日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

「桜に大」は大阪活字鋳造株式会社のピンマークと思っていいでしょうか

先日、「桜に大」のピンマーク入り一号活字と、「桜に大」のマークと「OSAKA KATSUJI」という文字を組み合わせたピンマーク入りの初号活字を入手しました。

「桜に大」のピンマーク入り活字2種(斜め方向)
「桜に大」「OSAKA KATSUJI」のピンマーク入り活字(ピンマーク正面)
「桜に大」のピンマーク入り活字(ピンマーク正面)

これは日活の前身の一つである大阪活字鋳造所のピンマークと思っていいでしょうか。

以上の関連記事では商標に関する情報が見つかっておらず、また残念ながら今回NDL遠隔複写で新しく入手した『印刷雑誌』15巻1号(1932年1月)掲載広告にも商標が掲載されていなかったため(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341091/1/16)、決め手が得られておりません。

浪花活版(浪速活版)のピンマーク「梅にS」は盛功社の「S」由来と思い至った結果「NANIWA Ⓢ OSAKA」というピンマークも浪速活版(浪花活版)なのだろうと #NDL全文検索 で推定する話

「梅にS」のピンマーク入り活字

「梅にS」のピンマーク入り初号活字3種(斜め方向)
「梅にS」(大)のピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面)
「梅にS」(中)のピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面)
「梅にS」(小)のピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面)
「梅にS」(小)のピンマーク入り一号活字(斜め方向)
「梅にS」(小)のピンマーク入り一号活字(ピンマーク正面)

株式会社浪花活版製造所が『日本印刷界』60号(1914)に掲出している広告に、「梅にS」のマークが登録商標として掲げられていますhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1517479/61。このおかげで私は、以前入手していた活字が浪花活版のものだと認識していました。

「NANIWA Ⓢ OSAKA」のピンマーク入り活字

「NANIWA Ⓢ OSAKA」のピンマーク入り活字(斜め方向)
「NANIWA Ⓢ OSAKA」のピンマーク入り活字(ピンマーク正面)

先日「NANIWA Ⓢ OSAKA」のピンマーク入り初号活字を入手したので、これを機に改めて浪花活版(浪速活版)の周囲を調べ直してみなければなるまいと思った次第です。

浪花活版あるいは浪速活版のこと

明治28年の『商業登記会社全集』には株式会社浪花活版製造所のことが明治26年12月20日登記済として、次のように記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/803675/1/124

営業所:大阪市西区京町堀通四丁目二十七番屋敷本店
会社目的:活版及印刷機械製造販売
設立年月:明治二十年四月十一日
開業年月:明治二十年四月十二日
存立時期:明治三十四年三月三十一日迄
取締役ノ住所氏名:大坂市南区安堂寺橋通二丁目(専務取締役)中川多助/同市東区内平野町二丁目(取締役)増岡重太郎/同市同区内淡路町二丁目(取締役)溝畑正吉

『大阪実業名鑑』(明治27)は浪花活版を「明治22年4月開業」とし(https://dl.ndl.go.jp/pid/779111/1/323)、『大阪印刷百年史』()は浪速活版製造所(ママ)が「西区京町堀通四に創業」したのを明治24年4月のこととしているのですが(284ページ上段)、どういう典拠に基づくのか知りたいところです。

『大阪商工名録 大正2年度』では浪花活版の商号(商標)欄に「梅にS」マークが掲げられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/910680/1/197。今のところ浪花活版(浪速活版)関係で「梅にS」マークが見えるこれより古い資料を見つけることはできていません。『日本印刷界』の前身で、コロンビア大学図書館が所蔵している『大阪印刷界』を確認出来たら、より古い時期の広告が見つかるかもしれません(「大阪印刷界(含日本印刷界)所蔵館リスト」https://uakira.hateblo.jp/entry/20170519/p2

活字製造印刷業の盛功社と中川多助・増岡重太郎のこと

浪花活版創業時の取締役として名を連ねている中川多助と増岡重太郎は、遅くとも明治20年代初頭から活版印刷の仕事に携わっていました。

例えば明治21年『淀屋辰五郎実記』の奥付には、印刷者として「大阪市西区京町堀通四丁目廿七番屋敷 盛功社々長 中川多助」と記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/882271/1/43)。少なくとも明治23年『現行日本法律書 : 以呂波索引 続編下巻』の頃まで、活版印刷業としての盛功社の責任者として書籍類の奥付に名前が出るのは中川多助でした(https://dl.ndl.go.jp/pid/787347/1/540)。

1891年6月22日付『官報』に「盛功社」が大阪市西区京町堀通の「活版製造」業を営む株式会社(創業明治20年4月)と記載されていますが(https://dl.ndl.go.jp/pid/2945654/1/4)、代表者名はわかりません。明治24年12月調という『大阪府治一斑 第3回』の工業会社及製造所ノ上(資本株式ニ分割シタルモノ)一覧では盛功社の社長又ハ頭取等の名が岩田與兵衛となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/807130/1/46)。

明治25年『明治宝鑑』によると、大阪市西区京町堀通四丁目の活版製造業盛功社の社長は増岡重太郎で(https://dl.ndl.go.jp/pid/773581/1/770)、『日本全国商工人名録 [明治25年版]』でも盛功社(西区京町堀通四丁目)の資本は金一萬園、業務が活字製造印刷、社長が増岡重太郎と記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/994140/1/288)。

浪花活版(浪速活版)のピンマーク「梅にS」は盛功社の「S」由来と思って良いのでしょう。

浪花活版のもう一人の創業取締役溝畑正吉のこと

浪花活版の登記情報を追ってみます。

「浪速活字」と「浪花活字」

NDL全文検索で「浪速活字」が検索ヒットするのは、大正10年代の『大日本帝国商工信用録』に掲げられた大阪市西区京町堀四の「浪速活字版製造所」(37版:https://dl.ndl.go.jp/pid/945934/1/50、38版:https://dl.ndl.go.jp/pid/945914/1/184、40版:https://dl.ndl.go.jp/pid/945915/1/212、42版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1017541/1/327、およびその派生版)だけとなっています。誤植した版を使いまわしした結果と考えて良いでしょう。

また「浪花活字」で検索ヒットする戦前の資料は大正5年の『植民地大鑑』だけで、これは表形式の組版が「株式会社浪花/活版製造所」「活字製造/印刷機」という具合になっているものの各々1行目を「株式会社浪花活字製造」であるものとOCR認識してしまった結果です(https://dl.ndl.go.jp/pid/950496/1/981)。

「NANIWA」を名乗る大阪の活字ベンダーは、浪花活版(浪速活版)だけだと思って良いように思われます。

シンプルなⓂピンマーク入り活字が大阪岡本活版製造所のものか東京藤田活版製造所のものか #NDL全文検索 では確定できず情報求む

シンプルなⓂピンマークの活字

先日、シンプルなⓂピンマーク入りの活字を入手しました。

Ⓜピンマーク入り一号明朝活字(斜め方向)
Ⓜピンマーク入り一号明朝活字(ピンマーク正面)

以前から『全国印刷業者名鑑』の大正11年版や15年版などを眺めて活字の製造販売を行っていたらしい事業者の商標を眺めていて、Ⓜに該当しそうなところを2つ拾い出しています。このⓂは、どちらなのでしょう。

1. 岡本活版製造所・岡本萬三(大阪)

岡本活版製造所と岡本萬三

『日本印刷界』61号(1914年11月)に「Ⓜ」マークを掲げた岡本活版製造所(大阪市北区松原町)の広告が出されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517480/1/78)。『印刷時報』8号(1925)に出された「Ⓜ岡本活版製造所」(大阪市北区松原町七十三番地)の広告には「岡本の活字は米国トムソン式鋳造機と岡本水管式鋳造機の超越的機械の完備により製法の独特無比品質の優秀加ふるに大量製産を以て各位より常に御好評を蒙りつゝあり」と謳われています。『大阪市商工名鑑 大正13年度用』では代表者が岡本萬三となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1021049/1/448)。

『印刷時報』8号広告にいう岡本水管式鋳造機については『能率の研究』(大正12)に詳しい解説が記されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/970889/1/100)、ざっくり言うと「手回し式」鋳造機を動力源に接続し更に水冷化することで生産効率をあげたもののようです。

『日本工業要鑑 大正8 〔上〕年度用(第9版)』では岡本萬三という個人名のみで活字製造並ニ活版諸機械販売業とされていますから(https://dl.ndl.go.jp/pid/952876/1/270)、岡本活版製造所という屋号を掲げるのはこれより後ということでしょうか。

明治印刷合資会社と岡本萬三

キーワード「岡本萬三」でNDL全文検索を試みたところ、明治40年5月から同43年8月まで明治印刷合資会社無限責任社員(社長)だったことが分かりました。

大阪毎日新聞社と岡本萬三

昭和12年『岡本萬三翁の全貌』によると、明治10年代に大東日報社の印刷工場に入り、やがて大東日報(夜間)と開業間もない浪花活版合資会社(昼間)でダブルワークをした後、明治21年11月の大阪毎日新聞創刊に伴って大毎印刷工場へ転職、更に大毎社長の勧めで明治24年に大毎の分工場名目で活字製造業を開業したということです(https://dl.ndl.go.jp/pid/1120731/1/9)。

岡本活版製造所の「Ⓜ」は、毎日のⓂでしょうか、明治印刷のⓂでしょうか、萬三のⓂでしょうか、はてさて。

2. 藤田活版製造所・藤田茂一郎/藤田守三(東京)

藤田活版製造所と藤田茂一郎

『全国印刷業者名鑑』大正15年版に「Ⓜ」マークを掲げた藤田活版製造所(須田町電車停車場前)の広告が出されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/23)。『全国印刷業大観 大正16年度』によると住所は神田区連雀町十八番地、創業明治44年11月とのこと(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/15)。

『皇国日本史』(昭和11年)に藤田活版製造所主・藤田茂一郎の略歴が掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1685126/1/582)。曰く:

十三歳の時父君を喪ひ凡ゆる辛酸を甜めて専修大学理財科を卒業、後ち北海炭鉱に入社、その才腕を認められて当時の社長井上角五郎氏の秘書となる。されど闘志満々たる氏はこの小成に甘んずることなく、遂に之を辞して明治四十二年十一月藤田活版製造所を創業するに至る。今日藤田活版製造所といへば業界一人として知らざるなく、文字通り斯界の先駆者であり、我が文化の貢献者である

明品舎藤田商店と藤田守三/茂一郎

昭和2年『新興日本名士録 : 帝都復興之現勢』に掲載されている藤田茂一郎の略歴では茂一郎の肩書が藤田活版製造所主と明品舎藤田商店主の2つになっています
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175681/1/314)。

明品舎でNDL全文検索を行うと、明治44年『東京職業明鑑』では神田区連雀一八の藤田商店明品舎の店主は藤田守三となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/801127/1/138)。大正4年『日本全国銀行会社実業家信用録 3版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/954638/1/115)や、大正11年『帝国信用録 15版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/956863/1/193)でも神田区連雀町で活字製造業を営んでいるのは藤田守三となっています。明品舎藤田商店主としての名乗りが守三で、専大卒の藤田活版製造所主としては本名と思われる茂一郎を名乗ったということになるのでしょうか。

藤田活版製造所の「Ⓜ」は、守三のⓂでしょうか、茂一郎のⓂでしょうか、明品舎のⓂでしょうか、はてさて。

暫定的な結論

以上の通り、NDL全文検索では確定できませんでした。当面は、関西圏から入手したものという理由で岡本活版製造所で鋳造された活字と考えておくことにしたいと思います。関連情報をご存じの方がいらしたら、ぜひお教えください。

ピンマーク入り初号活字を鋳造していた弘文社(高級活字製造所)のことを #NDL全文検索 で調べていって「五号正8分の1システム」の富永庄太郎に突き当たったかもしれない話

先日、Ⓣというピンマーク入りの初号活字を入手しました。「丸にT字」というピンマークは他にも津田三省堂や江川活版製造所など幾つかのTypefounderが用いていたのですが、両社はserif書体のTでした。細めのround gothicを用いたこのマークは京都にあった弘文社(高級活字製造所)のものだろうと思います。

弘文社高級活字製造所のピンマーク入り初号活字(斜め方向)
弘文社高級活字製造所のピンマーク入り初号活字(ピンマーク正面)

昭和5年の『印刷材料品仕入案内 1930 関西版』に商標と活字風イラスト入りの広告が出されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/1055936/1/47)、また昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』にもⓉの商標が掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/176)。

『印刷材料品仕入案内』の広告文で「弊店特製銅入地金の活字」「普通活字の耐久力数倍」と謳われているので、これもまた成分分析を試みたいところです。

弘文社高級活字製造所の富永庄太郎

NDL全文検索によると、「合資会社弘文社高級活字製造所」というフルネームで昭和6年12月26日に設立登記されたようです(1932年4月6日付『官報』1頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958049/1/16〉)。この設立登記を見るまでは、社名(商号)は「弘文社」だけで「高級活字製造所」は単なる謳い文句、広告文としての惹句だとばかり思っていましたが、ここまでが社名(商号)だったのですね。代表者(無限責任社員)は富永庄太郎(京都市下京区丹波口通大宮西入丹波街道町三百十八番地)。

『日本商工信用録 昭和7年度』の広告では「創業大正11年6月」と謳われていますから(https://dl.ndl.go.jp/pid/1145535/1/285)、活字商売を始めたのが大正11年で、合資会社として登記したのが昭和6年ということなのでしょう。確かに『全国印刷業大観 大正16年度』に、丹波口大宮西入の活字商として富永庄太郎の名が見えます(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/68)。

合資会社化した後、メンバーと出資金の一部変更にかかる登記が昭和7年12月10日に行われ(1933年2月17日付『官報』12頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958309/1/24〉)、6年ほど活動した後、昭和13年4月27日付で少なくとも合資会社組織としては解散したようです(1938年6月30日付『官報』10頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959937/1/39〉)。

昭和15年の『帝国信用録 第33版』に大宮丹波口西の活字鉛版製造業、富永庄太郎の名が掲載されて以降は独立した活動を行っていないかもしれません(https://dl.ndl.go.jp/pid/1246232/1/430)。

豊岡活版機械製造株式会社と富永庄太郎

昭和5年7月3日、「活字製造販売並ニ各種印刷業各種印刷機械製造販売」等を目的として大阪市東成区鶴橋北之町二丁目に豊岡活版機械製造株式会社が設立されています(1930年10月3日付『官報』81頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957597/1/11〉)。登記公告に見える取締役は、豊岡吉太郎(鶴橋北之町二丁目)、高田貞明(中河内郡玉川村)、中村三一郎(大阪市西区江戸堀下通三丁目)で、監査役が中村庄三郎(中河内郡布施町)。

高田の退任に伴って昭和5年10月に富永庄太郎が取締役に就任し(1930年12月30日付『官報』3頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957651/1/19〉)、昭和6年に退任しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2957866/1/13)。

富永退任後の昭和6年12月に取締役の更なる変更と「株式会社豊岡活版製造所」への商号変更が行われた模様です(https://dl.ndl.go.jp/pid/2958009/1/24)。

更に昭和7年3月16日に創業社長の豊岡吉太郎と取締役の荒木彦次が退任し、「株式会社豊岡活字製造所」へと再度の商号変更が行われています(1932年6月28日付『官報』5頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958118/1/20〉)。

内外出版印刷株式会社印刷部工場長の富永庄太郎

キーワード「富永庄太郎」でNDL全文検索を続けていって、堀井清一『活版規格改造論 : 未定稿』(1941)の中に、富永を内外出版印刷株式会社印刷部の工場長とする記述を見かけました(https://dl.ndl.go.jp/pid/1094222/1/7)。合資会社弘文社高級活字製造所を解散した後、印刷部の工場長として内外印刷出版株式会社に迎えられたということでしょうか。単なる同姓同名でしょうか。

デジコレ全体を対象にすると書籍や雑誌の印刷者としての「内外出版印刷」が大量に検索ヒットしてしまうので、まずは『官報』で動向を追ってみましょう。

内外出版印刷株式会社は、昭和2年12月27日付で内外出版株式会社からの商号変更によって誕生しました(1928年4月7日付『官報』12頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2956841/1/24〉)。以降の動向を拾い出していくと、次のような具合です。

  • S3/06/26監査役杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎辞任、杉本復三(上京区)・池田繁太郎(上京区)・田中和一郎(下京区監査役に就任(https://dl.ndl.go.jp/pid/2956986/1/12)。
  • 1929/10/24官報:S4/7/25、株の払込金変更
  • 1930/10/10官報:S5/6/29監査役満期重任(杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎)
  • 1930/11/25官報:取締役竹内転居
  • 1931/07/06官報:資本金減額の公示催告
  • 1931/11/26官報:取締役永澤信之助転居
  • 1931/12/07官報:減資
  • 1932/04/06官報:取締役重任(須磨勘兵衛・永澤信之助・柏佐一郎・竹上藤次郎・清水清一郎)
  • 1932/10/03官報:監査役重任(杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎)
  • 1933/08/19官報:昭和8年6月27日目的ヲ左ノ通リ変更ス「一文書図書ノ印刷、二書籍ノ出版販売、三活字ノ鋳造販売、四前各号ニ掲ケタルモノノ附帯事業」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2958463/1/21
  • 1934/08/18官報:監査役重任(杉本復三・池田繁太郎・田中和一郎)
  • 1934/11/15官報:監査役杉本復三転居
  • 1935/04/30官報:取締役重任(須磨勘兵衛・永澤信之助・柏佐一郎・竹上藤次郎・清水清一郎)
  • 1935/12/10官報:監査役池田繁太郎逝去
  • 1936/02/24官報:北尾伊三郎(下京区監査役就任
  • 1936/09/08官報:監査役重任(北民伊三郎〈ママ〉・田中和一郎・杉本復三)
  • 1938/03/04官報:取締役重任(須磨勘兵衛・永澤信之助・柏佐一郎・竹上藤次郎・清水清一郎)
  • 1938/08/26官報:監査役重任(北尾伊三郎・田中和一郎・杉本復三)
  • 1939/03/02官報:取締役須磨勘兵衛転居
  • 1939/08/25官報:監査役杉本後三〈ママ〉転居
  • 1939/09/14官報:監査役杉本復三辞任し取締役に就任
  • 1940/03/06官報:公告方法を京都日出新聞への掲載としまた株式譲渡を制限

残念ながら富永の名は『官報』公告の範囲には見当たりませんでした。一般の出版物でも、奥付に印刷者として名前が出るのは須磨勘兵衛であって、工場長らしき人物が表に出ることはありません。

堀井清一『活版規格改造論』で「内外出版印刷株式会社印刷部工場長富永庄太郎氏」と書かれ(https://dl.ndl.go.jp/pid/1094222/1/7)、『印刷雑誌』24巻8号(1941年8月)「京都から発表された二つの活字規格案」で「内外出版印刷会社の富永庄太郎氏」と書かれている人物(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341201/1/58)は、弘文社高級活字製造所を起業した富永庄太郎と同一人物なのでしょうか、単なる同姓同名の他人なのでしょうか。館内限定資料の遠隔複写も含め、残念ながらNDL全文検索では判明しませんでした。ご存じの方がいらしたら、お教えください。

活字サイズの「五号正8分の1システム」について

1930年代から40年代にかけて、日本の標準的な活字規格がどうあるべきか、盛んに議論が戦わされていました。その中で生まれたアイデアの1つが、いま仮に「五号正8分の1システム」と呼ぶものです。これは、五号活字の8分の1(=「トタン罫」などと呼ばれる厚みの寸法)を活字サイズの拠り所として用いることとし、①五号活字の大きさを「8罫」、二号活字を「16罫」、七号活字を「4罫」などとすること、そして従来は五号活字系統と関連しない大きさだった一号・四号活字(および従来の四号活字の縦横2分の1である「新七号」と呼んでいた活字)について、②一号活字を「20罫」(五号の2.5倍)、四号活字を「10罫」(五号の1.25倍)、新七号活字を「5罫」とすること、同様に五号活字系統と関連しない大きさだった三号・六号・八号活字について、③三号活字を「12罫」(五号の1.5倍)、六号活字を「6罫」(五号の4分の3倍)、八号活字を「3罫」(五号の8分の3倍)とすること、――を中核的な方針とするものです。また更に④9ポイント活字の代用となる「7罫」サイズの「新五号」活字(五号の8分の7倍)というものも提唱されました。

朗文堂のブログ「花筏」中の記事「タイポグラフィ あのねのね*019 わが国の新号数制活字の原器 504 pt. , 42 picas」の「2012年12月25日追記」部分で言及されているように(http://www.robundo.com/robundo/column/?p=2420)、『フカミヤ八十年史 1918-1998』(1998、株式会社フカミヤ)38-40頁に翻刻された『深宮式新活字』パンフレットによると、1930年頃には深宮活字製造所が上記①②④を実現した「深宮式新活字」を販売していた模様です。

この深宮式新活字は、当時一般の印刷所に大々的に採用されるところには至らなかったらしく思われますが、新聞活字としては大いに歓迎されたらしく『現代札幌人物史』(1931)は「室蘭毎日新聞、帯幌町の各日刊紙、根室新聞、全樺太所在の日刊紙、函館新報等は、氏の考案鋳出に係る深宮式新活字を採用し、紙面の船名快感に、錦上花を添ふるの実績を得」と記しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1900558/1/168)。

なお、『印刷文明史 第四巻』(1933)の、青山進行堂の活字見本に続けて書かれた「活字の大きさについて」という項に「東京方面製造の活字は三、六、八号が当地方の活字よりも極く僅か宛大きいものがありますが、当地方発売の活字は六号四個に対して五号三個の大さに適合しておる為、組版作業の上非常な便利を得らるゝので実行されて居ります。東京方面で新六号と唱へられて居る活字が当地方のこの六号に相当するものであります」と書かれています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1821992/1/221)。関西では、上記③が既に実現していたものと言えそうですが、いつごろ「関西標準」となったものかは判りません。

「弘道軒シンポで触れた「深宮式」と活字スケール」(https://uakira.hateblo.jp/entry/20141021)で触れたように、岩田母型では活字サイズの「五号正8分の1システム」を京都発のものと認識されていたようです。

京都印刷工業組合で採用された富永庄太郎案というのは、『印刷雑誌』24巻8号(1941年8月)「京都から発表された二つの活字規格案」によると上記①~④に加え、⑤12ポイント代用を9罫、6ポイント代用を4.5罫、4.5ポイント代用を3.5罫とする、というところまでシステムを推し進めたもので(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341201/1/58)、なるほど罫システムが主要サイズに徹底しており、また出版三都である京都の印刷工業組合で採用されているという実績から、岩田母型で「京都発」と受け止められていたのも今では頷けます。

大阪加東活版製造所のピンマークと商標

「加東」のピンマーク

少し前に「加東」というピンマークが刻印された活字を入手していたので、横浜市歴史博物館2022年度企画展「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/)の展示用に貸し出しさせていただきました。名刺用紙への印刷は、せんだいメディアテーク活版印刷研究会によるものです。

加東活版製造所のピンマーク入り一号ファンテール型活字(斜め方向)
加東活版製造所のピンマーク入り一号ファンテール型活字(ピンマーク正面)

『日本印刷界』105号(1918)に「加東活版製造所」の小さな広告が掲載されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517524/1/75)、そのような名称の活字商が存在したのだと知ったものです。

ちなみにこのファンテール型活字は加藤活版製造所が開発した書体ではなく、東京築地活版製造所が明治30年頃に開発したとみられるものです(明治36年『活版見本』:https://dl.ndl.go.jp/pid/854017/1/20)。

加東活版で検索していくと、明治42年の『郵便振替貯金加入者氏名及番号』に、大阪市東区瓦町二丁目三十番屋敷の「加東活版製造所」「加東駒造」と記されているのが見つかりました(https://dl.ndl.go.jp/pid/805619/1/164)。駒造で検索を続けると、明治25年『大阪商工亀鑑』において既に「活版製造所 加東駒造」の名が見えます(https://dl.ndl.go.jp/pid/803616/1/69)。そこそこ古くから活字商売に携わっていたようです。

加東活版製造所の商標(組み合わせ井桁)

大正6年『帝国興信要録』に、「違い菱」風の商標が掲げられています(https://dl.ndl.go.jp/pid/956868/1/97)。『日本印刷界』68号(1915)以降の広告では菱型2つの「違い菱」ではなく井桁2つの「組み合わせ井桁」風となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517487/1/67)。

加東活版製造所の商標(組み合わせ井桁)の模写

『近世印刷文化史考』(1938)には加東活版製造所の見本帳『電気銅版見本』と『改正花形見本』の表紙影印が掲げられていて(https://dl.ndl.go.jp/pid/1857978/1/89)、やはり組み合わせ井桁マークが見えます。

ひょっとすると、組み合わせ井桁のピンマークが刻印された活字が、どこかにあるかもしれません。ご存じの方がいらしたら、お教えください。

国会図書館デジタルコレクションで「三重丸にK」が京都河本精文社のピンマーク・商標だったと知った話

「三重丸にK」ピンマーク

河本精文社のピンマーク入り活字(斜め方向)
河本精文社のピンマーク入り活字(文字ヅラ方向)
河本精文社のピンマーク入り活字(ピンマーク正面)

ご覧の通り、正確には「外側から太罫・細罫・細罫の三重丸」の6時の位置に「K」の字が収まっている形状です。このような三重丸について、変形輪紋の分類などで半円ならぬ「6分の5円」あるいは「雪印6Pチーズの1個食べた残り」とでもいうような扇型形状を指す用語があったりするでしょうか。

国会図書館デジタルコレクションで戦前の『印刷時報』と戦後の『月刊印刷時報』に出ている広告類をあれこれ眺めていった結果、『月刊印刷時報』152号(1957年1月)掲出の広告によって、これが京都河本精文社の商標だったと判りました(https://dl.ndl.go.jp/pid/11434615/1/91)。『日本印刷関係業者名鑑 1953年版』の広告では単なる「丸にK」ですから(https://dl.ndl.go.jp/pid/2464726/1/185)、この間に改めて制定されたマークということでしょうか。

NDL全文検索「河本精文社」の結果を見ていくと、『京都商工人名録 昭和39年版』に、大正10年創業と記載されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2505326/1/269)。「精文社」というのは印刷所の名称として全国各地で好んで使われていて、検索語としては不便です。全文検索で古い時期の状況を拾い出すことは出来ませんでした。「河本正男」も重複が多く、全文検索では扱いにくい名前です。

「河本精文」で検索すると、上記「河本精文社」の代表者である河本正男を代表者とする「河本精文堂」を昭和25年創業としている『商工信用録 近畿版 昭和30年度版』が見つかりました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2457032/1/225)。なるほど『月刊印刷時報』でも179号(1959年4月)以降は「河本精文堂」という表記に変わっているようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/11434642/1/69)。「精文堂」もまた印刷所の名称として全国各地で好んで使われていて、検索語としては不便ですね。

この「河本精文堂」という表記が誤植の類なのか一時的な改名だったのかは判りません。

1960年代以降は京都の「河本精文社」が東京進出に際して「東京河本精文社」を立ち上げるなどしていたようですが、1993年に倒産してしまったようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/2886787/1/28)。

現時点で手元にあるピンマーク入り活字のうち、機械彫刻母型によると思われるものは、この河本精文社のものだけです。どういう活字鋳造機を用いたのでしょうか。またマークの彫刻もクッキリ明瞭です。「カスチング」時代とは鋳型の性質が違うということなのでしょうか。製法についてご存じの方がいらしたら、ぜひご教示ください。

ピンマーク入り初号活字を鋳造していた岩橋栄進堂のことを #NDL全文検索 で調べてみた話

先日、〈⿴〇岩〉のピンマークがある初号活字を入手しました。入手できたのは機械彫刻味のあるリニアな書風のものが大半ですが、楷書味のものが数本と、1本だけ極細の隷書風のものが含まれています。

岩橋栄進堂のピンマーク入り初号明朝活字3種(ナナメ方向)
岩橋栄進堂のピンマーク入り初号明朝活字3種(ピンマーク正面方向)

これは京都に本拠地があった岩橋栄進堂の商標で、昭和5年の『印刷材料品仕入案内 1930 関西版』に、マークとイラスト入りの広告が出されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1055936/1/47)。

2人の人物が「君!! 近頃ノ⿴〇岩印ノ活字ハ馬鹿ニ硬ク強イジヤアナイカ?」「アレワ君!! 今迄ノ地金ノ上ヘ自家デ錫ヲ多量ニ入レルナド多年ノ経験ニ研究ヲ加エタ結果活字ニ尤モ適当ナ或地金ヲ配合スルカラアレ丈硬クナルノサ」と会話しているもので、この新旧と思われる〈⿴〇岩〉活字も、いつか成分検査をしてみたいところです。

府川充男『聚珍録』第2篇(三省堂、2005、asin:4385362327)で紹介されているように、岩橋栄進堂はベントン活字時代に「新楷書体」という独自の楷書活字を製造販売していたようですが、残念ながら入手できたのは明朝活字です。岩橋栄進堂の新楷書体がピンマーク入り活字として鋳造されたことがあったのかどうか、そのあたりは判りません。

岩橋栄進堂は、2010年7月16日付の印刷業界ニュース(Pj web news)で、広島「株式会社いわはし」が松江「株式会社栄進堂」の全事業を引き継ぎ「いわはし山陰営業所」とすることを伝えるニュースの解説で「栄進堂は昭和7年、岩橋栄進堂活版製造所の松江営業所として設立され、地元印刷業者に機材等を提供してきた。」http://www.pjl.co.jp/news/enterprise/2010/07/339.htmlと記された10年後、2020年2月6日付の印刷業界ニュース(NEWPRINET)で「広島・いわはし 事業停止、自己破産申請へ」と報じられる状況になっていましたhttps://www.newprinet.co.jp/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%83%BB%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%AF%E3%81%97%E3%80%80%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%81%9C%E6%AD%A2%E3%80%81%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7%A0%B4%E7%94%A3%E7%94%B3%E8%AB%8B%E3%81%B8

以下では、創業期以来の概要をNDL全文検索で追ってみたいと思います。

合資会社岩橋栄進堂設立と松江支店開設

NDL全文検索によると、会社組織としては「合資会社岩橋栄進堂」(無限責任社員:岩橋宗次郎 京都市下京区四條通新街西洞院間上ル炭之座町四百十一番地)として昭和4年1月23日に設立されたようです(1929年5月7日付『官報』15頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957169/1/25〉)。この設立に有限責任社員として加わっていた泉義雄・泉義國は、昭和4年6月5日付で岩橋ゑいに持ち分を譲渡して退社しています(1929年8月27日付『官報』732頁3-4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957265/1/13〉)

『全国印刷業者名鑑 1922』などの広告文によると、元々は青山進行堂の「各種活字其他印刷材料印刷機械」類の販売店だったようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/158。また『京都商工人名録 大正11年改版』には京都の活字商として岩橋宗次郎ただ一人の名前がありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/950472/1/113。個人商店としての活動は少なくとも大正期まで遡るのでしょう。

昭和10年の『全国印刷材料業者総攬』には、岩橋栄進堂松江支店(岩橋宗次郎)の名が見えるのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/246、支店開設時期は明示されていません。

岩橋栄進堂がオリジナル開発者かどうかは分かりませんが、『印刷美術年鑑 昭和8年版』の広告に、10.5ptの6倍角である「63ポイントボックス式」角ゴシック活字と明朝活字の見本が掲げられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1208644/1/65。この広告には松江支店の名はありません。昭和9年か10年に支店開設となったのでしょう。

合資会社としては、昭和11年3月26日付で解散し(1936年6月11日付『官報』18頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959312/1/27〉)、同7月6日付で清算完了となったようです(1936年9月8日付『官報』200頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959389/1/13〉)。ただしこの時点で廃業してしまったわけではなく、昭和15年皇紀二千六百年記念印刷美術大観』には『印刷美術年鑑 昭和8年版』とほぼ同じ体裁の広告が掲げられていて、本店(京都市四條新町西入上ル)と松江支店が両方出ていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1685228/1/321

有限会社岩橋栄進堂活版製造所(京都)と株式会社岩橋栄進堂(広島)

昭和37年の『日本会社録 第2版』では有限会社岩橋栄進堂としての設立が昭和23年3月とされておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/8312604/1/276、設立年である昭和23年の『全国商工名鑑 上巻』掲載広告では有限会社岩橋栄進堂活版製造所として、本拠地である京都の他、大阪支店(天王寺区)、松江支店(松江市)、四国販売所(高知市)の名が出ていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1124889/1/419

昭和30年『日本印刷人名鑑』に「岩橋岩次郎」が掲載されていて、有限会社岩橋栄進堂活版製造所の代表と、広島の株式会社岩橋栄進堂の代表を兼務しているとありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/237

『月刊印刷時報』152号(昭和32年1月号)の雑報欄で「岩橋栄進堂活版製造所では昨秋ベントン彫刻による新楷書体を発表して好評を得ているが、その発売一周年記念としてこの新楷書活字をセットで特価奉仕することになった」と報じられhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434615/1/84、161号(昭和32年10月号)に「優美で近代的な岩橋栄進堂のベントン活字」という書体見本広告が掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434624/1/70。この頃は大阪店・京都店・広島店という体制だったようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434622/1/69

『月刊印刷時報』203号(昭和36年4月号)雑報欄の「岩橋栄進堂福山営業所開設」という記事には広島店こと「株式会社岩橋栄進堂」は代表取締役が星野寛と書かれているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434666/1/75、『月刊印刷時報』210号(昭和36年11月号)には、その星野の訃報が記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434673/1/67

『日本印刷年鑑 1958・59年版』に記された株式会社岩橋栄進堂の沿革には「京都市岩橋栄進堂活版製造所社長岩橋岩次郎は、昭和25年11月、広島県印刷工業協同組合の要望により同組合跡を譲り受けて岩橋栄進堂広島店を開いた。昭和30年2月、資本金50万円の株式会社に改組。」とあり、岩橋岩次郎と星野寛が2人とも代表取締役と記されていました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2458803/1/319)。共同代表の形で立ち上げたものが、星野の逝去によって岩次郎の単独代表に切り替わった状態だったのでしょう。

『月刊印刷時報』221号(昭和37年10月号)に掲載された「スーパーフート自動印刷機」PR記事の時点でも、岩橋栄進堂グループは有限会社岩橋栄進堂(京都、大阪、舞鶴)と株式会社岩橋栄進堂(広島、福山)という体制だったようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/11434684/1/86)。

『月刊印刷時報』405号(1978年2月号)のニュースダイジェストには株式会社岩橋栄進堂(本社・大阪市)の役員について、代表取締役が岩橋岩次郎、常務取締役が川嶋正夫と岩橋温晋(三男)、取締役が岩橋源太郎(長男)と岩橋あさ(妻)、福山営業所長が新任で宇野恵俊と書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434868/1/47。また『京都年鑑 1984年版』には、有限会社岩橋栄進堂の役員について、代表が岩橋岩次郎、専務取締役が岩橋源太郎(長男)、常務取締役が岩橋弘和(次男)と記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/9571175/1/267

岩橋岩次郎の略歴

先ほど記した昭和30年『日本印刷人名鑑』には、岩橋岩次郎の略歴が次のように記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/237)。

明治四十三年九月十一日、和歌山県和歌山市に生る。
昭和五年市立和歌山商工卒業。数多の経験と苦労を経て、有限会社岩橋栄進堂を興し、代表取締役に就任。
その後広島市にある株式会社岩橋栄進堂代表取締役を兼務、日夜優良活字、母型の責任製造を第一信条として、改良、研究に務めている。

岩橋岩次郎について、『印刷美術年鑑 昭和11年版』は「京都市四條通新町西入上ル岩橋栄進堂主岩橋宗次郎長女くに子嬢は小島菊三郎氏負債の媒酌にて和歌山の寺島嘉三郎氏令弟岩次郎氏と養子縁組をなし華燭の典を挙ぐ」と伝えています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/264)。

寺島嘉三郎の名は『全国印刷業大観 大正16年度』などに和歌山の活版業者として掲載されているのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/116)、嘉三郎を代表者(無限責任社員)として昭和6年10月6日に設立された合資会社寺島成南堂(和歌山市五番丁三番地)という活字商の登記公告には、出資者(有限責任社員)として寺島岩次郎(京都市四條新町炭之座町)の名が見えます(1931年12月15日付『官報』13頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957958/1/18〉)。

岩次郎の住所はだいぶ省略されていますが、昭和4年合資会社化された際の岩橋栄進堂の所在地(京都市下京区四條通新街西洞院間上ル炭之座町四百十一番地)に該当するようです。昭和5年に20歳で和歌山商工学校を卒業し、卒業後すぐ京都の岩橋栄進堂に就職、昭和11年に婿養子として迎えられたものと推察されます。

岩橋栄進堂松江支店から株式会社栄進堂へ

株式会社栄進堂でNDL全文検索をすると、『全国印刷業者及び関連業者名簿 1957』に奥村清之助という代表者名が見つかりました。奥村で検索したところ、昭和35年の『日本人事録 西日本編4版』に略歴が示されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3015873/1/165。曰く:

明治40年8月27日生 昭和二年大津中学校卒後岩橋栄進堂勤務 同八年同社松江支店設立に伴い同支店長就任 同二八年同支店独立現社に改組改称現職就任現在に至る