またまた、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」と「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する、築地活版の初期ポイント活字の話です。5月に記した「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字と写研の石井中明朝MM-A-OKS」などと併せてお読みいただければ幸い。
9月4日付で公開した記事に、9月15日付で、10ポイント仮名の概要図と、「都式活字」と築地9ポ半の比較図、そして関連する文言を追加しました。
さて、「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」で示した通り、東京築地活版製造所第4代社長の野村宗十郎は、『印刷世界』9巻6号(
其後中央新聞の大岡力氏が弊社に來られて、九ポイント活字を見、之れだけで新聞を作らう、さうしたら新聞も美しく記事も豐富になるだらうといふので、採用される亊になつて九ポイント活字を七八千種製造して供給した。これは新聞紙に用ひられた嚆矢で其後函館毎日、大阪毎日、鹿兒島新聞其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた。
中央新聞が築地9ptを採用したのは、明治39年12月という通説とは違って実際には明治38年のことでした。大阪毎日新聞(と東京日日新聞)が築地9ptを採用したのは大正3年4月です。
残念ながら函館毎日新聞は肝心な期間の資料が見当たらず、鹿児島新聞は『南日本新聞百年志』の記述が誤っているようだということまでしか現時点では判りません(「函館毎日新聞と鹿児島新聞はいつごろ築地9ポイント明朝を本文活字に採用したか」https://uakira.hateblo.jp/entry/2024/05/16/213015)。
大阪毎日新聞と築地10 テン ポイント明朝活字
「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で示した通り、
『毎日新聞七十年』(1952)の「建ページ・活字・定価変遷表」(614-617頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/329)では、大阪毎日新聞と東京日日新聞の区別が示されないまま、①明治41年11月に旧五号から10ポイントに変更、更に②明治44年1月から9ポ半に変更、とされています。これは「七十年」の表が『大阪毎日新聞社史』(1925)が折々にまとめていた「頁数及字数の増加」(68頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1837928/1/46、80頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1837928/1/52 等)をひとまとめにしたもの――という成り立ちなのではないかと思われます。
大阪毎日新聞が本文に築地
また、同日の3面には築地活版による新活字広告が掲載されていて、「大
明治42年2月7日付の原紙で確認してみたところ、確かに活字サイズは10ポイントでした。またいわゆる築地体後期五号仮名の書風とよく似た姿を保っており、原寸資料であってもサイズ感に注意しておかないと五号と10ポを誤認してしまいそうです。
東京日日新聞と築地9ポ半明朝活字
『毎日新聞百年史』(1972)の「新聞段数建ページ変遷(東京)」(412頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12277848/1/436)においても原紙を再確認せず過去の社史を頼ったためでしょう、①明治41年11月1日に旧五号から10ポイントに変更、②9ポ半を経ず大正3年4月15日から9ポイントに変更、とされています。
実際の東京日日新聞は、「世界史の中の和文号数活字史」(『書物学第15巻 金属活字と近代』〈2019年、勉誠出版 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=18_55&products_id=101002〉)で示した通り、10ポイント活字を経ないまま、明治42年2月11日付で基本活字を旧五号から9ポ半に変更しています。
「七十年史」の「建ページ・活字・定価変遷表」(614-617頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/329)に記されている通り、10ポイントでも9半ポでも紙面は「18字詰め8段組」であるため、原紙を当たらない限り、違いを見出すことは難しかったでしょう。
活字書体に注目すると築地
並べてみると、築地9ポ半は、①一見すると築地体後期五号風である「都式B型」とは全く異なる、9ポイント系の書風になっていること、②漢字の平均字面が9.5ポイントボディーいっぱいに近い都式と比べて、周囲に余裕を持たせた字面になっていること、③漢字の平均字面とひらがなの平均字面の差が小さいこと(都式は差が大きい)――が鮮明に判ります。