さて、①往時の新聞各紙のうち『中央新聞』が本文活字として築地9ポイント明朝を採用した嚆矢であると言われていて、牧治三郎『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部50周年記念事業委員会、1972年)や矢作勝美『活字=表現・記録・伝達する』(出版ニュース社、1986年)が「明治39年12月から」だとしているのは誤りで実際は明治38年に築地9ポ化されているという話を去る5月に記し(「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」)、その後9月の末に②「早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」、③「読売新聞の本文活字は明治42年1月1日から大正6年2月末まで「都式活字」基調だが明治42年2月からは築地9ポ半が乱雑混植されていた(ので都式活字は9.5ポイントで間違いない)」という話を書き継いできたわけですが。
今回は、『中央新聞』が本文活字として築地9ポイント明朝を捨てて都式活字を採用するタイミングと、都式活字をやめて築地9ポ半へ乗り換える時期についての話です。
中央新聞が築地9ポから都式活字に切り替えるタイミング
6年ほど前に何度か遠隔複写を取得し、更に国会図書館東京本館に出かけてマイクロフィルムを閲覧したところ、『中央新聞』の本文活字は明治41年6月15日から都式活字に切り替わっているのでした。
追加依頼した明治41年5月1日、6月1日、7月1日付の中央新聞複写が届いた。6月1日は9ポ8段19字詰、7月1日が9ポ半8段18字詰。中央を追って本文を築地9ポにした読売が、この明治41年8月に、活字が小さすぎて読み難いという意見があるので近々対処する云々の社告を出していたのが改めて味わい深い。
— UCHIDA Akira (@uakira2) May 21, 2018
さて、以前の遠隔複写で明治41年6月1日よりも後、7月1日以前のどこかで築地9ポから都式9ポ半に切り替わったと思われていた中央新聞なのだけれど。さっきマイクロ見てみたら切り替わりは6月15日だった。
— UCHIDA Akira (@uakira2) August 21, 2018
中央新聞が都式活字を離れ築地9ポ半に切り替えるタイミング
デジタル化されたマイクロ資料の紙焼きを遠隔複写で取り寄せたところ、どうやら明治43年6月2日から9月1日までの間に本文活字が再び都式活字から築地9ポ半へと切り替わったように見受けられます。
飛び飛びに取得した遠隔複写資料によると、明治44年3月1日付3面、明治45年3月1日付3面、大正2年3月1日付3面、大正3年3月1日付3面――は明治43年と同じ1段18字詰め・1頁8段組(本文築地9ポ半活字)でした。
大正4年3月1日付3面、大正5年3月1日付3面、大正6年3月1日付3面は1段16字詰め・1頁9段組(本文築地9ポ半活字)。
大正7年3月1日付3面は1段15字詰め・1頁10段組となっており、おそらく本文は築地8ポ半活字。
読売新聞と中央新聞がが9ポ半を脱するタイミングについて(「早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」)、可能であれば双方の大正6~7年の原紙を確かめてみたいところですが、今のところは残念ながら未確認。