日本語練習虫

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荒畑寒村の文選工体験

堀切利高による『荒畑寒村著作集7』(平凡社、1976)「解説 荒畑寒村と文学」および「解題」によると、明治四十一年の赤旗事件による入獄から出所した明治四十三年、寒村は仮名を使って懸賞小説を四篇書いてゐて、その中の一つに、明治四十三年七月二十三日および二十四日付の萬朝報に第六百八十五回懸賞小説当選として発表された「同盟罷工」(ストライキ)があるのだといふ。
寒村の印刷工としての現場体験が、「同盟罷工」の末尾に、かう記されてゐる。

三日目に遂に会社から譲歩して、結局賃金一割の増加、解雇した者は其儘と云ふ事で落着した。そして直ぐその日から、烈しい十余時間の労働がくり返され、凄まじい機械の響きに交つて、もの悲しい、単調な文撰歌がまた聞へ出した。「何だ詰らん。折角眼先の変つた生活が出来ると思つたのに、是ぢやまた当分、女房子供から離れられまい。」と期待して居た大事が、無事に過ぎ去つて、ホツと安心の息をついた後の寂しさ、もの足り無さ! 安田は半ばげら箱を埋めた活字を眺めながら、つくづくと呟いた。

当時の生活について、著作集10の巻末にある「年譜」で「一九一〇年(明治四三年)二三歳」の項を見ると、かうあった。

六月、「大逆事件」によって急激な精神的衝撃をうけ生活を反省。牛込幽霊坂の有信館に下宿、大日本印刷会社の職工となったが、一ヵ月あまりで警察の干渉により解雇される。この頃、『万朝報』の懸賞短篇小説に選者の安成貞雄としめしあわせ、匿名で応募して生活費を得る。

いやいや、秀英舎と日清印刷が合併して大日本印刷になるのは昭和十年二月の話だから、明治四十三年に「大日本印刷」は無いでせう――と思ひながら、著作集9、すなはち自伝の上巻を眺めたところ、かうあった。

在獄中、私は幾度か今後は労働生活に入って、もっと摯実な運動に従おうと考えたことがあったが、今こそその機会であると思い立った。そして牛込の幽霊坂の有信館に下宿し、凸版印刷の福田の世話で加賀町の現在の大日本印刷会社に職工として雇われた。もちろん技術を有している訳ではないから、初めは解版した活字をケースにもどすいわゆる字返しを少年工や女工と一しょにやらされた。終日立ちずめなので、三日ばかりすると両足がはれ上がって寝こんだりしたこともあるが、やがて文選に廻されると平生文字に馴れているお陰で、原稿の字をケースから拾う仕事には瞬く間に熟達した。ところが、一ヵ月あまりで私は突然、解雇されてしまった。今まで踪跡をくらましていた私の所在をつきとめた警察が、会社に干渉した結果に外ならない。

己は中途半端なダメ男なので余り偉さうなことは云へないんだども、その前後をちょっと眺めた己、神業といふか筋金入りといふか、アラカン自伝の余りにも素晴らしい○○男っぷりに、ついつい読みふけってしまふ。
加賀町の――といふことは、荒畑寒村が文選工を体験したのは、当時の牛込区市ヶ谷加賀町、秀英舎第一工場であったわけだ。年譜や自伝の記述を読み合はせていくと、明治四十三年の六月から七月にかけての頃のことだらう。
明治四十三年といふと、春陽堂の「探偵小説」シリーズの一冊、泉鏡花の『活人形』が九月十八日付の印刷、九月二十日付の発行で、印刷所が牛込区市谷加賀町の「株式会社秀英舎工場」名義である。
寒村が何かの単行本の文選をしたか雑誌や何かであったかは判らねぇんだども、近代デジタルライブラリー公開資料の奥付を丹念に拾っていけば、「荒畑寒村が拾った(かもしれない)本」に出会ふことができるだらう。
それにしても、と、ふだん文字ヅラばかり眺めてゐて中味を読まない習慣の己はつくづく思ふ。――
荒畑寒村
谷中村滅亡史

って、すごい字面だよな。