日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

ピンマーク入り初号活字を鋳造していた弘文社(高級活字製造所)のことを #NDL全文検索 で調べていって「五号正8分の1システム」の富永庄太郎に突き当たったかもしれない話

先日、Ⓣというピンマーク入りの初号活字を入手しました。「丸にT字」というピンマークは他にも津田三省堂や江川活版製造所など幾つかのTypefounderが用いていたのですが、両社はserif書体のTでした。細めのround gothicを用いたこのマークは京都にあった弘文社(高級活字製造所)のものだろうと思います。

弘文社高級活字製造所のピンマーク入り初号活字(斜め方向)
弘文社高級活字製造所のピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面)

昭和5年の『印刷材料品仕入案内 1930 関西版』に商標と活字風イラスト入りの広告が出されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/1055936/1/47)、また昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』にもⓉの商標が掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/176)。

『印刷材料品仕入案内』の広告文で「弊店特製銅入地金の活字」「普通活字の耐久力数倍」と謳われているので、これもまた成分分析を試みたいところです。

弘文社高級活字製造所の富永庄太郎

NDL全文検索によると、「合資会社弘文社高級活字製造所」というフルネームで昭和6年12月26日に設立登記されたようです(1932年4月6日付『官報』1頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958049/1/16〉)。この設立登記を見るまでは、社名(商号)は「弘文社」だけで「高級活字製造所」は単なる謳い文句、広告文としての惹句だとばかり思っていましたが、ここまでが社名(商号)だったのですね。代表者(無限責任社員)は富永庄太郎(京都市下京区丹波口通大宮西入丹波街道町三百十八番地)。

『日本商工信用録 昭和7年度』の広告では「創業大正11年6月」と謳われていますから(https://dl.ndl.go.jp/pid/1145535/1/285)、活字商売を始めたのが大正11年で、合資会社として登記したのが昭和6年ということなのでしょう。確かに『全国印刷業大観 大正16年度』に、丹波口大宮西入の活字商として富永庄太郎の名が見えます(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/68)。

合資会社化した後、メンバーと出資金の一部変更にかかる登記が昭和7年12月10日に行われ(1933年2月17日付『官報』12頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958309/1/24〉)、6年ほど活動した後、昭和13年4月27日付で少なくとも合資会社組織としては解散したようです(1938年6月30日付『官報』10頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959937/1/39〉)。

昭和15年の『帝国信用録 第33版』に大宮丹波口西の活字鉛版製造業、富永庄太郎の名が掲載されて以降は独立した活動を行っていないかもしれません(https://dl.ndl.go.jp/pid/1246232/1/430)。

豊岡活版機械製造株式会社と富永庄太郎

昭和5年7月3日、「活字製造販売並ニ各種印刷業各種印刷機械製造販売」等を目的として大阪市東成区鶴橋北之町二丁目に豊岡活版機械製造株式会社が設立されています(1930年10月3日付『官報』81頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957597/1/11〉)。登記公告に見える取締役は、豊岡吉太郎(鶴橋北之町二丁目)、高田貞明(中河内郡玉川村)、中村三一郎(大阪市西区江戸堀下通三丁目)で、監査役が中村庄三郎(中河内郡布施町)。

高田の退任に伴って昭和5年10月に富永庄太郎が取締役に就任し(1930年12月30日付『官報』3頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957651/1/19〉)、昭和6年に退任しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2957866/1/13)。

富永退任後の昭和6年12月に取締役の更なる変更と「株式会社豊岡活版製造所」への商号変更が行われた模様です(https://dl.ndl.go.jp/pid/2958009/1/24)。

更に昭和7年3月16日に創業社長の豊岡吉太郎と取締役の荒木彦次が退任し、「株式会社豊岡活字製造所」へと再度の商号変更が行われています(1932年6月28日付『官報』5頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958118/1/20〉)。

内外出版印刷株式会社印刷部工場長の富永庄太郎

キーワード「富永庄太郎」でNDL全文検索を続けていって、堀井清一『活版規格改造論 : 未定稿』(1941)の中に、富永を内外出版印刷株式会社印刷部の工場長とする記述を見かけました(https://dl.ndl.go.jp/pid/1094222/1/7)。合資会社弘文社高級活字製造所を解散した後、印刷部の工場長として内外印刷出版株式会社に迎えられたということでしょうか。単なる同姓同名でしょうか。

デジコレ全体を対象にすると書籍や雑誌の印刷者としての「内外出版印刷」が大量に検索ヒットしてしまうので、まずは『官報』で動向を追ってみましょう。

内外出版印刷株式会社は、昭和2年12月27日付で内外出版株式会社からの商号変更によって誕生しました(1928年4月7日付『官報』12頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2956841/1/24〉)。以降の動向を拾い出していくと、次のような具合です。

  • S3/06/26監査役杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎辞任、杉本復三(上京区)・池田繁太郎(上京区)・田中和一郎(下京区監査役に就任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2956986/1/12)。
  • 1929/10/24官報:S4/7/25、株の払込金変更
  • 1930/10/10官報:S5/6/29監査役満期重任(杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎)
  • 1930/11/25官報:取締役竹内転居
  • 1931/07/06官報:資本金減額の公示催告
  • 1931/11/26官報:取締役永澤信之助転居
  • 1931/12/07官報:減資
  • 1932/04/06官報:取締役重任(須磨勘兵衛・永澤信之助・柏佐一郎・竹上藤次郎・清水清一郎)
  • 1932/10/03官報:監査役重任(杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎)
  • 1933/08/19官報:昭和8年6月27日目的ヲ左ノ通リ変更ス「一文書図書ノ印刷、二書籍ノ出版販売、三活字ノ鋳造販売、四前各号ニ掲ケタルモノノ附帯事業」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2958463/1/21
  • 1934/08/18官報:監査役重任(杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎)
  • 1934/11/15官報:監査役杉本復三転居
  • 1935/04/30官報:取締役重任(須磨勘兵衛・永澤信之助・柏佐一郎・竹上藤次郎・清水清一郎)
  • 1935/12/10官報:監査役池田繁太郎逝去
  • 1936/02/24官報:北尾伊三郎(下京区監査役就任
  • 1936/09/08官報:監査役重任(北民伊三郎〈ママ〉・田中和一郎・杉本復三)
  • 1938/03/04官報:取締役重任(須磨勘兵衛・永澤信之助・柏佐一郎・竹上藤次郎・清水清一郎)
  • 1938/08/26官報:監査役重任(北尾伊三郎・田中和一郎・杉本復三)
  • 1939/03/02官報:取締役須磨勘兵衛転居
  • 1939/08/25官報:監査役杉本後三〈ママ〉転居
  • 1939/09/14官報:監査役杉本復三辞任し取締役に就任
  • 1940/03/06官報:公告方法を京都日出新聞への掲載としまた株式譲渡を制限

残念ながら富永の名は『官報』公告の範囲には見当たりませんでした。一般の出版物でも、奥付に印刷者として名前が出るのは須磨勘兵衛であって、工場長らしき人物が表に出ることはありません。

堀井清一『活版規格改造論』で「内外出版印刷株式会社印刷部工場長富永庄太郎氏」と書かれ(https://dl.ndl.go.jp/pid/1094222/1/7)、『印刷雑誌』24巻8号(1941年8月)「京都から発表された二つの活字規格案」で「内外出版印刷会社の富永庄太郎氏」と書かれている人物(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341201/1/58)は、弘文社高級活字製造所を起業した富永庄太郎と同一人物なのでしょうか、単なる同姓同名の他人なのでしょうか。館内限定資料の遠隔複写も含め、残念ながらNDL全文検索では判明しませんでした。ご存じの方がいらしたら、お教えください。

活字サイズの「五号正8分の1システム」について

1930年代から40年代にかけて、日本の標準的な活字規格がどうあるべきか、盛んに議論が戦わされていました。その中で生まれたアイデアの1つが、いま仮に「五号正8分の1システム」と呼ぶものです。これは、五号活字の8分の1(=「トタン罫」などと呼ばれる厚みの寸法)を活字サイズの拠り所として用いることとし、①五号活字の大きさを「8罫」、二号活字を「16罫」、七号活字を「4罫」などとすること、そして従来は五号活字系統と関連しない大きさだった一号・四号活字(および従来の四号活字の縦横2分の1である「新七号」と呼んでいた活字)について、②一号活字を「20罫」(五号の2.5倍)、四号活字を「10罫」(五号の1.25倍)、新七号活字を「5罫」とすること、同様に五号活字系統と関連しない大きさだった三号・六号・八号活字について、③三号活字を「12罫」(五号の1.5倍)、六号活字を「6罫」(五号の4分の3倍)、八号活字を「3罫」(五号の8分の3倍)とすること、――を中核的な方針とするものです。また更に④9ポイント活字の代用となる「7罫」サイズの「新五号」活字(五号の8分の7倍)というものも提唱されました。

朗文堂のブログ「花筏」中の記事「タイポグラフィ あのねのね*019 わが国の新号数制活字の原器 504 pt. , 42 picas」の「2012年12月25日追記」部分で言及されているように(http://www.robundo.com/robundo/column/?p=2420)、『フカミヤ八十年史 1918-1998』(1998、株式会社フカミヤ)38-40頁に翻刻された『深宮式新活字』パンフレットによると、1930年頃には深宮活字製造所が上記①②④を実現した「深宮式新活字」を販売していた模様です。

この深宮式新活字は、当時一般の印刷所に大々的に採用されるところには至らなかったらしく思われますが、新聞活字としては大いに歓迎されたらしく『現代札幌人物史』(1931)は「室蘭毎日新聞、帯幌町の各日刊紙、根室新聞、全樺太所在の日刊紙、函館新報等は、氏の考案鋳出に係る深宮式新活字を採用し、紙面の船名快感に、錦上花を添ふるの実績を得」と記しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1900558/1/168)。

なお、『印刷文明史 第四巻』(1933)の、青山進行堂の活字見本に続けて書かれた「活字の大きさについて」という項に「東京方面製造の活字は三、六、八号が当地方の活字よりも極く僅か宛大きいものがありますが、当地方発売の活字は六号四個に対して五号三個の大さに適合しておる為、組版作業の上非常な便利を得らるゝので実行されて居ります。東京方面で新六号と唱へられて居る活字が当地方のこの六号に相当するものであります」と書かれています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1821992/1/221)。関西では、上記③が既に実現していたものと言えそうですが、いつごろ「関西標準」となったものかは判りません。

「弘道軒シンポで触れた「深宮式」と活字スケール」(https://uakira.hateblo.jp/entry/20141021)で触れたように、岩田母型では活字サイズの「五号正8分の1システム」を京都発のものと認識されていたようです。

京都印刷工業組合で採用された富永庄太郎案というのは、『印刷雑誌』24巻8号(1941年8月)「京都から発表された二つの活字規格案」によると上記①~④に加え、⑤12ポイント代用を9罫、6ポイント代用を4.5罫、4.5ポイント代用を3.5罫とする、というところまでシステムを推し進めたもので(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341201/1/58)、なるほど罫システムが主要サイズに徹底しており、また出版三都である京都の印刷工業組合で採用されているという実績から、岩田母型で「京都発」と受け止められていたのも今では頷けます。