日本語練習虫

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シンプルなⓂピンマーク入り活字が大阪岡本活版製造所のものか東京藤田活版製造所のものか #NDL全文検索 では確定できず情報求む

シンプルなⓂピンマークの活字

先日、シンプルなⓂピンマーク入りの活字を入手しました。

Ⓜピンマーク入り一号明朝活字(斜め方向)
Ⓜピンマーク入り一号明朝活字(ピンマーク正面)

以前から『全国印刷業者名鑑』の大正11年版や15年版などを眺めて活字の製造販売を行っていたらしい事業者の商標を眺めていて、Ⓜに該当しそうなところを2つ拾い出しています。このⓂは、どちらなのでしょう。

1. 岡本活版製造所・岡本萬三(大阪)

岡本活版製造所と岡本萬三

『日本印刷界』61号(1914年11月)に「Ⓜ」マークを掲げた岡本活版製造所(大阪市北区松原町)の広告が出されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1517480/1/78)。『印刷時報』8号(1925)に出された「Ⓜ岡本活版製造所」(大阪市北区松原町七十三番地)の広告には「岡本の活字は米国トムソン式鋳造機と岡本水管式鋳造機の超越的機械の完備により製法の独特無比品質の優秀加ふるに大量製産を以て各位より常に御好評を蒙りつゝあり」と謳われています。『大阪市商工名鑑 大正13年度用』では代表者が岡本萬三となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1021049/1/448)。

『印刷時報』8号広告にいう岡本水管式鋳造機については『能率の研究』(大正12)に詳しい解説が記されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/970889/1/100)、ざっくり言うと「手回し式」鋳造機を動力源に接続し更に水冷化することで生産効率をあげたもののようです。

『日本工業要鑑 大正8 〔上〕年度用(第9版)』では岡本萬三という個人名のみで活字製造並ニ活版諸機械販売業とされていますから(https://dl.ndl.go.jp/pid/952876/1/270)、岡本活版製造所という屋号を掲げるのはこれより後ということでしょうか。

明治印刷合資会社と岡本萬三

キーワード「岡本萬三」でNDL全文検索を試みたところ、明治40年5月から同43年8月まで明治印刷合資会社無限責任社員(社長)だったことが分かりました。

大阪毎日新聞社と岡本萬三

昭和12年『岡本萬三翁の全貌』によると、明治10年代に大東日報社の印刷工場に入り、やがて大東日報(夜間)と開業間もない浪花活版合資会社(昼間)でダブルワークをした後、明治21年11月の大阪毎日新聞創刊に伴って大毎印刷工場へ転職、更に大毎社長の勧めで明治24年に大毎の分工場名目で活字製造業を開業したということです(https://dl.ndl.go.jp/pid/1120731/1/9)。

岡本活版製造所の「Ⓜ」は、毎日のⓂでしょうか、明治印刷のⓂでしょうか、萬三のⓂでしょうか、はてさて。

2. 藤田活版製造所・藤田茂一郎/藤田守三(東京)

藤田活版製造所と藤田茂一郎

『全国印刷業者名鑑』大正15年版に「Ⓜ」マークを掲げた藤田活版製造所(須田町電車停車場前)の広告が出されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/23)。『全国印刷業大観 大正16年度』によると住所は神田区連雀町十八番地、創業明治44年11月とのこと(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/15)。

『皇国日本史』(昭和11年)に藤田活版製造所主・藤田茂一郎の略歴が掲載されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1685126/1/582)。曰く:

十三歳の時父君を喪ひ凡ゆる辛酸を甜めて専修大学理財科を卒業、後ち北海炭鉱に入社、その才腕を認められて当時の社長井上角五郎氏の秘書となる。されど闘志満々たる氏はこの小成に甘んずることなく、遂に之を辞して明治四十二年十一月藤田活版製造所を創業するに至る。今日藤田活版製造所といへば業界一人として知らざるなく、文字通り斯界の先駆者であり、我が文化の貢献者である

明品舎藤田商店と藤田守三/茂一郎

昭和2年『新興日本名士録 : 帝都復興之現勢』に掲載されている藤田茂一郎の略歴では茂一郎の肩書が藤田活版製造所主と明品舎藤田商店主の2つになっています
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175681/1/314)。

明品舎でNDL全文検索を行うと、明治44年『東京職業明鑑』では神田区連雀一八の藤田商店明品舎の店主は藤田守三となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/801127/1/138)。大正4年『日本全国銀行会社実業家信用録 3版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/954638/1/115)や、大正11年『帝国信用録 15版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/956863/1/193)でも神田区連雀町で活字製造業を営んでいるのは藤田守三となっています。明品舎藤田商店主としての名乗りが守三で、専大卒の藤田活版製造所主としては本名と思われる茂一郎を名乗ったということになるのでしょうか。

藤田活版製造所の「Ⓜ」は、守三のⓂでしょうか、茂一郎のⓂでしょうか、明品舎のⓂでしょうか、はてさて。

暫定的な結論

以上の通り、NDL全文検索では確定できませんでした。当面は、関西圏から入手したものという理由で岡本活版製造所で鋳造された活字と考えておくことにしたいと思います。関連情報をご存じの方がいらしたら、ぜひお教えください。