野村宗十郎「日本に於けるポイントシステム」で「其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた」と書かれているうち、読売新聞の本文活字には読売の社史に出ていない興味深い歴史があったので、整理してみます。
紙の本としては最新版となる『読売新聞140年史』(読売新聞グループ本社、2015年)が新聞活字の変遷に無関心なところは残念なのですが、『読売新聞百年史 資料・年表』(読売新聞社、1976年)65頁「読売新聞の活字・段数・字詰・行数・建ページの変遷」(https://dl.ndl.go.jp/pid/12277857/1/75)というフォーマットはとても素晴らしいです。フォーマットは素晴らしいのですが、今回話題にするドラマの舞台である
『明治・大正・昭和の読売新聞CD-ROM』で当時の紙面を追って得た情報と、先日入手できた明治41年11月6日付原紙と明治43年12月14日付原紙を計って得た情報に基づき、『読売新聞八十年史』(読売新聞社、1955、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/2999984/1/389)や『読売新聞百年史 本編』(読売新聞社、1976年、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277856/1/244)で等閑視されている情報を補い、また明らかな誤りと思われる点を正してみます。
当初のタイトルは「早々と明治39年5月から築地9pt活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」でしたが、すぐに「早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」へと改めました。
1行19字詰め1頁7段組み期の本文活字
「百年史」では明治34年が10.5ポイント(五号)、明治35年から39年5月6日まで10.0ポイントとされていますが、一貫して築地五号が本文活字に用いられていたようです。
1行19字詰め1頁8段組み期の本文活字
「百年史」では明治39年5月7日から41年末まで10.0ポイントとされていますが、この期間は築地9ポイントが本文活字に用いられていたようです。
1行18字詰め1頁8段組み期の本文活字
「百年史」では明治42年1月1日から大正3年4月2日まで9.5ポイントとされており、確かに活字サイズは9.5ポイントなのですが、本文の基本活字として採用されたのが「都式活字」であったことは特記しておきたいところです。より詳しくいうと、「『都新聞』と同附録『都の華』に見える「都式活字」A型仮名とB型仮名、そして松藤善勝堂が1910年代に印刷した雑誌・書籍に見えるABブレンド型仮名」に記したところの「ABブレンド型仮名」書風のものであるようです。
1行16字詰め1頁9段組み期の本文活字
「百年史」では大正3年4月3日から大正6年2月28日まで9.0ポイントとされていますが、前期に引き続いて本文の基本活字は「都式活字」です。なお、『読売新聞』本文の基本活字として「都式活字」が使われていた時期の詳細――明治43年の原紙に関する下表の注釈で軽く触れている「乱雑混植」の状況――について補足する記事を、近日公開する予定です。
1行17字詰め1頁9段組み期の本文活字
「百年史」では8.5ポイントとされていますが、「9.0ポイント仮名付」ではないかと疑っています。「仮名付」とは「ルビ付き活字」などとも呼ばれ、親文字1文字に対して3文字分の扁平な振り仮名が鋳込まれている場合があるといった特徴が見られます。
1行16字詰め1頁10段組み期の本文活字
「百年史」では8.5ポイントとされていますが、「9.0ポイント仮名付」なのか「8.5ポイント仮名付」なのか、『明治・大正・昭和の読売新聞CD-ROM』の紙面イメージからは判断できませんでした。「9.0ポイント仮名付」であった場合の「長手字数」×9.0pt=1440ptという値がブランケット判のサイズとしては大きすぎる感があるので、「8.5ポイント仮名付」と考えておきます。
1行15字詰め1頁11段組み期の本文活字
前の期と同様です。
明治39 1906 年から大正7 1918 年までの「読売新聞の活字・段数・字詰・行数・建ページの変遷」
百年史「読売新聞の活字・段数・字詰・行数・建ページの変遷」より | 内田補記 | ||||||||
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年次 | 活字 | 段数 | 字詰 | 備考 | 活字 | 段数 | 字詰 | 長手字数 | 備考 |
明治34 | 10.5 | 6 | 22 | 築地五号 | 6 | 22 | 132字 1394ポ | *1 | |
10.5 | 7 | 19 | 10月1日から | 築地五号 | 7 | 19 | 133字 1404ポ | *2 | |
35 | 10.0 | 7 | 19 | 3月1日から | 築地五号 | 7 | 19 | 133字 1404ポ | *3 *4 |
36 | 10.0 | 7 | 19 | 築地五号 | 7 | 19 | 133字 1404ポ | *5 | |
37 | 10.0 | 7 | 19 | 築地五号 | 7 | 19 | 133字 1404ポ | ||
38 | 10.0 | 7 | 19 | 築地五号 | 7 | 19 | 133字 1404ポ | ||
39 | 10.0 | 8 | 19 | 5月7日から 新活字も同日 | 築地9ポ | 8 | 19 | 152字 1368ポ | *6 *7 *8 |
40 | 10.0 | 8 | 19 | 築地9ポ | 8 | 19 | 152字 1368ポ | ||
41 | 10.0 | 8 | 19 | 築地9ポ | 8 | 19 | 152字 1368ポ | *9 | |
42 | 9.5 | 8 | 18 | 1月1日から | 都式(9.5) | 8 | 18 | 144字 1368ポ | *10 *11 *12 *13 *14 |
43 | 9.5 | 8 | 18 | 都式(9.5) | 8 | 18 | 144字 1368ポ | *15 | |
44 | 9.5 | 8 | 18 | 都式(9.5) | 8 | 18 | 144字 1368ポ | ||
M45/T1 | 9.5 | 8 | 18 | 都式(9.5) | 8 | 18 | 144字 1368ポ | ||
2 | 9.5 | 8 | 18 | 都式(9.5) | 8 | 18 | 144字 1368ポ | ||
3 | 9.0 | 9 | 16 | 4月3日から | 都式(9.5) | 9 | 16 | 144字 1368ポ | *16 *17 |
4 | 9.0 | 9 | 16 | 都式(9.5) | 9 | 16 | 144字 1368ポ | ||
5 | 9.0 | 9 | 16 | 都式(9.5) | 9 | 16 | 144字 1368ポ | ||
6 | 8.5 | 9 | 17 | 3月1日から | 築地9ポ仮名付(?) | 9 | 17 | 153字 1377ポ(?) | *18 |
8.5 | 10 | 16 | 9月16日から | 築地8ポ半仮名付(?) | 10 | 16 | 160字 1360ポ(?) | *19 | |
7 | 8.5 | 11 | 15 | 7月1日から | 築地8ポ半仮名付(?) | 11 | 15 | 165字 1402.5ポ(?) | *20 |
*1:当時の築地五号は3.69mm角(10.5pt)ではなく3.71mm角(約10.56ポ)でした。132字×10.5ptなら1386ptですが、約10.56ptとして計算した結果1394ptとしました。
*2:133字×10.5ptなら1396.5ptですが、約10.56ptとして計算した結果1404ptとしました。
*3:築地活版が自社製和文ポイント活字の実物を社外に公表したのが明治36年の第五回内国勧業博覧会のことになります。明治35年から10ポイントを採用する理由がありません。築地10ポの最も早い採用例はおそらく明治41年9月の毎日電報になります(明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―②毎日電報の事例)。
*4:明治35年2月の紙面と3月の紙面を見比べると、どちらも「築地体前期五号」活字によって刷られていて、体裁上の違いは見当たりません。題字も従来のものがそのまま引き継がれています。28日付朝刊1面社告「面目一新紙面改良明三月一日より」が示しているのは「80年史」第五章六「紙面の行詰り―派閥の発生」(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/2999984/1/138)が記している主筆交代劇とそれに伴う編集方針の刷新であって、使用活字等にはかかわりのないことでしょう。
*5:明治36年12月13日付朝刊の本文活字は「築地体後期五号」になっていますから、明治35年3月2日から明治36年12月12日までの期間のどこかのタイミングで使用活字の交代が起きているはずですが、未確認です。なお、築地活版が前期五号から後期五号へと書体のモデルチェンジを刊行したのは明治31年版五号総数見本発行の頃でした。「明治31年築地体後期五号仮名のはじまり」
*6:明治39年4月22日付朝刊1面からしばらく「五月一日より活字改良」の社告あり。6頁の紙幅で7頁分の情報量という趣旨を主張。本文19字詰め7段組み、築地系五号活字。
*7:明治39年5月1日付朝刊1面から5日まで「新活字は五月七日より」社告あり、6日付朝刊2面では「新活字は明日より」の社告。
*8:明治39年5月7日付の紙面より本文19字詰め8段組み、築地9ポイント活字使用開始。
*9:手元にある明治41年11月6日付『読売新聞』原紙により実測、本文築地9ポイント明朝活字、1行19字詰め・1頁8段組み。
*10:『都之華』ほか各種「当時物」の計測から、私は「都式活字」を9.75ポではなく9.5ポと考えています。「都式活字(都式新活字)の大きさを9ポイント7分5厘(9.75pt)ではなく9ポ半(9.5pt)相当と判断する理由」
*11:「百年史」本文「「銀座三層楼」に改築、新輪転機を購入」」の項に、明治41年8月25日付社告で発表された紙面の改革内容7点が列記され、このうちのひとつが「活字改良」であることが示されています〈234頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277856/1/244〉。年表でも簡単にしか触れられていません〈232頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277857/1/232〉。この「活字改良」の内容は、同日付朝刊1面「本紙の大改革」社告において「活字はドウなる乎」と題して「現今使用しつつある活字は
*12:その明治41年9月1日付朝刊1面の「紙面大改革に付社告」では「目下急速力にて諸事進行中に候へば日々進歩しつゝ今より二ヶ月の後には何事も完備するに至るべく」云々と書かれています。
*13:明治41年12月30日付朝刊1面の社告「新年以降の本紙」になってようやく「新活字も亦既に出来して一月一日の紙上より之を使用することとなり」という告知になりました。
*14:明治42年1月1日付の紙面より本文18字詰め8段組み、都式活字使用開始。
*15:手元にある明治43年12月14日付『読売新聞』原紙により実測、本文は都式活字を基本としつつ一部に築地9ポ半を乱雑混植の状態、1行18字詰め・1頁8段組み。
*16:大正3年3月31日付朝刊2面の社告で「来る四月三日より紙面を八頁に拡張すると共に紙面の体裁」を「一頁九段」「一段 現在の五号活字一行十六字詰百五行」にすると示されています。
*17:4月3日以降の本文活字は予告通り都式活字(「現在の五号活字」)で特に変わりはありません。
*18:大正6年2月23日から連日「新活字の使用」「来三月一日より」という社告が掲載されています。曰く「記事増加し紙面狭隘を感ずるに至りたるに由り弊社は来る三月一日より活字を改めて最新ポイント式活字を使用することとなしたり」。
*19:9月15日付朝刊2面に「本紙々面改正に付広告字詰並に段数来る十六日より左記の通り改正致候」という社告が掲載され、翌9月16日付の紙面から本文16字詰め10段組みになっています。
*20:見落としでなければ、予告の類が発せられないまま7月1日付の紙面より本文15字詰め11段組に切り替わっています。