日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

東京築地活版製造所の〈活字種版彫刻家〉竹口芳五郎のこと

東京築地活版製造所の最も初期の種字彫刻師に竹口芳五郎という人物がいました。『本邦活版 開拓者の苦心』(1934、津田三省堂)に「初期の版下書師 竹口芳五郎――明朝書体の完成――」という略伝が書かれているほか、あまり手掛かりのない人物です。同書の書きぶりにより、芳五郎は、書家だったが糊口をしのぐため街頭で印判や木版の彫刻を手掛けていたような状態だったところを平野富二に見いだされたという前半生と見られていました。

2005年3月から大日本スクリーン製造のウェブサイトで『タイポグラフィの世界 書体編』として連載された全10話から成る小宮山博史『日本語活字ものがたり : 草創期の人と書体』(2009、誠文堂新光社)の、第8話「無名無冠の種字彫師-活字書体を支えた職人達」(これはスクリーン連載の第7回として現在も閲覧可能〈https://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography/07typo/07typo.html)では、『印刷世界』第1巻第2号(明治43年9月20日、印刷世界社)の「職工表彰録」に掲載されている竹口正太郎の略歴と肖像が紹介されています。竹口正太郎というのは「師芳五郎氏の高弟として知られ」、「主として漢字製作に従事す」云々と。

これらに触れられていない記述に、島谷政一『印刷文明史』第4巻「野村宗十郎氏の功績 ポイント式活字の輸入普及」の章末に添えられた「竹口芳五郎氏の功労」という節で語られている話題があります(同書2430頁)。全文を掲げます。

我が國における印刷界の向上進歩を計り、文運の興隆に資するところ多大なりし平野富二、曲田成、名村泰藏、野村宗十郎諸氏の功績の概略は以上の如きものである。この間にありて、竹口芳五郎氏の功勞の尠からざりしことを一言したい、氏は天保十年六月江戸に生れ、十四歳の時木版彫刻師竹口茂兵衞氏の徒弟と爲りしが、技術の進歩特に著しく、三語便覽、英和辭典、西洋史記等皆氏の刻するところである。明治五年平野氏の經營せる活版所に入り、種字彫刻を擔任し、爾來精勤業に從ふこと三十六年、大小活字の種字數十萬個を刻成しその間子弟を養成すること數十名に達した、實に築地活版製造所の活字の優秀なるは竹口氏の賜と稱すべく、氏は明治四十一年八月、歳六十七を以て逝去せしが、氏が明治文化に資するところ、又實に多大なりと稱すべきである。

築地活版(の前身の平野活版)に入社する前の状況について、『印刷文明史』と『本邦活版 開拓者の苦心』の記述がずいぶん食い違っているため、どちらをどの程度信用していいのか判断に苦しむところだったのですが、先般、『印刷文明史』の記述を裏付ける資料が存在することに気がつきました。竹口芳五郎本人による談話の速記録です。

『速記彙報』第52冊明治26年5月30日、速記彙報発行所)に収録された「竹口芳五郎氏(東京築地活版製造所の活字種版彫刻家)の談話」(速記彙報編輯員 速記)を全文転載しておきましょう。

私は生れは江戸の牛込で本多の藩でございました、本多と申すは参州西端の本多で一萬五百石の大名でございます、父は土方傳左衛門と申し、竹口と申すは師匠の苗字でございます、
私は十四の年に始めて版木を彫ることを習ひ始めました、
私の親は四人の子がありまして一人は家督させて士にし、一人は商人にし、一人は工にし、一人は農にすると云ふて居りました、士の家だからと云ふて子を皆な士にするのはいけないと云ふことで……
私は十四の時から二十四までの間は師匠――竹口茂兵衛と申して木挽町に居りましたが、そこで十年の間彫刻の道を修業いたしました、二十五の時に職人の腕前になりまして二十六の時に自分で一家を起して見やうと云ふ考で町に出ました、
其頃には三語便覽だの英和辭書だの西洋史記でがすの又村上英俊先生の佛語明要だのを彫りました、
明治五年の末に平野〔富二〕さんが私に來いと言はれて其れからこちら〔東京築地活版製造所〕に來まして段々修業して今の社長――曲田〔成〕さんの御厚情を受けて活字の種版を彫るやうになりました、
五年時分には木版の方が盛でありましたが活版をやツて見たいと思ツて居るところへ平野さんから来いと云ふことを聞いて……其時分には木版の方が割が宜うございましたが活版と云ふものが始終は行はれるだらうと考へて平野さんの方に參りました、
兄――惣領は士族で唯今でも居ります、商人になるべきものは歿しました、農になツたものは是れは多摩郡の平井村で農を致して居ります、
唯今私は築地二丁目四番地に居ります、年齢は五十五歳でございます、

竹口芳五郎の師匠が「木挽町の竹口茂兵衛」であるというのが正しければ、これは江戸で「板木屋組合」の「行事」の座を木村嘉平らと分担しあっているような、重鎮扱いの版木彫刻師であった竹口茂兵衛のことと考えて良いでしょう。北小路健 校訂『板木屋組合文書』(1993、日本エディタースクール出版部https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002288693-00には、竹口茂兵衛が代替わりしてそのまま襲名というような記録も見られますから、芳五郎が師事したのが何代目なのか、いつか調べてみたいものです。

芳五郎が挙げた『三語便覧』などには刻工の名は記されていないようですが、近世出版史方面を追っていくことで、活版印刷史から芳五郎を追っていた我々が今まで気づいていなかったような、何らかの新しい情報が得られそうな気がします。本人が「あれ、おれ」と述べた書目を見る限り、細かい字を得意とする板木彫刻師だった、とは言っていいでしょう。また、書家だったことは無かったんじゃないかという疑問も呈しておきたいですね。

この『速記彙報』第52冊には曲田成による「活字製造に就ての話」という談話記録も掲載されているのですが、それはまた別の機会に記すこととします。