日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

安積澹泊・貝原益軒周辺に見える刊本字様「明朝流」という語彙の周辺事情――元禄8年刊『和漢名数大全』「聖堂品々献上目録」は大学頭林鳳岡の目録に依拠か

現代の日本で「明朝体」と呼ばれ、中国で「宋体」と呼ばれるこの字様・書体の印刷文字は、日本で、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ばれるようになったのでしょうか。

小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(グラフィック社、2020)の「明朝体の定着 ―名称と書体」の項に「日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか。調べたいと思っていながらそのままにしています。」と記されているのですが(254-255頁)、仮の起点として、明治8年(1875)に書かれた『東京日日新聞』の本木昌造追悼記事に「漢字は明朝風も楷書も大小いろ〳〵あり」とあるものが嚆矢ではないかとされていました。

小宮山先生から勝手に受け取った「日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか」という宿題について調べ続けているシリーズの、今回は第3回になります。

まずは過去2回分のおさらいをしておきたいと思います。

第1回 19世紀前半(1830年代)の事例

このテーマについて2022年1月にいったんまとめたのが「幕末に池田草庵と松崎慊堂が「明朝」と呼んだ刊本字様」というブログ記事でしたhttps://uakira.hateblo.jp/entry/2022/01/17/195623

整板本や木活字本として学術出版を行っていた漢学者たちの活動に目を向けてみようと考えて幕末から遡って行き、池田草庵を経て松崎慊堂(1771生-1844没)が残した『慊堂日曆』に出会ったものです。

朱子學大系第14巻「幕末維新朱子學者書簡集」』(明德出版社、1975)の「楠本碩水書簡」の項に、佐々謙三郎(=楠本碩水:1832生-1916没)と池田禎蔵(=池田草庵:1813生-1878没)とのやりとりが収められているのですが、楠本碩水が企図した『康齋先生日録』出版についての池田草庵からの幾つかの返信のうち、碩水が慶応2年(1866)丙寅5月21日領手したものに「板ハ文字明朝様が冝敷奉存候如何」(板刻する文字書体は「明朝体」が良いと思うがどうだろうか)と書かれていたのです(大系第14巻315ページ)。

漢学者たちの活動を追うという線は、色々な発見がありそうだと思えました。

更に30年遡った天保7年(1836)12月27日の松崎慊堂手録には『欽定武英殿聚珍板程式』を読みながら書かれた覚書があり(東洋文庫377『慊堂日曆』5巻28-29頁)、「写宋字毎百個工銀二分」という原文に対して「写宋字、明朝の筆耕、百個ごとに銀二分。」と書かれていました。慊堂は、武英殿聚珍板に用いられている木活字の字様(活字書体)が(少なくとも「武英程式」において)「宋字」と呼ばれていることを理解しつつ、それが当時の日本で「明朝」と呼ばれる刊本字様であるという認識を持っていたと言えるでしょう。

第2回 18世紀前半(1730年代)の事例

池田草庵や松崎慊堂の事例を含めた調査過程で「明朝 板下」というキーワード検索に浮上してきたのが、『大日本史編纂記録』に収録されている元文年間(1736-1741)の「往復書案」になります。安積老牛こと安積澹泊から小池源太右衛門(小池友識)*1・打越弥八(打越樸斎)にあてて記された細々とした指示のひとつに「板下の文字ニ候間明朝流之板行流之様ニたてをふとくよこをほそく成様ニ」と書かれているのでした(『茨城県史料 近世思想編 大日本史編纂記録』https://dl.ndl.go.jp/pid/9644333/1/53。「縦線が太く横線が細い」というのは現在言われる「明朝体」の説明としても通用するような内容です。

これについては「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」(2023年12月『デザイン学研究特集号』30巻2号 https://doi.org/10.11247/jssds.30.2_20で一定の結論に達しました。

近年非常に充実してきた各種古典籍デジタルアーカイブを縦覧したところ、17世紀末から18世紀初め頃の日本の刊本に1冊の本の中で複数の字様を使い分ける事例が出てきていて、その中に「明朝体」も含まれていたのです。何らかの形で刊本の字様について言及する必要がある際に「たてをふとくよこをほそく成様ニ」書かれた印刷文字のことを「明朝流之板行流」と呼ぶ背景事情が理解できると考えるに至りました。

この時期まで彰考館総裁として『大日本史』編纂について主導的な役割を果たしていた水戸藩安積澹泊(1656生-1738没)の名と、水戸藩の藩版を手掛けた書肆柳枝軒(小川多左衛門)の名に、注意しておきたいと思います。柳枝軒は貝原益軒と縁の深い書肆でもあります*2

第3回 現在探索中の17世紀末(1690年代)の事例(←イマココ)

元禄8年刊『和漢名数大全』末尾の「聖堂品々献上目録」に見える御三家献納本の書誌

今回注目したいのは、元禄8年(1695)刊『和漢名数大全』の「聖堂品々献上目録」に見える造本・装丁の記述です。

貝原益軒が貝原篤信の名で元禄2年(1689)序文を記した元禄5年刊『和漢名数』は15種類の事物が集められていて末尾が「仏家類」となっているのですが広島大学図書館教科書コレクション画像データベース https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/5020141209172854、上田元周重編とある元禄8年刊『和漢名数大全』では「仏家類」に続けて(類別番号を付さずに)「古銭目録」「聖堂品々献上目録」が追加されています。

聖堂というのは湯島聖堂のことを指し、元禄3年に徳川綱吉から与えられた土地に孔子廟と林家塾が移されたもの。翌元禄4年、林家当主の林鳳岡従五位下に叙され大学頭の官職を任ぜられました。こうした一連の過程で諸大名から聖堂に典籍や祭器が献納された、その典籍の目録が「聖堂品々献上目録」になるようです。

『徳川実記第4編(常憲院殿御實紀)』(経済雑誌社、1904)の巻22、元禄3年10月7日の条に「七日孔庿に典籍、祭器等を進献有しは。尾張大納言光友卿。紀伊大納言光貞卿。甲府宰相綱豊卿。水戸宰相光圀卿。松平左京太夫頼純。松平摂津守義行。松平讃岐守頼経。松平出雲守義昌。松平軽部大輔頼元。松平播磨守頼隆。松平兵部大輔昌親。松平出羽守綱近。松平大和守直矩。松平若狭守直明。松平中務大輔昌勝。松平加賀守綱紀。松平薩摩守綱貴。松平肥後守綱政。松平越中守定重。松平丹後守光茂。宗対馬守義真。本多中務大輔忠国。本多下野守忠平。松平伊豆守信輝は典籍。(引用者注:以降の祭器献上者名省略)」と「湯原日記」からの記事として書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917856/1/184

「聖堂品々献上目録」では多くの献納本について造本・装丁など書誌事項に関するコメントが記載されていて、冒頭に甲府、続けて御三家からの献納本が記されているのですが*3、そこに気になる一言が書かれているのです。

御三家本の掲載順は尾州紀州・水戸の順ですが、まず水戸から見ていきましょう。

水戸(徳川光圀)献納『和朝史記』については「書本也表紙黄色紫糸ムスビトジ」であると記されてます。

宮内庁書陵部の平成14年展示目録「書写と装丁」https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/900/900200211000.pdfによると「元禄4年(1694)徳川光圀湯島聖堂に献じたうちの一本」である『日本書紀(日本記)』は「表紙は黄檗染地に藍と緋で霞が描かれ、紫糸で綴じられており」、『和漢名数大全』に記述されている通りとのこと(PDFの18-19ページ)。

展示目録の図22として掲げられている光圀献納本『日本書紀(日本記)』表紙にはよく見ると図書寮文庫の函架番号「506・3」のラベルが見え、「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」によると確かに「徳川光圀校」である元禄4年の写本に該当しますhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000000930000。残念ながら画像公開資料ではありません。

森馨「和図書装丁研究史の諸問題―大和綴を中心に」(『国学院雑誌』96巻1号〔1995年1月〕)に、この光圀献納本のうち『旧事記』『古事記』『続日本後記』は国立公文書館、『日本書紀』が宮内庁書陵部、『続日本紀』が国会図書館に所蔵されているとありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3365693/1/61国会図書館の『続日本紀』は藤森が記す通り「現在はやや変色して樺色、すなわち茶水色になっている」ものの「表紙は黄檗染地に藍と緋で霞が描かれ、紫糸で綴じられて」いる状態だと判りますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2546865

以上を踏まえて、尾州本と紀州本の造本・装丁事項を見ていきたいと思います。

尾州徳川光友)献納『廿一史』には「帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板」とあります(強調引用者)。

早稲田古典籍総合DB元禄8年刊『和漢名数大全』109丁裏110丁表を集中線加工

続く紀州徳川光貞)献納『十三経註疏』は「白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙コハゼ四分一彫物唐草 外題榊原玄輔」。

水戸本には「書本也」と書かれていて写本であったわけですが、尾州本と紀州本にはそうした注記が無いため、刊本だったものと思われます。どちらも帙入りで、尾州本の帙は「緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重」でコハゼが「赤銅彫物唐草」、紀州本の帙は「緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練」でコハゼが「四分一彫物唐草」。尾州本は表紙が唐紙と書かれ本文用紙の言及は無し、紀州本の「白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙」は「裏白練表紙」であることと本文が「白紙」であることを指しているのかとも思うのですが、よく判りません。

紀州本の外題は、貞享4年(1687)に紀州藩の儒官となったという榊原玄輔の筆になるもので、私の読み取りが間違っていなければ尾州本の外題は「明朝流ノ板」つまり明朝体で板刻・印刷されたものと書かれています。

杉浦三郎兵衛『雲泉荘山誌 巻之2』で「其華麗なる美本想像に余りあり」と記されたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1240168/1/31尾州本『廿一史』の姿を確認することができないでしょうか。

文政元年写『昌平志』巻第四「経籍誌」に見える御三家由来本の書誌

国会図書館デジタルコレクションの文政元年(1818)写『昌平志』巻第四「経籍誌」に見える、御三家由来本の書誌事項は次のようになっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2550771/1/4

  • 『二十一史』 五百本五十帙。共四凾。部面茶褐色紙。書帙縹縉。素凾銅鎖。 右尾張公源宗睦置購 安永七年戊戌二月
  • 『十三経』 二百二本。共二凾。部面黄紙。帙表嫩緑花文緞子。裏靣光縉。銅撿紫縧。素凾銅鎖。○按元禄午十一月所置巻丹籖題皆榊原玄輔書 右紀伊公源治貞購置 天明元年辛丑八月
  • 『旧事記』十本『故事記』三本『日本記』二十二本『続日本記』二十五本『続日本後記』十本『文徳実録』五本『三代実録』二十五本 以上共七分。凡百本。並黄紙褾子。裏面金砂紙。綴以紫縷子。護書青光縉。毎部公自署巻尾曰。元禄肆年。歳次辛未。正月貮拾陸日。前権中納言従三位水戸侯源朝臣光圀謹識。

尾州本『二十一史』は徳川宗睦によって安永7年(1778)に再購されたもの、そして紀州本『十三経』は一部が元禄5年当初のもので徳川貞治によって天明元年(1781)に再購されたもの、――と書かれているようです。

小野則秋『日本文庫史研究 下』(臨川書店、1979)「近世における文庫」の第2章「昌平坂学問所文庫の研究」(56-112ページ)では、林羅山が最後に手元に置いていたものの焼失以来、昌平坂学問所文庫が何度も火難に遭い、辛うじて生き残ってきた様と、残念ながら明和の大火で多くが焼失したこと(一部が残ったこと)が『昌平志』から読み解かれています。

森馨湯島聖堂旧蔵徳川光圀献上本の所在確認と装訂―結び綴の意義」(『大倉山論集 37』〔1995年3月〕)によると、「このように元禄三・四年に諸大名より湯島聖堂に献上された諸本は、明和九年(一七七二)に発生した目黒行人坂を火元とする大火で聖堂も罹災したため、その多くが灰燼に帰した。光圀献上本は、そうした中で焼失を免れた稀有のもの」とありましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/4412121/1/21

徳川光友献納『廿一史』の「帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板」について現物で確認することは出来ない相談というわけです。

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』に見える御三家由来本の書誌

先ほど記した『雲泉荘山誌』に尾州本『二十一史』の書誌を記す書籍目録として記されていた「御献上目録」のことを調べてみたところ、元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』の外題であることが国書データベースによって判りました。

国書データベース経由で横浜国立大学附属図書館蔵『奉納聖堂品々目録』(元禄四辛未九月中浣)を閲覧してみたところ、冒頭が甲府、続けて御三家という構成になっていますhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100349579/3?ln=ja。御三家本を順に拾い出してみましょう。

  • 尾州徳川光友)献納『廿一史』帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板
  • 紀州徳川光貞)献納『十三経註疏』白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙コハゼ四分一彫物カラクサ 外題榊原玄輔
  • 水戸(徳川光圀)献納『和朝史記』書本也表紙黄色紫糸ムスビトジ

松平讃岐守からの献納本を「通鑑司馬温公」とするか(『奉納聖堂品々目録』https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100349579/5?ln=ja)、「通鑑司馬公」とするか(『和漢名数大全』https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=117)、これ以外はカナと漢字の表記違いを除いて両者が合致しており、大全は元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』を引き写したものと考えて良いのでしょう。

当初は、外形的な特徴のみとはいえ諸大名からの献納本一式について一通りの記録を取ることが出来た人物と想像された、元禄8年刊『和漢名数大全』の「重編者」である上田元周の人物情報を何とかして探し出せないかと考えていましたが、その必要は無さそうです。

元禄4年に『奉納聖堂品々目録』としてまとめるべき典籍を実見して記録を取ることができるような人物。林鳳岡の周辺事情を考えればいいわけです。

刊本の外形的特質に対する林家三代の目線

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』の前、あるいは少し後に作られたような蔵書目録の類は無かったでしょうか。

小野則秋昌平坂学問所文庫の研究」68-69ページに、林鳳岡の先代である林鵞峰が「寛文八年の夏二旬を費やしてこれが曝書をして書目を新たにし、その跋に」(中略)「と述べているが」とあり、「忍岡文庫書目」という目録が作られたらしく記されていました。

跋文の全体は国書データベース経由で筑波大学附属図書館蔵『鵞峰先生林学士文集』から探し出すことができましたが(文集巻98「題忍岡文庫書目後」https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1974?ln=ja、目録それ自体の手がかりを得ることが出来ません。

いったん目録探しから離れて、語彙を探してみたいと思います。

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』・元禄8年刊『和漢名数大全』の「聖堂品々献上目録」を見ると、甲府『三大全』や、松平左京太夫五経集註』、松平大和守『孔聖全書』には「唐本」と書かれています。松平摂津守『朱子語類大全』と宗対馬守『朱子文集大全』には「朝鮮本」*4。松平兵部大輔『通鑑全書』には「明朝新撰」の語が添えられています。

『鵞峰先生林学士文集』巻98を見ていくと、「爾雅跋」に「韓本」「唐本」という語彙が見えますhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1982?ln=ja。また「書授島周史記後」には「嵯峨板ノ大本」「嵯峨本」という語彙が記されているのですがhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1978?ln=ja、これはいわゆる「光悦本・角倉本」の方ではなく、五山版のひとつ臨川寺版のことかと思われます。

実は『鵞峰先生林学士文集』は、序文と凡例が楷書https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/9?ln=ja、目次以下本文が「明朝流」で板刻されhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/11?ln=ja、後序が行書となっているのですがhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/4707?ln=ja、刊本の字様に関する言及が、どこかに書かれていないものでしょうか。「文集」ではなく「日記」になるのでしょうか。

刊本字様「明朝流」に関する林家三代の言及が「ここにある」「ここには無い」等、――あるいは、荻生徂徠・山井崑崙にある(無い)といった、17世紀末の状況をご存じの方がいらしたら、ぜひご教示ください。もちろん17世紀末よりずっと遡るような事例でも大歓迎です。

*1:小池友識について、コトバンク等では通称「源太左衛門」と書かれていますが https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E5%8F%8B%E8%AD%98-1073623(2024年1月5日閲覧)、木戸之都子「水戸藩人士の墓碑銘索引」(2009)には「源太衛門小池君墓表・倉澤安」とあります(https://rose-ibadai.repo.nii.ac.jp/record/9983/files/20090200.pdf)。

*2:横田冬彦『日本近世書物文化史の研究』(岩波書店、2018)第11章「作者・書肆・読者 ―益軒と柳枝軒をめぐって」

*3:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=116https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=117、早稲田古典籍総合データベース https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i03/i03_01860/i03_01860_p0115.jpghttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i03/i03_01860/i03_01860_p0116.jpg

*4:対馬守による『朱子文集大全』献納事情の詳細も含む阿比留章子「対馬藩における朝鮮本の輸入と御文庫との関係につ いて」(『雅俗』14巻、2015年7月 https://doi.org/10.15017/4742028)の面白さ!