日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

共同印刷での三谷幸吉「さんづけ」の理由

少し前にツイッター経由で @kzhr さんに複写取得を依頼しお送りいただいてゐた、三谷幸吉『直ぐ役に立つ植字能率増進法』(一九三五、印刷改造社)。一一〇頁あたりから、かういふ話が進む。

私が東京印刷會社に於きまして數字物組版及四分アキ物組版の研究を致して居りました當時に、同社に元居られた植字工で葛岡と云ふ人が入社して來られました。其人の數字物組版の早いことには實に驚いた位であります。當時東京印刷會社に九人の植字工が居り、同社の植字臺は二人一組となつて居るのであります。ところが植字場が新工場に移転して葛岡氏の植字臺の相手に並ぶことを嫌つて行く人が一人もないのであります。其現状を見まして私も實に不思議に思ふたのであります。何故ならば葛岡氏は東京印刷會社では古い人であるために現在の植字工も皆友人であり氣心も能く知り合つて居る人達だが!!何故葛岡氏と並ぶのを嫌ふか?。皆が嫌ふならば私が並んで見よう!!。と、好奇心で決心を致しました。
元來私は當時日給三円六十五銭支給されて居りましたが、一日幾ら組賃を貰ふとか賃金が多いから多く働くの、少ないから少し働くと云ふ意味で東京印刷會社に入社したのではないのであります。由來私が神戸に於て印刷労働運動を致して居たことも、又私なる者をも當時の分社長神谷氏も篤とご承知でありますが、私が入社する際に何と同姓同名の人が居る者かなと思はれたさうでありまして、私が入社後神谷氏が工場を巡視せられて私の顔を見て、矢張り君だつたか?、と申された位であります。

神戸印刷工組合をやめて東京に出た三谷は、印刷研究家として各社の工程を視察して廻り、関西流の長所、東京流の長所、各社の名人技などを吸収し、業界全体の技術向上に役立てようと考へてゐた。その一端がこの『植字能率増進法』に記されてゐるといふわけだ。
東京印刷から始まる東京巡回での自身の植字の腕前について、三谷はかう記してゐる(一一五〜一一六頁)。

大正十三年には東京印刷會社で植字九人の内上より三人目位。(日給最高三圓七十錢、私三圓六十五錢)。「ポイント」式活字組版研究のため凸版印刷會社に於て植字十六人の内上より四人目位。(日給係長三圓四十錢、私三圓四十五錢)。文字物研究のため共同印刷會社(第一整版科)於て植字工二十一人の内上より四人目位。(日給最高三圓八十錢に、私三圓七十五錢)に居たと自分丈けで見當を付けて居るのであります。

徳永直が三谷幸吉のことを「かつての同僚」として思ひ出した際の記述を、しつこく再掲しておく。

 大震災當時のことだから二十年ちかくもならうか。共同印刷會社の第一製版工場で、私も三谷氏も同じ植字工だつたのである。その當座、私は自分の屬してゐたポイント科の工場がつぶれてしまつて、他の植字工と一緒に第一工場へ𢌞されてきたので、三谷氏がその工場ではすでに古參だつたかどうかは知らない。それに三谷氏は一緒になると半年くらゐでやめて他の會社へいつたので、とくに親しかつたといふわけでもないが、仕事臺がちやうどむかひあひになつてゐた。普通だと雙方のケース架の背でさへぎられてしまふのだが、大男の三谷氏はケース架の上に首だけでてゐた。いつも私は「オイ」と誰かが自分をよぶので、何氣なくあたりを見𢌞してゐると、とんでもない頭の上から彼のながい顏がのぞいてゐて、びつくりさせられたりしてゐたことを憶ひだす。
 三谷氏がその頃から本木昌造の事蹟について研究してゐたかどうかは知らなかつた。私たちより一時代先輩の職工だつたが、職人氣質なところはあまりなくて、いつも肩を聳やかしてゐるやうな、何事にも一異説をたてねばをさまらぬといつたやうな、いつこくなところがあつて、職長も彼にだけは「三谷さん」と稱んでゐたのをおぼえてゐる。

この職長もやはり、三谷幸吉が神戸印刷工組合の有名人であることを「篤とご承知」であったのだらう。