牧治三郎『京橋の印刷史』を見ると、巻末年表の明治十六年のところに「七月 築地活版製造所、小室樵山版下楷書五号鉛活字完成発売」と記されている。
そのあたりについて、板倉雅宣『活版印刷発達史』三六頁本文に「16年7月2日、『時事新聞』(「新聞」ママ)広告記事に、楷書六号のみ発売してきたが、この度、五号楷書を発売しましたとある」と記されていて、その広告文も書き写されている。
この広告が載ったのはもちろん『時事新報』のことで、本書について誰もマトモに校正してないんじゃないかと思われるのは以前記した通り。なお、『時事新報』では七月二日付だけでなく、十一日と二十日に、同じ広告原稿が再掲されている。
上図は『時事新報』七月二日付のもの。
ここで興味深いのは、「今般更ニ版下ヲ能筆ニ請ヒ本文ノ通リ五号楷字相拵ラヘ」とあるところ。牧治三郎が「小室樵山版下楷書五号鉛活字完成発売」と記したのは、何によるのだろう。三谷幸吉の《詳伝》などによるものか。
……
実は、築地二丁目十七番地「活版製造所」名義で、同様の広告が在京各紙に出されていて、時事とは内容が異なっていた。
七月六日付の『朝野新聞』(上)や『東京横浜毎日新聞』(下)を見ると「今般更ニ版下ヲ小室樵山先生ニ請ヒ本文ノ通リ五号楷字相拵ラヘ」となっている。
あるいはまた、七月七日付『郵便報知新聞』を見ても、同様だ。
さて、では本文に弘道軒の清朝活字を使っていた『東京日日新聞』はどうかというと、七月九日付の紙面に載った広告が、実は時事以外の各紙と同じく「版下ヲ小室樵山先生ニ請ヒ」のパターンである。
比較のため、本文活字の頁を並べておこう。
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この築地二丁目の活版製造所(平野活版)による(五号)楷書活字の製造販売に際して、弘道軒の神崎正誼が帯刀して平野活版に乗り込んだ云々という逸話があるけれど、東京日日に出す広告においてすら「小室樵山」と明示してあるのに、なぜ時事だけ「能筆」だったのか、とても不思議である。
深い意味はなく、単に広告スペースの制約から来る原稿整理の結果だろうか。