日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

#NDL全文検索 で拾い集めた江川活版製造所と江川次之進の補足的情報

以前、江川活版製造所が明治20年代から30年代に開設したという支店の登記情報を『中外商業新報』から探しだそうとして挫折したことがあったわけですが(「中外商業新報等に見られる旧商法期の商業登記DB希求」〈https://uakira.hateblo.jp/entry/20130921〉)

そこで記していた通り、江川次之進の死亡時期は既に従来から判っていたので、「おそらくこのあたりにあるだろう」と見当をつけた時期の『官報』を虱潰しに調べて行って、「合名会社江川活版製造所解散」登記の公告と、「清算人決定」公告を見つけ出すことが出来ていました。

またそのブログ記事に「江川次之進の後妻にあたると思われる女性の情報が明治41年の『大日本婦人録』に江川次之進妻として記録されている」と記していたのは、安政5年6月生の「江川すゑ子」https://dl.ndl.go.jp/pid/779870/1/451のことなのですが、「江川次之進」と記されている部分がうまくOCRに拾われていないらしく、現時点のNDL全文検索では見つからない資料になっていたようです(「江川活版製造所」では検索可能)。

なお、「安政5年6月生の江川すゑ子」に関しては、当時も今も『大日本婦人録』以外の情報が全く判りません。当時は『大日本婦人録』編集者らが「妻登記」で得た情報なのではないかと想像していたのですが、少なくともNDL全文検索では登記情報に行き当たりませんでした。

今回改めて、2014年の「#ポ学会 07号掲載/江川活版製造所・江川次之進の件」https://uakira.hateblo.jp/entry/20141201についてディテールアップできることがないか、NDL全文検索で探ってみました。

『官報』のNDL全文検索で新しく見つかった江川次之進・江川活版製造所の情報

さて、そういうわけで「江川次之進」や「江川活版製造所」について、『官報』のNDL全文検索で他の情報を拾い集めてみました。

  • 1910明治43年10月1日、合名会社江川活版製造所設立登記(「合名会社登記簿第11冊第532号」「本店:東京市日本橋区長谷川町二十一番地」「目的:活字及諸器械製造販売ヲ以テ目的トス」「代表社員:江川貫三郎」社員「江川次之進/江川貫三郎/江川豊作/江川学博」1910年10月11日付『官報』付録1頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2951545/1/22
  • 1912明治45年2月8日、江川学博退社(江川学博持ち分「全部ヲ江川貫三郎ニ譲渡シテ退社」1912年3月6日付『官報』付録2頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2951968/1/19
  • 1912明治45年、江川活版製造所商号登記(「日本橋区商号登記簿第10冊第481号」「商号:江川活版製造所」「営業の種類:活版ノ製造販売業」「営業所:東京市日本橋区小網町四丁目三番地」「商号使用者:東京市日本橋区浜町一丁目二番地 西村幸」1912年4月1日付『官報』付録1頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2951989/1/22
  • 1923大正12年4月10日、東京江川活版製造所仙台支店商号新設(「商号:東京江川活版製造所仙台支店」「営業の種類:活字販売業其他附属品一切」「営業所:仙台市東一番町一丁目」「商号使用者:仙台市東一番丁一番地 濟谷川三作」1923年7月18日付『官報』付録13頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2955413/1/27
  • 1923大正12年、江川活版製造所商号新設(「日本橋区商号新設」「商号:江川活版製造所」「営業の種類:活字製造及印刷用諸材料製図販売」「営業所:東京市日本橋区小網町四丁目三番地」「商号使用者:東京市浅草区瓦町二十八番地 深町貞次郎」1923年7月31日付『官報』6頁中段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2955423/1/21

従来から『日本全国商工人名録』の記載が1911明治44年第4版あたりから「合名会社江川活版製造所」になっていることに気づいていたのですが、NDL全文検索のおかげで設立年月日が確定しました。

合名会社としての江川活版製造所の解散後、商号登記を行って屋号の維持を図ったようですが、「西村幸」という人物のことについては、現時点では何も判りません。次之進亡きあとの状況として、『本邦活版開拓者の苦心』https://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/110は「結局親族宇野三郎氏、加藤喜三郎氏等が経営の任にあたった」と記し、二六新報社『世界之日本』掲載の深町貞次郎略歴https://dl.ndl.go.jp/pid/946122/1/331が「明治45年2月同氏没後西村某氏の経営に属し」と記していた点について、後者の説を採った方が良さそうだと言える状態にはなったと思います。後者の情報は、印刷往来社『印刷産業綜攬 昭和12年度版』の深町貞次郎略歴https://dl.ndl.go.jp/pid/1261287/1/141が「(深町氏は)明治28年江川活版製造所に入って傍ら明治45年、西村幸氏の名義を以て斯業を開設したが、大正9年江川活版所主江川次之進氏の歿するや、これを譲り受けて現地に開業経営し」とイマイチ信憑性に欠け、何とも言えない情報でした。

さて、本業とは考えられなかったためか、あるいは代表者ではなかったからか、『本邦活版開拓者の苦心』https://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/107に全く触れられていなかった「江川次之進の事績」が『官報』の全文検索で新たに見つかりました。

江川活版全盛期と評された明治30年代に、平塚の小林活版石版印刷合資会社設立時、有限責任社員として出資していたのです。逝去に伴って息子の貫三郎が手続き上次之進の出資分を相続し、すぐさま代表社員あて譲渡の手続きを執り行ったことが判ります。

『官報』以外のNDL全文検索で新しく見つかった江川次之進・江川活版製造所の情報

次之進の「信仰心」関連

また『官報』以外の資料をNDL全文検索したところ、『本邦活版開拓者の苦心』が「宗教には深い関心を持ち本願寺へは毎年千五百円宛寄付され」云々と記しているhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1908269/1/110ことの一端が見つかりました。1912明治45年『婦人雑誌』4月号で「故江川次之進殿」と書かれる最期まで、「海岸寺婦人教会永続資金」の寄付を続けていたようなのです(https://dl.ndl.go.jp/pid/1580342/1/12)。

この『婦人雑誌』で検索ヒットする「江川次之進」の情報はほとんど全て「海岸寺婦人教会永続資金」の寄付のことなのですが、1件だけ毛色の違う情報が紛れ込んでいました。次之進の信仰心のことと江川活版製造所の様子が伺えるエピソードで、「散歩に出かけた置時計」とでも言っておきましょう(1896明治29年10月号〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1580158/1/16〉)

江川活版「鉄工部/鉄鋼所/機械製作部」関連

明治40年代の工業之日本社『日本工業要鑑』に掲載されている情報を、時系列で並べておきます:

『本邦活版開拓者の苦心』に「明治三十三年築地二丁目十四番地に、江川豊作氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった」とあることについて、今回のNDL全文検索でも「本林勇吉」や「本林機械製作所」では実のある結果が得られませんでした。

諸器械あるいは印刷機械などを製造する「江川活版鉄工部」の存在が1901明治34年印刷雑誌』11月号の名簿https://dl.ndl.go.jp/pid/1499041/1/15によって判明することを「研究ノート」に記していましたが、どうやら鉄工部は1897明治30年6月に創設されたものと考えてよいようです。また「合名会社江川活版製造所鐵工部」という独立した会社が明治43年10月に設立されたわけではなく、これは「合名会社江川活版製造所」として登記された江川活版の鉄工部門という位置づけになるのでしょう。

そう遠くない将来にNDL全文検索で新聞の検索ができるようになって欲しい(できれば大阪紙優先で)

手書きの文字も高精度にOCR認識できていると一部で話題の通り、NDL全文検索で江川行書活字の印刷物もかなり良く認識されていることに驚きました。

葉若茂『新撰日用用文独稽古』奥付(国会図書館デジタルコレクション)

上の画像は2012年頃に「近代デジタルライブラリー」で閲覧できたインターネット公開のNDC816つまり「日本語による「作文書」の類を示す図書分類」に属する資料を人力で虱潰しに調べていった時(「NDC816の江川行書」〈https://uakira.hateblo.jp/entry/20120712〉)に見つけた、「江川行書活字」をメインに使う本を数多く印刷している「堀越市太郎」が手掛けた本(葉若茂『新撰日用用文独稽古』https://dl.ndl.go.jp/pid/866586/1/37)の奥付です。

今回NDL全文検索で「堀越市太郎」をチェックしてみたところ、当時の自分の人力検索に漏れが無かったこと(と同時に、全ての奥付を目で見て拾い出していた「堀越市太郎」本をNDL全文検索で拾い出せること)が確認できて驚きました。江川行書活字なのにOCR認識出来ている!

行書体とはいえ活字の文字なので、純粋な手書き文字よりは楽勝なのでしょう。

NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー!

もっとも、苦手な文字もあるようで、人力検索で発見した貴重本、印刷者に江川次之進の名前が出ている綾部武雄『帝国作文大全』https://dl.ndl.go.jp/pid/865074は肝心の江川の名前がOCR認識されなかったらしく、キーワード「江川次之進」ではヒットしませんでした。本文の様々な文字や奥付でも「印刷者」などの読み取りに成功しているだけに、実に惜しいことになっています。

綾部武雄『帝国作文大全』奥付(国会図書館デジタルコレクション)

たまに読み落としがあるとはいえ、行書活字でもこれだけ高精度に読めていることが判ったので、「新聞広告の全文検索」への期待が嫌でも高まります。江川活版や関係会社の事績を跡付けていく作業で、新聞広告の拾い出しがどれほど役立ったか、ほんとうに計り知れないものでした(「江川行書活字と久永其頴書の名刺(付文昌堂)」〈https://uakira.hateblo.jp/entry/20120624〉)。『官報』がこれだけOCR認識できているので、本文の読み取り可能化も勿論期待しています。

各地方で登記公告されていた商業登記の類を検索したいというようなニーズも、そう遠くない近未来に満たされるようになって欲しいと、これは中小企業の歴史研究を手がける人に共通する切実な願望だと思います。

刊行後70年などを区切りにして、新聞各紙がNDL全文検索できるようになって欲しいと大きな声で皆さんご唱和ください。また、横浜毎日をはじめ関東の新聞復刻版は紙ベースで全国各地の図書館が既にそれなりに所蔵していたりしますから、できれば大阪紙優先でというのもお願いしておきたい所存。

大阪活字鋳造の陣容を #NDL全文検索 で更に掘り下げてみたら

前回「日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども」という記事で追いかけてみた、大阪活字鋳造株式会社と中原繁之助の周辺をNDL全文検索で拾い出してみて解ったことから、今回追加したい情報の起点となる2つを抜き出しておきます。

まずは『官報』で追ってみた大阪活字鋳造の登記情報から、設立登記。

  • 1928昭和3年12月23日、大阪活字鋳造株式会社設立(「本店 大阪市南区鰻谷仲之町三十九番地」「目的 印刷機及活版附属品ノ販売」「取締役 岡本省三 渡部醇 青木義則 中原繁之助」「会社ヲ代表スヘキ取締役 中原繁之助」「監査役 木村千幹」1929年3月6日付『官報』145頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957119/1/9
1929年3月6日付『官報』より大阪活字鋳造株式会社設立登記(国立国会図書館デジタルコレクション)

そして、創業以来少なくとも昭和14年までは代表取締役を務めていたらしい中原繁之助の略歴について、昭和28年の『人事興信録』17版下https://dl.ndl.go.jp/pid/3025812/1/177では次のようになっているのでした。

中原繁之助(日本活字鋳造㈱監査役)/明治25年6月11日中原庄兵衛の長男に生れた大正8年京大機械学科を卒業し川崎造船所安田機工所各勤務の後同14年欧米を一巡昭和3年大阪活字鋳造を創立後日本活字鋳造と改称現時監査役である先に紺綬褒章を授与された



さて、ここから新しい情報を追加していきます。まず中原繁之助について1点。昭和16年『人事興信録 第13版下』https://dl.ndl.go.jp/pid/3430444/1/302の記述により「昭和15年4月紺綬褒章を下賜せられ」たのだと、受勲の時期が判りました。中原の家系についてはこの資料がだいぶ助けになりそうです。

というわけで、以下、新情報の本番。

大阪活字鋳造創業メンバー岡本省三および渡部醇について

従来の記事では各取締役の住所を省いていたのですが、大阪活字鋳造株式会社設立の登記情報を掲げる1929大正4年3月6日付『官報』145頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957119/1/9には、岡本省三の住所が「大阪市東区内淡路町一丁目三十一番地」と掲載されています。この住所の岡本省三は、大阪活版印刷所の代表者または印刷部門の責任者だった人物と考えていいでしょう。明石喜一『本邦の諾威式捕鯨誌』(1910明治43年、東洋捕鯨https://dl.ndl.go.jp/pid/842783/1/228)の印刷者が、「大阪市東区内淡路町一丁目三十一番地」大阪活版印刷所の岡本省三ですね。

岡本省三の大阪活版印刷所は、1908明治41年頃の『工業之大日本』に中村盛文堂(大阪市西区北堀御池橋西詰)と連名で「各種印刷」引き受け広告を出しているのですが(例えば同年4月号〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1894378/1/81〉)。1911年『日本実業 第5年』2月号にこんな記事が書かれていましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1551312/1/34

盛大なる新年宴会 定期刊行物の印刷にて関西中に好評を広めつつある当市西区堀江通一丁目の中村盛文堂及其分身たる内淡路町善庵筋角の大阪活版印刷所は新春十日戎の吉祥日を卜し箕面電鉄沿線の清遊地として名高き宝塚の寿楼に於て盛大なる新年宴会を開きたる景況を概記せんに、出席者は来賓及両活版所の職員職工等にて無慮百五十有余名、最初茶菓の供応間に渡邊松菊齋氏(氏は中村活版所の職員渡邊醇氏の厳父にして夙に社会改良の志を立て社会教育に密接且甚大の関係を有せる浄瑠璃を改良して国民一般に社会的自覚の動機を付与するは一種有力の改良手段なりと云うが如き新年の下に郡長の栄職を抛うち、爾来説意専心の余りに成れる自作の浄瑠璃を演奏して社会改良の理想を実現せしめんと企図しつつある尊敬すべき篤志家なり)の新浄瑠璃児島備後三郎の一団は余興として演ぜらる、右了りて賓主一同楼前に出て撮影し設けの席に着するや、主人公中村宗作氏其の他氏の一族にして職員たる加藤九十郎、渡邊醇、岡本省三竹森次新及び氏の故旧にして亦た職員たる山上貞二郎諸氏挨拶の辞を述べ、而後献酬交錯、紅裾の斡旋によりて種々の余興は催ふされ賓主共に散会せしは盛大にして且芽出度き宴会なりき、因に記す中村活版所はニ三年来一層発展したる後期に乗じ昨年東京京橋区南金六町に支店を設け且つ浅草蔵前に職工養成所を創立し尚ほ当市にも職工養成所を設立の都合にて駸々乎として発展の歩武を進めつつあれば当日来賓中なる新聞雑誌社の各主任より記念銀杯一組を中村宗作氏に贈呈して其の盛運を祝したり

ここに「渡邊醇」という名が出てきますが、こちらも大阪活字鋳造の創業メンバーとして名を連ねている「渡部醇」でしょうか。NDL全文検索でもう少し資料を探っていきましょう。

1912大正元年『交通倶楽部』https://dl.ndl.go.jp/pid/1015998/1/54には、「当所は大阪活版印刷所の出店にして日英活版技工養成所関西卒業生の実習場として新設したるもの」という大阪市東区船越町二丁目「中央堂印刷所」の広告と、渡邊松菊齋の「通俗教育新浄瑠璃」が見開きの左右に並んで出ています。

1915大正4年『日本印刷界』72号に「和欧活版諸印刷迅速と廉価を以て貴需に応ず」という公告https://dl.ndl.go.jp/pid/1517491/1/13を中村盛文堂、大阪活版印刷所、中央堂印刷所、中村盛文堂分店(東京)、日英活版所(東京)の連名で出しているのは、そういう流れがあってのことなのですね(同じ文言の連名広告は『日本印刷界』の、1914大正3年の60号https://dl.ndl.go.jp/pid/1517479/1/60、61号https://dl.ndl.go.jp/pid/1517480/1/34以下しばらく続きます)。

1914大正3年『交通及産業大鑑』掲出の中村盛文堂本店、大阪活版印刷所(工業日本社印刷部)、盛文堂東京分店(英文通信社印刷部)、日英活版所(交通社印刷部)、中央堂印刷所(電気界印刷部)、日英活版技工要請養成所の連名で写真入りで出された豪華広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1016005/1/48では、全体を統括する「営業主 中村宗作」、「総代表者 岡本省三」、「東京代表者 岸山芳太郎」とされ、大阪活版印刷所の「営業主任 渡部醇」となっています。

1914大正3年『交通及産業大鑑』掲出の中村盛文堂グループ連名広告(国会図書館デジタルコレクション)

この渡部醇は大阪活字鋳造の創業メンバーとして名を連ねている「渡部醇」のことと思っていいでしょうか。発行所と印刷所の双方が大阪活版印刷所となっている『摂北温泉誌 : 附 三田、伊丹、池田、名勝』が1915年に出ていて、印刷人が「大阪市東区船越町二丁目30番地 渡部醇」と掲出されていましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1905150/1/125。大阪活字鋳造設立時(1928年12月)の渡部醇の住所は東区内淡路町一丁目3番地でした。同一人物と見ていいのかどうか、更に調査が必要なようです。

1916大正5年『交通及工業大鑑 日露号』https://dl.ndl.go.jp/pid/966730/1/147には、大阪活版印刷所(主任 岡本省三)と中央堂印刷所(主任 山上貞次郎)の評判記が同一見開きに出ています。

1922大正11年頃の印刷物から、大阪活版印刷所の所在地が大阪市南区貝柄町321になりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970395/1/203、責任者である印刷人の名も同所の関谷紋次https://dl.ndl.go.jp/pid/969577/1/286という人物に変わっています。岡本省三や渡部醇がどういう境遇になったのかは判りません。

気を取り直して「渡部醇」で検索し直してみた結果、「中村宗作」では見つけられなかった「合名会社中村盛文堂」の設立登記公告が見つかりました。

  • 1911明治44年3月27日 合名会社中村盛文堂設立(「本店大阪市西区北堀江下通一丁目九番地」「目的活版印刷機械器具製造印刷販売活版印刷簿冊ノ製本」「代表社員 中村宗作」以下「西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「村上修」「竹森次新」「中村要」「東区内淡路町一丁目三十一番地 渡部醇」「三井清次」「石井宗次」「林梅蔵」「高田政」「加藤ヒデノ」「岡本ケイ」「岩森福松」「鈴木のぶ」1911年4月24日付『官報』付録3頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2951705/1/15

登記なので全員住所と出資金額の記載がされているわけですが、差し当たり必要な三名以外の住所は省きました。渡部醇が大阪活版印刷所の所番地と同じ住所になっていますね。大阪活字鋳造設立(1928昭和3年12月)に加わった渡部醇と同一人物だと思っていいでしょう。

さて、1911明治44年『日本実業 第5年』2月号の中村盛文堂グループ新年会報告記事https://dl.ndl.go.jp/pid/1551312/1/34で「渡邊醇」と書かれていた人物が大阪活字鋳造設立に加わった「渡部醇」と同じ人物を指すようだと判ったところで、ちょっと脱線になりますが改めて同記事に着目しておきたい箇所があります。

渡邊松菊齋氏(氏は中村活版所の職員渡邊醇氏の厳父にして夙に社会改良の志を立て社会教育に密接且甚大の関係を有せる浄瑠璃を改良

「中村活版所の職員渡邊醇氏の厳父」で「社会教育に密接且甚大の関係を有せる浄瑠璃を改良」し、「通俗教育新浄瑠璃(1912年『交通倶楽部』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1015998/1/54〉)を発表していた「渡邊松菊齋」は、後に『国民教育新作浄瑠璃』(1913、中村彩文館https://dl.ndl.go.jp/pid/945405/1/3)では著作者名「渡部松菊齋」と記されています。かつて国会図書館著作権情報公開調査が行われたものの収穫がなく、現在の典拠情報でも生没年不明のままになっているようですhttps://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00429535。「渡邊醇」ルートから何か判ることがあるかもしれないと思い、念のためこの情報を付記しておきました。

「渡部醇」の名は、中村盛文堂グループ参画以前の1898明治31年、西村鉄次郎編『日本商業事情』に「印刷者:大阪市西区新町北通一丁目二百卅八番邸 渡部醇〈https://dl.ndl.go.jp/pid/803496/1/53〉」という奥付は見つかるものの、これが同一人物なのかどうか、現時点では判りません。

ついでに記しておくと、1901明治34年、滝村竹男『紡績の栞』に「印刷者:大阪市南区鰻谷西之町百七十二番屋敷 岡本省三」「印刷所:大阪市南区鰻谷西之町 盛文堂活版所」という奥付https://dl.ndl.go.jp/pid/847944/1/62が見つかりますが、いま追いかけている岡本省三のことかどうか、これも判断がつきません。「盛文堂活版所」という屋号がものすごく気になりますよね。

さて、引き続き「渡部醇」の検索を続けると、1925大正14年、中村盛文堂の変更登記(増資・増員)の公告に「岡本省三」と「渡部醇」の名があります。

  • 1925大正14年4月26日、合資会社中村盛文堂変更(「無限 岡本省三」「有限 竹森盛一/岡本要/渡部醇/石井宗次/加藤ヒデノ/岡本ケイ/岩本貞作/青木義則」「入社 有限 村上多佳子」1925年7月29日付『官報』2頁2段目https://dl.ndl.go.jp/pid/2956028/1/19

大正15年、葛野壮一郎『伝説の仏陀https://dl.ndl.go.jp/pid/921188/1/65あたりが大阪活版所・渡部醇としての最後の仕事になるようで、NDL全文検索の「古い順」で次に見つかるのは同姓同名の人物を除き、大阪活字鋳造の設立登記を公告する『官報』になっています。

さて、大正14年4月26日付で行われた中村盛文堂の変更登記には中村宗作の名が見えず、岡本省三が無限責任社員となっていました。グループを束ねていた宗作がこれ以前のどこかの段階で亡くなったということでしょうか。また、明治44年に合名会社として発足した中村盛文堂が、ここでは合資会社になっています。

キーワード「中村盛文堂」で『官報』を検索していくと、合資会社中村盛文堂として発足した際の登記公告がありました。

  • 1919大正8年10月5日、合資会社中村盛文堂設立(「本店、大阪市西区北堀江池通一丁目九番地」「目的、活版印刷機械器具製造販売及印刷製本」「無限 大阪市西区西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「有限 同所 岡本ケイ」「有限 竹森次新」「有限 岡本要」「有限 東区内淡路町一丁目三番地 渡部醇」「有限 三井清次」「有限 石井宗次」「有限 林梅蔵」「有限 岩森福松」「有限 加藤ヒデノ」1919年12月11日付『官報』6頁中段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2954320/1/21

大正8年合資会社中村盛文堂設立登記で既に中村宗作の名が見えず、岡本省三が無限責任社員となっていたことが判ります。

国会図書館デジタルコレクションで大正期の『日本印刷界』を見ていくと、毎号、中村盛文堂グループ連名での1頁全面広告が中村宗作名で掲出されているのですが、1918大正7年10月の108号まで出ていた広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1517527/1/18が、翌月の109号以降掲出されていないことが判ります。このあたりのタイミングが怪しそうです。

キーワード「中村宗作」で『官報』を検索したところ、死亡を伝える合名会社中村盛文堂の変更登記が見つかりました。

中村宗作が大病を患ったか何かのために大正7年秋ごろに経営の第一線から退いて静養に努めていたものの、大正8年8月に亡くなった、ということでしょうか。宗作の逝去に伴い「合資会社大阪活版所」の代表者(無限責任社員)を岡本省三とする等の変更登記が、1921大正10年の官報にありました。

存続できた会社があった一方で、整理されたものもあったようです。

さて、改めてキーワード「中村盛文堂」での『官報』検索をもう少し続けてみましょう。

大阪活字鋳造株式会社設立メンバーだった青木義則の名が現れていることに注意しつつ、更に「中村盛文堂」での『官報』検索を続けると、非常に重要な登記の公告に出会いました。中村宗作亡き後の中村盛文堂を合資会社として存続させ、後に大阪活字鋳造株式会社の創設にも関わった主要人物が、昭和7年12月に「株式会社大阪活版所」と「株式会社中村盛文堂」を相次いで設立登記していたのです。

  • 1932昭和7年12月1日、株式会社大阪活版所設立(「本店:大阪市東区内淡路町一丁目七番地」「目的:印刷製本活字鋳造機械及材料品ノ売買/右ニ関スル付帯業務」「取締役:岡本省三/笹部友三郎/渡部醇/中原雄之助」「会社ヲ代表スヘキ取締役:岡本省三」「監査役:久世有三/青木義則」1933年2月3日付『官報』10頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958298/1/23
  • 1932昭和7年12月5日、株式会社中村盛文堂設立(「本店:大阪市南区鰻谷仲ノ町三十九番地」「目的:諸印刷製本及印刷附属品洋紙ノ販売」「取締役:岡本省三/中原繁之助/大阪市天王寺区松ヶ鼻町八十一番地 山上貞一/竹森盛一/青木義則」「会社ヲ代表スヘキ取締役:岡本省三」「監査役:久世有三/渡部醇」1933年2月3日付『官報』10頁3-4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958298/1/23

これを受けて、合資会社中村盛文堂は解散となりました。

2023年1月現在のNDL全文検索で追える『官報』掲載の中村盛文堂の情報はまだあと少し残っているのですが、大阪活字鋳造株式会社創設メンバーの情報を知るには以上で概ね十分でしょう。やはり、「日本活字工業株式会社の社史」を私製することを考えた場合、「奥田家の100年」的なストーリーの一方で、これまで全く念頭に無かった「中村盛文堂グループを継いだ者たち」を照らし出すことが必要であることが、少なくとも自分にとっては明確になったように思います。

ちなみに、1925大正14年の日本秘密探偵社『職業別信用調査録』では(他の人物と違って)この時点で奥田捨松に子弟の記載が見えませんから(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020824/1/348)、やはり養子として兄弟を迎えたものと思われます。

明治大阪の印刷出版人「自由堂」山上貞二郎(貞次郎)は「本名山上貞一」なのか

先ほど記したように、1916大正5年『交通及工業大鑑 日露号』https://dl.ndl.go.jp/pid/966730/1/147に中央堂印刷所の主任として山上貞次郎という名が掲げられていました。合名会社中村盛文堂の設立時の登記には見かけなかった人物です。

大阪の印刷人で山上貞次郎という名に見覚えがあるなぁ、それも明治20年代、「前田菊松」などと同じ頃に。――と思って当時のノートを振り返ってみると、「貞次郎」ではなく「貞二郎」という表記で、1888明治21年、さひき主人『迷雲』(印刷者:大阪平野町二丁目十一番地「自由堂」山上貞二郎https://dl.ndl.go.jp/pid/888282/1/74)、1894明治27年、霞城山人『悪奉行』(印刷者:大阪市東区平野町二丁目二十四番邸「自由堂活版部」山上貞二郎https://dl.ndl.go.jp/pid/885270/1/120)などが見つかりました。

1894明治27年『大阪実業名鑑』https://dl.ndl.go.jp/pid/779111/1/161を見ると「東区平野町二丁目二四邸 自由堂 山上貞次郎」となっていたりしますから、「貞二郎」「貞次郎」はどちらでも良かったというパターンかもしれません。検索時に注意が必要ですね。

いま検索し直してみると、1893明治26年『浪華草紙 第1集』(印刷者:大阪市東区平野町二丁目二十四番屋敷「自由堂活版所」山上貞二郎https://dl.ndl.go.jp/pid/1601331/1/35)と、「自由堂活版所」を名乗った場合もあったようです。

同じ1893明治26年『競忠貞浪華文庫』の奥付には「発行兼印刷者:大阪市東区平野町二丁目廿四番邸 山上貞二郎」「印刷所:大阪平野町二丁目浪花橋筋角 自由堂活版部」とありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/891458/1/142。これは明治27年1月9日分の「版権登録図書」として同年2月21日付『官報』(付録3頁下段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2946456/1/9〉)に「著作及版権所有者大阪市山上貞二郎」の広告が出されていますね。この節の見出しを「明治大阪の印刷人」ではなく「明治大阪の印刷出版人」とした所以です。

1902明治35年9月刊という『日本商工営業録』https://dl.ndl.go.jp/pid/803749/1/255に掲げられた「大阪市南区心斎橋筋一丁目」の「自由堂」「山上眞次郎」がこれまで見てきた「自由堂 山上貞二郎」と同一人物を指すのかどうか。過去に印刷:山上・発行:駸々堂という形で盛んに仕事をこなしてきた組み合わせで明治34年に発行された『探偵小説集第45集 探偵余譚白露骨』では「印刷者:大阪市南区心斎橋筋一丁目一番地 山上貞次郎」https://dl.ndl.go.jp/pid/890748/1/45となっているので、何らかの事情で改名・転居していたのかもしれませんが、おそらく転居は実際に行われていて、「山上眞次郎」は「山上貞次郎」の誤植なのでしょう。

独立独歩で印刷業を営んでいた前田菊松が一時期活版製造周拡社へ印刷部門の責任者として加わり後に再び独立していったように(「横浜市歴史博物館2022 #活字展 図録と明治期に「古印風」活字を生み出した活版製造周拡合資会社の周辺情報」〈https://uakira.hateblo.jp/entry/2022/12/11/223408〉)、山上貞二郎(貞次郎)も独立系印刷業者としてスタートした後に中村盛文堂グループへ参画していったのではないかと想像するのですが、現時点ではこれ以上の手がかりが見つかっていません。

実は、「山上貞次郎/貞二郎」は商人名跡であって本名は異なるのではないかと思われる資料があります。中村盛文堂グループである「合資会社大阪活版所」設立登記と、「渡部醇」の検索で見つけた同グループ「合資会社中央堂印刷所」設立登記です。

  • 1915大正4年4月22日、合資会社大阪活版所設立(「本店東区内淡路町一丁目三十一番地」「目的諸印刷製本及活版字ノ製造販売」「無限 中村宗作」「無限 東区船越町二丁目二十七番地 渡邊醇」「有限 和田助一」「無限 西区西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「有限 竹森次郎」「有限 岩森福松」「有限 南区長堀橋筋二丁目二十二番地 山上貞一」「有限 平井勇吾」「有限 三井清次」「代表社員中村宗作」1915年5月12日付『官報』315頁上段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2952938/1/15
  • 1922大正11年1月13日、合資会社中央堂印刷所設立(「本店大阪市東区船越町二丁目三十番地」「目的活版石版印刷活字製造及販売紙製品製造及製本業」「代表社員 岡本要」「有限 大阪市西区西長堀南通一丁目七番地 岡本省三」「無限 同所 岡本要」「有限 中村ツルヱ」「有限 山田徳松」「無限 同市東区船越町二丁目三十一番地 山上貞一」「有限 同区内淡路町一丁目三番地 渡部醇」「有限 岩森福松」「有限 岩森清吉」1922年5月4日付『官報』12頁下段〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2955041/1/32

設立の登記なので全員住所と出資金額の記載がされているわけですが、差し当たり必要な三名以外の住所は省きました。大正4年に「渡邊醇」だった者が大正11年に「渡部醇」となりまた大阪活字鋳造設立の登記と同じ住所になっています。注目したいのが「山上貞一」という名前と住所。合資会社中央堂印刷所設立時の山上の住所は新設中央堂印刷所のすぐ隣(30番地と31番地)で、無限責任社員として出資。代表社員こそ岡本要であるとはいえ「山上貞次郎」は後に「中央堂印刷所」の主任として名前が出ていることを先ほど見てきたところです。《自由堂以来腕利き印刷人としてその名を売ってきた「山上貞次郎(貞二郎)」こと本名「山上貞一」》なのではないでしょうか。

とはいえ、中央堂印刷所名義で行われた書籍類の印刷は「中央堂印刷所 山上貞一」名義で行われていたようです。実際のところは、現時点では判りません。

という登記が大阪活版所や中村盛文堂が株式会社した昭和7年以降に見えていることから、中央堂印刷所は合資会社のまま存続していたらしいことが判ります。

中村盛文堂による所有権保存登記から見える大正5年の活版印刷工場資器材一式

工場統計などでたまに機械類の数量や動力合計、工員の人数などが個別の事業者ごとに判明するケースがあり、また『開業案内』本の類で印刷業を始めるにあたってどのような資器材が必要かということがカタログ的に示されることもあるのですが、実際に運用されている事業所の資器材が大は鉄製24頁ロールマシンから小はゲラ箱やステッキなどまで細々と判明することはまず無いと言っていいでしょう。

どういう事情で所有権保存登記が必要になったのか判りませんが、1916大正5年7月1日付『官報』11頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2953285/1/6に公告された合名会社中村盛文堂申請の「工場財団ニ属スヘキモノ」を掲げておきます(漢数字をアラビア数字に改め、一部カギカッコを外しました)。

工場財団目録

種類 構造 製作者 製作年月日 員数
印刷機 鉄製24ページロールマシン 大阪市大中鉄工所 大正4年11月日不詳 1台
鉄製16ページロールマシン 明治43年5月日不詳 5台
鉄製8ページロールマシン 2台
動力用車 鉄製シャルト及ベルト車 9箇
革帯 長さ1丈8尺幅2吋 大阪市革帯製造所 明治43年1月日不詳 9筋
印刷用活字 鉛製込物大小共 不詳 不詳 5千貫
印刷用ケース 木製 1220枚
印刷用ケース台 35台
印刷用版置台 230台
印刷用ゲラ箱 1000箇
印刷植字用ステッキ金盆 鉄製 7箇
印刷用植字台 木製十人分 5台
通話用電話機 金属製西3・063 1台

右は総て運転状態有姿の儀


NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、NDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)サイコー、と小躍りしながらどんどん掘り進めていって……というか何者かに沼の奥へ引きずり込まれていって、深みにはまっているような気がします。

ピンポイントで知りたい事柄が出てくるとは限らないんだけど、色々な断片が繋がって大きな絵がうっすら見えてきたような気がしたら、探していたよりはるかにすごい景色になっていたというか。

「もう ドキドキもトキメキも」

「抑えられない たまんない」

「熱いハラハラが止まらない」

掘っているつもりで引きずり込まれているあいだ、ずっとこんな感じだったわけで。

あの画質でマイクロフィルムからデジタル画像化された『官報』から、しかも普通の明朝活字だけでなく康煕字典体活字の時期も含めてものすごく高精度に文字認識できちゃってる“過去の悪魔”と踊るNDL全文検索 (ぜんぶんけんさく)最高!シリーズ、もう少しだけ、短いのが(たぶん複数回)続きます。

日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども

この記事のタイトルは「国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによって全文検索機能が大幅に強化されたおかげで『官報』に公告された商業登記が探しやすくなったので日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども中途半端なところまでしかたどり着けなかった」という具合になる予定だったのですが、SNS的に130字を超える長さはどうなのかと考え直して切り詰めました。

さて、かつて存在したホームページの会社案内から、〈1894年(明治27年)大阪堂島に「奥田精文堂」として創業〉したとされ、残念ながら2004年に会社更生法を申請し、2014年にはホームページも消滅してしまった日本活字工業株式会社。

要出典のWikipediaには記載がありませんが、ニコニコ大百科に「日本活字工業とは」という解説記事が書かれています。「他のタイプファウンドリーとともに日本におけるタイポグラフィの黎明に寄与した。」という文の「タイポグラフィの黎明に寄与」って具体的にはどういう話をイメージしておいででしょうかと記事執筆者に確認したい気持ちになるものの、他はまぁまぁ良く書けているような気はします。一応、『大阪印刷百年史』(1984大阪府印刷工業組合)の各社沿革史によると、1894年に初代奥田捨松が興した奥田精文堂活版製造所に端を発する日本活字工業は、1945年に戦災で全焼したものの1946年に日本活字鋳造株式会社として再興、1956年に日本活字工業株式会社へと名を改めたもの――という情報を、ここに付け加えておきましょう。

参考に、『モリサワ写真植字書体総合見本長 MORISAWA 80』(1979)から「日本活字細明朝体NA1」の書体見本を掲げ、また併せて日本活字工業『NTF活字書体』(1963年発行のバインダー式見本帳)から二号明朝と四号明朝の見本も載せておきます。

モリサワ写真植字書体総合見本長 MORISAWA 80』より日本活字細明朝体NA1見本(部分)
日本活字工業『NTF書体見本』より二号明朝見本(部分)
日本活字工業『NTF書体見本』より四号明朝見本(部分)

ニコニコ大百科の記事で「日活明朝体(NTF-MM / MB)」の解説に「JRAのCM「20th Century Boy」などの用例が知られている」と書いてありますが、これは1990年代の名競争馬をモチーフに作成された「JRAの本気」などと称される2011年放送のG1レースCMでキメのコピーを映像化するのにデジタルフォントの日活明朝体が使われたという話です。

「群れに答えなどない。」

「僕らは、ひとりでは強くなれない。」

CMを手掛けた小林大祐氏のお仕事(works)(https://dadada.works/jra-g1-2011/)で、超カッコいい2011年G1レースCM映像を見ることができるようです。

2011年JRAジャパンカップ」30秒CMの18秒あたり(小林大祐氏のdadada.worksより)

本文サイズの「日活明朝体」が作られたのは1950年代のいつ頃なのか

さて、この本文サイズの日活明朝体というのは、1950年代にベントン彫刻機を前提に設計製作された金属活字として誕生しています。『NTF書体見本』の奥付にも「使用母型:NTFベントン彫刻母型」と書かれています。

佐藤敬之輔『ひらがな 上』(1964、丸善)巻末の「設計者の略伝」に記された太佐源三(たいさ・げんぞう)の作品年譜では、昭和26年(1951)の仕事として日本活字の五号と六号の「みんちょう体漢、平、片仮名」の「ベントン彫刻機用原字設計」を手がけたとされているのですが、ちょっと腑に落ちないところがあります。太佐源三は朝日新聞社活版部で活字彫刻に従事した後モトヤの嘱託となり、さらにモトヤの常勤顧問となっているのですが、隔月刊誌『デザイン』5号(1978年7月、美術出版社)の「中垣信夫連載対談 第4回―モトヤ活字の設計思想 印刷と印刷の彼岸」に掲載されている太佐の略歴(1953〔昭28〕朝日新聞社を定年退社。同年、㈱モトヤにタイプデザインとデザイナー養成指導のため嘱託となり、後、デザイン部長として入社、役員となる。1958〔昭33〕モトヤを定年退職、非常勤顧問となる。1969〔昭44〕モトヤ常勤顧問となり、タイプデザインの仕事に従事現在に至る。)と、どうも辻褄が合わないように思われるのです。

1935年刊『全国印刷材料業者総攬』に掲載された奥田精文堂の「各種活字書体一覧」https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/296と、1952年刊『印刷百科辞典』に掲載された日本活字鋳造の「和文活字書体略見本」https://dl.ndl.go.jp/pid/2461701/1/95に掲載されている活字書体を見ると、『印刷百科辞典』に掲載された二号明朝のひらがなは確かに1954年の日本活字鋳造『新用字法準拠 標準活字目録』https://twitter.com/uakira2/status/495561820325675008や1963年の日本活字工業『NTF活字見本』https://twitter.com/uakira2/status/646651833381851136などに見られる新しい書風のものに切り替わっているように見えるものの、五号のひらがなも六号のひらがなも古い時代の書体のままで、日本活字オリジナルではないように見受けられます。

1957年『月刊印刷時報』10月号掲載の「日活型正楷書・教楷書見本」の広告文https://dl.ndl.go.jp/pid/11434624/1/72は9ポイントの日活明朝体と角ゴシックで組まれており、1950年代に本文サイズの日活明朝体が出来上がっていたことは間違いないようなのですが、太佐の関与がどの程度だったか、また正確な販売開始年がいつ頃だったか等は未詳という他ありません。

本文サイズの「日活明朝体」が作られたのは、日本活字鋳造時代なのか、日本活字工業時代なのか。

1951年から56年までの『月刊印刷時報』に掲載されたであろう広告や雑報を追っていくことで太佐の関与はともかく販売開始年は「新発売」などの表現である程度確定させられる可能性があるわけですが、残念ながら「1950年代の『月刊印刷時報』所蔵先リスト」https://uakira.hateblo.jp/entry/2022/12/30/203953に見られるように国会図書館には所蔵がありません。



さて、ここからが本題です。何といっても、この記事は

国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによって全文検索機能が大幅に強化されたおかげで『官報』に公告された商業登記が探しやすくなったので日本活字工業株式会社の社史を私製してみようと思い立ったのだけれども中途半端なところまでしかたどり着けなかった

というタイトルになる予定だったのでした。

まずは国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービス提供開始によって閲覧可能となった1955『日本印刷人名鑑』https://dl.ndl.go.jp/pid/2478821/1/248と1964『沖縄商工名鑑』https://dl.ndl.go.jp/pid/2528983/1/288によって、『大阪印刷百年史』の沿革を補ってみたいと思います。

『大阪印刷百年史』1984『日本印刷人名鑑』1955『沖縄商工名鑑』1964
奥田福太郎(470頁)朝日多光(465頁)日本活字工業株式会社(532-533頁)
1894明27奥田捨松(1864-1931)が、大阪堂島に奥田精文堂活版製造所を創業 明41年1月21日生、「光子夫人と一男(策春氏)あり」「令弟喜一郎氏また活字界有数の学識者として補佐している」 明41年4月25日生、「昭和20年9月、日本活字鋳造株式会社創設と同時に取締役社長」「昭和22年10月、企業独占禁止法により村井、日本活字鋳造、大阪写真製版、朝日輪業の各代表取締役を辞任」 当社は昭和3年12月、大阪活字鋳造㈱として創業、昭和20年3月、戦災のため休業、同21年2月、日本活字鋳造㈱と改称して再出発、同31年4月、現称号に改称す。
1931昭63奥田捨松翁逝去(67)、奥田福太郎(32)事業を継承
1945昭206戦災で全焼
1946昭211川口町の焼けビルに手廻鋳造機7台で日本活字鋳造㈱を発足
1947昭223現在地に営業所ついで工場を移転
1948昭234技術部研究室を設け原字と母型制作を開始、日活書体製作の母胎となる。
1951昭265ベントン彫刻機による母型制作を開始。日活書体を逐次発表し我国の活版印刷近代化を促進す。
1952昭2711東京営業所を日本橋浜町に開設
1954昭299東京支店と工場を新宿区箪笥町に開設
1955昭303業界初の常設展示場とベントン彫刻工場完成
1956昭31この年、日本活字工業株式会社と改称
1957昭325全日本活字工業会結成され、奥田福太郎西部支部長に就任。
1965昭406奥田福太郎社長逝去(58)、代表取締役に奥田繁晴(37)就任。
1980昭553奥田繁晴逝去(52)、代表取締役社長に奥田真史(26)就任。

いちいち書き出しませんでしたが、1955『日本印刷人名鑑』による奥田福太郎略歴に示された事業の足跡は、『大阪印刷百年史』と瓜二つ、たぶん『大阪印刷百年史』では1955年あたりまでの沿革について『日本印刷人名鑑』を参照して書かれたのでしょう。

他の資料を見ると、大阪活字鋳造という新しい組織が出現してきたり、日本活字鋳造の創業社長が別人(朝日多光)という記載があったりと、小さな謎が増えてきました。

大阪活字鋳造と中原繁之助の周辺をNDL全文検索で拾い出す

まずは『官報』で大阪活字鋳造の登記情報を追ってみましょう。

  • 1928昭和3年12月23日、大阪活字鋳造株式会社設立(「本店 大阪市南区鰻谷仲之町三十九番地」「目的 印刷機及活版附属品ノ販売」「取締役 岡本省三 渡部醇 青木義則 中原繁之助」「会社ヲ代表スヘキ取締役 中原繁之助」「監査役 木村千幹」1929年3月6日付『官報』145頁3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2957119/1/9
  • 1932昭和7年10月、取締役等重任(「会社ヲ代表スヘキ取締役タル取締役 中原繁之助取締役岡本省三青木義則渡部醇ハ 昭和七年十月二十日重任ス」「監査役木村千幹ハ同日重任ス」1932年12月16日付『官報』23頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958261/1/29
  • 1933昭和8年12月、取締役等変更(「取締役青木義則ヲ昭和八年十二月三十日解任シ左記ノ者同日取締役ニ就任ス/竹森盛一」「監査役木村千幹ハ同日退任シ左記ノ者同日監査役ニ就任ス/笹部友三郎」1934年2月14日付『官報』400頁2段目・3段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2958608/1/11
  • 1937昭和12年10月、取締役等変更(「取締役岡本省三ハ昭和十二年十月二十一日辞任シ左記ノ者取締役ニ就任ス/竹森盛一」「監査役竹森盛一ハ同日辞任シ左記ノ者監査役ニ就任ス/中江喬三」1937年1月13日付『官報』281頁1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2959794/1/13
  • 1939昭和14年2月、取締役等重任(「取締役中原繁之助同笹部友三郎会社ヲ代表スヘキ取締役中原繁之助ハ昭和十四年二月十五日重任ス」1939年5月3日付『官報』24頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2960188/1/30
  • 1939昭和14年4月、中原繁之助転居(「四月十八日 取締役中原繁之助ハ住所ヲ西宮市××ニ移転ス(××は引用者伏字)」1939年7月29日付『官報』21頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2960263/1/44
  • 1939昭和14年10月、監査役重任(「監査役中江喬三ハ昭和十四年十月二十一日重任ス」1939年12月14日付『官報』24頁4段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2960377/1/30

さしあたり、『官報』全文検索で拾える「大阪活字鋳造」関係の登記情報は、以上のようなものでした。昭和8年3月に大阪活字鋳造の監査役に就任した笹部友三郎が昭和14年2月の登記で「取締役ヲ重任」していますから、この間のどこかのタイミングで監査役を辞して取締役に就任しているのでしょうが、全文検索では該当する『官報』に行き当たっておりません。また、1964『沖縄商工名鑑』が記す「昭和20年3月、戦災のため休業」というところまで、どのような体制で存続していたのか――あるいは本当は存続していなかったのか――、そのあたりも不明です。

なお、創業以来、少なくとも昭和14年までは代表取締役を務めていたらしい中原繁之助の略歴について、『帝国大学出身名鑑』は次のように記しています昭和7年初版に記された家柄の記述は興味深いものであるものの、ここでは我々にとって重要な情報を明記している昭和9年「再版」の記述を拾います)

中原繁之助(大阪活字鋳造株式会社専務取締役)君は大阪府人中原庄兵衛の長男にして明治25年6月11日を以て生る、夙に府立北野中学、第三高等学校を経て大正8年京都帝国大学工学部機械科を卒業し直ちに川崎造船所に入所技師となり後辞して安田商事株式会社鉄工所に勤務せしが同所閉鎖に依り退職す、昭和3年12月大阪活字鋳造株式会社を創立し同社専務取締役に就任現在に至る

また、昭和28年の『人事興信録』17版下https://dl.ndl.go.jp/pid/3025812/1/177では次のようになっており、大阪活字鋳造が日本活字鋳造に繋がっているらしく記されています。

中原繁之助(日本活字鋳造㈱監査役)/明治25年6月11日中原庄兵衛の長男に生れた大正8年京大機械学科を卒業し川崎造船所安田機工所各勤務の後同14年欧米を一巡昭和3年大阪活字鋳造を創立後日本活字鋳造と改称現時監査役である先に紺綬褒章を授与された

日本活字鋳造と奥田福太郎をNDL全文検索

国会図書館デジタルコレクションの全文検索では、戦後の資料しかヒットしないようです。最初にヒットするのが1948年『人事興信録』15版に掲載されている、朝日多光(15版上〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2997934/1/44〉)と土肥芳夫(15版下〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2997935/1/75〉)。1948年『人事興信録』15版編纂の段階では朝日多光が戦後設立された日本活字鋳造の社長であると認識されています。

ともあれ、「古い順」で『人事興信録』15版の次にヒットする1949年『日本職員録 昭和24年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/8797888/1/272の記述から、1949年当時の日本活字鋳造の概要をつかんでおきましょう。

  • 日本活字鋳造株式会社:大阪市北区真砂町39/川口工場:西区川口町36/森之宮工場:東区森之宮東之町543/加島工場:東淀川区加島町1071
  • 設立:昭和3年12月
  • 事業:活字母型並活字及印刷機械及材料の製造販売
  • 社長:奥田福太郎
  • 取締役兼総務部長:土肥芳夫
  • 取締役兼業務部長:森 昇
  • 取締役兼業務第二部長:前田小一郎
  • 取締役兼技術部長:奥田喜一郎
  • 取締役兼工務部長:中原繁之助
  • 取締役:岡田鐵治郎
  • 監査役:金原忠雄
  • 監査役:河畑松次郎

「奥田福太郎」での検索で出てくる1948年『全国商工名鑑 上巻』に掲載されている日本活字鋳造株式会社の広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1124889/1/362では、「代表取締役 奥田福太郎」である他、各拠点が次のように記されています。

さて、奥田福太郎と大阪活字鋳造、日本活字鋳造の略歴についてかなり重要なことが書かれているように思われるのが『関西化学雑貨経営者名鑑 1950年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/2455070/1/36です。「奥田福太郎(明治41年1月21日生)奈良県出身/日本活字鋳造株式会社専務取締役・不二機械株式会社社長」とした上で、略歴が次のように記されています。

明治23年先代奥田捨松、大阪市北区に於て奥田精文堂の名称にて活字鋳造を開始、昭和3年先代より事業継承、20ヶ年経営、同19年大阪活字鋳造株式会社合併取締役に就任、同20年6月1日罹災、同20年12月同社ノ事業再建、同21年2月商号日本活字鋳造株式会社と改称、代表取締役に重任、同24年日本活字姉妹会社、不二機械株式会社を発起設立取締役社長に就任、同昭和22年近畿活字製造工業協同組合を設立発起理事長に就任、活字研究20余年

同じく、1952年『大衆人事録 第15版』https://dl.ndl.go.jp/pid/3044846/1/164は、他に見えない学歴情報を記しています(これ以降の版も同様の記載である他、1958年『産経日本紳士年鑑』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/3044973/1/585〉なども概ね同じ内容です)

奥田福太郎(日本活字鋳造㈱社長)明治41年1月21日大阪市に生る関西大中退大正13年家業奥田精文堂を継ぎ終戦と共に大阪活字鋳造取締役となり昭和21年改組改称し現職に就任先に不二機械社長関西活字製造工業協組理事長等を歴任した

戦時経済体制下で印刷事業者の整理再編が進む中、奥田精文堂をたたむ決断をして大阪活字鋳造株式会社を存続会社とする合併を実施し福太郎は大阪活字鋳造の取締役に入った――と見るのが妥当かと思うのですが、現時点でこれは1つの仮説に過ぎません。

ちなみに、昭和24年(1949)に奥田福太郎が発起設立したという不二機械株式会社の設立時の登記は見つからず、昭和25年4月(1950)に日本活字鋳造が不二機械を吸収合併するという公告(「昭和二十五年四月三十日開催の株主総会に於て日本活字鋳造株式会社は不二機械株式会社を合併して存続し不二機械株式会社は合併により解散する決議をいたしましたから異議のある債権者は本公告掲載の翌日より二箇月以内に御申出下さい。」1950年5月17日付『官報』第7001号230頁2段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2963547/1/8)だけがNDL全文検索でヒットしました。

初代奥田捨松による奥田精文堂創業期のことと二代目への継承期のこと

昭和10年代から20年代の状況をいったん離れて、まずは初代奥田捨松による創業期の状況を調べておきましょう。1914年の『日本全国商工人名録 第5版』広告https://dl.ndl.go.jp/pid/932534/1/219では「創業明治二十五年」と謳われており、創業年が後の公式設定より2年ほど遡ってしまっています。何ということでしょう。1926年『帝国信用録 19版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1017499/1/299の記載では創業年が明治24年となっていて、このあたり、何か決め手が欲しいところです。

1901年『帝国組合電信符号組合員名簿』https://dl.ndl.go.jp/pid/805304/1/150では「活字諸器械製造販売」「精文堂」「奥田捨松」となっていますが、1955『日本印刷人名鑑』の奥田福太郎略伝や、「奥田福太郎氏急逝」を報じた1965年『月刊印刷時報』6月号の訃報https://dl.ndl.go.jp/pid/11434716/1/81には、「厳父直道氏の創業した奥田精文堂」という表現が見られます。

活字商を営んだ「奥田直道」のことをNDL全文検索で探し出してみましょう。

まず1893年『大阪商工亀鑑 増補2版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1086812/1/28に「大阪市北区堂島櫻橋南詰西ヘ入」の「活字販売所 奥田直道」による「軽便活版印刷機械」の広告が見つかります。1909年『郵便振替貯金加入者氏名及番号』(https://dl.ndl.go.jp/pid/805619/1/151)には「大阪市北区堂島裏通三丁目4、2」「活版製造業」「精文堂」の「奥田直道」名義で掲出されています。

創業者は、本名を「奥田直道」といい、商人名跡として「奥田捨松」を名乗ったのではないかと、ここでは考えておきましょう。1893年(明治26)の『大阪商工亀鑑 増補2版』に広告が出されているので、初代奥田捨松こと奥田直道が活字商売を始めたのはそれ以前ということになりそうです。『関西化学雑貨経営者名鑑 1950年版』で明治23年創業とされている記述と『大阪印刷百年史』等の設定を折衷し、奥田直道が活字商売を始めたのが1890年(明治23)で、「精文堂」あるいは「奥田精文堂」の屋号・商号を掲げるようになるのが1894年(明治27)なのだろうと受け止めておくことにしましょうか。

1924年『日本実業大鑑 大正13年度 関西版 第2版』https://dl.ndl.go.jp/pid/924579/1/191では「奥田精文堂」「店主 奥田捨松」という表記になっていますから、少なくともこの段階までは会社組織化しておらず個人商店形態で営業していたのでしょう。

この初代奥田捨松は、昭和6年3月25日に亡くなっています。国会図書館デジタルコレクションの「送信資料」ではなく「館内限定」になっている第2次『印刷雑誌』14巻4月号に「奥田精文堂主逝く」という訃報が掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3341082/1/69

大阪市北区堂島上三丁目、活版製造販売精文堂主奥田捨松氏は、三月二十五日午后十一字三十分宿痾の腎臓並に中風症の為め長逝された。享年六十八。

氏は元治元年一月十八日、大阪市阿波堀町、錺屋嘉兵衛氏の長男として生れ、幼少より和漢英数の学を好み、二十一歳にして上京勝海舟門下たること二年、帰阪して陸軍教導団の英語教師たりしこともあったが、のち村山龍平翁と知り、大阪朝日新聞に入社、記者兼庶務に従事したることより印刷に趣味を有し、遂に現業を開始して四十有三年の長年月に及んだ。

二代目奥田捨松を名乗ったものと思われるのが、1955『日本印刷人名鑑』の奥田福太郎略伝で「令弟」と記されている奥田喜一郎です。NDL全文検索の結果を見る限り、初代奥田捨松の訃報を伝えた第2次『印刷雑誌』に、引き続き1934年まで「奧田精文堂 堂主奧田捨松」の名が記されているようです。おそらく広告の出稿でしょう。

1934年『全国工場通覧 昭和9年9月版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1212170/1/313には「奥田精文堂」「㈹奥田喜一郎」とあり、また1935年『全国工場通覧 昭和10年版 機械・瓦斯電気篇』では「奥田精文堂活版製造所」「㈹奥田喜一郎」となっています。

『官報』のNDL全文検索によると、喜一郎は1934年に家業の組織変更を行い無限責任社員として「合資会社奥田精文堂活版製造所」を立ち上げ、3年弱で会社組織を解散していまいた。

おそらくこの「解散」は、合資会社組織を取りやめ、再び個人商店として営業を継続したということになるのでしょう。屋号・商号は書かれていませんが、合資会社奥田精文堂活版製造所設立の所在地と同じ「大阪市北区堂島上三丁目四番地」の事業において、奥田喜一郎を「主人」とする次の登記が見られます。

奥田喜一郎の履歴について、1959年の『大阪紳士録 第1版』が次のように記していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2996525/1/122

東北大学法文学部卒、昭和17年東北帝国大学文学研究室助手、昭和18年三重海軍航空隊・海軍教授、昭和20年日本活字鋳造㈱取締役

この略歴を踏まえて1939年『東北帝国大学一覧 昭和14年度』を見ると、「大阪出身の奥田喜一郎」が同年に入学していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1446334/1/228。どうやら、個人商店として奥田精文堂の営業を継続していた奥田喜一郎は何らかの事情で大学進学を選び、そのために店の経営を「梶福太郎」へ任せることとしたようです。1941年『日本工業要鑑 昭和16年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1071135/1/1586では、「奥田精文堂」「店主 奥田喜一郎」、「技術主任 梶佳司」とあり、合資会社時代の1936年に加わった梶佳司の名が見えています。福太郎は、あるいは佳司の親族であったかもしれません。

「印刷業」という大きなくくりになりますが『大阪印刷百年史』によると「昭和18年から20年3月にかけて実施された企業整備により、2243あった大阪の印刷業者のうち1733業者が廃業、しかも、印刷設備は53%も被害を受けたのである」(同書330頁)という(強制的な統廃合を含む)戦時体制を奥田精文堂はどのように生き延びたのか。ここまでの調査で、日本活字工業の社史を「奥田家100年史」ともなる一種のヒューマンドラマとして知りたい気持ちが少し湧いてきました。ひょっとすると、喜一郎も梶家から奥田直道の養子として先に奥田家へ入っていて、直道の死後に佳司や福太郎を招き入れたのか等とも想像するのですが、現時点ではそのあたりを確定させ得るような資料は見えておりません。明治期に創業した商家なら、優秀な人材を養子に迎えて跡を継がせるといったことはごく普通のことですから「余計な詮索」といった遠慮は不要かと思いますが、そろそろNDL全文検索の壁につきあたりつつある状態に陥っています。

情報求ム

そもそも日本活字工業株式会社の正確な社史を知っておきたいのは、森川龍文堂や青山進行堂といった活字ベンダーの活字資産の行方の手がかりのひとつになるのではないかという観点が最大の理由です。

片塩二朗「この一冊の書物から」最終回(2001年『印刷情報』3月号)の146-145頁(基本横書きの同誌に縦書きで綴られた連載記事のため、ノンブルが逆順になっています)に、次のような記載が見られます。

じつは一九四四年の末ごろに、森川龍文堂の母型や鋳造設備のすべてが、軍の南方政策のためとして海軍省に「ほとんど無償にちかい価格、それも戦時国債払い」で売却されました。そしてその母型は「浜松あたりの海軍の施設」でそのまま敗戦をむかえたとされます。

栄養失調とはげしい痔疾患が森川をおそって病床に伏すことがおおい毎日だったようです。海軍への母型の提供は「供出、没収、献納」とさまざまにしるされています。いずれにしても一度国家の所有物になったものですから、戦後しばらくして森川の入院中に旧海軍物資として払い下げがあり、奥田精文堂活版製造所(創業一八九四年、現日本活字工業)に払い下げられてしまいました。

このあたりの情報を別の公開情報等で跡付けること、またベントン彫刻母型による「日活明朝体」の開発時期を明らかにすること。この2点については、引き続き折を見て調査を継続していきたいと思います。諸々ご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えください。

「ゆるぎない覚悟決して」

「1つ2つ共に綴る記録」

写植書体やデジタルフォントの日活書体についても、ご提供くださる情報がありましたら、お寄せください。

「キミと知りたい」

1950年代の『月刊印刷時報』所蔵先リスト

1950年代の『月刊印刷時報』について、2022年12月現在、WebOPACで確認できる主要な所蔵先を一覧表にしてみました。国会図書館本は、全てデジタル化済となっており「送信資料」として閲覧可能です。

年月 通号 大阪府立図書館 国会図書館 印刷図書館 印刷博物館 備考
1950.1 68 × × × ×  
1950.2 69 × × × ×  
1950.3 70 × × × ×  
1950.4 71 × × × ×  
1950.5 72 × × × ×  
1950.6 73 × × × ×  
1950.7 74 × × × ×  
1950.8 75 × × × ×  
1950.9 76 × × × ×  
1950.10 77 × × × ×  
1950.11 78 × × × ×  
1950.12 79 × × ×  
1951.1 80 × ×  
1951.2 81 × × × ×  
1951.3 82 × × × ×  
1951.4 83 × × × ×  
1951.5 84 × × × ×  
1951.6 85 × × × ×  
1951.7 86 × × × ×  
1951.8 87 × × ×  
1951.9 88 × × × ×  
1951.10 89 × × ×  
1951.11 90 × × ×  
1951.12 91 × × ×  
1952.1 92 × × ×  
1952.2 93 × × ×  
1952.3 94 × × ×  
1952.4 95 × × ×  
1952.5 96 × × × ×  
1952.6 97 × × ×  
1952.7 98 × × ×  
1952.8 99 × × ×  
1952.9 100 × × ×  
1952.10 101 × × ×  
1952.11 102 × × ×  
1952.12 103 × × ×  
1953.1 104 × × ×  
1953.2 105 × × ×  
1953.3 106 × × ×  
1953.4 107 × × ×  
1953.5 108 × × ×  
1953.6 109 × × ×  
1953.7 110 × × ×  
1953.8 111 × ×  
1953.9 112 × × ×  
1953.10 113 × ×  
1953.11 114 × × ×  
1953.12 115 × × ×  
1954.1 116 × × ×  
1954.2 117 × × ×  
1954.3 118 × × ×  
1954.4 119 × × ×  
1954.5 120 × × ×  
1954.6 121 × × ×  
1954.7 122 × × ×  
1954.8 123 × × ×  
1954.9 124 × × ×  
1954.10 125 × × ×  
1954.11 126 × × ×  
1954.12 127 × × ×  
1955.1 128 × ×  
1955.2 129 ×  
1955.3 130 ×  
1955.4 131 ×  
1955.5 132 × ×  
1955.6 133 ×  
1955.7 134 × ×  
1955.8 135 ×  
1955.9 136 ×  
1955.10 137 × ×  
1955.11 138 ×  
1955.12 139 × ×  
1956.1 140 × × ×  
1956.2 141 × ×  
1956.3 142 × ×  
1956.4 143 × ×  
1956.5 144 × × ×  
1956.6 145 × × ×  
1956.7 146 × × ×  
1956.8 147 × × ×  
1956.9 148 × × ×  
1956.10 149 × × ×  
1956.11 150 × × ×  
1956.12 151 × × ×  
1957.1 152 ×  
1957.2 153 ×  
1957.3 154 × モトヤ商店「アラタ/Monotype社欧文」広告
1957.4 155  
1957.5 156 モリサワ「写真植字機による印刷参考」(明朝・ゴチック・楷書体等)広告
1957.6 157  
1957.7 158  
1957.8 159  
1957.9 160 モトヤ商店「ベントン彫刻○正楷書完成」広告
1957.10 161 「優美で近代的な岩橋榮進堂のベントン活字」広告/日本活字工業「日活型正楷書・教楷書見本」広告(付1500字セット目録)/大阪活版工業「大活のベントン彫刻」広告/モトヤ商店「母型界の革命○パンチ母型」広告/津田三省堂「創業50年」広告/光文堂「ベントン彫刻書体」広告/岩田母型製造所「岩田のパンチ母型完成」広告/晃文堂「Martin Roman」広告
1957.11 162  
1957.12 163  
1958.1 164 × 大阪活版工業「美術印刷には大活の優美な活字」広告
1958.2 165 ×  
1958.3 166  
1958.4 167 日本マトリックス・関西晃文堂「パンチ母型」広告/晃文堂「欧文パンチ母型」広告/河本精文社「パンチ母型」広告
1958.5 168 ×  
1958.6 169 晃文堂「パンチ母型晃文堂明朝新発売」広告/写研「写真植字は写研の石井文字」見本
1958.7 170 モトヤ商店「パンチ母型3200字完成」広告
1958.8 171  
1958.9 172  
1958.10 173 晃文堂「和欧文パンチ母型カタログ進呈」/神戸活字「書体略見本」/津田三省堂「明朝書体ゴシック書体書風見本」/光文堂「ベントン彫刻書体」広告/モトヤ商店「パンチ母型角ゴシック完成」広告
1958.11 174  
1958.12 175  
1959.1 176  
1959.2 177  
1959.3 178  
1959.4 179  
1959.5 180 創刊十周年記念特集号
1959.6 181  
1959.7 182  
1959.8 183  
1959.9 184  
1959.10 185  
1959.11 186  
1959.12 187  

横浜市歴史博物館2022 #活字展 図録と明治期に「古印風」活字を生み出した活版製造周拡合資会社の周辺情報

横浜市歴史博物館「活字」展の図録

横浜市歴史博物館の2022年度企画展「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」が2022年12月10日から2023年2月26日までの会期で開催されています(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/see/kikakuten/2022/katsuzi/)。様々な活字グッズが用意される模様https://twitter.com/yokorekihaku/status/1599325033142550528であるほか、展示図録が作成されました。図録は、横浜市歴史博物館ミュージアムショップまたはオンラインショップhttps://yokohamahistory.shop-pro.jp/?pid=171817733にて購求できるとのこと。

図録は全94ページで、そのうち70ページほどが今回の展示を紹介する内容になっており、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫に収蔵されることとなった、主に19世紀の欧州が先導し上海のアメリカ人技師が技術革新を加えた東アジア諸語の活字(多くは漢字活字)資料を中心に、今回の展示構成が示されています。

図録末尾に3本の「論考」が掲載されています。1本目は小宮山博史小宮山博史文庫活字見本帳群―蒐集の目的と思い出」。小宮山博史文庫の大きな柱である、300冊に及ぶ活字見本帳の蒐集歴が綴られています。その見本帳の内訳は、「横浜市歴史博物館調査研究報告 第18号」として2022年3月に公開された「小宮山博史文庫目録」(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/index.php?cID=5256)で確認することができます。

2本目が蘇精「S. W. ウイリアムズと日本語活字」。19世紀のアメリカ系伝道印刷者の流れの中で最初に作られた日本語(仮名)活字の話です。そして3本目、――

活版製造周拡合資会社『大和古印貮號字數鑑』のこと

――という話を横浜市歴史博物館2022年「活字」展『図録』に書かせていただきました。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫に、「古印風」と称する最も古い時期の活字と目される活字の総数見本である『大和古印貮號字數鑑』という資料があります*1。この活版製造周拡合資会社『大和古印貮號字數鑑』は刊記が無く正確な発行年は未詳なのですが、「明治27年(1894)から同40年(1907)の間」に発行されたものと考えて良いのではないか――という推定の根拠となるような話です。

津田伊三郎『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂昭和9年)に収められた「大阪初期活版製造業者 周擴社 久保松照映氏」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908269/69 101-105頁)に記されている周拡社の発足と終焉に関する記述を様々な資料によって検討していったものです。

参照した資料の多くは都道府県レベルや市区町村レベルで取られていた商工業統計の類や、民間で発行された商工業名鑑類なのですが、1点だけ、国立国会図書館次世代システム開発研究室「次世代ライブラリー」(https://lab.ndl.go.jp/dl/fulltext)の力を借りることで初めて参照できた人名録がありました。それがどういうものであったかは、『図録』にてご確認ください。

ご高覧と御批正のほど、よろしくお願いいたします。


研究余滴――印刷者・前田菊松のこと

図録に記したように、明治24年から明治35年の間に周拡舎が手掛けた印刷物の奥付では周拡社あるいは周拡社支店の印刷責任者として前田菊松の名が掲げられています。明治24年より前の状況はどうだったでしょうか。

私はかつて、「最初期和文アンチック体のこと」を追っていた際に明治20年代前半に発行され国会図書館に現存する資料をそこそこの数量で観察したことがありhttps://uakira.hateblo.jp/entry/20060217、当時のノートを読み返すと前田菊松の名を何度も目にしていたと判ります。

いま改めて国会図書館デジタルコレクションで再確認しておくと、明治21年の征木正太郎(天保面ノ半)『曽呂利新左衛門伝』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881486/29や22年3月の大阪府天王寺警察署『現行明治類典付録 累年目録及追纂』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787433/358では印刷者が「東区備後町五丁目十三番地」の前田菊松となっており、22年6月の勝彦兵衛(竹柴諺蔵)『塩原多助経済鑑』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877019/14や勝彦兵衛(勝諺蔵)『小笠原諸礼聞書』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876881/14などでは「東区備後町五丁目二十四番屋敷」の前田菊松が印刷者として表示されています。

実は今回Googleブックス検索経由で、思いがけない資料に前田の名を発見しました。大阪府中之島図書館『大阪本屋仲間記録』第七巻(1985)です。検索では掲出箇所が示されなかったので虱潰しに見ていったところ、明治21年3月から23年4月までの「出勤帳第88号」に明治21年10月26日付で「開業、活判業」として「東区備後町五丁目十三番地」の「前田菊松」と記録されていました(25丁、翻刻版398頁)。事業者の開業や止業あるいは転宅などの動向について、書籍商、新聞雑誌商、古本屋等いかにも「本屋仲間」らしい業種だけでなく、この前田菊松の他にも瀬戸活版所の瀬戸清次郎や大阪国文社の名が見えるなど、一部の活版印刷業(活判業)の者の動向も本屋仲間に届けられ記録されていたのです。

改めて『大阪印刷百年史』に掲出されている同業組合員名簿を確認してみると、明治21年9月現在の「活版印刷業仲間」に、周拡舎(従業員数30)とは別に東区備後町五ノ一三「前田菊松」(従業員数23)の名が見えていて、しかも前田は久保松照映と共に初代役員も務めていたと判ります。

明治25の『大阪商工亀鑑』に周拡社が「印刷部」発足の広告を出しており(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803616/73)、その中で「機械ヲ増置シ職工ヲ聘シ」「廉價美麗速成ヲ旨トシ前書ノ科目御委囑ニ應セントス」と記しているように、この時期に責任者として前田を招いて印刷部を立ち上げたのでしょう。

参考に、関係する大阪市内の地名を『大阪市図』(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089179/8)への書き込みで示しておきます。

東区備後町・瓦町・内本町橋詰町・南区鰻谷東之町の位置関係(国会図書館デジタルコレクション『大阪市図』に筆者書き込み)



2022年12月21日追記:

活版製造周拡合資会社の終焉に関する商業登記

12月21日付で実施された国立国会図書館デジタルコレクションのリニューアルによって、インターネット公開の官報が全文検索の対象となりました。そこで「周拡合資会社」を検索してみたところ、終焉期の商業登記が見つかりました。

明治40年2月25日付の大阪区裁判所による登記:「活版製造周拡合資会社 総社員ノ同意ニ依リ 明治四十年二月二十五日解散 大阪市東区〓人橋一丁目戸塚成音同市北区東梅田町野村成彦清算人ニ各選任」*2

明治42年10月12日付の大阪区裁判所による登記:「活版製造周拡合資会社 清算人戸塚成音死亡ニ付抹消」*3

従来『本邦活版 開拓者の苦心』において「(戸塚成音)氏亡き後の周拡社は、一時尼崎の株主によって経営されていたが、惜しいことには其後整理解散してしまった」と書かれていた終焉期について、 #活字展 図録で、ある資料状況から〈実際には戸塚がまだ存命である明治39年から40年のうちに「整理解散してしまった」のではないか〉と推定し、その解明には草野真樹「旧商法期における合資会社の統計的分析:福岡県を事例として」(http://hdl.handle.net/11178/8149)のような商業登記公告の大規模調査が必要だろうと考え後学を俟つつもりでいたのですが、次世代ライブラリーによって培われた新しい全文検索の力によって2022年のうちに自力で解決してしまいました。


*1:ちなみに小宮山博史文庫目録では『大和古印貮號字數鑑』の発行者が「活版製造周彍合資會社」となっていますが、「活版製造周擴合資會社」が正しい名称です。

*2:1907年3月2日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2950444/1/10

*3:1909年11月4日付『官報』〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2951261/1/19

東京築地活版製造所の〈活字種版彫刻家〉竹口芳五郎のこと

東京築地活版製造所の最も初期の種字彫刻師に竹口芳五郎という人物がいました。『本邦活版 開拓者の苦心』(1934、津田三省堂)に「初期の版下書師 竹口芳五郎――明朝書体の完成――」という略伝が書かれているほか、あまり手掛かりのない人物です。同書の書きぶりにより、芳五郎は、書家だったが糊口をしのぐため街頭で印判や木版の彫刻を手掛けていたような状態だったところを平野富二に見いだされたという前半生と見られていました。

2005年3月から大日本スクリーン製造のウェブサイトで『タイポグラフィの世界 書体編』として連載された全10話から成る小宮山博史『日本語活字ものがたり : 草創期の人と書体』(2009、誠文堂新光社)の、第8話「無名無冠の種字彫師-活字書体を支えた職人達」(これはスクリーン連載の第7回として現在も閲覧可能〈https://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography/07typo/07typo.html)では、『印刷世界』第1巻第2号(明治43年9月20日、印刷世界社)の「職工表彰録」に掲載されている竹口正太郎の略歴と肖像が紹介されています。竹口正太郎というのは「師芳五郎氏の高弟として知られ」、「主として漢字製作に従事す」云々と。

これらに触れられていない記述に、島谷政一『印刷文明史』第4巻「野村宗十郎氏の功績 ポイント式活字の輸入普及」の章末に添えられた「竹口芳五郎氏の功労」という節で語られている話題があります(同書2430頁)。全文を掲げます。

我が國における印刷界の向上進歩を計り、文運の興隆に資するところ多大なりし平野富二、曲田成、名村泰藏、野村宗十郎諸氏の功績の概略は以上の如きものである。この間にありて、竹口芳五郎氏の功勞の尠からざりしことを一言したい、氏は天保十年六月江戸に生れ、十四歳の時木版彫刻師竹口茂兵衞氏の徒弟と爲りしが、技術の進歩特に著しく、三語便覽、英和辭典、西洋史記等皆氏の刻するところである。明治五年平野氏の經營せる活版所に入り、種字彫刻を擔任し、爾來精勤業に從ふこと三十六年、大小活字の種字數十萬個を刻成しその間子弟を養成すること數十名に達した、實に築地活版製造所の活字の優秀なるは竹口氏の賜と稱すべく、氏は明治四十一年八月、歳六十七を以て逝去せしが、氏が明治文化に資するところ、又實に多大なりと稱すべきである。

築地活版(の前身の平野活版)に入社する前の状況について、『印刷文明史』と『本邦活版 開拓者の苦心』の記述がずいぶん食い違っているため、どちらをどの程度信用していいのか判断に苦しむところだったのですが、先般、『印刷文明史』の記述を裏付ける資料が存在することに気がつきました。竹口芳五郎本人による談話の速記録です。

『速記彙報』第52冊明治26年5月30日、速記彙報発行所)に収録された「竹口芳五郎氏(東京築地活版製造所の活字種版彫刻家)の談話」(速記彙報編輯員 速記)を全文転載しておきましょう。

私は生れは江戸の牛込で本多の藩でございました、本多と申すは参州西端の本多で一萬五百石の大名でございます、父は土方傳左衛門と申し、竹口と申すは師匠の苗字でございます、
私は十四の年に始めて版木を彫ることを習ひ始めました、
私の親は四人の子がありまして一人は家督させて士にし、一人は商人にし、一人は工にし、一人は農にすると云ふて居りました、士の家だからと云ふて子を皆な士にするのはいけないと云ふことで……
私は十四の時から二十四までの間は師匠――竹口茂兵衛と申して木挽町に居りましたが、そこで十年の間彫刻の道を修業いたしました、二十五の時に職人の腕前になりまして二十六の時に自分で一家を起して見やうと云ふ考で町に出ました、
其頃には三語便覽だの英和辭書だの西洋史記でがすの又村上英俊先生の佛語明要だのを彫りました、
明治五年の末に平野〔富二〕さんが私に來いと言はれて其れからこちら〔東京築地活版製造所〕に來まして段々修業して今の社長――曲田〔成〕さんの御厚情を受けて活字の種版を彫るやうになりました、
五年時分には木版の方が盛でありましたが活版をやツて見たいと思ツて居るところへ平野さんから来いと云ふことを聞いて……其時分には木版の方が割が宜うございましたが活版と云ふものが始終は行はれるだらうと考へて平野さんの方に參りました、
兄――惣領は士族で唯今でも居ります、商人になるべきものは歿しました、農になツたものは是れは多摩郡の平井村で農を致して居ります、
唯今私は築地二丁目四番地に居ります、年齢は五十五歳でございます、

竹口芳五郎の師匠が「木挽町の竹口茂兵衛」であるというのが正しければ、これは江戸で「板木屋組合」の「行事」の座を木村嘉平らと分担しあっているような、重鎮扱いの版木彫刻師であった竹口茂兵衛のことと考えて良いでしょう。北小路健 校訂『板木屋組合文書』(1993、日本エディタースクール出版部https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002288693-00には、竹口茂兵衛が代替わりしてそのまま襲名というような記録も見られますから、芳五郎が師事したのが何代目なのか、いつか調べてみたいものです。

芳五郎が挙げた『三語便覧』などには刻工の名は記されていないようですが、近世出版史方面を追っていくことで、活版印刷史から芳五郎を追っていた我々が今まで気づいていなかったような、何らかの新しい情報が得られそうな気がします。本人が「あれ、おれ」と述べた書目を見る限り、細かい字を得意とする板木彫刻師だった、とは言っていいでしょう。また、書家だったことは無かったんじゃないかという疑問も呈しておきたいですね。

この『速記彙報』第52冊には曲田成による「活字製造に就ての話」という談話記録も掲載されているのですが、それはまた別の機会に記すこととします。

六号雑記(『書物学』第21巻「活字」に書かせていただいた〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉という記事の後書)

勉誠出版から2022年12月付で刊行される(された)『書物学』第21巻「特集 活字」に、〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉という記事を書かせていただきました。

私が「秀英電胎8ポ」と呼んでいる書風の活字が作られ使われるようになったのはいつどこで?ということを調べていって、今回ようやく明らかになりましたという話と、その調査の過程で最近まで〈東京築地活版製造所「昭和新刻7ポ75」(仮称)〉と呼んでいた活字の初出状況が判明しましたよ、という話です。

ご高覧と御批正のほど、よろしくお願いいたします。


あとがきの前書

「秀英電胎8ポ」活字という呼び名は、誠文堂新光社『アイデア』誌の367号「日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律」および368号「日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン」における「活字書誌」のために使うようになったもので、この活字はベントン彫刻機を用いて開発された岩田明朝(本文系)の手本とされたというものです。

2010年に人形町ヴィジョンズで開催された「原字ものがたり―デジタルフォントの原型」展にて岩田明朝のベントン原図が世間に公開されてから4年、「オルタナ出版史」第二部・第三部が制作・刊行された2014年の段階では、大日本印刷が刷っていた『中央公論』誌の本文である8ポイント活字を見る限り、昭和25年3月号まで旧8ポ(電胎8ポ)仮名+旧8ポ漢字、4月号から新8ポ(ベントン8ポ)仮名+旧8ポ漢字という組み合わせになっており、漢字が切り替わるのは昭和25年12月号からのようだ――という具合に大日本印刷が電胎8ポ活字使い終える時期を観察していました(2018年1月27日に開催された連続セミナー「タイポグラフィの世界」6「金属活字考」第3回「日本語活字を読み込む」の「配布資料ニ」に示した通り)

片塩二朗『秀英体研究』(2004、大日本印刷)に転載された、大日本印刷活版課・浅野吉雄「新刻八ポ活字とその後」(大日本印刷技術委員会『技術月報』第26号〈昭和26年10月1日〉)掲載の年表では「正8P彫刻開始(計画生産数決定)」が昭和25年8月で、「8P彫刻完成(鋳込完了とともに実用化す)」が昭和26年9月とされています。仮名は年表でも先行開発されているらしく書かれており、問題は漢字の開発完了時期ということになると思われます。

中央公論』誌をモノサシとして利用した詳細な観察は継続していないのですが、ひょっとすると、昭和25年12月号からズバっと一気に切り替わったのではなく、数十字あるいは数百字単位で少しずつ漢字活字の入れ替えが行われていて、昭和26年9月になってようやく全4750文字が新刻ベントン8ポに切り替わる――というような具合であったのかもしれません。

大日本印刷で電胎8ポが捨て去られようとしていたタイミングで、岩田母型が新書体の手本として受け継いだ形になっているところ(タイミングについては三省堂「Word-Wise Web」サイトで連載されていた、雪朱里『「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン』の第57回「ベントン彫刻機の普及――岩田母型とベントン① 」https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/benton57参照)が、色々運命的で面白いなと思っていたものでした。

岩田明朝への「転生」について紹介するにあたって書体の権利に関する当時の意識云々というエクスキューズが必要なのかどうか、という個人的な疑問を自分なりに引き受けていくために、そもそも私が「秀英電胎8ポ」と呼んでいる書風の活字が作られ使われるようになったのはいつどこで?――ということを明らかにし、出生から最初の死(昭和25ないし26年)に至る期間を確定させておきたかったのです。

この「転生」に関しては、まだ大きな謎が残っています。大正末の築地活版の見本帳に「秀英電胎8ポ」書風によく似たものが出現するのですが、岩田明朝の仮名は秀英舎による「秀英電胎8ポ」書風ではなく築地活版のものであるように見えるのです。手元の資料を見ていくと、昭和11年大日本印刷が刷った岩波文庫版『小説神髄』の本文8ポイントの仮名は、初期の「秀英電胎8ポ」書風ではなく築地活版風のものになっています。これは例えば、築地活版の活字をメインに使っていた日清印刷と秀英舎が昭和10年に合併した、その影響だったりするのでしょうか。そもそも築地活版は、いつごろからどのようにして「秀英電胎8ポ」書風の活字を自社の見本帳に掲載するようになっていたのでしょうか。

今回「秀英電胎8ポ」書風の初出状況が判明したことで、ようやく、残された謎について「いつごろからいつごろまでの期間の出来事を調べればいいのか」が明らかになりました。いつか続報をお知らせすることが出来るでしょうか。

あとがきの後書

さて、秀英舎の大正期の六号活字が「電胎8ポ」とは異なる書風のものであるということは、青土社ユリイカ』2020年2月号「特集・書体の世界」(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3392)の「近代日本語活字・書体史研究上の話題」に記しました。それを踏まえた話なのですが。

今回判明した「秀英電胎8ポ」の初出は大正年間のある新聞だったのですが、その話が牧治三郎『京橋の印刷史』巻末年表712-713頁に書かれている項目に符合する内容だったことに、校了してから気がつきました。年号と新聞紙名は伏せますが――『書物学』第21巻でご確認ください!――、「大正〓年九月 〓〓〓、秀英舎新字六号採用、十五字詰十二段紙面改正」という内容です。これ、ヒントになる情報かもしれないということで「日本語活字を読み込む」の「配布資料ニ」にも拾い出してましたね、わたくし!!

牧が年表に「新字六号」って書いてた件、その新聞の新しい紙面に使われていたのは六号書風じゃなくて「秀英電胎8ポ」書風の活字だったんですよぉぉぉぉ……



以下2022年12月7日追記

あとがきのオマケ

本日から勉誠出版のウェブサイトで購入可能になった『書物学』21号「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=18_55&products_id=101347に書かせていただいた〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉という記事に付した注のうち、ウェブ資源へのリンクをオマケしておきます。