あの二村一夫氏の調査でも判明していなかった鈴木純一郎の生没年だが、生年は明治元年と思って良いようだ(残念ながら没年は未詳)。
国会図書館デジタルコレクションにある、次のような資料には見当たらないのだが――
- 古林亀治郎 編『現代人名辞典』(中央通信社、1912)
- 芳賀矢一編『日本人名辞典』(大倉書店、1914)
- 東洋新報社編『大正人名辞典』(東洋新報社、1917)
- 伊澤廣明編『昭和人名辞典』(光人社、1933)
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録』第三版(帝国秘密探偵社、1930)
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録』東京篇(帝国秘密探偵社、1939)
――とうとう、日本力行会編『現今日本名家列伝』(日本力行会出版部、1903)に鈴木純一郎の記述を見つけることができた。
- 東京高等工業學校講師
鈴木純一郎君- 銖錙の利を爭ふ小人の事金錢の出入を議する市人の業と斯かる舊夢の覺めざること比較的久しく繼続せしも今や上下公私の別なく理濟の一日も忽にすべからざるを曉るに至りしは素より社會進運の影響なりと雖も盖し君の如き卓見の士之が提唱の任に盡せしところありしが爲めならずとせんや近世理財學家に其の人ありと知られたる鈴木君は岩手縣の人明治元年八月を以て陸中國膽澤郡眞城村に生る夙に岩手縣立師範學校を卒業して外國語學校に入り螢雪の苦をを積む數年過程を卒へて後外國人に就き經濟學を研究す爾來東京工業學校に敎鞭を執り工業經濟學講座を擔當し兼て農商務囑托員として外國貿易事項調査に從事し勲功尠からず卅一年六月同省より商工視察員として歐米へ差遣せらる在留二年餘其の間ロンドン及びケムブリツジ二大學に於て經濟學を研究し三十三年冬を以て歸朝す方今東京工業學校講師として工業經濟學を擔當すること舊の如しといふ(牛込區北町一五電番九六六)
未詳だった学歴も、上記のように岩手県立師範学校を卒業後、外国語学校を出たということのようだ。
明治元年(1868)生であれば、鈴木が記した『開国五十年史』の「工業誌」に関して1849年生の工学博士手島精一と1861年生の真野文二が校閲したという体裁になっているのも頷ける。
こういう資料こそ「翻デジ」るべきかとも思うのだけれど、他の箇所を入力する気力が無い。