日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

この活字のピンマークが「高圧」なのか「高庄」なのか #NDL全文検索 で調べてみた話

先日、こんなピンマークが入った初号活字を入手しました。

「高〓」ピンマーク入り活字(斜め方向)
「高〓」ピンマーク入り活字(活字側面=ピンマーク正面方向)

肉眼では「高圧」なのか「高庄」なのかハッキリせず、拡大写真で見た印象では95%くらいの確率で「高庄」、5%くらいの確率で「高圧」という感じがします。

実は、佐藤敬之輔『ひらがな 上』(丸善、1964)42-43ページ「みんちょう体の系統」で示されている、「のにしながれ」という仮名に着目した分類表に、昭和31年の「高圧活字」が掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/8799180/1/57。「高圧活字」のピンマークと見るのが正解なのでしょうか。

「高圧活字」「高圧活版」でNDL全文検索

佐藤敬之輔に従って、まずは「高圧活字」でNDL全文検索を試みます。『ひらがな 上』の他に、『月刊印刷時報』196号(1960年9月)の「高圧・岩田両活字部合併」という「業界ニュース」が見つかりますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434659/1/64。この業界ニュースでは「高庄製作所」の「高圧活字販売部」という興味深い表記になっているのですが、「高橋庄次郎氏」という人名が出ていることから、「高圧」は誤りで「高庄」が正しいのではないかという疑問が生じます。

とはいえ、「高圧活版」でNDL全文検索してみると、『全国工場通覧』の昭和11年版が札幌の「高壓活版製造所/高橋庄次郎」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312075/1/388、昭和24年版が新潟の「高壓活版製造所」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312438/1/130という表記になっており、高橋庄次郎氏だから「高庄」とは限らないという状況なのかもしれません。

「高圧活字」で検索すると、『ひらがな 上』と『月刊印刷時報』196号の他に、『全国工場通覧 昭和16年版』がヒットしました。ただし、45%くらいの確率で「高圧」、55%くらいの確率で「高庄」であるように見える字体で「高〓活字製造工場」と記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/8312074/1/1200。所在は札幌市南大通西一ノ一六、創立昭和2年10月、代表者が高橋庄次郎。代表者名をあてはめて「高庄」活字という屋号にしている気がします。

実は、佐藤敬之輔に先立って、より精緻な活字書体の観察分類を試みていた山岡謹七が『日本印刷年鑑 1959・60年版』に掲載した「書体のうつりかわり」という記事中の「のにしながれ」47番には「昭和31年 高庄活字」というキャプションがつけられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2458804/1/103。「高庄活字」が正しいのでしょう。

「高庄活字」でNDL全文検索

というわけで「高庄活字」で検索してみました。『全国工場通覧 昭和10年9月版』に、上野活字製造所、黒田活版製造所、深宮活字製造所と並んで「高庄活字製造所」が掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1212212/1/346。所在は札幌市南大通西一ノ一六、創立昭和2年11月、代表者が高橋庄次郎。この他『札幌商工会議所統計年報 第19回』では「高庄活字製作所」と深宮活字製作所、黒田活版製作所、上野活版製造所という名称https://dl.ndl.go.jp/pid/1268030/1/26。1935年の『印刷雑誌』の雑報欄には「高庄活字部」という名称で掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3341132/1/71

「高庄活版」でNDL全文検索

「高庄活版」で全文検索してみると、次のような官報の情報が見つかりました。

東京神田の高橋庄次郎を代表社員あるいは無限責任社員とする合資会社高庄活版製造所が、札幌、新潟、函館、樺太に相次いで設立されています。本店・支店の関係にせず各々の管轄裁判所内で別々に登記しているのは、いったいどういう理由があったのでしょう。

高橋庄次郎」でNDL全文検索

念のため「高橋庄次郎」で全文検索すると、近頃の資料としては珍しく一部「高圧製作所」という具合にOCR化けしてしまった『印刷時報』第8号(大正15年)に、活版用木具で名を馳せた高橋庄次郎(初代・二代)の仕事を称える「高庄製作所の偉観」という記事が掲載されていましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/922204/1/93

この大工場の創立者で今は功成り名遂げて楽隠居の身に益々精神的収容を積んで居られる初代高橋庄次郎氏は明治十五年初めて斯業を京橋で開いた

二代目高橋庄次郎氏は人も知る如くまことに業務に熱心な人でる、よく初代の事業を継承して些の弛緩なく所運益々隆々たらしめつゝあるは真に偉とすべきである

なるほど「高橋庄次郎」での全文検索を続けると、『全国印刷業者名鑑 1926』には工場全景写真と活字ケースの写真を掲げた「印刷用木具専門製作業」の「高庄」こと高橋庄次郎の広告が出稿されており(https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/24)、本社工場が高田町雑司ヶ谷1176番地、出張所が神田区錦町一丁目十九番地となっています。この時点ではまだ「高庄活版製造所」ではなかったのですね。

更に検索を続けると、『日本紳士録 36版』(昭和7年)に「高庄印刷材料製作所」という商号が出現しているところへ行き当たりましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1145826/1/276。ただし登記上の名称は「高庄製作所」だったようです。

『職業別電話名簿 第24版』(昭和2-9)には「高庄印刷材料店」という名称で掲載されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1142887/1/85

「高庄製作所」でNDL全文検索

というわけで「高庄製作所」で検索してみると、昭和7年3月に東京在住者だけで出資した札幌支店に、現地の支配人を立てたことがわかりました。

また、『印刷美術年鑑 昭和11年版』によると、先ほど各地で合資会社を設立した翌年の昭和11年に幾つか動きがあったようで、まず2月に「東京神田区錦町一丁目合資会社高庄製作所は『活字及花形見本帳』と『機械器具類の型録』の二種を発行」したようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/265。これは『印刷雑誌』19巻1号(1936年11月)の雑報欄でも報じられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3341139/1/119。また同年10月には区画整理によって雑司ヶ谷木具工場が豊島区西巣鴨町一丁目に移転と報じられています(『印刷雑誌』19巻10号〈https://dl.ndl.go.jp/pid/3341148/1/77〉)

『印刷産業綜攬 昭和12年度版』には、「活版印刷材料界の最古参 合資会社高庄製作所社長 高橋庄治郎氏〈庄治郎は原文ママ」という記事がありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261287/1/131、次のように紹介されていました。

当代庄次郎氏〈庄次郎は原文ママは、右創立者の長男として父業と父名を襲うたものであるが、氏の代に至って愈々業務の拡張を図り、既に工場を西巣鴨町に、支店も札幌、高崎に設置して、営業種目も又活字母型其の他一般印刷材料にまで及ぼすなど父業をして益々隆盛に導きつゝある

因みに、同製作所は明治十五年京橋区新栄町に創立され、同二十年業務拡張の為め同区松屋町に移転し同二十七年神田に大火災が起って土地の売物があった所から錦町一丁目十九番地に工場店舗を建設し、其の後更に現在の十九番地に移転、工場も又西巣鴨に新設せるものであるが、今や其の従業員も一百有余に達し、支店も高崎市を初め、新潟、函館、札幌、樺太等の各都市に設け、本州東部に於ける同製作所の勢力たりや実に牢乎として抜くべからざるものがある

現時点で高崎支店の開設年次はわかりませんが、『東奥年間』昭和13年版に掲載されている高庄製作所の広告には高崎、新潟、函館、札幌、樺太支店が掲載されていてhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1073618/1/459昭和15年版では更に奉天支店が増えていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1073637/1/339。この奉天支店は『印刷時報』175号(1940年4月)に「高庄製作所大陸進出 奉天に支店開業」という記事がありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499111/1/63、「交通至便の奉天市に新設過般小路万端竣工を見たので四月以来高庄洋行の商号のもとに花々しく営業を開始しているが改行早々注文殺到の盛況で多忙を極めて」いると書かれていて、更に同10月号には「高庄製作所奉天へ支店開設」とあるようにhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499117/1/45、高庄洋行から高庄製作所支店へと格上げ(?)したもののようです。

また昭和18年の本間一郎『最新印刷百科全書 第1巻』によると、高庄製作所は「トムソン式」に類する活字自動鋳造機を製造販売していたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1125139/1/41)(https://dl.ndl.go.jp/pid/1125139/1/44

自動鋳造機ではピンマークが付与されなくなる――と考えれば、冒頭の活字は戦前から戦中までに鋳造されたものと見てよいでしょうか。

ともあれ、戦中戦後をかいくぐって事業を継続させた二代目高橋庄次郎は、1968年10月に81歳で亡くなったようです(『日本印刷年鑑 1968年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/2458811/1/30)。



以下、2023年5月16日追記:

キーワード「高庄製作所」でのNDL全文検索でヒットしていた、『印刷雑誌』27巻5号(1944)掲載記事「樺太印刷界の統制」(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341232/1/22)の遠隔複写が届きました。樺太の各地にあった同業組合が昭和18年5月1日付で樺太印刷工業協会が創立され、統制経済への対応として次のような事業が行われていたと書かれていました。

インキ及び活字についても協会は確保のため措置してゐるが、活字は高庄製作所支店を協会で買収し、会員各自の古活字をこゝで改鋳して配布する方法をとつてゐるので、活字といふことでは大体不自由なくやれてゐるのである。

金沢で宝文堂が協会によって買収・運営されていたこと(https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/05/13/095916)と似たような形が、樺太でも取られていたのですね。