日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

幕末に池田草庵と松崎慊堂が「明朝」と呼んだ刊本字様

私たちがいま「明朝体」と呼ぶ活字書体(印刷文字の書体・字様)の日本におけるルーツは黄檗萬福寺で天和元年〈1681〉に開版された鉄眼版一切経であると言われていて、この印刷文字書体は日本でかれこれ340年ほど使われています。

天保壬寅年〈1842〉に校訂布字と扉に記され嘉永3年〈1850〉に発行されたと刊記にある錦林王府木活字版『唐鑑』の刊語において、錦林王府に伝わる活字が「仏典字様」と呼ばれ補刻された筆写体活字が「明朝様」と呼ばれているように(https://uakira.hateblo.jp/entry/2021/10/20/085430)、昔から常に「明朝体」あるいは「明朝様」と呼ばれていたわけでは無さそうです。

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大阪府立図書館石崎文庫蔵 錦林王府木活字版『唐鑑』刊語(おおさかeコレクションより)

現代の日本で「明朝体」と呼ばれ、中国で「宋体」と呼ばれるこの字様・書体の印刷文字は、日本で、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ばれるようになったのでしょうか。

小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(グラフィック社、2020)の「明朝体の定着 ―名称と書体」の項には、次のように記されています(254-255頁)。

日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか。調べたいと思っていながらそのままにしています。ここではとりあえず横浜市歴史博物館収蔵本の活字見本帳や販売広告から、おおよその流れを見てみようと思います。

明朝体が書籍・雑誌・新聞を組む主要な活字書体として登場したのは明治初年のことです。東京日日新聞明治8(1875)年9月5日号「雑報」にある本木昌造追悼記事の中に「明朝風」という言葉が使われていますので、これが最初ではないかと勝手に思っているのですが、確証はありません。

活字の話題に限定せずに往時の新聞雑誌の記事・広告を眺めていて私が行き当たったのが、宮武外骨『文明開化・二・広告篇』(半狂堂、1925)で翻刻されている、同じ明治8年の2月9日付郵便報知新聞(第584号)に掲載された文會社の「訳書彫刻等の請負」広告になります(画像は酪農乳業史デジタルアーカイブ https://www.j-milk.jp/digitalarchives/detail/A0585.html より)。中ほどに、次のように記されています。

版下明朝様十行廿字片仮名雑 一葉金十銭
同常体傍仮名付十行廿字仮名雑 同金七銭

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明8文會社「訳書彫刻等の請負」郵便報知新聞広告文(外骨『文明開化』翻刻

明朝様の漢字とカタカナ交りによって版下文字を筆耕する場合20字詰10行を1ページとしてページ単価10銭、常体の漢字(フリガナつき)に平仮名交りの文であれば同じ20字詰10行でページ単価7銭だ、ということのようです。ここで言う「常体」が御家流なのか楷書系なのかは分かりませんけれども筆写体を指していることに間違いないでしょうから、「明朝様」は今の私たちの感覚で言う明朝体系統の版刻書体(刊本字様)を示しているものと思います。この文會社が同時期に携わったであろう仕事の痕跡を見つけて答え合わせが出来れば嬉しいのですが、今のところは判りません。

産業化に成功する鋳造式近代明朝活字が日本の歴史に登場するのは明治初年のことですが、私たちが明朝体と呼ぶような字様の印刷文字が仏典以外の書籍でも使われるようになるのは藩政時代のことだったようです。本木昌造らの活動よりも古い時期から印刷出版に携わっていた人々の間で、「明朝」という言葉が私たちの思う明朝体の刊本字様・版刻書体を指し示す言葉として使われていた可能性がありそうに思えます。
そこで、以下では、幕末に整板本や木活字本として学術出版を行っていた漢学者たちの活動に目を向けてみましょう。


朱子學大系第14巻「幕末維新朱子學者書簡集」』(明德出版社、1975)の「楠本碩水書簡」の項に、佐々謙三郎(=楠本碩水:1832生-1916没)と池田禎蔵(=池田草庵:1813生-1878没)とのやりとりが収められていて、碩水から草庵あてが180-230頁に、また草庵から碩水にあてたものが245-335頁にまとめられています。
その中には、碩水が企図した『康齋先生日録』出版について二人の間で交わされた書簡群が含まれていました。
「書簡集」の掲載内容をつぶさに見ていくと、碩水から草庵宛、草庵から碩水宛、どちらも必ずしも古いものから新しいものへと順番通りに並んでいるわけではなく、また註が付された年号が誤っているものもあるようですが、今回注目したやりとりについては翻刻されている手紙文の内容から概ね往復の順を正確に辿ることができたと思います。

康斎日録出版に関連するやりとりの中に、興味深い一文が出現していました。
以下、「書簡集」翻刻原文中の漢字を適宜通用字体に改めて引用しながら記します(訓点省略)。

碩水から草庵あての最初の書簡は「文久甲子正月望日」に記されています。この文久甲子つまり文久4年〈1864〉1月15日付の書簡(180-181頁)で碩水は、自分たちが活版(木活字)で呉康斎の日録を出版し広めたいと考えていて、ついては草庵に序文を認めて欲しいと申し入れています。
これに対する元治元年〈1864〉4月13日付の返信で草庵は、康斎日録への序文を送るとともに、部数が限られる活版(木活字)ではなく整板本にしてはどうかと提案しています(248-253頁)。

同年5月念五日(25日)の草庵あて書簡(207-209頁)で碩水は「康斎先生日録序文奉願候処、早速御出来被下置、千萬奉拝謝候」と序文への礼を述べ、「当所へ活版所持仕居候処、とんと不用に相成居申候間、幸之事ニ奉存」ていたが、整板にせよとの薦めをもっともであると思う、しかし江都への出版届が手間取ることでもあるので、櫻谿書院の同志で活版(木活字)とする可能性も留保しておきたい、ともあれ河内屋で整板の相談をするつもり、というような返事を書いています。
河内屋というのは大阪の書肆で、他の書簡で「河茂」などと書かれているのはこの河内屋茂兵衛を指すようです。

同年かと思われる11月15日付の草庵あて書簡(196-198頁)で碩水は「康斎日録之義、河内屋より整板ニ致し度申越候」と報告し、点付に手間取っている旨、また後日添削して欲しい旨を記しています(197頁)。

その後何度かやり取りを経て、慶応2年〈1866〉4月朔(1日)発信の碩水あて書簡(313-314頁)で草庵は、碩水・河内屋が準備した清書本を「一応拝見いたし候処、元来此本原本脱誤多く存申候。因而今般又細々点検申候処、段々如何奉存候処も多く、因而委細書付ケ又一応入貴覧」云々と、別添の諸注意書きを参考に再校訂して欲しいと記しています。

今回注目したのが315-321頁に翻刻されている、上記別添諸注意書(慶応2年丙寅5月21日領手)の冒頭、日録序文の訂正事項を述べた後、日録本文の添削事項の前に書かれている一文です。

板ハ文字明朝様が冝敷奉存候如何。」と書かれているのです(315頁、強調は引用者)。今様の言葉にするなら〈板刻する文字書体は「明朝体」が良いと思うがどうだろうか〉という草庵の意見、に見えます。

これに対する碩水の返信は「六月朔」(6月1日)発(213-215頁)。詳細な添削について「康斎日録写本呈覧仕候処、細々御点検被成下置千萬奉拝謝候」と感謝を述べ、「当所ニ而も又々校訂、此節河茂方え送リ遣シ申候」としたものの、「幕府ニ願出不申候而ハ上木も相叶不申旨ニ付、少シ手間取り可申相考候」と出版の許可申請に手間取っていることを記しています。この後原本の不備に関する嘆き等が書かれているのですが、板下の字様(書体)に関する言及は見えません。

結局藩政時代に出版まで漕ぎつけることが出来なかった『康斎先生日録』は、河内屋茂兵衛らを版元として、明治3年(1870)に上梓されました。同書は九州大学図書館に碩水文庫本として蔵されており(http://hdl.handle.net/2324/1001167727)、また慶應大学本はGoogle Booksとしてデジタル化されているのを見ることができます(https://books.google.co.jp/books?id=B2Uwc1cQvdQC)。

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Google Booksより慶応大学本『康斎先生日録』序文(見開きとして再構成)

Google Booksで見る限り、本文もこの序文同様の筆写体で板刻されているようです。

「書簡集」270-273頁に、上木された『康斎先生日録』を手にした草庵が碩水にあてて書き送った明治3年7月24日付書簡があり、草庵の目からは再校訂が不十分なままの本文で、また字様も好ましくない版であることを受けて、「板本字画も粗脱多く、全体字か細クテ立派ニ無之、折角御見立ニテ被成処好本ニハ相成リ不申、残念ナル事ニ存申候」などと非常に悔しがっています。

杉仁『近世の在村文化と書物出版』(吉川弘文館、2009)によると、池田草庵自身の著作として出版された唯一の刊本が『古本大学略解』で「擱筆は明治3年〈1870〉、刊行は明治5年、60歳」(340頁)のことといいます。亡くなる6年前のことですね。

『古本大学略解』は『康斎先生日録』と同じ河内屋こと群玉堂岡田茂兵衛が版元で、京都大学附属図書館谷村文庫本(https://m.kulib.kyoto-u.ac.jp/webopac/RB00009880)の一部を京都大学貴重資料デジタルアーカイブの画像データとして見ることができます。

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京都大学附属図書館谷村文庫蔵 池田草庵編著『古本大学略解』冒頭

おそらくは、草庵自身が「板ハ文字明朝様が冝敷奉存候」と希望し叶えられたのでしょう、今の私たちが明朝体と思うような字様で刻まれた整板本になっています。


この「明朝様」と呼ぶ版刻書体(刊本字様)について、池田草庵より一世代前の人物である松崎慊堂(1771生-1844没)が、私たちにとってとても重要なメモを残しています。東洋文庫377『慊堂日曆』5巻28-29頁に翻刻されている、慊堂による『欽定武英殿聚珍板程式』の覚書です。

天保7年〈1836〉12月27日の日記に「終日、武英板式を読む」(24頁)とありますが、これはただ『欽定武英殿聚珍板程式』に目を通したということではなく、「日暦」26-27頁に「慊堂手録」影印が掲げられているように、武英板式の内容を細かくノートに写し取っていたということのようです。

武英殿聚珍板というのは、『四庫全書』の編纂に着手した清王朝第6代皇帝である乾隆帝が、紫禁城南西隅に建てた武英殿に設置した刻書所で印刷させた木活字版のことを言います。そして、武英殿における出版事業の計画・決算報告と併せて木活字での活版印刷工程全体が『欽定武英殿聚珍板程式』として乾隆甲午39年〈1774〉にまとめられました。
「程式」に記された武英殿木活字での活版印刷工程は、目次の順番で次のようになっていて、国会図書館デジタルコレクションで内容を確認することができます(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2573597)。


「手録」影印には、上記工程のうち槽版、頂木、中心木、類盤、套格、擺書、校對の項が見えます。翻刻された「日暦」本文では、費用に関係する箇所と、工程関係から刻字、字櫃の項を読むことができます(28-29頁)。
翻刻文の冒頭(28頁「○武英殿聚珍板式(金簡)」という見出しから始まるところ)は費用関係の部分(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2573597/15)なのですが、非常に興味深い語句の補足が見えているところに注目したいと思います。

まず国会図書館本『欽定武英殿聚珍板程式』で当該箇所(#ndldigital 15コマ)を確認しておきましょう。

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#ndldigital『欽定武英殿聚珍版程式』15コマ(7丁ウ-8丁オ)

見開きの左側(8丁オ)の3行目から、「木子毎百個銀二銭二分」「刻工毎百個銀四銭五分」「写宋字毎百個工銀二分」と、木活字の製造にかかる費用の詳細が記され、以降、他の道具についても同様の記述が続いています。

これについて翻刻された「日暦」ではどのように記されているか。28頁下段冒頭から3行分を書き出してみましょう(強調は引用者)。

木子、活字のこま、木字、こまのほりたるもの。木子百個ごとに銀二銭二分、刻工百個ごとに銀四銭五分。写宋字、明朝の筆耕、百個ごとに銀二分。

「木子」という用語に対して慊堂は「活字のこま、木字、こまのほりたるもの。」という注釈を加えています。そして強調した箇所では「写宋字」という原文の語句に対して「明朝の筆耕」という注釈を加えているのです!

「写宋字」という語句は、「刻字」工程のところにも書かれています。念のため、国会図書館本『欽定武英殿聚珍板程式』で「刻字」の項目を確認しておきましょう。

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#ndldigital『欽定武英殿聚珍版程式』より「刻字」の項

次のように記されています。

応刊之字照格写宋字後逐字裁開復貼于木子之上面用木牀一個高一寸長五寸寛四寸中挖槽五条寛三分深六分毎槽可容木子十個上下用活閂塞緊即與鐫刻整版無異

当然ですが、武英殿聚珍版の関係者にとって、武英殿木活字の字様は「宋字」という呼び名ですから、明朝云々といった語句は出てきません。

慊堂は、武英殿聚珍板に用いられている木活字の字様(活字書体)が(少なくとも「武英程式」において)「宋字」と呼ばれていることを理解しつつ、それが当時の日本で「明朝」と呼ばれる刊本字様であるという認識を持っていたと言えるでしょう。

さて、では慊堂は、中国で「宋字」と呼ばれたこの字様・書体の印刷文字を、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ぶようになったのでしょうか。

残念ながら、直接的な資料は見つけ出すことができていません。現時点で仮説的に想像しているのは、林述斎に師事したことが影響しているのではないかという観点からのものです。
述斎は、原出版地である中国で散逸してしまい、日本に伝存していた古漢籍(佚存書)について、『佚存叢書』として寛政11年〈1799〉から文化7年〈1810〉にかけて編集・出版しています。伝本の中から善本を選び出す作業に必要な書誌学的な吟味のため、特定の刊本字様(版刻書体)のことを「明朝」と名づける、そのようなことがあったのではないかという想像です。

この方面に明るい方からのご教示を頂戴できれば幸いです。


「明朝様」や「明朝風」という呼び方が用いられるのはどういった時期のどういった集団によってなのかといった問いや、それが「明朝体」へと切り替わっていく時期はいつごろなのかといった問いには、まだ全く答えることができません。

中国で「宋体」と呼ばれる字様・書体の印刷文字のことを日本で「明朝」と呼んでいることが確実であるような事例として、これまでに見つけた一番古いものが、天保7年〈1836〉12月27日の松崎慊堂手録に記された『欽定武英殿聚珍板程式』の木活字等製作費用覚書に「写宋字、明朝の筆耕、百個ごとに銀二分」という具合に記されているものだ――という結論だけ、ここに繰り返し記しておきます。