横山和雄『日本の出版印刷労働運動』戦前・戦中篇【上】【下】(1998、出版ニュース社)ば借覧。大変な労作であることは疑ひないんだども、水沼のアレと同じく、関西の情報は無い。記述が東京周辺に止まることについては、著者ご本人も、上巻の前書きと下巻の後書きに、心残りと記してゐる。
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上巻326ページに「神戸市活版印刷職工組合機関誌『活叫』(左から1920年〈大正9〉3月5日付,5月20日付,12月20日付,大原社会問題研究所提供)」という写真が出てゐるので、大原研が『活叫』を持ってゐるのは間違ひないのだらう。ただし上下巻を通じて三谷幸吉の名は出てこない。
隣の327ページには同じく大原研が所蔵する、大正八年に博文館印刷所に組織された「大進会」の機関誌『大進』の写真も載ってゐる。
上巻の後半は例の共同印刷争議がメインとなってをり、571ページには「共同印刷争議団解団式に臨んだ幹部(数人の幹部は他組合への挨拶回りのため欠席している。1926年3月19日,本郷仏教会館)」といふ写真が掲載されてゐて、そこに徳永直も写ってゐる。
572ページに、争議の金銭的支援に関する記述がある。
「争議資金寄付者名簿」には合計六四一一円一三銭あり、このなかには評議会加盟全国の各組合、政治研究会、無産青年同盟はもちろん、出版労働各支部、盛岡・仙台・神戸・熊本各印刷労組、出版労働に対抗してつくられた秀英労働組合、秀英舎有志、総同盟の東京書籍従業員一同、悪社欧文科有志、アナーキスト系の東京印刷工組合有志などおおくの団体・有志・個人の名が見える
神戸印刷工組合は、三谷幸吉在籍時点での寄付かと思ふが、「争議資金寄付者名簿」なる資料がどこに存在するものであるか、残念ながら不明。
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徳永直が共同印刷争議の敗北を経て数人で印刷工場を造ったことは、人物書誌大系にも「自作年譜中に〈解雇者中の有志数人で解雇手当で小印刷工場をつくり、生産組合運動をおこしたがうまくいかず、臨時働きをして歩く〉とある」と1927年の項さ書いてあるんだども、横山の583ページには、より具体的な情報が記されてゐる。
徳永は一九二六年の終わりごろ、文学青年の中村榊ほか二、三人と語らい、少額ではあるが資金をだしあい、「共働印刷生産組合」というちっぽけな印刷工場を設立した。発足にあたり足りない資金は賀川豊彦、平凡社の下中弥三郎などから借金し、徳永の住んでいた小石川久堅町(現在、小石川四、五丁目)の自宅の一階を改造して工場として注文を取りだし、徳永夫妻は二階に住むことにした。
受注先といっても一般のものはほとんど獲得できず、徳永の顔を利かせての受注に頼るほかなかった。一般図書の受注先は、早稲田にあった共生閣、水道橋のマルクス書房など左翼出版社をはじめ、定期刊行物も「協同組合運動」、のちの「戦旗」「プロレタリア芸術」「労農」(労農派機関誌)など、左翼系のものがほとんどである。
この協同組合方式の印刷工場の中心となった中村榊は、牛込横寺町(現在、新宿区横寺町)の島村抱月、松井須磨子らが運営していた芸術座の跡地に建てられたアパートに住んでおり、そこから久堅町の徳永の家の工場にかよっている。
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色々と気になる文章が散りばめられてゐる『日本の出版印刷労働運動』なんだども、原資料を探し求めるのに苦労しそうだ。
さしあたり、中村榊『右往左往50年』、上野山博『闘った印刷労働者』、石倉千代子『野の草』は、徳永関連で、読んでみることに。