日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

ウィリアム・ガンブルの日本滞在時期に関する記録

かつて上海にあったAmerican Presbyterian Mission Press(美華書館)の活版印刷技師だったWilliam Gamble(ウィリアム・ガンブル)が、「いつ」日本に来て「どれくらいの期間」滞在し、「どのような内容」の事柄を伝えたのか。

「いつ」日本に来たのかということについては三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(1933、同頒布刊行会)が「明治2年6月なりと云ふ」と記し、「どれくらいの期間」滞在したかについては川田久長『活版印刷史』(1949、印刷学会出版部)が「長くても2週間を超えない程度の短いものであったらしい」と記している。

このガンブルの日本滞在に関する記述は、十分な裏付を確認できないまま1980年代まで通用してきた。

この認識を改める、ガンブル来日当時に記された資料を日本で初めて(そして印刷史研究の文脈では中国でも初めて)示したのが、1985年7月の『図書』431号に掲載された矢作勝美「わが国活版印刷史の新資料」である。そこには、往時の上海でのキリスト教関連情報等を記した『教会新報』という新資料発見に至る簡単な経緯と、

  1. ガンブルの来日が『教会新報』1869(明治2)年9月11日付第52号に「11月頃日本の長崎に到着」して「4ヶ月滞在」する予定だと書かれていること
  2. ガンブルが上海からアメリカへ帰国する途中で日本に立ち寄ることを示す漢詩が『教会新報』1869(明治2)年12月2日付第55号に掲載されていること
  3. 『教会新報』1870(明治3)年8月13日付第98号に記された漢詩には、ガンブルは1969年秋から半年ほど日本に滞在したと詠まれていること

――が書かれている。

このレポートは矢作氏自身の手によって論文形式に書き改められて『出版研究』16号(1986年3月、講談社)に「明確になった活版印刷の源流」と題して掲出され、後に矢作勝美『活字=表現・記録・伝達する』(1986、出版ニュース社)へ収録されている。「明確になった活版印刷の源流」の末尾には1985年9月22日に脱稿したと記されているので、この論文の執筆中に、最もコアな要素をダイジェストして『図書』431号で紹介した――と考えるのが自然だろうかと思うが、ともあれ我々読者にとっては、新資料の存在を最初に教えられたのは『図書』431号の方である*1

ガンブルが「どのような内容」を伝えたのかということの概要を記した日本の公文書である「長崎製鉄所付属新聞局ノ活字器械処分」(明治3年11月20日長崎県申立、辨官宛)――長崎県が製鉄所付属新聞局の活版印刷機材の取扱について太政官に伺いを立てたもの――を紹介する「ウイリアム・ガンブルの来日を記録した公文書」は『活字=表現・記録・伝達する』での新稿。

現在は国立公文書館デジタルアーカイブで、太政類典・第一編・慶応三年〜明治四年・第五巻から「長崎製鉄所付属新聞局ノ活字器械処分」を閲覧することができる。


さて、横浜開港資料館で開催された平成30年度企画展「金属活字と明治の横浜」の準備期間中、この企画の担い手であった同館の石崎康子氏によって、ウィリアム・ガンブルの来日と離日に関する新しい資料の存在が確認された。

開港資料館の館報『開港のひろば』138号(2017年10月)に掲載された「新聞の出入港船リストから分かること~ウィリアム・ギャンブルの場合~」に報告がある。『ノース・チャイナ・ヘラルド』(The North China Herald)紙や『長崎エクスプレス』(The Nagasaki Express)紙に掲載された出入港船リストによって、次のことが判明したという。

  1. NCヘラルドの1869年10月前後の出入港船リストにはGambleの名を見つけることができなかった
  2. NCヘラルドの1870年4月12日号に掲載されたリストによるとGambleはキャディス号(Cadiz)に乗って長崎から上海に戻っている(上海到着が4月5日から12日の間と推定される)
  3. 長崎エクスプレス1870年4月2日号の出入港船リストによるとGambleが乗ったキャディス号は横浜から神戸を経て4月1日に長崎へ入港し同2日に上海へ向けて出港している

ガンブルによる伝習期間がいつまでか(3月末日なのかどうか)は正確には判らないが、いつ日本を離れて上海へ戻ったかということについては情報が確定したといってよいだろう。

また石崎氏は、アメリカ議会図書館のWilliam Gambleコレクションから、長崎で撮影されたものと推定されるガンブルの肖像や伝習関係者らと共に写された集合写真を発見されていて、『開港のひろば』140号(2018年4月)で報告されている。

出入港船リストの話題を記した『開港のひろば』138号と、ガンブル肖像を紹介する140号の話題に、明治初期の横浜で刷られた印刷物に用いられている活字に見られる美華書館の影響に関する話題を加えた石崎康子「ウィリアム・ギャンブルと横浜」という記事が、先般『書物学』第15号(2019年4月、勉誠出版asin:9784585207153)に掲載された。


「金属活字と近代」特集号である『書物学』第15号には、宮坂弥代生「近代日本の印刷業誕生前史――ガンブルの講習と二つのミッションプレス」という記事も掲載されている。

ガンブル自身が長崎での伝習活動について書き残していた新発見資料を紹介しつつ、美華書館・墨海書館という2つのMission Press(伝道団印刷所)の活動を概観するものだ。

ガンブルの伝習活動に関する新発見資料のひとつは、『The Chinese Recorder and Missionary Journal』Vol.2 No.11, April 1870の316頁に掲載された、ガンブルがChinese Recorder編集長あてで記した「LETTER FROM JAPAN」。冒頭に「I have been engaged since the 1st of December in fitting up a type foundry and printing office for the Japanese Authorities of this place.」と書かれており、伝習が1869年12月1日に始まったことが判る。

もうひとつは、Chinese Recorderの同じ号、307-308頁に掲載された、長崎の英国領事アンズリー宛ガンブル書簡。「PRESECUTIONS OF CHRISTIANS IN JAPAN」(日本におけるキリスト教迫害)と題されたこの1870年1月12日付書簡には、ガンブルが「浦上へ行き、日本人のキリスト教徒と言葉を交わした」ことも記されているという。活版印刷の伝習所に籠もりきりだったわけではないようだ。


こうして、William Gambleがいつからいつまで長崎に滞在していたかということをほぼ確定させるに至った各位の地味な調査に、改めて深い敬意を捧げたい。

*1:小宮山博史和文活字書体史研究の現状と問題点」(2010年『デザイン学研究』17巻2号、https://doi.org/10.11247/jssds.17.2_42)も、矢作による『教会新報』の紹介を『図書』における「わが国活版印刷史の新資料」としている。