日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

三谷幸吉が最初に勤めた印刷所である福井の東洋印刷合資会社についての手がかりが掴めない話

2010年10月に「三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所を推定する」作業をやってみた段階では三谷の著作『直ぐ役に立つ植字能率増進法』(1935、印刷改造社)に「最初に勤めた福井の印刷所」についての言及があるのではないかと考えていたものの見当たらず(2010年12月30日付:「共同印刷での三谷幸吉「さんづけ」の理由」https://uakira.hateblo.jp/entry/20101230、2011年になってから、『日本印刷界』大正9 年10月号に掲載された「活版界に発明考案を推奨す」と題する記事に、自分が最初に勤めたのは「福井新聞の今の最一つ前の福井新聞の前身である東洋印刷合資会社」であると三谷自身が記していたと判りました(2011年2月18日付:「三谷幸吉は「おうちょく」バカだったんだろうか」https://uakira.hateblo.jp/entry/20110218

東洋印刷というと検索ヒットするのは大阪の同名の印刷会社のことばかりなのですが、福井の東洋印刷合資会社についてNDL全文検索では唯一と思われる事例が、明治32年の『北陸区実業大会報告 第3回』奥付になります。発行兼印刷者として東洋印刷の名がありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/801657/1/119、代表者が福井市足羽上町九十九番地の(業務担当社員)土肥平三郎となっています。土肥について、『日本現今人名辞典』各版には「肥料米穀石油販売商を業とし土木請負を兼ね福井貨物運送株式会社支配人たり」とありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780082/1/167、東洋印刷との関係を記したものは見えません。

とはいえ東洋印刷合資会社の所在地として前掲書奥付に記されている「福井市照手上町百五番地ノ一」は、古くは「内国通運福井会社」という社名で土肥が社を代表しておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/803773/1/63、後に「内国通運福井支店」となった運送会社の所在地でしたからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/805283/1/4、全くの無関係では無さそうです。

福井新聞の変遷については田川雄一「明治期福井の地方新聞の教材化」(『福井県文書館研究紀要18』2021年3月 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2020bulletin/images/tagawa.pdfに各種資料から取りまとめた資料があり、次のようなものだったようです(78頁〈表1「福井新聞」の変遷〉より)。

新聞名 刊行期間 発起人・社主
福井新聞(第1次)(1887年「福井新報」と改題) 1881年(明治15)10月16日~1889年(明治22)9月29日 第九十二国立銀行重役 旧福井藩士ら
福井新聞(第2次) 1889年(明治22)10月10日~1891年(明治24)6月30日 南越倶楽部武生派 中島又五郎
福井新聞(第3次)(1897年「大躍起」と改題) 1896年(明治29)~1901年(明治34) 土生彰
福井新聞(第4次) 1899年(明治32)8月28日~ 三田村甚三郎(憲政本党

三谷が「福井新聞の今の最一つ前の福井新聞」というのは、第3次福井新聞のことと思っていいのでしょうか。

第2次福井新聞に関して、池内啓「一地方新聞の軌跡 ―第2次福井新聞の1年9か月と南越倶楽部―」(『福井県文書館研究紀要3』2006年3月 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2005bulletin/images/2005fpakiyou-ikeuchi.pdfという参考資料があり、第3次福井新聞の周辺については、須永金三郎・山崎有明福井県政界今昔談』に「党人機関誌の興廃」(https://dl.ndl.go.jp/pid/783661/1/79)に至るあれこれが書かれているのですが、双方に出てくる人名をキーワードにしてNDL全文検索を試みても、いまひとつ手がかりが掴めません。

どういう掘り方をしてみたらいいんだろう……