日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

東京日日新聞紙上に見える楷書体活字の大きさ

弘道軒清朝体を本文に使っていた時期の東京日日新聞について、原紙でなくとも、せめてマイクロフィルムでも縮刷版でもどちらでもいいから自分の目で見ていれば陥らない種類の間違いだと思うんだども。
……
板倉雅宣『活版印刷発達史』四一頁本文に(明治)「18年4月10日から12日、『東京日日新聞』に二号楷書活字、明朝清朝(カイショ)体、羅馬字(イボリモジ)(「イボリ」ママ)、獨逸字(カメノマモジ)等の製作の広告を、新聞本文の弘道軒の清朝体活字を使って掲載する」とある。

羅馬字(ローマジ)のルビが「イギリモジ」であるのは、往時ローマ字のことを「英吉利文字(いぎりもじ)」とも呼んだからである。――という細かい校正の話はさておき。
この広告を組んだ楷書体の活字は、本当に弘道軒の清朝体活字なのだろうか。
明治十八年四月十日午前版の、当該広告頁と、本文記事の頁を並べて見てみよう。


上が広告頁で、下が本文頁。確かに本文頁の小さい方の楷書体活字で広告本文が組まれていることが判るが、広告頁に見られる最小の楷書体活字も含めて比較用の図を作ってみよう。

こうして並べて見ると、本文頁の大きい方の活字が弘道軒清朝体の五号(約四・六粍角)だとするなら、広告頁の最小の楷書体活字が弘道軒清朝体の六号(約三・一粍角)で、本文頁の小さい方の活字(=広告頁の大きい方の活字)が、いわゆる号数制の五号相当の大きさ(約三・七粍角)の楷書体活字であることがわかる。
この広告が「新聞本文の楷書体活字」を使っているということには間違いないが、この大きさは弘道軒清朝体の体系には存在しないはずのものである。明治十三年十一月二十八日付『朝野新聞』に弘道軒が出した「活版発売広告」を見ると、いわゆる号数制の明朝活字が第一号から第七号まで、そして「楷書活字」が弘道軒清朝のサイズで第四号から第七号まで、それぞれ掲げられているが、明朝五号に相当する、楷書第五号と楷書第六号の中間サイズは作られていない。

ここで明治十八年の東京日日新聞本文活字小を、先日記した明治十六年の築地二丁目「活版製造所」の五号楷書活字発売広告に見られる五号楷書活字と比べてみると、同じものに見える。
築地の五号にしては平仮名の書風に馴染みがないと感じられるかもしれないが、府川充男『聚珍録』にも記されている通り、これは築地活版の『座右之友』第二に見本として掲載されている「五号楷書」の平仮名活字である。
筆者は明治十七〜十八年の東京日日新聞について、マイクロフィルム版にしか接し得ていないから、極めて微細なレベルで築地活版の号数制五号とは違う大きさの近似活字が弘道軒によって明治十三年末から十八年までの間に作られていたという可能性を完全に否定し去るものではないが、これはやはり、築地活版による号数制五号楷書活字と考えたほうが、よいだろう。
……
活字格(大きさ)の体系が異なる弘道軒の活字と築地活版の活字を混用できるかどうかという点について、タイポグラフィ学会誌の第四号に載った片塩二朗「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」という「論文」の中に、古川恒が『季刊タイポグラフィ』第一号に記した「弘道軒の活字――抜刀事件まで引き起こした清朝体」という記事に言寄せた、こんなオハナシが書いてある(学会誌四号一〇四頁)。

文末のパラグラフには、弘道軒と築地活版の妥協の次第が、まことに歯切れのわるい文章でしるされている。「ここで山下鎗十郎の妥協案は事実と違うようである。それを証明する紙面はないので省略する。ここで私見を記すなら……。」
古川が奉職した毎日新聞は、東京日日新聞の後継会社である。したがって、巷間伝えられる「東京日日新聞に、弘道軒清朝活字と、築地活版明朝活字が、併用してもちいられた」とする俗説にたいして、古川なら当該資料に接することができ、また研究熱心で知られた古川は調査もしていたとおもえる。したがって別に古川は「私見」を述べる必要はない。つまり、まったく明瞭な見解を発していないのである。筆者はいま、ここで古川にかわって「私見」をのべたいおもいでいる。ただし論文執筆に際して事前に提出した項目から逸脱するし、あたえられた紙幅も尽きようとしている。
もしかすると……、「考えてもみよ! 寸刻を争う新聞報道の現場で、いかに紙面がことなるとはいえ、活字格が異なる両者の活字を、混用はもとより、併用すらできるものかどうか」と。すなわちこれは現場を踏まえた技術者による「そんなことは常識だろう。俗説に振りまわされないで、実際に組版をして調べてみよ」とする無言の抵抗である。

さて、築地活版による五号楷書活字発売の広告が掲載された明治十六年の東京日日の紙面を見れば、本文が弘道軒清朝体の五号であり広告面が築地の号数制五号明朝であることが明確に判る。
しかも上図のように、明治十八年の紙面では、活字格が異なる両者の活字を、同一面の同一段に混用さえしているのである。
随筆では読み手のリテラシーを試すようなことを試みるのもいいだろうが、論文だというなら、いいかげんなことを記さない方がよい。組版などしてみる必要はないので、実際に刷られた紙面を調べてみよと声を大にしておく。
……
ここで私見を述べるなら、明治十四年頃という弘道軒と築地活版の東京日日新聞における妥協とは、明朝体の活字はすべて築地活版のものとするだけでなく明朝体の号数制に準拠する大きさの楷書体活字も築地活版を使用する。ただし弘道軒の清朝五号と清朝六号をも採用する。――そのようなものと見える。
ちなみに、築地活版による楷書活字開発計画とそれに対する弘道軒の抗議を収める東京日日新聞での併用という妥協案について、古川恒が編集委員として加わっている『毎日新聞百年史』四四〇頁には、このように記されている。

このことと東京日日の弘道軒活字の採用とは無縁ではあるまい。築地活版と東京日日とは明治六年以来の間柄であり、この時に築地活版から頼まれて、弘道軒の活字を採用したということはあり得ることと思われる。そして新活字は前にあげたような理由から案外好評で、以来明治二十三年二月十一日付(五四八八号)まで、約十年近く弘道軒の活字は使われる。ただし広告その他には依然として五号明朝体が使われていたので、築地活版と縁が切れたわけではない。なお築地活版に楷書活字の製作を頼んだのは実は東日であったとするなら、なおさらこのようなことはあり得る。

百年史に記されているように、築地活版が号数制楷書活字を手がけるきっかけは東京日日の注文によるのではないか、それが古川の「歯切れの悪さ」に繋がっているのではないか――とも思われるのだが、あたえられた紙幅も尽きようとしている。ここでは東京日日新聞に見える「楷書」活字の大きさの件についての話で記事を書き終えることとしよう。
……
明治十八年四月の紙面では『座右之友』第二に示されるような《楷書用の五号平仮名活字》を東京日日新聞の紙面に展開していた築地活版だが、明治十七年六月の段階ではまだ明朝体と同じく「築地体前期五号仮名」を使っていた。――ということが、次の紙面によって判る。

この六月十三日付の広告面で築地活版が新しい商標を披露しているというのは、板倉雅宣『活版印刷発達史』に記されている通り。
念のため、同日の記事本文頁も掲げておこう。

府川充男『聚珍録』は明治二十二年五月四日付の東京日日新聞を掲げ「同紙は明治十四(一八八一)年から明治二十三(一八九〇)年にかけて清朝活字を本文に採用していた。ただし、清朝活字採用期の『東京日日』紙上に現れる清朝活字のうち最も小さなものは弘道軒の清朝活字ではなく、東京築地活版製造所製の五号楷書活字ではあるまいか。」としているが、こうして日付を遡れば五号楷書の漢字と「築地体前期五号仮名」が問題なく組み合わされており、本文中の小さい方の活字が築地活版の号数制五号楷書であることは間違いないだろう。
なお、『東京日日』紙上に現れる清朝活字のうち最も小さなものが、築地の五号よりも一回り小さい弘道軒の六号清朝であることは、冒頭、明治十八年の広告頁で見た通りである。