日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

ピンマーク入り初号活字を鋳造していた黒田活版のことを #NDL全文検索 で調べてみた話

黒田活版のピンマーク

先日、「黒Ⓚ田」というピンマーク入りの活字を入手しました。

「黒Ⓚ田」ピンマーク入り初号明朝活字(斜め方向)
「黒Ⓚ田」ピンマーク入り初号明朝活字(活字側面=ピンマーク正面方向)

試しに「黒田活字」や「黒田活版」でNDL全文検索を試みると、姫路、札幌、など幾つか(おそらく互いに無関係の)「黒田活版」が存在したことがわかります。先日の、「「Naigai Print Co.」の初号明朝活字を鋳造したのがどの内外印刷株式会社なのか #NDL全文検索 では決めきれなかった話」の二の舞になってしまうのでしょうか。

実は今回、運よく「札幌Ⓚ黒田」というピンマーク入り活字を同時に入手できていました。

「札幌Ⓚ黒田」ピンマーク入り初号明朝活字(斜め方向)
「札幌Ⓚ黒田」ピンマーク入り初号明朝活字(活字側面=ピンマーク正面方向)

NDL全文検索結果から札幌の黒田活版を辿ってみると、昭和5年に「丸ケー印黒田活版製造所」という商号新設の登記がなされており(1931年3月16日付官報〈358ページ3段目https://dl.ndl.go.jp/pid/2957729/1/8)、また登記完了以前から「丸ケー印」の活字を鋳造・販売していたようです(『北海道年鑑』昭和2年https://dl.ndl.go.jp/pid/1077771/1/313昭和4年https://dl.ndl.go.jp/pid/1077805/1/364に活字の模式図――おそらくパッと見の分かりやすさを優先したため印字面を鏡文字にしていないもの――を掲げた広告を掲載しています)。

国会図書館蔵『北海道年鑑』昭和2年版より黒田活版製造所の広告

今回の「黒Ⓚ田」と「札幌Ⓚ黒田」のピンマーク入り活字は、両方とも札幌の黒田活版製造所が鋳造した初号活字であるものと考えて良さそうです。

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札幌の黒田活版製造所の概要

『北海評論』22巻9号(1967)の特集「風雪三代を生きぬいた企業群像」に「本道活字鋳造界の草分け 黒田活版製造所」という紹介記事があり(https://dl.ndl.go.jp/pid/7928986/1/53)、次のように記されています。

 本道活字鋳造界の草分けで、昭和三十三年、その栄がたたえられ、通産大臣賞を受けている。
 創業は明治四十二年。当時の創業場所については、創始者の黒田民五郎、同喜代治兄弟がすでに在世していないため、豊平の方にあったらしいということだけで、それ以外は不明。現在の二代目社長、黒田一民は、最初に事業をおこした民五郎の長男で、昭和二十二年、サイゴンから帰還するとすでに父親は没し、母親キヌの手でまかなわれていた家業を受け継いだ。当時は敗戦の物資欠乏期で、活字の原料である鉛事情もひっ迫し、戦前に出していた函館、小樽、釧路の各支店を閉鎖しなければならず、社業は戦時中の地金の統制でさんざん痛めつけられたうえ、ますます苦しくなった。

 なお、事業形態は昭和五年に合資会社とし、同二十三年には株式会社に改組している。社屋移転は現在地を含め三回。

創業のタイミングについて、同じ『北海評論』の11巻9号(1956)に「創業明治43年」「日本活字工業KK代理店」という広告が掲出されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/7928931/1/3)、1958年の『札幌市史』第4章「工業」の印刷業のところには「一方印刷資材も三十三年野沢小三郎が印刷業のかたわら試験的に活字鋳造をやってから後は絶えて無かったが、四十三年黒田活版製造所の創業によって活字も営業的に製造されるようになった。しかしまだ需要をみたすまでの生産はできなかった。」という言及があります(https://dl.ndl.go.jp/pid/3025350/1/258)。

『北海道経済の百年』(1967)に「大正にはいると、活字製造業の進歩が目立ち、黒田活版製造所についで大正七年深宮活字製造所、九年上野活字製造所がそれぞれ創業された。しかし、当時はまだ手回式鋳造機を用い、月産千貫くらいのものだった。」(https://dl.ndl.go.jp/pid/3442852/1/105)とあるように、事業規模が小さかったためでしょう、明治末や大正初期の商工業統計類や名鑑類には名が見えず、初期の活動を探ることは難しい状態です。

黒田民五郎、黒田喜代治と、黒田ミワのこと

印刷業大観(https://dl.ndl.go.jp/pid/1020854/1/143)や商工信用録(https://dl.ndl.go.jp/pid/1145535/1/733)では代表者名が掲載されていませんが、『全国工場通覧』には掲載されています。昭和6年9月版(https://dl.ndl.go.jp/pid/2216386/1/287)の記載は、所在が札幌市北三條、創業明治43年5月、代表者:黒田ミワとなっており、昭和9年9月版(https://dl.ndl.go.jp/pid/1212170/1/314)では北三條西二ノ一、創業明治43年5月、創業者:黒田民五郎となっています。

黒田ミワが何者なのか、現時点では全くわかりません。

大正4年(1915)7月10日付『官報』には東京高等工業学校の「創立満25年記念奨学賞品受領者」が掲げられているのですが、219ページ3段目に2科目精勤者として名が見えている「北海道平民 黒田民五郎」というのは、黒田活版「創始者の黒田民五郎」ではないかと思われます(https://dl.ndl.go.jp/pid/2952988/1/6)。在籍年次は未確認。

大正9年(1920)の『日本紳士録 第25版』には黒田喜代治が北三條西二ノ一で活字鋳造業を営む事業者であるらしく掲げられており(https://dl.ndl.go.jp/pid/3454537/1/1151)、『全国印刷業者名鑑 1922』では北三條西二丁目一「黒田印刷所」黒田喜代治(https://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/313)、『全国印刷業者名鑑 1926』には北三條西二ノ一「黒田活版製造所」黒田喜代治とあります(https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/378)。『全国工業人名録 昭和3年用』が黒田喜代治を掲げる最後のものになるようです(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312056/1/1523)。

おそらく黒田活版の大正期の代表者が黒田喜代治、昭和2年もしくは3年から短期間だけ黒田ミワ、そして昭和ヒトケタのうちに黒田民五郎に交代という流れだったことは確実と思われますが、3者の関係性は分かりません。

昭和11年(1936)5月9日付『官報』には、民五郎を清算人とする「合資会社黒田活版製造所解散及清算」の登記(昭和11年3月8日)が公告されています(〈1ページ1段目https://dl.ndl.go.jp/pid/2959283/1/18〉)。江川次之進逝去後に合名会社組織を解散しつつ屋号を残して営業を続けた江川活版のように(「#NDL全文検索 で拾い集めた江川活版製造所と江川次之進の補足的情報」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/01/02/202006)、合資会社組織としては解散し個人商店として営業を継続する形を取ったのではないかと思われるのですが、改めて屋号を登記したなどの情報は見つけ出せていません。

民五郎の逝去と、黒田キヌ、涌井良雄のこと

昭和12年(1937)7月6日付『官報』に、民五郎逝去に伴う清算人変更の登記が公告されています。「合資会社黒田活版製造所 清算人黒田民五郎ハ昭和十二年一月二十四日死亡シ同年二月十九日 左者清算人トナル 涌井良雄小樽市色内町八丁目四十番地」昭和12年2月20日登記(〈26ページ1-2段目https://dl.ndl.go.jp/pid/2959634/1/31)。この涌井は昭和10年版『全国印刷材料業者総攬』で黒田活版の小樽支店長として掲載されている涌井でしょう(https://dl.ndl.go.jp/pid/1234542/1/264)。

北海道銀行・会社・組合要覧・人事録』(1941)には、涌井のことが次のように記されています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1683716/1/295)。

〔住所〕札幌市南四條西十二丁目一三〇四番地〔職業〕活字製造業・北海道活字罫線工業組合専務理事〔略歴〕明治三十三年九月室蘭市に生る、曾て十勝國大津港にて漁業を営めり昭和三年来札現所に於て黒田活字製造合資会社代表社員となる後之れを解散個人経営に移して今日に至る〔家庭〕妻フミ(明三六)

NDL全文検索で見つかる「黒田活字製造」は希少で、概ね「黒田活版製造」の誤植ではないかと思われるケースです。涌井の略歴も誤植と思われます。また涌井が「昭和3年来札」なのかどうかや、合資会社としての「黒田活版製造」創業期の代表社員だったのかどうかなど、人事録の記述には幾つか疑問が残っています。

ちなみに、この昭和16年版人事録によると北海道活字罫線工業組合は「材料、地金の配給及び統制」を目的として昭和14年11月に設立されていて(https://dl.ndl.go.jp/pid/1683716/1/266)、深宮活字製造所の深宮榮太郎が理事長(https://dl.ndl.go.jp/pid/1683716/1/359)、上野活字製造所の上野秀雄と政之助が理事、そして黒田キヌも理事に名を連ねています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1683716/1/267)。更に同年同月に北海道活版工業組合も「活字又は罫線の製造」を目的に設立されていて、深宮榮太郎はこちらの理事長にも就いています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1683716/1/267)。

『北海道樺太人名録 昭和19年版 (北海道年鑑別册) 』(1943)では、北海道活字罫線工業組合の体制が理事長:深宮榮太郎、常務理事:涌井良夫(ママ)、監事:野中秀哉・黒田キヌとなっています。民五郎逝去後、敗戦を迎えるまでの時期の黒田活版を、涌井とキヌの2人で支えていたという状況だったように思われます。

『全国工場通覧』の昭和22年版(https://dl.ndl.go.jp/pid/1124380/1/181)や24年版(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312438/1/131)では黒田活版の代表者が黒田キヌとなっています。『北海評論』22巻9号の紹介記事にある通り、キヌが敗戦直後の時期を支えていたようです。

『全国工場通覧』昭和29年版(https://dl.ndl.go.jp/pid/8312441/1/141)では代表が黒田一民となっています。どのあたりがキヌから一民への代替わりのタイミングだったか、現時点では判りません。

「本道活字鋳造界の草分け」であったためか、NDL全文検索で多くのことが分かりましたが、細部がまだまだ不明な点だらけ。古い地方紙の全文検索可能化が待ち遠しいところです。