日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

明朝体が広く使われるようになったのはTimesに合わせるため説?

1920年代に開発され1932年にTimes紙でデビューした、英国モノタイプ社の活字書体「Times」について、《明朝体が広く使われるようになったのは、英字Timesに合わせるためだ》といふ説があるといふんだが。
日本語明朝体活字といふモノに限っても、現在我々が「オールドスタイル」と呼ぶ明朝体活字書体は19世紀のうちにあらかた開発が終ってゐる。確かに円本ブームはTimes書体誕生の頃から始まるわけだが、19世紀末を迎えつつある『日清戦争実記』の頃に秀英四号が独自書風を確立し、続けて1898年(明治31年)に築地体後期五号仮名がデビュー。
20世紀を迎えた『日露戦争実記』の頃には、「現在我々が目にしている明朝体活字」が押しも押されもせぬスタンダードだった。
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そんな日本語明朝体活字、実は明治10年代に基本書体の地位を脅かされたことがある。弘道軒清朝体(楷書体活字)が東京日日新聞の本文活字に採用されたり、坪内逍遥が自著を楷書活字で組ませたりするなど、本格系は楷書体だといふ雰囲気が芽生えてゐた。
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明治10年代に基本の日本語活字が明朝体から楷書系に切り替わる可能性があったのを、印刷局の廉価払下と築地活版の対抗値下げという演出によって明朝体主流に押しとどめたのは、実は、後に英国モノタイプ社にTimes書体を作らせた、長崎グラバー邸人脈の陰謀であった。
周知の通り、日本語明朝体活字を実用化した長崎の本木昌造人脈は、後に「官」の印刷局と「民」の東京築地活版製造所を生み出してゐるが、民間の活版製造所系統は、大阪、京都、横浜への展開を経て東京に至り後の築地活版製造所となってゐる。
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印刷局と築地活版(平野活版)に値下げ競争を働きかけたのは、グラバー邸人脈の日本側のキーマンであった大阪活版所の五代友厚である。
東京の活版所(平野活版)の責任者であった平野富二は、築地居留地で新たに築いた人脈を活用しつつ自らの活版所を守り育て、やがて五代に上京時の出資金を返還。大阪活版製造所と東京築地活版製造所は完全に分離独立の存在となり、平野は独自路線を模索し始める。
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印刷局と築地活版の値下げ競争によって利益を得たのが、秀英舎であった。
日本の印刷業がどのように成長していくのかまだ全く分からなかった創業当時、二大活字ベンダーのどちらが斃れてもリスクが少なくなるよう印刷局と築地活版の両社から活字を購入することとした秀英舎は、双方の値下げ競争によって直接的な利益も得たが、日本語活字の基本書体として明朝体の基盤が安定したことで、もうひとつの利益も得ることとなった。
明朝体活字の基本書体としての地位が確定したと言ってよい明治20年代に入る頃、秀英舎はある決定をする。すなわち、自社ブランドでの明朝体活字販売の開始である。
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英国より秀でるといふ目的を名に持つ秀英舎。
米国系の設備によって英国系を超えようとした秀英舎は、明治20年代の自社活字開発時に僅かに活字の角寸法を変更することで、その意思表示を行った。秀英舎は五号活字の最初の見本帖を明治22年に出してゐるが、この頃の秀英舎印刷物を丹念に観察すると、明治10年代の印刷物に比べてわずかに角寸法が小さくなってゐる。
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明治24年に秀英舎舎主の提唱で創刊された『印刷雑誌』の初期の記事において築地活版は、活字の角寸法はポイント式に基づいて本木昌造翁が策定したと述べてをり、以後度々、後の築地活版社長である野村宗十郎が同誌に記事を寄せてゐる。
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明治36年(1903年)に出した壮大な見本帖に至るまで、築地活版は米国式ポイント活字規格追従を唱える一方、五代と袂を分かち独自の道を切り開こうとした平野富二に対するアンビバレンツを抱える野村宗十郎の心の揺らぎのまま、五号活字の角寸法を大きくしたり小さくしたり、フルニエでも米国ポイントでも意味不明になる事態に陥っていた。
意気揚々と『印刷雑誌』誌上で活字論議をぶちまくっていた野村ら築地活版一統だが、やがて、活字の角寸法が一定していないのは数字の基準がないまま現物合せや口伝で造ってきたからだ云々と苦しい言い訳をせざるを得ないところに追い込まれる。
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大正初年、第一次大戦(1914-1918)に連動する好景気に沸く国内市場は、本文活字として五号は少しばかり大きすぎるという空気が支配的になっている。ポイント活字を成功させるためか築地活版は大正半ばに号数活字の角寸法を更に変更した。
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そんな中、誰も予想していなかった出来事が起きる。
忘れた頃にやって来た天災、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって、東京の印刷業者は特に下町を中心に甚大な被害を受けた。築地活版も本社に多大な被害を受けてゐる。
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活字鋳造所として依然として最大手といって良い築地活版は、ほどなく工場を再建する。しかし震災復興のため新たに活字を購入する人々が求めたのは、明治20年代以来角寸法を一定に保ってきた秀英舎などの活字であった。
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結局築地活版は震災被害から十分な回復を果たせぬまま昭和13年に解散する。野村のキャラを見抜き『印刷雑誌』誌上で奉り上げ、ひとりよがりの活字改革を推進させた、秀英舎側の作戦勝ちと言ってよい。
実はこの秀英舎の作戦は、American Type Founders社が某米国系秘密結社を通じて授けた秘策であり、オールドスタイルの日本語明朝体活字に似合うのはやっぱりTimesみたいな書体じゃなくてGaramondでしょ、というような風潮を作り出しているのも、その筋の陰謀である。
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(以下、興味深いブクマコメントを幾つも頂戴したので、05/16追記。)
ATFの1923見本帖(http://bit.ly/9k2IOj)が、冒頭に数ページの歴史解説と技術解説を記した後、活字見本本体としてGARAMONDを十数ページ、Goudyを十数ページ、Bodoniを十数ページ……といふ構成になってゐるのは、偶然ではない彼らの意図を示してゐる。
戦後復興期の日本で米国産「欧文活字」と欧州産「欧文活字」の間で密かな或は公然の確執があったのも、明治期の日本語活字史に淵源するのである。
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以上、twitterで@kzhrさん(https://twitter.com/kzhr/status/14023966471)に捧げたつぶやきに加筆再構成。