引き続き、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」と「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する、築地活版の初期ポイント活字の話です。
先日「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」に記した通り、東京築地活版製造所第4代社長の野村宗十郎は、『印刷世界』9巻6号(
其後中央新聞の大岡力氏が弊社に來られて、九ポイント活字を見、之れだけで新聞を作らう、さうしたら新聞も美しく記事も豐富になるだらうといふので、採用される亊になつて九ポイント活字を七八千種製造して供給した。これは新聞紙に用ひられた嚆矢で其後函館毎日、大阪毎日、鹿兒島新聞其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた。
函館毎日新聞の状況
小野寺一郎『函館案内 増補2版』(函館工業館、明治35年)で「同社は傍ら活版石版製本の業を兼ね其精巧麗美鮮明なるは是れ又東京以北に於て〓〓するものなしと聞く盛なる哉」と書かれている函館毎日新聞は(104頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/763064/1/155)、明治42年版『新聞名鑑 2版』で本文活字が「ポイント式」であると書かれている数少ない新聞の1つではあるものの(110頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/65)、それがどのようなポイント活字であるのかが明確ではありません。
国会図書館が所蔵しているマイクロフィルムの書誌情報に「欠番多し」と書かれている通り(https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000089727?temporal=1905&page=1#ndl)、
遠隔複写で得た紙焼きは、次のような紙面構成でした。
- 明治38年4月1日付の紙面は1行19字詰・1頁7段組で従来の五号活字を使用。
明治41 年12月29日付の紙面は1行19字詰・1頁8段組で築地9ポイント明朝活字を使用。明治43年6月1日付、同年12月1日付の紙面も同様。更に明治44年3月1日付、6月1日付、9月1日付、12月1日付の紙面も同様。1908
――というわけで、函館毎日新聞による築地9ポイント活字の採用が明治38年4月1日から41年12月1日までの間のいつだったのかは判りませんでしたが、おそらく初採用から明治44年末までの間、他の活字に浮気することなく築地9ポイントを使い続けたものと思われました。
鹿児島新聞の状況
南日本新聞社『南日本新聞百年志』(1981年)77頁には「明治三十八年一月から、それまでの六段組みを七段組みに改めた鹿新は、次の段階として東京の有力紙が新しく開発した新式活字への移行を計画した。当時の全国の新聞は例外なく五号活字を主力に使い、多数の人名や商況などには六号の小活字を当てていた。そこへ「都新聞」、「報知新聞」などが、五号と六号の中間位に当たる九ポイント新活字を作り出した。鮮明な字体と、従前の一ページを四分の三ほどの字数で足りる経済性から各社も注目し始めていた。鹿新は三十九年六月からこの新活字を導入したが、それによって同じ六ページでも従来の八ページ分の記事が提供できるようになった。」と書かれています(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12278019/1/60)。
都新聞や報知新聞が採用していた「都式活字」(巷説9.75pt、内田説9.5pt)のことと中央新聞などが最初に採用した築地9ポイント活字のことを混同しているように見える書きぶりが気になるので、こちらも国会図書館のマイクロフィルムを遠隔複写してみました。
明治39 年4月1日付の紙面は1行19字詰・1頁7段組で従来の五号活字を使用。5月1日付、5月31日付も同様。1906 明治39 年6月1日付の紙面も1行19字詰・1頁7段組で従来の五号活字を使用。7月1日付、8月1日付も同様。1906
鹿児島県立図書館では、デジタル資源化された鹿児島新聞(明治15年2月~昭和17年2月)を館内閲覧できるそうです(https://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/p38680)。
どなたか、鹿新の紙面が1行19字詰・1頁7段組から1行19字詰・1頁8段組(本文9ポイント活字の可能性大)または1行18字詰・1頁8段組(本文9.5ポイント活字の可能性大)に切り替わる時期が実際にはいつ頃だったのか、お教えいただければ幸いです。