日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

分撰と文選(山下浩『本文の生態学』を読んで)

この二三日風邪っぽかったのがようやく抜けてきたので、徳永直『光をかかぐる人々』の作業を始めるなら……といってお貸しいただいた山下浩『本文の生態学』を通読。

本文の生態学―漱石・鴎外・芥川

本文の生態学―漱石・鴎外・芥川

漱石の『坊っちゃん』『吾輩は猫である』や鴎外『舞姫』の他に、実際の印刷に使われた痕跡が認められる自筆原稿用紙は、どのくらい知られているのだろう。
同書第二章では、初出誌の印刷に使われた自筆原稿と初出誌の比較によって、担当した文選工ごとに正確性のズレ(癖・個性)があることなどを示しているのだけれど、このレヴェルでの精密な本文校訂は、全集が出るような他の作家においても進められて良い。
印刷工程への目配りを含む現存テキストの批評=解剖という点で、豊島正之「キリシタン版の文字と版式」(『活字印刷の文化史』)や鈴木広光「嵯峨本『伊勢物語』の活字と組版」(同)同様に、とても重要な視点と思う。
活字印刷の文化史

活字印刷の文化史

印刷所レヴェルの癖、文選工レヴェルの癖、出版社レヴェルの癖、編集者レヴェルの癖――といったデータについて多くの知見を集積することで、どういう状況でどういうズレが生じ得たかという判断の物差しが精緻になっていくように思うのだが、近代文学研究の人々は「漱石研究」「鴎外研究」などと著作者毎の縦割りで研究していて、横断的にツールを融通しあうようなことはないのだろうか。――というようなことが、ちょっと気になった。
CiNiiで「文選」や「植字」などをキーワードに検索してみた限りでは、この点に触れたものには出会えなかった(「文選工」では皆無)けれど、山下氏のテクスチュアル・クリティシズムに共感する方々が、担当文選工ごとの「クセ」のデータを記録されていたりするんじゃないかなと想像しておく。

ところで、我々は日本語テキストの活版印刷工程に関して(無自覚に)「文選工」が原稿に沿って活字棚から活字を拾い集め、「植字工」がクワタなどを駆使して行の形に整えていく――と記してしまうのだけれど、ふと気になって秀英舎の記録を眺め返してみて驚いた。
月刊誌『ホトトギス』で『吾輩は猫である』の連載が終わった翌年(明治40/1907年)に出された『株式会社秀英舎沿革誌』の組織図では「文選」ではなく「分撰」になっている。
大正11/1922年版『株式会社秀英舎沿革誌』の組織図でも、昭和2/1927年の『株式会社秀英舎創業五十年誌』の組織図でも、同様に「分撰」だ。
山下『本文の生態学』読了直後だけに、書かれた文字が活字では何に該当するのかを「判断(分析)」して「選び取る」という作業には、確かに「文」よりも「分」が相応しかろう、と思われた。
秀英舎は、いつまでこの工程を「分撰」と呼んでいたのだろうか。また、同時期の同業他社は、どうだっただろう(印刷局は「植字部」に文選と植字を統合していたものと見え、よく判らない。後には「活版課」とだけ称され、ますます判らない。)。
更にまた、(欧文にはない)日本語独自の工程とも言われがちではあるが、本当にそうか。中文や諺文ではどうなのか。W・ギャンブルの美華書館では必要が無かった(行われていなかった)工程なのか。――といったことも、再確認していかねばならないと気づかされた。