日本語練習虫

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金沢でピンマーク入り活字を鋳造販売していた宝文堂のことを #NDL全文検索 で調べてみて創業期には辿りつけないでいる話

2019年1月に、“印刷屋でくらしているばーちゃん猫”のお饅頭すみれ(@Tailofthecat3)さんが手持ちのピンマーク入り活字について素性を尋ねるツイートをなさっていました。

添付画像で示されていた〈頭が9時の位置にあるウロボロス〉風の○にハの字のマークにうっすらと見覚えがあったため、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫にある見本帳の表紙を幾つか確認してみたところ、金沢市長町四番丁七十二番地「寶文堂活版製造販売所」の商標だったらしきことが判り、2022年6月にその旨お伝えしました。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵 寶文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六號明朝活字書體見本』表紙より「〈頭が9時の位置にあるウロボロス〉風の○にハの字」マーク模写

すると、後日「金澤㋩寶文堂」のピンマーク入り活字が見つかったという知らせがあり、驚きまた喜んだものでした。

私も先日、古物商からこの宝文堂の丸ハ印が刻印された初号活字を入手できてしまったため、今回は金沢でピンマーク入り活字を鋳造販売していた宝文堂のことを #NDL全文検索 で改めて調べてみようというわけです。



『石川県印刷史』によると

石川県印刷工業組合『石川県印刷史』(1968)によると、印刷業の沓木広文堂が明治13年から活字の鋳造・販売を行っていたが、「活字販売が、業界における欠くことのできない分担をもつようになったのは、大正中期ごろとみられる」ようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/3444797/1/75)。続きを引用します:

それは、活字販売を主とする活版材料屋として小泉宝文堂がこのころ金沢市長町七番丁に開業しているからである。ちょうど、東京の築地活版印刷(ママ)や大阪の青山進行堂、名古屋の津田三省堂などが活字関係の専門材料店として注目をあつめているときであり、当地方の仕入系統もこれらの影響をうけていろいろわかれていたが、宝文堂は築地系の岩田母型を使用していた。その後、ポイント母型は秀英社(ママ)のものを取り入れ、宋朝体などは大阪の森川竜文堂(ママ)の母型を入れるなど、沓木広文堂の販売網はしだいに圧倒されていったのである。

戦争が長びくにつれて鋳造原材料である鉛の不足が深刻となり、これら販売業者は開店休業の状態となった。

こうした悪条件のなかで、小泉宝文堂主人が死去し、その経営が至難となったので閉店を断行し、設備資材などの処分を行なうこととなったが、これらの貴重な母型資材を競売し、散逸することはできないと、金沢印刷工業組合では緊急役員会を開き、協議の結果、一括買収することになり、その交渉を明治印刷工場長横江信秀氏に一任したが、価格の点で折合いがつかず、買収交渉は数日にわたったが、ついに交渉が成立して、この貴重な資材は他に流出することなく地元にとどまった。

一方、組合ではこれに力を得て、休止状態の共同設備と小泉宝文堂の設備を合体し、出資組合員を株主として、昭和十四年七月十四日資本金五万円の株式会社宝文堂(代表 横江信夫氏)を創立

同十六年に沓木広文堂が廃業したので、その設備も買収して拡張をはかり、戦後の混乱期を乗りこえて現在の株式会社宝文堂となった。

国家総動員法が公布され統制経済体制に移行したタイミングとはいえ、地域の印刷会社が共同で活字製造販売会社を創立し経営にあたるという事例があったのだと知って、ちょっとびっくりしています。なお、『官報』のNDL全文検索によると、横江らによる株式会社宝文堂の設立は昭和14年7月8日(登記は7月18日)だった模様です(1939年9月20日付『官報』59ページ1段目〈https://dl.ndl.go.jp/pid/2960308/1/63)。

また、お饅頭すみれ (@Tailofthecat3) さんが見つけ出された「金沢㋩宝文堂」ピンマーク入りの活字は「江川行書」の「謹」の字ですが、これは岩田母型由来なのでしょうか、それとも江川活版または青山進行堂でしょうか。

長町四番丁72の宝文堂

さて、なるほど昭和10年版『全国印刷材料業者総覧』では金沢で活字及材料を扱う事業者として長町四番丁の小泉宝文堂(小泉発治)と高岡町七七の沓木広文堂(沓木晋)、そして松ヶ枝町三九の奥村三尚堂(奥村久雄)が肩を並べているようなのですが(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/227)。

『紳士興信録 昭和8年版』小泉発治の項には宝文堂、活字製造業、金沢市長町四番丁七二とある一方で(https://dl.ndl.go.jp/pid/1174557/1/1052)、『日本商工信用録 昭和7年度』には金沢市の「活版・石版」業者として長町四番丁の宝文堂の堂主が岡島政次であるらしく書かれています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1145535/1/688)。

『全国工場通覧 昭和7年7月版』では「小泉宝文堂」として、金沢市長町、創業明治43年、活字販売業、代表者:小泉宗治となっています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1212137/1/369)。

宝文堂の代表者は岡島なのか小泉なのか。NDL全文検索では、以上のように錯綜した情報を解きほぐすことができそうにありませんでした。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫の活字見本帳

さて、横浜市歴史博物館小宮山博史文庫には、宝文堂活版製造所(宝文堂活版製造販売所)の活字見本帳が5冊所蔵されています。ウェブデータベース「小宮山博史文庫仮名字形一覧」(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/jikei/)の「活字見本帳から見る」メニューを選ぶと、上から3分の2くらいのところに販売会社が「宝文堂活版製造」とされている見本帳(表紙つき4冊、表紙欠け1冊)をサムネイルで閲覧できます。

表紙付きの4冊を見ると、発行者が「金澤市長町四番丁七十二番地 ㋩寶文堂活版製造販売所」と記載されているのがお分かりいただけるかと思います。本文の柱では「寶文堂活版製造所」と表記されており、製造所と製造販売所のどちらが正式な屋号だったのかは分かりません。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵 寶文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六號明朝活字書體見本』表紙より

横浜市歴史博物館調査研究報告 第18号〈修正版〉』として『横浜市歴史博物館所蔵 小宮山博史文庫目録』(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/study/publications/houkoku/tyousakenkyu18/)が公開されているのですが、「Ⅲ 小宮山博史文庫目録 (1) 」(https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/files/5716/6080/2362/chousa2022_18-3.pdf)の17ページに、宝文堂活版製造販売所発行の見本帳情報が掲載されています。

表紙を欠く『四号明朝活字摘要録』以外の4冊は、「大正5年2月改正」が2冊、「大正5年3月改正」が2冊となっています。宝文堂としての「改正」つまり少なくとも2回目の見本帳発行ということになるのか、仕入先の「改正」型活字という意味なのかは分かりませんが、遅くとも大正5年には宝文堂の屋号で活字製造販売業を営んでいたことが分かります。

そしてここからが小宮山文庫ならではの重要な資料ということになるのですが。

目録の備考欄に記載されている通り、宝文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六号明朝活字書体見本』の表紙見返裏に「新製連続数字発売」という、「金沢市長町四番丁七二番地 岡島活版製造所」名義の広告があり、そこに宝文堂のものと同じ商標㋩マークが示されているのです。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵 寶文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六號明朝活字書體見本』表紙見返裏「新製連続数字発売」広告より「㋩岡島活版製造所㋩」」

岡島活版から宝文堂活版へ?

NDL全文検索で得られた情報を、小宮山文庫資料によって再検討すると、次のような状況なのではないか:

  • 明治43年、岡島政次が金沢市長町四番丁72に岡島活版製造所を創業
  • 大正5年、岡島政次、屋号を宝文堂活版製造所(宝文堂活版製造販売所)に変更
  • 昭和ヒトケタ、宝文堂活版製造所の代表者が小泉発治に
  • 昭和14年、小泉の逝去に伴い組合が資産(と屋号)を買収し株式会社宝文堂発足

――と思うのですが、残念ながら決め手に欠けています。NDL全文検索で「岡島活版」と問えば、例の南海堂行書活字を開発した岡島活版の話題しか出てきません。「岡島政次」でもまともな答えが返ってこない状況です。

金沢市長町四番丁、岡島活版製造所(岡島政次)の情報求む。