日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

その後の大阪活版印刷所のことを #NDL全文検索 で拾い出してみた話

日本活字工業の社史を私的に辿るシリーズ、前回は明治44年の広告を題材に「20世紀初頭の大阪活版印刷所で日本とイギリスの印刷史が交錯していた話」(https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/04/30/113632)というメモを書きました。これは中村盛文堂グループという企業連合の一端を担っていた時代の大阪活版印刷所の話でした。

さて、シリーズ前々回の「大阪活字鋳造の陣容を #NDL全文検索 で更に掘り下げてみたら」(https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/01/01/185045)で、中村盛文堂グループから独立せざるを得なくなっていったらしき時期の大阪活版印刷所について、次のようなメモを取っていました。

1922大正11年頃の印刷物から、大阪活版印刷所の所在地が大阪市南区貝柄町321になりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970395/1/203、責任者である印刷人の名も同所の関谷紋次https://dl.ndl.go.jp/pid/969577/1/286という人物に変わっています。岡本省三や渡部醇がどういう境遇になったのかは判りません。

今回は、関谷時代の大阪活版印刷所について追っていきたいと思います。


関谷紋次で全文検索していくと、合資会社紡績雑誌社設立の登記公告に行き当たりました。

『紡績界』を主柱とする出版部門の責任者を宇野米吉、関谷紋次が印刷部門の責任者を務める形だったかと思われます。『紡績界』の発行兼編集印刷人としては宇野ひとりの名が記されていますが、書籍印刷などで印刷所が大阪活版印刷所の場合、印刷人が関谷になっています。

宇野米吉は工業教育会(宇野利右衛門)の頃から中村盛文堂とのつきあいがあったようで、明治44年『紡織要覧』(https://dl.ndl.go.jp/pid/847936/1/218)など、明治末から大正2年頃までのものは印刷所が中村盛文堂、印刷人が橋村秀松となっています。大正3年の『模範工場日光電気精銅所』(https://dl.ndl.go.jp/pid/952064/1/148)や大正4年『紡績機械ダイヤグラム集』(https://dl.ndl.go.jp/pid/932908/1/87)あたりから印刷所は中村盛文堂であっても印刷人の名が宇野米吉に変わっています。

『紡績界』刊記によると、19巻1号(1928年1月)までは発行所が大阪府浜寺講演羽衣の紡績雑誌社、印刷所が大阪活版印刷所、そして紡績雑誌社営業所が大阪活版印刷所内(浪速区恵美須町三丁目200)にありました(https://dl.ndl.go.jp/pid/2381514/1/33)。中村盛文堂グループ時代に「工業日本社印刷部」という別名がつけられていた大阪活版印刷所ですが(https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/01/01/185045)、大正9年末の合資会社紡績雑誌社設立によって、名実ともに(?)紡績雑誌社印刷部であるところの大阪活版印刷所ということになったのでしょう。

そうして10年近くを〈紡績雑誌社印刷部〉として過ごした後、『紡績界』19巻2号(1928年2月)以降の刊記から大阪活版印刷所の名が消え、紡績雑誌社の事務所も大阪市信濃橋日清生命館に移転しています(https://dl.ndl.go.jp/pid/2381515/1/40)。

官報の全文検索によると、どうやら関谷が紡績雑誌社の印刷部門という立場を離れて独立したようです。

設立から半年ほどで合資会社としては解散したようですが、廃業してしまったわけではなく、『日本商工信用録 昭和7年度』によると合名会社の大阪活版印刷所として活動を続けたように思われます(https://dl.ndl.go.jp/pid/1145535/1/661)。ただし「館内限定」資料を含めても、こうした名鑑類のコンテンツで「大阪活版印刷所」が検索ヒットするケースの他、昭和4年以降の一般の印刷物は見当たりません。

「創業大正8年」とされ、「印刷機械5台、職工21名」を抱える大阪活版印刷所(『日本工業要鑑 昭和7年度(第22版)』https://dl.ndl.go.jp/pid/1077431/1/954)は、やはり昭和4年6月をもって解散し、関谷も印刷業界から足を洗ってしまったのかもしれません。

どうやら、関谷時代の大阪活版印刷所は、日本活字工業にはつながらない話で終わってしまう感じです。