日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字

「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」に書いていなかった、築地活版の初期ポイント活字のことを記しておきます。

アメリカン・ポイント・システム

日本にポイント活字を普及させた功績等で大正51916年に藍綬褒章を受けた東京築地活版製造所第4代社長の野村宗十郎(「藍綬褒章を拝受した野村宗十郎氏とは怎麼人か」『日本印刷界』77号〈1916.3〉46-51頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1517496/1/54、ポイント活字の紹介を含む記事を様々な機会に記していました。

最初のものが『印刷雑誌』1巻5号(明治241891年6月)に「東京築地活版製造所寄稿」として掲載されたものでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1498916/1/10、「今泰西諸國ニ於テ活字ノ基本トシテ一般ニ規定セラルヽモノハ我四號五號ノ中間ナルぱいかニ在ルガ如シ即チ此ぱいかハ六分一インチニシテ一フート七拾貮本ナリ之ヨリシテ又一インチヲ七十ニニ等分シ其七十二分一吋を以テ一トシ順次此一ヲ以テ其大小ヲ規定セリ」云々と解説されています。

『印刷世界』9巻6号(大正41915年6月)に掲載された野村宗十郎「日本に於けるポイントシステム」(後に大正元年版『新聞総覧』〈日本電報通信社、大正4年〉に転載)の「日本に於ける來歴」の項に「自分は千八百八十九年(二十五年前)米國貿易會社の手を經て桑港のパーマーエンドレインの見本帖を得て初めてポイントシステムの大小活字を確實に知ることが出來て」と書かれている通り、サンフランシスコのPalmer & Rey社が1884年に発行した活字見本においては「Americanと名付ける『1ポイント』が、Picaの12分の1であり、1インチの72分の1である」ことが明記されていますhttps://archive.org/details/newspecimenbook00palmrich/page/n7/mode/2up。「Small Pica」や「Long Primer」などという古くからの呼び名が単なる目安でしかなかった活字サイズの関係性を整理し「American system of interchangeable type bodies」と名付ける一定基準にする試みを最初に提唱したというシカゴMarder Luse社の、いまウェブ資源として閲覧できる1881年見本帖https://www.galleyrack.com/images/artifice/letters/press/noncomptype/typography/marder-luse/marder-luse-1881-dmm.pdfでは大小関係の整理はされているものの肝心の1ポイント(あるいは12ポイント=1パイカ)が物理的にどういう寸法なのかが示されていません(Richard L. Hopkins『Origin of The American Point System for Printers' Type Measurement』(Hill & Dale Private Press、West Virginia、1989年)によると、Marder Luse社の1879年見本帖『The Chicago Specimen』が「American system of interchangeable type bodies」の初披露となり(34-35頁)、やはりPicaの実寸は定義されていなかったようです)

野村は大正4年の「日本に於けるポイントシステム」中、「先に新聞に採用」と題する項において次のように記しています(『新聞総覧』54-55頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/425)。

明治三十七年の日清役で大分新氣運が促進されて居る所に丁度大阪で第五回勧業博覽会が開會されたので、築地活版製造所は九ポイント活字約三千個を主とし他のポイント十種ばかりを五六十個づゝ出品したが大阪毎日新聞社は大に之を注目されて、記者の菊池幽芳氏が綿密に調査して同紙上に二日間數段に渉つて委しく記載された。自分は愈よ気運の向ひて來たことを感じて大に自ら慶して居たが、其時旅順口が陥落したので九ポイント活字を記念せんとて陥落祝賀記念活字と稱したことを記憶して居る。

第五回内国勧業博覧会に出品された「他のポイント十種ばかり」というのがどのようなものであったのか、明確な記録を見つけ出すことはできていません。例えば第5回内国勧業博覧会事務局編『第五回内国勧業博覧会審査報告 第9部』における「活字、活版、字母」にも内訳は記録されていない状態でhttps://dl.ndl.go.jp/pid/994150/1/164、また菊池幽芳が明治36年3月22日・23日付『大阪毎日新聞』に記した博覧会レポートでも判明しません。

野村宗十郎は生涯1ポイントは72分の1インチだと記していましたが*1、実際にはMS&J社の所謂Johnson Picaを12等分した寸法を1ポイントとする、現在の私たちが言うところのアメリカン・ポイントが採用されていました。

築地活版の宮崎榮太郎が大正121905年3月に行ったという講演会(『印刷雑誌』に「新聞社と活字縮小(上)」〈4月号〉「新聞社と活字縮小(下)」〈6月号〉として掲載)で語ったところには、①シカゴ大火からの復興の際にMarder & Luse社がアメリカン・ポイント・システムを提唱したこと、②1インチを6パイカとするこの提案は多くの既存活字と合致せず負担が大きいため棄却され、デファクト・スタンダードであるMacKellar Smiths & Jordan社のパイカ業界標準として採用されたこと、③日本でも72ポイントが0.9964インチとなるマッケラー式のポイント活字が採用されており「本邦では以前は一吋の七十二分の一が一ポイントだと信じられて居りましたが、實際は少し異ひます」と正確な認識が示されています。

築地活版の最初のポイント活字――9ポイントと4.5ポイント

野村が大正4年の「日本に於けるポイントシステム」中「先に新聞に採用」の項に記した旅順陥落云々について、森銑三が『明治東京逸聞史 第2』(平凡社昭和441969年)で明治381905年1月6日付読売新聞掲載の「旅順陥落戦勝記念 ポイント式活字(九ポイント)発売広告」を紹介しています(183頁 https://twitter.com/uakira2/status/697387910564171777。これと同じ広告が同年1月4日付『東京日日新聞』2面に掲載されているなどhttps://twitter.com/uakira2/status/689047273418821633、野村の回想は、築地活版で最初に実用化したポイント活字として9ポ、18ポ、4ポ半という3種類が主に新聞用として発表された状態を指すようです。

これらの広告群については『印刷雑誌』15巻7号(明治381905年7月)に「九ポイント新活字」という記事が書かれているのですが、そこにも「然るに東京築地活版製造所が本年一月旅順陥落戦捷記念として賣出した九ポイント活字」云々と書かれており(208頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1499083/1/5)、また明治39年1月に発行された東京築地活版製造所『新製見本』4巻2号(印刷図書館蔵、Za320)には「九ポイント書體漢字」「仝 片假名交り」「仝 平假名交り」という見本が掲げられています。

東京築地活版製造所『新製見本』4巻2号(印刷図書館蔵)より九ポイント活字見本

さて、先ほど引用した「先に新聞に採用」と題する項の続きにはこう書かれています。

其後中央新聞の大岡力氏が弊社に來られて、九ポイント活字を見、之れだけで新聞を作らう、さうしたら新聞も美しく記事も豐富になるだらうといふので、採用される亊になつて九ポイント活字を七八千種製造して供給した。これは新聞紙に用ひられた嚆矢で其後函館毎日、大阪毎日、鹿兒島新聞其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた。

中央新聞による9ポイント活字の採用について、牧治三郎『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会、1972年)が巻末年表で明治391906年12月とし(705頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12047860/1/399)、また矢作勝美『活字=表現・記録・伝達する』(出版ニュース社、1986年)も同年同月としています(63頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12274057/1/38)。

確かに旅順陥落戦捷記念として広告された3種のうち9ポイント活字の総数見本が明治391906年に発行されているのですが(印刷図書館蔵『九ポイント明朝総數見本 全』Za321)、国会図書館マイクロフィルムで遡ってみたところ、中央新聞が本文に9ポイント活字の使用を始めるのは明治38年のことです。39年ではありません。11月1日付の紙面は従来の五号活字(1行19字詰め7段組)、12月1日付の紙面は9ポイント活字(1行19字詰め8段組み)で構成されています。

明治38年11月1日付『中央新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルム紙焼きより)
明治38年12月1日付『中央新聞』1面(部分、国会図書館マイクロフィルム紙焼きより)

明治39年12月の中央新聞がらみの出来事としては、12月1日付『中央新聞』1面に「商工戦士月旦 野村宗十郎君 築地活版の支配人 ポイント式発明者」という記事が掲載されていて、記事の中ほどに「築地活版製造所は殆ど我日本活版界の開祖で我中央新聞が率先して採用したる九ポイント式活字は即ち君に由つて案出せられたるものである」と書かれているのが目につきますが、活字史家type historianとして注目すべきは同記事の末尾。「君今印刷機械の製造を企て重ねて十八ポイント式活字の字母製造中に在りと聞く我印刷界の更に新生面を開かざるべからざるもの甚だ多し君それ幸いに自重せよ」とあります。紙面を見ると9ポイント本文に対するルビは既に4ポ半になっていますから、『九ポイント明朝総數見本 全』45頁に「四ポイント半平假名」「四ポイント半片假名」が掲載されている通り明治38年の段階でまず9ポと4ポ半が実用化され、18ポは40年か41年まで完成しなかったということになるようです明治41年1月の中央新聞に18ポの用例があるのを見つけているのですが、40年を調べそびれたまま今に至っています)

仮称「前期9ポイント仮名」と仮称「後期9ポイント仮名」

なお、前掲『新制見本』では〈打ち込み点〉がある形に作られていた「し」の字が、横浜市歴史博物館小宮山博史コレクションの『九ポイント活字総數見本 全 昭和四年五月改正』(1931:小宮山博史文庫「仮名字形一覧」:https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/jikei/data_katsuji/002019310/)と印刷図書館蔵『九ポイント明朝総數見本 全』(1906)では打ち込み点の無い形しか掲載されていないなど、細かく見ていくと初期の段階で幾つか調整されてから〈前期9ポイント〉とでも言うべき明治39年総数見本の仮名セットになったのかもしれません。

明治39年総数見本(仮称「前期9ポイント仮名」)と昭和4年総数見本(仮称「後期9ポイント仮名」)を比べていくと、「で」「ぼ」「ぽ」のように濁点・半濁点の位置が明らかに変更されていることに加えて文字が全体に若干小ぶりになるよう調整されたものがある他、「じ」「り」のように若干小ぶりかつ丸みを帯びるよう調整されたものがあるようです。逆に明治39年型で文字面が小さすぎたものが昭和4年型で大ぶりに作り替えられたのは、「え」だけではないかと思います。

築地9ポイント明朝の新旧比較(旧:印刷図書館蔵明治39年総数見本/新:横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵昭和4年総数見本より)

この25年間のうちに様々な調整が施されていたようだ、ということは言えるのですが、モデルチェンジのタイミングについては未詳です。

ちなみに、昭和5年1月に凸版印刷が刷った芥川龍之介『大導寺信輔の半生』(岩波書店昭和51930年1月)の本文活字は、ここでいう仮称「前期9ポイント仮名」です。

芥川龍之介『大導寺信輔の半生』(岩波書店、1930)104-105頁:「え」「で」「ぽ」に注目



以下2024年5月4日追記:
記事タイトルを「東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」から「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」に変更しました。

*1:活版印刷家の協同すべき二問題」〈『印刷雑誌大正11年2月号〉で野村は過去の解説を捨て「全米の活版業者の代表者が一八八六年末に協議することとなつた。その結果、米國の一印刷所マッケラー・スミス・ジョルダンのパイカ大の活字を十二分した寸法を以て標準としたのである。これが卽ちポイント式測定法であつた」という説明を記しますが具体的な寸法には触れていません。