日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

『活版印刷史』川田久長の履歴について

印刷史研究の大家であり印刷図書館の初代館長を務めた川田久長の戦前の履歴については、およそ次のように紹介されている(増補改訂版である昭和56年版の川田久長『活版印刷史』「刊行にあたって」より)。


川田久長先生がなくなったのは昭和三十七年七月五日である。明治二十三年五月二十五日生れであるから、七十二年の生涯であった。川田先生は大正二年、東京高等工業学校卒業後、いまの大日本印刷株式会社、当時の秀英舎に入社、昭和二十年まで勤務した。その間、昭和三年、日本印刷学会創立に努力したり、ドイツ印刷芸術展の開催に協力したり、あるいは英和書誌百科辞典刊行に力をつくすなど、日本印刷界の文化的な面において活躍された。

(中略)

このような本好きが、高等工業から秀英舎へと進ませたのであろう。「老鼓漫打」という文章が大日本印刷株式会社のPR誌(昭和三十六年発行)にあるが、その中で先生は秀英舎入社当時を次のように語っている。


筆者が入社早々配属されたのは、銀座にあった活字販売所――旧称製文堂――の二階の鋳造課の工務課であった。(中略)毎日鋳造された活字の数量を価格に換算して報告を作ることであったが、何銭何毛という日常には縁のない単位を扱うので、ソロバンを苦手の筆者には楽ではなかった。課長は中島六三郎という肥満型の勤直な好人物、新米の筆者はずいぶんその親切な指導後援を受けた。
とある。

今回、古い『印刷雑誌』の雑報欄を読み返していて、川田久長の戦前の履歴について再確認を要する情報を得たので、こうしてメモを残しておく。

第2次『印刷雑誌大正12年5月号の雑報欄に、「川田久長氏秀英舎に入る」という記事があった。

曰く「久しく九州帝国大学印刷所主任であった川田久長氏は今回東京秀英社の請聘を受け同大学を辞任し秀英社技師となり四月二十五日福岡市出発途上せり。」

国会図書館デジタルコレクションにある『東京高等工業学校一覧』(大正13-14年)の「卒業者氏名索引」を確認してみると、大正13年度までの卒業生で「川田久長」という名を持つ者は、大正2年に工業図案課を卒業した人物のみのようである。

そして、おそらくは大正12年時点での所属を調べたものであろう、各課の卒業生名簿から「工業図案課卒業者」の項を見てみると、大正2年7月に東京高等工業学校の工業図案課を卒業した川田久長(東京出身)の所属先は九州帝国大学になっている。

九州大学 大学史料室ニュース』第2号(1993年9月)の4ページには、九州帝国大学印刷所は1912(大正10)年12月に設置されたと書かれている。

ということは、『印刷雑誌』が「久しく九州帝国大学印刷所主任であった」と記しているものの、その期間は高々大正10年12月から12年4月まで、であろうか。

ちなみに昭和2年に刊行された『株式会社秀英舎創業五十年誌』で示されている、大正15年11月25日現在の「人員表」を見ると、川田久長は印刷課の課長となっている。

役員以外の役職者について、同書に示されている勤続表彰記録や、大正11年発行の『株式会社秀英舎沿革誌』の勤続表彰記録(こちらの方がより詳細)を見ると、大正15年時点の工務部長、商務部長、工務次長の三名が勤続25年以上での表彰を経験している他、各課では営業課長、用度課の課長・副課長、会計課長、活版課の課長・副課長、人事課長、鋳造課の副課長が勤続25年以上での表彰経験者となっている。

そして川田の次席である印刷課の副課長が大正8年の時点で勤続15年の表彰対象者となっている他は、少なくとも大正10年の段階で勤続10年に満たない者が課長・副課長となっており、川田久長も勤続が浅い一人である。

この時期の秀英舎で各課を指揮監督する役割を課せられた者は、いわゆる年功序列ということばかりではなく、それなりの高等教育を受けて早期に上級職位に就くことを期待された者たちや、同業他社等での経験を買われて引き抜かれてきた者たちということになるのだろうか。

九州大学 大学史料室ニュース』第5号(1995年3月)の4ページには、『九州帝国大学職員録』について、「九大大学史料室には、欠号があるとはいえ、1914年(大正3)〜1994年(平成6)の職員録が所蔵されて」いるとある。

その「職員録」には、国会図書館にも所蔵されている『九州帝国大学一覧』に記載のない、九州帝国大学印刷所の職員のことも記録されていないだろうか。

川田久長が九州帝国大学印刷所に在籍した期間――、いや、九州帝国大学に在籍した期間がいつごろからスタートするのか、いつか知りたいものである。

例えば、東京高等工業学校を卒業後すぐに秀英舎に入ったもののいったん九州帝国大学に転出し、改めて秀英舎に出戻った、というような事情があったりするのだろうか。

九州大学芸術工学部、あるいは大学文書館の関係者の方で、印刷史研究に興味をお持ちの奇特な方、あるいは大日本印刷に関係する方が、このあたりの事情を探ってお教えくださると、とても嬉しい。――もちろん、こうした「関係者」以外の方でも構わない。


以下2020年11月12日追記:

『東京高等工業学校一覧』を遡ってみたところ、川田の進路について追記すべき事柄が出てきた。大正3-4年版によると川田が最初に就職したのは日本橋区本町の写真新報社であったらしい。これが大正4-5年版から秀英舎第一工場になっている。

川田と同窓だったことが判った東京築地活版製造所の技師・宮崎榮太郎(大正6年7月、工業図案科卒)は、大正6-7年版によると卒業後すぐに築地活版に入社したようで、この年まで川田の所属は秀英舎第一工場。

大正7-8年版以降の川田の所属は(東京)六櫻社となっていて、大正9-10年版から九州帝国大学の所属となっている。『印刷雑誌』の記事に書かれていた「久しく九州帝国大学印刷所主任であった川田久長氏は今回東京秀英社の請聘を受け同大学を辞任し秀英社(ママ)技師となり」というのは、3年ほど九州帝国大学に出向いていた川田が秀英舎に出戻った状況ということのようだ。