日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

新しい書体の活字を製品化する際に関わる全工程の担当責任者名を掲げた唯一無二の「製字専業」築地活文舎による三号太仮名のことと国光社「晩稼流」活字のこと

19世紀の末に、近代日本語活字産業史上空前絶後と言ってよい記録を残したTypefounderがありました。築地活文舎といいます。

「文字っ子」を自認するような方であれば、2004年に大日本スクリーン製造から発売された「日本の活字書体名作精選」シリーズの1つである「築地活文舎五号仮名」に思い当たったことでしょうhttps://www.screen-hiragino.jp/lineup/kana/index.html#h2_06*1

築地活文舎五号仮名フォントの組見本を兼ねた2004年の解説文https://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography/05typo/pdf/058_katsubun5go.pdfや、これを踏まえて書かれた小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(2020年、グラフィック社)の第8章「築地活文舎五号仮名」(402-405ページ)において、「明治30年代初め『印刷雑誌』に広告を出していますが、築地活文舎の規模や実態はよくわかりません」と書かれている通り、築地活文舎に関係する多くのことが謎に包まれたままになっています。

築地活文舎関係で、ほんの少しだけ判っていることを改めてここに記しておきたいと思います。

築地活文舎の創業期と代表者名

印刷雑誌』8巻10号(明治31年〔1898〕11月、印刷雑誌社)に「活文舎々長 村山駒之助」による「祭秀英舎長佐久間貞一君文」という弔問記事が掲載されていてhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499006/1/14、築地活文舎の創業について次のように書かれていました。

余ノ始メテ君ヲ牛込廿騎町ノ自邸ニ訪ヒ君ト相識リシハ、昨夏八月ノ半バナリシ(中略)爾後同志ノ士ト製字専業築地活文舎ヲ創設シテ以来舎務多端ナリシ爲メ、君ト相見ザル殆ド一年

この書きぶりから、築地活文舎の創業は明治30年(1897)の秋頃かと思われます。また、築地活文舎の代表者が村山駒之助という名であったことが判ります。

佐久間貞一の逝去を悼む『印刷雑誌』特集号で、東京活版印刷業組合総代副頭取の星野錫、東京工業協会員総代としての小池相徳、東京市議長の須藤時一郎、東京商業会議所会頭代理副会頭の中野武営といった面々の追悼文に続けて、掉尾を飾ったのが築地活文舎の村山駒之助です。異物感というか違和感というか、この不思議な位置づけについては後ほど触れたいと思います。

府川充男撰輯『聚珍録』(2005年、三省堂)によって知られている通り、明治31年(1898)から同32年にかけて築地活文舎は『印刷雑誌』に7回ほど広告を出していました。

築地活文舎の「三号太仮名」活字を作り出した人々

築地活文舎が残した「近代日本語活字産業史上空前絶後と言ってよい記録」というのは、売上だとか、活字サイズが最大(最小)といったものではありません。新しい活字書体の発売を知らせる広告文中に、その活字書体の版下を揮毫した書家、それを種字となるよう彫刻した彫師、種字から「ガラハ」を作成した技師、更に母型の製造にあたった技師、そして活字の鋳造を行った技師――という、「新しい書体の活字を製品化する際に関わる全工程の担当責任者名」を表示したことを指します*2

先ほど記した通り明治31年(1898)から同32年にかけて7回ほど出された築地活文舎による広告のうち、明治32年1月の『印刷雑誌』8巻12号に掲載された「参號太假名(三号太仮名)」広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1499008/1/15に掲げられた名を拾い出してみましょう。

(揮毫)平山祐之 (彫刻)田中錄太郎 (電気)淺井義秀 (母型)伊藤猪之助 (鋳造)岩瀬銕藏

従来から以上のところまでは『印刷雑誌』によって判っていたのですが、国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによって全文検索機能が大幅に強化されたおかげで、このうち数人の動向が見えてきました。

版下を揮毫した平山祐之は、石田寿英『学校新話』の編輯人であり本所区緑町三丁目廿番地 https://dl.ndl.go.jp/pid/808270/1/43、また井上哲次郎教育勅語衍義』の版下を書きhttps://dl.ndl.go.jp/pid/759404/1/56、更に西村茂樹編『新撰百人一首』本文の版下を書いたのではないかと思われる人物です*3
国立公文書館デジタルアーカイブの「職員録・明治五年九月・局中職員簿(明治十年一月十八日本局翻訳係現今ノ職員ヲ附記)」https://www.digital.archives.go.jp/file/1645098.htmlの17/30コマに「雇筆者」の一人として「明治六年四月十九日御雇」と書かれていますから本所区緑町三丁目廿一番地 https://www.digital.archives.go.jp/img/1645098、平山は明治新政府が好ましいと考える書風の浄書を能くする人物だったのでしょう。

種字彫刻の田中錄太郎については、手がかりが見つかっていません。

ガラハ(電気)の淺井義秀は、後に独立し「電気銅版・活版字母・銅凸版・活版製造・諸印刷」業を京橋区鎗町で営んだのではないかと思います(『大家叢覧』https://dl.ndl.go.jp/pid/954627/1/9

母型担当の伊藤猪之助と鋳造担当の岩瀬銕藏についても、手がかりが得られていません。

築地活文舎「参號太假名(三号太仮名)」広告(『印刷雑誌』8巻12号)

ともあれ、こうしていよいよ築地活版の倣製にとどまらないオリジナル活字を引っ提げて明治32年(1899)1月に(東京の)活版印刷業組合に加盟した築地活文舎ですが、何と同年3月22日に廃業してしまったと、『印刷雑誌』9巻6号(明治32年7月、印刷雑誌社)に記されていましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499014/1/10

先ほど、佐久間貞一の逝去を悼む『印刷雑誌』8巻10号(明治31年11月、印刷雑誌社)に「活文舎々長 村山駒之助」による「祭秀英舎長佐久間貞一君文」という弔問記事が掲載されていた、その位置づけの不思議さに言及しました。村山は、豊原又男編『佐久間貞一小伝』(明治37年〔1904〕 https://dl.ndl.go.jp/pid/781454)では全く触れられていない状態ですから、第三者から見て佐久間と村山の縁は特に深かったわけではなく、『印刷雑誌』への広告大量出稿という形で金に物を言わせて佐久間の名前を利用し、「活字専業」事業者としての更なる認知度向上につなげようとした、――そのような状況であったように思われます。

築地活文舎を興した村山駒之助とはどのような人物だったか

NDL全文検索によって、更に村山駒之助の動向もわかってきました。

キーワード「村山駒之助」によってNDL全文検索から得られる結果は、上記『印刷雑誌』関係の他、およそ、次の3種類になっています。

この3者は、同一人物なのでしょうか、同姓同名の他人同士で、かつ築地活文舎の村山とは異なる人物なのでしょうか。

北海道瓦斯の村山については『人事興信録 4版』(大正4)などに略歴が掲載されているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1703995/1/553、一通り調べ続けてみた中で、我々にとって貴重な伝記的資料が鈴木源十郎『札幌之人』(大正4)に記録されていると判りましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/950457/1/98。全文を掲げましょう。

氏は明治元年六月十五日千葉県千葉郡津田沼町大字鷺沼に生る二十三年七月東京専門学校法律科を卒業し二十六年七月更に同校英語科を卒へ十月京都平安新報主筆兼理事となる二十九年活字製造業活文舎を東京京橋区築地に創設し一時其社長たり三十二年三月東京瓦斯株式会社に入り購買課長となり四十三年夏北海道瓦斯株式会社の設立に関係し努力する所あり翌年同社成立と共に其取締役兼支配人に挙げられ以て今日に至る現に札幌支店に在り北海道各支店を監理す

早稲田(東京専門学校)の若手論客であり、津田沼のボンであり、北海道瓦斯の責任者であった村山は、築地活文舎の村山駒之助その人だったわけです。

奥村亀三郎『常総名誉列伝 第2巻』(明治33)によると、村山家は代々質商や米雑穀商を営んでおり、駒之助が東京専門学校の学生であったころに父の村山吉兵衛は千葉郡津田沼村の村会議員を経て村長となっていたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/778111/1/212

『札幌之人』によると、築地活文舎の創立は明治30年ではなく29年だったようですが、確認のために『中央時論』と『早稲田学報』で動向を調べてみました。

明治20年代末の『中央時論』は、ふらついていた時期の村山の動向を、次のように伝えています。

これ以降、第22号(明治29年3月)に「軍事に関する講義録発売を企画」する話が掲載されたことを除きhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1546220/1/25、第27号(明治29年8月)までの間、村山の動向は見えません。

後継誌で明治30年以降の「校友動静」を伝える『早稲田学報』について、「『早稲田学報』記事データベース」で公開されている誌面イメージPDFを1号(明治30年3月)から50号(明治34年2月)まで目視確認しましたが、村山の動向は見当たりませんでした。欠けている18号(明治31年8月)、41号(明治33年7月)、48号(明治33年12月または34年1月)に掲載されていたのかもしれませんが、未詳です。

さしあたり、先ほど明治30年(1897)の秋頃かと想定した築地活文舎の創立は、明治29年夏から30年春までの間のようだと考え直しておきましょう。

村山駒之助遁走後の活文舎

明治35年の『日本紳士録 第8版』では、京橋区南本郷町六の活文舎(活字製造業)の代表者が大倉佐吉と記されていますがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780097/1/123、これ以降京橋区築地(南本郷町)の活文舎に関する記録をNDL全文検索で拾い出すことができません。

また、村山駒之助遁走後の活文舎を引き受けたと見られる大倉佐吉は、明治35年に芝区芝口三丁目で大倉活版所を営む大倉佐吉と同一人物なのではないかと思うのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1543988/1/3、これ以外の状況は判りません。

含笑堂こと大倉保五郎https://dl.ndl.go.jp/pid/1265253/1/1167の大倉書店と京橋区新栄町の大倉印刷所https://dl.ndl.go.jp/pid/864966/1/188は、奥付によっては「大倉活版所」という表記になっていますがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1559340/1/52、これは大倉佐吉の活版所とは異なるものでしょう。

ただし、千葉真郎「忍月の初期小説」(1997年『目白学園女子短期大学研究紀要 (34)』https://dl.ndl.go.jp/pid/1784351/1/203には、保五郎が錦栄堂こと大倉孫兵衛の一族であって含笑堂は(書店として)錦栄堂の傘下にあったとしか考えられないとありますから、大倉佐吉はこの有力書肆であった大倉一族のどこかに連なる人物ではあったかもしれません。

大倉佐吉より少しあと、神田美土代町に活文舎の名前で横山喜助が印刷業を営んでいるhttps://dl.ndl.go.jp/pid/921652/1/67模様https://dl.ndl.go.jp/pid/954438/1/107なのです(大正10年『行く所まで』https://dl.ndl.go.jp/pid/906668/1/224(稀に「活文堂」〔https://dl.ndl.go.jp/pid/801127/1/47〕)、これが村山・大倉から引き継がれたものであるのか否かは判りません。

国光社「晩稼流」活字の仮名と築地活文舎三号太仮名

『聚珍録』第三篇643ページに、前掲の『印刷雑誌』8巻12号に掲載された「参號太假名(三号太仮名)」広告を指して「実は曩に掲げた晩稼流の三号仮名と同じもの」「恐らくは、築地活文舎の解体後、これが国光社へ流れて三号晩稼流や三号明朝体に組み合わされる仮名として用いられたのではあるまいか」と書かれています。

「曩に掲げた」というのは第二篇308・322・331ページで触れていることを指し、往時の教科書用活字について牧治三郎「鉛活字鋳造の揺籃時代(続)」(『印刷界』156号 https://dl.ndl.go.jp/pid/3340646/1/72の記述が引用されています。

教科書印刷問題を書いたので、ここで教科書用新活字の一、二の例をあげると、明治34年晩稼流活字体を売出したのが、京橋築地2丁目の国光社だった。
種類は教科書専用だったので、二号と三号活字が主体で種類はすくなかったが、明朝でなく、清楷書に近い書風で好評を受けた。

引用文中、『聚珍録』で「ママ」と注記されている「清楷書」という語が、「清朝体楷書」というような意味合いなのか、「正楷書」という活字書体の呼称を誤ったものか、そのあたりは判りません。

さて、国光社オリジナルと思われる二号仮名活字には、少なくとも2種類のものがありました。仮に「二号太仮名」と呼ぶものと、「晩稼流」楷書活字と併用される仮名活字になります。

仮称国光社二号太仮名

仮称国光社二号太仮名の初出は、『聚珍録』第三篇647ページ掲出『女鑑』(明治31年7月)掲載広告より古く、国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な範囲では岡勇次郎『日本米穀之将来及米価変動の源因』(明治30年1月 https://dl.ndl.go.jp/pid/803972/1/9)やリギョル『照闇の燈』(明治30年2月 https://dl.ndl.go.jp/pid/824558/1/8)といったあたりになるようです。更に、現在オープンアクセス可能な資料としては筑波大学附属図書館宮木文庫蔵『小學日本地理卷之1』(明治29年9月訂正再販 https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B11/B1108489/1.pdf)まで遡れる状況です。

少し後の用例である『通俗養蚕鑑』(明治32年4月 https://dl.ndl.go.jp/pid/841152/1/5)を入手したので、自序のカラー画像を掲げておきます。

河原次郎『通俗養蚕鑑』(明治32年、発行所:十文字商会、印刷所:国光社印刷所)自序より
仮称国光社二号「晩稼流」仮名

『聚珍録』第二篇の326-328ページに掲げられている図157は東書文庫蔵『尋常小学国語読本』巻八http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83528他で*5、329-330ページに掲げられている図158は東書文庫蔵『国民読本 尋常小学校用』巻八http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83593のようです。

現在オープンアクセス可能な資料としては広島大学図書館教科書コレクション画像データベースの『高等小学国語読本 三』(明治34年8月修正5版 https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/160220170131114641等が最も早い用例になります。

一般的な明朝活字の二号サイズという従来からの見方に従うと仮称国光社二号「晩稼流」仮名という呼び名で構わないのですが、「弘道軒四号」活字や「弘道軒五号」活字と併用されていることから、「弘道軒三号」活字サイズであった可能性もありそうです。広大DBに見える『高等小学国語読本 七』明治34年8月修正5版https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/160620170131114630ネット古書店で入手したので、活字サイズと組版を想定してみました。

西澤之助『高等小学国語読本 七』(明治34年修正5版、発行所:国光社、印刷者:河本亀之助)に活字と組版の想定を書き入れ

解説文に使われている「弘道軒四号」活字(6.14mm角)が、文字間四分アキ(一部三分アキ・二分アキの箇所あり)・行間二分アキ(傍線として使われている罫線の厚み分だけ行間増し)で組まれているものと見て間違いないようですから、そこから追っていくと、国光社二号「晩稼流」活字の大きさは、「弘道軒三号」活字(7.44mm角)ではなく、21アメリカン・ポイント(7.38mm角)同等の明朝二号活字サイズと思っていいのでしょう。

図示したページの国光社二号「晩稼流」活字は、基本の文字間四分アキで、一部八分アキ(五号四分アキ)の形で組まれているようです。

板倉雅宣『教科書体変遷史』(朗文堂、2003年初版、2004年第2版)によると、国光社の教科書で使われている印刷文字は、次のような変遷を辿っていたそうです(『教科書体変遷史』20ページ)

明治二八年、國光社「尋常小學讀本」巻二以上にも、築地活版製造所の明朝体の活字が使用されたが、同年十一月一五日発行「訂正尋常小學讀本」になると、すべて手書きの木版にかわっている。

明治三一年(一八九八)一〇月の文部省告示で、活字の書体・大きさ等が規制されたあとの、明治三二年一〇月二二日國光社発行「尋常小學讀本」(ママ)巻五以上には、独自に開発した吉田よしだ晩稼ばんかの書によるといわれる楷書体の活字を採用している。

『教科書体変遷史』の当該ページに添えられている3点の図版に対するキャプションは、「[右]明朝体活字「尋常小學讀本」巻七 明治28年2月18日・「[中]整版「尋常小學讀本」巻七 明治28年11月15日。」「[左]晩稼流 楷書体活字「尋常小學國語讀本」(ママ)巻六 明治32年10月22日。」となっています。

掲載図版を見る限り『尋常小學讀本』巻七http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83412 または http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83390明朝体漢字活字と二号太仮名の組み合わせとなっており、また明治32年刊『尋常小學讀本』巻六http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83479の掲載図版は漢字カタカナ交りの箇所ですが、二号晩稼流活字のようです。

牧治三郎は「明治34年晩稼流活字体を売出したのが、京橋築地2丁目の国光社だった」と書いていましたが、明治34年というのは『東京名物志』が国光社印刷所について「近來新製せし晩稼流字體の二號活字は東洋無比の上出來にて摸倣者多し尚本所は國光社専屬なれど一般の需に應ず」と紹介した年でしたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/900923/1/141

国光社「晩稼流」二号楷書活字の自社工場での使用開始は明治32年だったが一般販売を開始したのが34年だった、ということになるのでしょうか。

国光社三号「晩稼流」仮名の不在

先ほど、『聚珍録』第三篇643ページに築地活文舎による三号太仮名が「実は曩に掲げた晩稼流の三号仮名と同じもの」と書かれていると記しましたが、国光社の三号仮名用例は「曩に掲げ」られていません。仮称国光社三号「晩稼流」仮名の用例として『聚珍録』に掲げられているのは、第三篇652ページの図4-282(育英舎編輯所『尋常小学修身教本』巻一教員用〔明治34年8月、発行兼印刷者阪上半七〕46ページ)と同653ページ図4-283(『図按』第18号〔明治36年1月、印刷所国光社印刷部〕奥付 https://dl.ndl.go.jp/pid/3556575)になります。

国会図書館デジタルコレクションの公開資料で見る限り、次の通り、明治35年から41年の期間に三号平仮名を用いた国光社関連の印刷物に築地活文舎による三号太仮名と同じ活字は使われていないようです。

『図按』第18号(明治36年1月)奥付の広告は、かなり特殊な事例だったのではないでしょうか。

牧が「種類は教科書専用だったので、二号と三号活字が主体で種類はすくなかったが」等と記していたためでしょう、『聚珍録』では国光社「晩稼流」活字の仮名にも二号と三号が存在していたものと想定されていますが、国光社には独自書風の三号仮名活字が備わっていなかったと考えた方がいいように思います。

三島宇一郎の弘文堂による築地活文舎三号太仮名の使用

国光社を離れて阪上半七を手掛かりにNDL全文検索を試みたことで、育英舎「少年智嚢」シリーズという重要な手掛かりが見つかりました。

この『少年智嚢 歴史篇』のように奥付欄外に右横書きで「印刷所弘文堂」と記されているケースを洗い出すためキーワード「堂文弘」によってNDL全文検索を試みたところ、「印刷者東京市神田区表神保町二番地三島宇一郎、印刷所神田区表神保町二番地弘文堂」による築地活文舎三号太仮名の用例が、次の通り見つかりました。

更に印刷者「三島宇一郎」で検索し直し、弘文堂の活字をざっと見ていったところ、次のような傾向が見えました。

明治30年頃までは、五号活字が築地体前期五号、四号活字が印刷局四号だったようです(『中学』https://dl.ndl.go.jp/pid/1546241/1/50明治32年豊前志』あたりから四号活字が印刷局四号と築地体後期四号の「乱雑混植」となっていったようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/766770/1/143、明治33年『教訓俚歌集』までには四号活字が概ね築地体後期四号に入れ替わっているようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/755138/1/70

この明治33年『教訓俚歌集』では三号平仮名活字も使われていて、築地活文舎三号太仮名であるためhttps://dl.ndl.go.jp/pid/755138/1/33、現時点で見つかっている最初期の実用例ということになります。

三島は遅くとも明治26年までには印刷業を始めているのですが(『少年子』https://dl.ndl.go.jp/pid/1565622/1/2、(東京)活版印刷同業組合への加入は明治35年8月のことだったようです(『印刷雑誌https://dl.ndl.go.jp/pid/1499051/1/14

引き続き国会図書館デジタルコレクション公開資料から、三島宇一郎の弘文堂による三号平仮名活字を含むものを見ていきます。

どうやら三島宇一郎の弘文堂による築地活文舎三号太仮名の使用は、遅くとも明治33年に始まり、明治36年または37年で終わっているようです。更に、ここまで挙げてきた用例のうち『少年智嚢 歴史篇』以外は見出し活字としての使用で、本文を三号活字で組んでいた『少年智嚢 歴史篇』では下図のように平仮名が少なくとも2種類の活字で組まれている状態でしたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1733959/1/5

国会図書館デジタルコレクション、佐藤小吉『少年智嚢 歴史篇』冒頭に2種類出現している「て」活字に○印を追記

三島宇一郎の弘文堂は、築地活文舎の三号太仮名を、購入していたのでしょうか、活文舎から譲り受けていたのでしょうか。

先ほど記したように、村山駒之助遁走後の活文舎は、大倉佐吉が引き受けていて、少なくとも明治35年までは継続活動していたものと思われます。

大倉佐吉が築地活文舎三号太仮名を供給していたので、弘文堂では佐藤小吉『少年智嚢 歴史篇』本文を含めて明治33年から36年頃までは購入して使うことができたが、大倉佐吉が明治35-36年頃に廃業してしまったため、以後弘文堂では築地活文舎三号太仮名が使われることが無かった、――という状態であったと見るのが良いように思います。

三島宇一郎の弘文堂以外に築地活文舎三号太仮名を使っていた印刷所があったかどうか、現時点では判りません。

*1:2023年現在では、モリサワフォントとして提供されています:https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/1855

*2:どのような書体を活字化したいか、その出来栄えはどうかといったことを判断するプロデューサーやディレクターに相当する職能も必要だったと思いますが、そうした役目は活文舎の代表者であったらしい村山が務めたのだろうと考えておきましょう。

*3:『教育報知』35号に掲載された西村茂樹編『新撰百人一首』広告には「多田親愛平山祐之両大人書」と書かれているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3545993/1/11、その『新撰百人一首』緒言では「此編ノ畫圖ハ友人平山祐之氏貯藏スル所ノ安永年間勝川春章ノ彩色畫本ニ據ル」「歌ヲ書スルハ友人多田親愛氏ナリ同氏ハ和様ノ筆道ヲ嗜ミ最モ假名ヲ善クス」とだけ書かれておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/873576/1/11、奥付等でも版下書家の名が明示されていませんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/873576/1/114。そのためでしょう、ADEACアーカイブ跡見学園女子大学図書館「百人一首コレクション」の『新撰百人一首』を見ても編著者として「西村茂樹編 西阪成一略解 白石千別校閲 多田親愛書」とだけ書かれていますhttps://adeac.jp/adeac-arch/catalog/001-mp000184-200010。緒言で「歌ヲ書スルハ友人多田親愛氏」と限定的に書いているのは、本文の版下を書いたのが平山祐之だったということではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

*4:NDL全文検索の際、「青渊先生」という活字表記が「青淵先生」でも検索可能であるよう適切に読めている箇所の他に、「青洲先生」としてOCR処理されている場合があることに注意

*5:『聚珍録』では『尋常小学国語読本』について東書文庫に刊行年違いの様々な版が蔵されていることが書かれているのですが、掲載図版が具体的にどの版のどの巻なのかが明示されていないように思われます。