに記録されています。二代目社長となった青山督太郎については、愛書趣味者としての著作物を残しているにもかかわらず、2023年5月時点ではコトバンクにもNDL典拠情報にも立項されていません。少し情報を拾い出しておきたいと思います。

『印刷文明史』では創業者安吉の長男の名が容三と記されていますが、天野敬太郎『本邦書誌ノ書誌』には「青山容三(旧名:督太郎 活版製造業;愛書家)」と書かれ(https://dl.ndl.go.jp/pid/1784952/1/170)、また昭和7年『全日本業界人物大成 乾巻』「青山容三」の項に「本名を青山督太郎と称す容三は通称なり大阪府人青山安吉の長男にして明治三十一年三月を以て生れ大正十五年家督を相続す」書かれています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1276653/1/98)。NDL全文検索で見つかる範囲では、『全日本業界人物大成 乾巻』が家族関係も含めて最も情報量が豊富です。

青山容三こと青山督太郎は、斎藤昌三と共に雑誌『愛書趣味』を刊行した自称「書物狂」でした(https://dl.ndl.go.jp/pid/1498129/1/7*2

大正10年『人事興信録 6版』青山安吉の項に、督太郎の妻夏子の名があり(https://dl.ndl.go.jp/pid/1704027/1/963)、大正7年『人事興信録 5版』には夏子の記載がありません(https://dl.ndl.go.jp/pid/1704046/1/1084)。『日本印刷界』111号(1919年1月)の雑報欄「兎の耳」に「青山進行堂の若ボン督さんは近い内に花嫁さんが来るとかでホク〳〵して居る」と書かれているので(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517530/1/49)、督太郎は大正8年早々に結婚したのでしょう。

事業継承後、京都と名古屋の活字業者を青山進行堂グループの支店として傘下に収めるなど家業を発展させた督太郎ですが、第二次『印刷雑誌』25巻10号(1942年10月)雑報欄の「印刷博物館に鋳造機寄贈―青山容三氏の美挙―」冒頭には、「さきに先代以来の暖簾を抛って廃業を声明し、そのと通り実行して業界に惜しまれてゐる大阪青山進行堂主青山容三氏は、残る京都の店舗も廃業して全く業界と縁を断った」と書かれています(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341215/1/44)。

古門正夫「終戦以後現代活字業界」(『大阪印刷百年史』1984)によると、督太郎は1946年2月に「古門正夫の協力を得て種字の調達をし、まず母型の製造を開始する」こととなったようなのですが、他社の動向はその後も描かれるのに、青山の活動が見えません。どうやら再開した事業を軌道に乗せるまでに至らず、再び業界を去ってしまったようです。

片塩二朗「この一冊の書物から 其の九」(『印刷情報』2000年11月号)に、青山進行堂の概要について「二代容三こと青山督太郎(一八九九―一九七七)が屈折した性格だったようで、活字人としてよりもむしろ月刊誌『愛書趣味』の編集発行人としての資料のほうがおおくみられます。ですから同社の資料はあまりにも不足しているとしか報告できないのが実情です」と書かれています。現時点で私が目にした生没年情報は、この記事のみになります。

督太郎が1970年代後半に亡くなったのは間違いないようで、『日本古書通信』423号(昭和54年78月号)の「古本屋一筋に六十五年(下) 高尾書店 高尾彦四郎氏に聞く」で大阪の愛書家への言及を始めた聞き手の八木福次郎が「青山さんとかね」と話を振ったところに「そうです。青山督太郎さんはごく最近なくなられました」と応えています(6頁3段目)。督太郎が蒐集していた「ちょうど車に一台、社会物と軟派ものと両方まぜて収集してあった」という発禁本が太平洋戦争中に全部没収されたことに触れ、八木「青山さんはだいだい活字屋さんでしょう」。高尾「日本一の活字屋だったんです」。八木「青山はんもその本が残っていたら気楽に世の中わたれたんですけどなぁ、晩年はちょっと困って、逝くなりはりましたけど」。という同書7頁1段目から2段目の会話に繋がっています。

督太郎晩年の状況については片塩「この一冊の書物から 其の十三」(『印刷情報』2001年3月号)に1950年代以降の歩みとして「このころから督太郎は活字界から遠ざかり、デザインスタジオや写真の現像所をほそぼそと経営したようです」と書き留められています。

没年の情報を第三者がNDL典拠情報に提供する場合、著作権継承者からのヒアリングであれば「家族回答」を典拠とできるが(https://uakira.hateblo.jp/entry/2021/12/24/195936)、そうでない場合は「(ある程度客観的な形で)書かれた典拠資料」が必要だと承知しているので(https://uakira.hateblo.jp/entry/20141209)、引き続き新聞記事等の資料を探していきたいと思っています。もし青山督太郎の訃報を掲げた印刷・出版物をご存じの方がいらしたら、ご教示ください。

*1:『聚珍録』には「ここに示される「丸型」なるものが青山進行堂が創製したと言われる「篆書ゴシック」と同じものなのか否かはよく分からない」とあります〔第二篇521頁〕。

*2:『『国貞』裁判・始末』(1979)「『相対』『千摺考』『腕くらべ』」の斎藤昌三に言及した箇所で、坂本篤が「大正時代に青山督太郎という大阪の活字屋さんがいて、唯一の道楽が本道楽でね。この人が、斎藤さんを大きくするのにずいぶん役立ってますよ。雑誌『愛書趣味』の無代頒布など青山さんなくてはできないことだった。」と語っています〔66頁〕。八木福次郎『古本便利帖』(1991)「発禁本・児玉花外の『社会主義詩集』」中にある「高尾彦四郎氏から聞いた話」でも「大阪の愛書家で、大きな活字屋をやっていた青山督太郎という人がよく店へみえていて」という表現〔86頁〕。これに対して現在ウェブで「青山督太郎」を検索した時に多数リターンされてくる『小雨荘書物随筆』の「刊行当時の著者データ」とされる同書巻末の斎藤昌三略歴に「大正十四年、活字問屋の青山督太郎と雑誌「愛書趣味」を刊行」とあるのですが、「活字問屋」という表現の由来は督太郎がどこかに書いたものかどうか。ご存じの方がいらしたらお教えください。

このピンマークは「齧られ丸にK」の開正舎活版製造所なのか「凹み丸にK」の啓文社なのか

問題の活字とピンマーク

過日、〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き一号花形活字を入手していました。

〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き一号花形活字(斜め方向)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き一号花形活字(ピンマーク正面)

先日、〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字を入手しました。

〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その1(斜め方向)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その1(ピンマーク正面)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その2(斜め方向)
〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉のピンマーク付き初号和文活字その2(ピンマーク正面)

例によって『全国印刷業者名鑑』の大正11年版や15年版などを眺めて、活字の製造販売を行っていたらしい事業者の商標から〈「外輪の一部を窪ませた形になった丸」にK〉マークに該当しそうなところを2つ拾い出しています。ひとつは東京・横浜の開正舎活版で、もうひとつは大阪・岐阜の啓文社活版です。このⓀは、どちらなのでしょう。

開正舎活版製造所の商標(暫定呼称「齧られ丸にK」)

『全国印刷業者名鑑』大正11年版55コマ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970397/55
『全国印刷業大観 大正16年度』14コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/14

冒頭の欧文花形活字は横浜からの出物として入手したものです。『全国印刷業者名鑑』大正11年版掲載広告で取り扱い品目として「欧文花形」があり、また「横浜市梅ケ枝町三七」に出張所があると書かれているので、これは開正舎活版製造所で決まりでしょうか。

東京・横浜の開正舎活版製造所が『全国印刷業者名鑑』大正11年版に掲載した広告に取り扱い品目として「欧文花形」がありますから、冒頭の欧文花形活字は開正舎活版製と言いたいところですが、関西・中京圏からの出物として入手したものです。

啓文社の商標(暫定呼称「凹み丸にK」(上段)・「分銅型にK」(下段))

『印刷時報』172号(1940)79コマ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1499108/79 掲出のものを模写
大日本帝国商工信用録 37版 大阪府之巻』(大正12)185コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/945934/1/185

初号和文活字関西・中京圏からの出物として入手したものです。こちらは欧文花形活字も、初号和文活字も、どちらも啓文社ということになるでしょうか。

開正舎活版の略歴

石版印刷から出発した木村時代の開正舎

NDL全文検索にて大元をたどると、大正元年11月28日付で京橋区南鍛冶町の木村理郎を代表(無限責任社員)とする合資会社開正舎として設立されていたようです(1912年12月4日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2952202/1/14〉)。この時の有限責任社員木村健吉、木村アヤ、木村サメの3名でした。合資会社開正舎の創業社長である木村理郎は、元々は石版印刷の資器材を扱う杜陵堂を営んでおり(https://dl.ndl.go.jp/pid/1081956/1/34)、第4回内国博覧会への出品履歴もあるなど(https://dl.ndl.go.jp/pid/801934/1/18)、創業社員の木村健吉ともども(https://dl.ndl.go.jp/pid/854011/1/10)、明治20年代から印刷業界で活躍した人物だったようです。

『日本印刷界』60号(1914年10月)掲載広告などを見ると、活字を含め印刷機や活字ケース、「活字鋳型」、インク等の活版印刷資器材と、石版印刷資器材も一通り商っていたことが判ります(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517479/1/8)。また『日本印刷界』83号(1916年9月)掲載広告中の「中古活字及整版諸器具」という項に「昨年十一月来ヨリ新活字製造販売致シ居候」「但古活字現場売ルコトアリ」と記されていて(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517502/1/73)、大正4-5年頃まではまだまだ中古活字の売買に需要があったらしいことが伺えます。この合資会社開正舎については、1919年4月30日付『官報』に、創設社員の木村アヤの死亡(大正7年6月23日付)と総社員の同意による解散(大正8年2月7日付)が公告されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2954134/1/14)。

鈴木省二郎が引き継いだ二代目開正舎

株式会社開正舎活版製造所は大正8年12月27日に設立されています(東京市京橋区桶町二十七番地、1920年5月3日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2954436/1/19〉)。取締役は京橋区桶町の鈴木省二郎、京橋区南鍛冶町の木村理郎、麻布区新堀町の船越洵、監査役京橋区南水谷町の木村健吉、京橋区越前堀一丁目の小橋三之助。

『全国工場通覧 昭和7年7月版』では開正舎鈴木商店という表記で(https://dl.ndl.go.jp/pid/1212137/1/240)、昭和16年『大日本商工録 全国版 第23版』にも開正舎鈴木省二郎として商標掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1034023/1/118)。

『職業別信用調査録』(大正14年)によると鈴木省二郎は明治27年岩手県岩手郡本宮村生で(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020824/1/354)、また『大衆人事録』第10版(昭和9年)には「大正九年独立開業ス」とあります(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312057/1/839)。『日本印刷界』117号(大正8年7月)の雑報欄に「鈴木省二郎氏の開業」という記事があり「久しく印刷用インキの販売に従事しつゝありし同氏は東京市神田区錦町一丁目十二番地に店舗を設け独立開業せり諸印刷インキの外材料の販売をもなす由」と書かれているので(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517536/1/62)、おそらく鈴木商店としての独立開業は大正8年(1919)夏で、木村家が解散した旧開正舎の商号等を引き継ぎつつ鈴木を代表とする株式会社開正舎活版製造所として再編創業するのが大正8年末ということなのでしょう。

啓文社の略歴

出版と印刷・活字製造の啓文社

『会社信用録 第5回(昭和18年度版)』によると代表者は村田憲治で出版と活字製造を行う事業者とされています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1069894/1/38)。元々は岐阜に出版を行う本社を持ち、大阪に印刷等を手がける工場を出していたということになるのでしょうか(大正11年鳥取県教育法規』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/912830/1/461/大正15年『三重県令規類纂』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/923981/1/566)。

岐阜県本巣郡北方町にて「各種出版物ノ発行及調度品製造販売」を目的とする株式会社啓文社は、飯尾富治郎を代表取締役として大正2年12月5日付で設立(同17日登記)され(1913年12月23日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2952522/1/20)、後に「各種出版物ノ発行及活版製造売買其ノ他之ニ付随する営業ヲ為ス」を目的とするように登記事項変更(大正8年9月10日登記)が行われています(1919年11月7日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2954291/1/19)。

印刷と活字製造の啓文社(啓文社工場・啓文社活版製造所)

梶原謙吉を印刷工場主とする大阪の啓文社は(明治33年『青年文学時文断片』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/904047/1/107)、『工場通覧 2冊 明治42年12月末日現在』では明治29年創業とされています(https://dl.ndl.go.jp/pid/802718/1/490)。『帝国信用録 10版(大正6年)』は明治16年創業説で(https://dl.ndl.go.jp/pid/956862/1/274)、活字製造業として梶原謙吉の「梶原工場」を掲げる『大阪府下組合会社銀行市場工場実業団体一覧』は明治10年創業説となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/958689/1/214)。

大阪の「啓文社活版製造所」として大正ヒトケタの頃の『日本印刷界』へ盛んに出していた広告には商標が見当たらず(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517481/1/2)、「啓文社工場」として昭和10年代の『印刷時報』へ出していた広告に「凹み丸にK」型の商標が使われています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1499109/1/38)。

先ほどの『大阪府下組合会社銀行市場工場実業団体一覧』と同じく梶原謙吉を取締役社長とする「出版業・活字製造販売・印刷機械材料販売」の株式会社啓文社(大阪市南区)を明治10年設立とする『大日本帝国商工信用録 37版 大阪府之巻』(大正12)では、商標が「両側から齧られた丸」つまり分銅型で囲われたKの字になっています( https://dl.ndl.go.jp/pid/945934/1/185)。時期的な違いということでしょうか、作図の誤りなのでしょうか。はてさて。

なお、当初岐阜の株式会社啓文社の登記に見えていなかった大阪の梶原謙吉は、1920年1月7日付『官報』の公告から岐阜啓文社取締役の一員として掲載されているのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/2954338/1/17)、『帝国銀行会社要録 : 附・職員録 大正4年(第4版)』の段階で既に社員(取締役)ではなく「大株主」として名を連ねているので(https://dl.ndl.go.jp/pid/974396/1/586)、比較的早い時期から出資はしていたものかと思われます。

初代と思われる梶原猪之松のこと

この大阪の啓文社と岐阜の啓文社をつないだのは、初代ということになるのであろう梶原猪之松でした。愛媛出身で明治10年代から印刷・出版に携わっていた猪之松は(『官令全書 明治一五年之部』奥付:https://dl.ndl.go.jp/pid/787231/1/327)、明治18年『国民必携法律規則全書 下巻』刊行時には岐阜県下美濃に寄留する出版人として名古屋と東京の啓文社支局から同書を発兌しており(https://dl.ndl.go.jp/pid/787927/1/392)、それから明治20年三重県令達全書 続編』(https://dl.ndl.go.jp/pid/788792/1/416)や明治21年岐阜県令達類聚目録』(https://dl.ndl.go.jp/pid/788381/1/294)発行に至るまでの間に大阪で根を張ることとなったようです。

大阪で活版製造業兼印刷業を営む啓文社は明治20年代から30年代のどこかのタイミングで梶原猪之松・梶原ハルから梶原小六郎へと引き継がれたようです(明治32年『大日本商工名鑑』https://dl.ndl.go.jp/pid/779844/1/379:/明治35年『日本紳士録 第8版』:https://dl.ndl.go.jp/pid/780097/1/440)。

情報求む

残念ながら、現在の国会図書館デジタルコレクションでは明確な答えを得るまでには至りませんでした。暫定的に、欧文花形活字の方を東京・横浜の開正舎活版製、和文初号活字の方を大阪・岐阜の啓文社活版製とみておこうと思います。何か手がかりをご存じの方がいらしたら、ぜひご教示ください。



2023/07/09追記:
記事の投稿後に活字収納箱のメモを見直したところ、欧文花形活字の入手先が和文初号活字と同じ関西・中京圏だったことに気がついたため、一部を訂正しました。

シンプルなⓀピンマークの活字が戸田活版のものなのか共進堂活版のものなのか #NDL全文検索 では確定できず情報求む

シンプルなⓀピンマークの活字

先日、シンプルなⓀピンマーク入りの活字を入手しました。

Ⓚピンマーク入り初号活字(斜め方向)
Ⓚピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面)

以前から『全国印刷業者名鑑』の大正11年版や15年版などを眺めて活字の製造販売を行っていたらしい事業者の商標を眺めていて、Ⓚに該当しそうなところを2つ拾い出していました。このⓀは、どちらなのでしょう。

1. 明勝堂・戸田活版製造所(東京)

大正11年『全国印刷業者名鑑 1922』へ「明勝堂 戸田活版製造所」が出している広告に、子持ち罫の二重輪に太めのセリフ書体でKと記したⓀの商標が大きく掲げられているのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/70)、「K」の由来は何なのでしょう。

大正6年『東京工場要覧』によると戸田活版製造所は戸田喜三郎が創業したものらしく(https://dl.ndl.go.jp/pid/955427/1/226)、戸田喜三郎で検索すると大正10年刊『世界之日本』に喜三郎の略伝が掲載されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/946122/1/377)。『昭和大典記念 自治業界発達誌』にも更に簡略な紹介があり(https://dl.ndl.go.jp/pid/1265253/1/1163)、総合すると明治35年6月に日本橋区久松町にて明勝堂という屋号で活字商売を始めた模様です。

明治44年発行の『東京印刷同業組合名鑑並ニ材料商名鑑』には日本橋区久松町三五の明勝堂戸田喜三郎と掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/901310/1/32)。略伝に明治45年に現在地へ移転し工場を建てたとある通り、『紙数早見表』に出稿された広告には新築したばかりの店舗写真が掲載され、「KTODA Ⓚ 明勝堂 戸田活版製造所」という看板が掲げられている様を見ることができます(https://dl.ndl.go.jp/pid/853897/1/2)。

「K」は喜三郎の頭文字 (イニシャル)Kですね。

昭和16年の『東京市商工名鑑 第8回』では代表者名が戸田栄一になっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312616/1/349)。この戸田栄一は、昭和30年の『日本印刷人名鑑』によると昭和2年2月11日創業「株式会社戸田活字」の社長とされているのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/204)、家庭欄に「父喜三郎氏(八十五才)」とあるので往時戸田活版製造所と称していた事業を引き継いだことに間違いないでしょう。

2. 小菅共進堂あるいは共進堂活版製造所(名古屋)

大正15年『全国印刷業者名鑑 1926』へ名古屋市東区東本重町四丁目の「小菅共進堂」が出している広告に、子持ち罫の二重輪に太めのセリフ書体でKと記したⓀの商標が大きく掲げられてます(https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/279)。「K」の由来は小菅でしょうか。

昭和5年『印刷材料品仕入案内 1930 関西版』に名古屋市東区東本重町四丁目の「共進堂活版製造所」が出している広告では、マークが子持ちでない輪にセリフ書体でKと記したⓀになっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1055936/1/61)。

昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』には名古屋市東区東本重町四丁目の「共進堂活版製造所」が創業明治41年として広告を出していて、広告中には代表者名も商標も出ていませんが(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/188)、事業者一覧には小菅金次郎という名前が掲げてあります(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/191)。

『日本印刷界』93号(1917年7月)に(おそらく島屋政一が記した)「中京印象記」という記事があり、後半に小菅金次郎を含む中京印刷業界人の寸評が記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517512/1/37)。曰く:

活字鋳造販売を以て名声ある小菅金次郎氏は腕一本で今日の成功をかち得た人、約十年に渡る苦心は一方ならぬ骨折で夫人内助の功も大に與って力がある、氏は俳名里廼家窓月と号して俳壇の宗匠である。

「K」は小菅でもあり金次郎でもある、ということでしょうか。

暫定的な結論

当面は、関西圏から入手したものという理由から共進堂活版製造所で鋳造された活字と考えておくことにしたいと思います。関連情報をご存じの方がいらしたら、ぜひお教えください。